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Shattered






猫と女は黙っていれば名を呼ぶし、近寄っていけば逃げると言ったのは、誰だったかなと思う。
終ぞ、そんな面倒な女に引っかかった事も無ければ、当然、猫などに引っかかる筈も無く、と思いたかった。
目前に居る女は、というよりも少女というべき姿。そして、その胸元には猫。ただし、こちらも仔猫。



息を潜め、寝静まっているだろうと思う部屋──リタの一応と名のつく私室の前。さて、どうしたものかと考え込んでいたレイヴンだが、軽くノックをして開けてみれば、やはり起きていた。仄かな灯りの中、書物で作られた城とでもいううず高く詰まれた本の城壁の中のお姫様はいた。肩に毛布をかけて胡坐を掻いたキャミソールにショートパンツという姿の、少なくともレイヴンにとっては、ではあるが。長旅からの帰還。まずは、そのお姫様のご機嫌伺いへとご拝謁。

「ただいま。リタっち、起きてたの?あんた、いつ寝た?それに、飯食ったの何時よ」

矢継ぎ早に質問を投げかけるも、完全無視は完膚なきまでに。まあ、こんなの今に始まったことじゃないしねえ、とため息を吐くと、同時に疲労感も顔を覗かせたらしい。落胆は肉体的にも堪えるお年頃。

ギルド遠征から帰宅したのは、2ヶ月ぶりだろうか。それは、かつての敵対国と新条約締結のためと理解しつつも、その間に新たな世界は目まぐるしく動き始めている。フレンからの要請も無碍には出来ないと、それなりに手を貸したのが運のつき。結果、1ヶ月で帰るから、と約束したのに、無しの礫のまま、更に一月の時間を要したのでは、幾ら、他人に無関心なリタですら、何かしら思うところがあったのだろう。

はあ、という大げさにも聞こえるため息に漸くお姫様は、慈悲深いお声を掛けてくれたようだった。

「……おっさん、顔色悪いわよ。見せて」
「見せて、ってなにを、やだ。リタっちったらそんな大胆ね、この子ったら」
「今、あたし最高に機嫌悪いの。素直に言うこと聞きなさい」
「……ごめん」

上着を脱いだレイヴンがリタの前に座ると、すっと青白い光が二人の間に浮かび上がった。忙しなく動く指先を見つめながら、その真剣な瞳の動きを盗み見た。

──こりゃ、相当没頭してたね。随分、やつれた顔しちゃって。

本来なら二十歳前の少女である筈なのに、大きめの瞳は更に大きく見える程に隈らしきものすら浮かんでいる。元々、白い肌は二人を隔てる青白い光を浴びて、病的までに白さを浮かび上がらせていた。余り寝ていないのだろう。若さを過信しての無茶振りは、今に始まったことではないが、もう少し、体には気にかけて欲しいとレイヴンは自分のことは棚に上げて思う。

「無理したでしょ」
「そーんな事無いわよ」
「そう?それにしては、相当、狂ってるもの。この子」
「あー……」

ぽりぽりと、こめかみを掻くと、次はどんな言い訳しようかな、と。嘘は吐けない筈なのに浮かぶのは嘘ばかり。

「ほら、ギルドメンバーって若いの多いし、血の気の集団じゃない。それなりに大変なのよ」
「そんなの最初から解り切ってることじゃない。それにそんな奴ら、あんたが一言言えばなんとでもなるでしょう。伊達に二つも名前あるんじゃなかった?」
「まあ、そうだけど……」
「はい、これでいいわ」
「あ、ありがと」

もう少しだけ、その顔を見ていたいとレイヴンが思った瞬間。リタは、その顔を見られるのを嫌がるかのように、ぷいと背け立ち上がった。もう用事は終わったから、さっさと、寝れば?と言い残し、再び、本のお城に住むお姫様は、その城に帰ろうとしている。

「おかえり、言ってくれないの?」

ぴくり、とその細い肩が跳ねては、毛布がはらりと落ちる。

「おかえり、なんて約束した訳じゃないから、言わない。それに、ここは、あんたの家であたしの家じゃないから言わなくても不都合ある?」

淡々と、はい、そうですか、と答えるしかない。レイヴンに背を向けたリタから、その表情は読み取れない。ただ、冷たく言い放った言葉が静謐さに包まれるほど、心配をかけていたのだなと。せっかく調整してくれたのに、また別に意味で狂いそう。

リタがこの家に住むというのか、行く宛がないのなら、ここにおいで。魔導器診てくれるんでしょ?それなら、一緒にいた方が便利でしょ。と言い訳のような良く分からない理由をつけ誘ってから、それなりに月日は経っているのだが、この家で二人で過ごした日数といえば、一月も満たないのかもしれない。それ程に、レイヴンは所在不明、リタもまた新たな魔導器に変わる術の捜索する日々に追われている。

──こりゃ、過去最大において難攻不落の城だわねえ。

以前にもこのように連絡が着かず、一月近く経ってから帰途に着いたことがあった。その時も静かな怒りを含ませながらも、まだ、どこかで強がりを発揮していたように思うのだが、今日は、何やら様子が違う、そう感じる程にリタの表情からは、冷めたものしか感じられない。

「うん、じゃあ。おやすみ。リタっちも早く、寝た方が良いよ」

傍らに脱いでいた服を着ると、よいしょ、と立ち上がる。いかにも、この場所での用事は済んだ。自室に戻るからという挙動。さて、どんな顔してくれるかな、と。

「……えり」
「なに?聞こえなかったけど」
「おかえり、言って欲しかったんでしょ」

冴えた凍えるような冷たい眼がレイヴンを見ていた。冬の凍てついた真っ白な世界を青白く照らすような瞳。
あらまあ、と驚嘆。何だかちょっと見ない間に大人の顔作るのね、という無愛想さ。涙を浮かべるでもなく、なんと言うのか、これは、諦めの顔だよねえ。そんな風にレイヴンは自虐的にもなるのは仕方ない。

「無茶しないでって、あたし言わなかった?」
「うん、だから無茶してないよ」
「そう。それなら良いの」

今度はリタがため息を吐く番だった。こんな時、どういう顔をしたところで、この男の前では、どうする術もない。

レイヴンに近づき、魔導器が埋め込まれた当たり、胸元のシャツをぎゅうと握り締めた。そして、こつん、と額をその肩口に寄せると、薄い生地越しに感じる血の巡る音に安堵する。名前を呼んで欲しい。その温かな指で触れて欲しいと思う。気を許してしまえば、その瞳から、零れてしまいそうになるものを押し止める。今は、顔を見られたくない。

「うん、ほんとにごめん、ね」

耳元で囁く声。肩越しに感じる抱きしめられる感覚。リタの寂しさが、触れた指先から伝わっては、融けてゆく感覚がした。



翌朝、何事もなかったかのように交わされる会話。遅い朝食を二人分を作るのはレイヴンの役目。長旅の疲れなど微塵に見せないのは、無理をしているわけでもないが、ここに滞在できるのも僅かの時間。それなら、思いっきり、テーブルの前に座る少女の姿を目に焼き付けておきたいからという邪な想いでもなくはないが、それが今は、支えになっているのは確かな証拠。生きるための証。

軽く食後のティーブレイクではないが、レイヴンは旅先で買ったというコーヒー。リタは相変わらず甘いココア。

「あのさ、リタっち、猫飼わない?」

と唐突に、さも、今思いついたかのように言うのは何時ものことだったが、それにしても、余りにもレイヴンから想像できない事柄だったか分からないが、カップを口につけかけようとしていたリタの動きがピタリと止まる。

「猫?」
「うん、ギルドのメンバーがさ、途中で拾ったの。それが、拾った本人が猫アレルギーで飼えないとか言い出してさあ、今、街の方で預かってもらってる」
「飼いたいけど……でも……」
「まあ、そうよねえ」

自分のことすらままならないリタが生き物を飼うというのでも、相当なことだろう。リタ一人なら、本当に何でも適当。朝も夜も関係ない生活。着の身着のまま、無頓着にしても、このまま放置しておいたら、食事すらまともとってはいないこともしばしば。一人にしておいたらと、そんなリタを想像がつくだけに、レイヴンが過去の旅で知り合った仲間──ジュディスに頼み込んで様子を伺うようにしてもらっている。ただ、ジュディス自身、「おじさまに言われなくても、私から行くわ」と、彼女なりにも何やら思うところがあったのだろう。そして、飼いたいといいながらも言葉を濁すあたり、本人にも自覚はあるのだろう。

「可愛いわよ、茶色のちょっとグリーンっぽい青い目してる仔猫。まだ二、三ヶ月ってなとこじゃない?」

はて、そんな仔猫、どこかで見たような気もするが、と自分で言いながらレイヴンは、ああ、目の前に居たわと納得。

「そんな仔猫、可愛い……よね」

ぽつりと呟いては、想像しているのだろう。顔を赤らめるというのではないが、どこか、嬉しそうにも見える。

「それなら、見るだけ見てみる?後で、足りない物、買いに行くから、そのついでにさ」
「やだ、絶対に、や」
「どうしたの?前なら『あ、猫』っていうとすぐに反応してたのに」
「そうじゃなくて、多分、見たら駄目だと思う……」
「ああ、そういう理由。ほんとに可愛いのにねえ……」

おっさんだけ見たんでしょ。触ったんでしょ、ずるいと恨みがましいオーラが漂っている。リタの猫好きは今に始まったことではない。最低限の身嗜みですら、危ういときがあるのに、猫に関することだけは、歳相応な反応を示す。そういえば、この部屋にある小物と呼べるものにも猫の形をしたものが増えたなと、見渡してみれば、男が住んでいたころには見慣れなかった猫のモチーフがあるような雑貨が幾つかある。

「手のひら、もうチョイあるかなあ」

両手で大きさを表すようにして、こんな感じだったけ?と思い出す仕草。ね、どうする?とリタを見つめる眼が、悪戯っぽく輝いた。

「もう、分かったわよ。見に行けばいいんでしょ!」



にゃあ、と小さく鳴いたのは、仔猫ではなく、リタ。おそるおそる差し出した手に、その小さな生き物は、興味しんしんとばかりに寄り添ってくる。においを確認すると、今度は、すりすりと体をこすり付けてはにゃーと今度は仔猫が鳴いた。

「やっぱり猫同士、通じ合うものあるのかね」

何となくそんな独り言。俺になんて全身の毛を逆立て興奮気味にシャーシャーと怒りの声を言ってたのになあ、と、少しばかり悲しくもなる。だが、そんな声も聞こえないぐらい、リタは仔猫に夢中。

オレンジ色にも近い、鳶色の短毛種。澄んだ翡翠色の目は光に応じてキラキラと明るい緑色だったり深い青だったりと、その彩光が変わる。しなやかな肢体は、やや細く、成長すれば、こいつは綺麗な猫になると言ってたのは、拾った本人だったけ。確かに美猫といえばそれらしい片鱗も見える。そんな仔猫が、リタの腕の中ですっぽり埋まってる。

「やっぱり、飼う?」

あーあ、抱っこまでして。もう、駄目だろうねえ。これじゃあとレイヴンが思うのも仕方ない。滅多に見せない、目を輝かせて微笑む。俺が帰ったときもそんな顔して欲しいと内心、思うのだが。

「……っていうか、飼ってもいいの?」
「なんで?実際に飼うのは、リタっちになるじゃない」
「そうだけど、家。おっさんの家だけど」
「ああ、そういう、こと」

帰る都度に感じていたもの。何となく腑が落ちるような気がした。まだ、どこかで遠慮めいた気持ちがあったのねえとレイヴン。昨夜とて同じなんだろう。もし、帰ってこなければ、という取り残される不安も抱えていたのだろうが、それ以上に他人の所有物というものは、自分のテリトリーでない以上、何かしらの居心地の悪さを覚える物である。

暴虐無人、それこそレイヴンのものは、あたしのもの。あたしのものはあたしのものというような、勝手振る舞いをしているようで、レイヴンも気がついていたが、何故かレイヴンの自室には入り込まないという線引きがあった。それがどういう意味合いがあるのか、分からないが、少なくとも、他人行儀に近い遠慮のような気持ちがリタにはどこかあるのだろう。意外にこの娘、繊細なんだよね、と。変わっていくようでいて根底は変わらないのかもしれない。

「今更、遠慮するようなことないんじゃない?」

そんな思惑を汲み取ってかのように、笑う。リタが「やった」と笑顔を浮かべた瞬間だった。



「そんで、どうすんの?この仔」

街で猫の生活に必要なものを買い求めては、あれもこれもというリタを宥め賺し、何とか家路に着くころ、仔猫もまた少しばかりの旅で疲れが出たのだろう。家に着く途端、与えた餌を貪ると今度は興味深げに探検。そして、今は部屋の片隅、ソファの上で丸くなって眠っていた。 その仔猫を触りたいという衝動を抑えているように見えるリタは、仔猫から視線を外さない。あんまり触ると良くないわよ、というレイヴンの言いつけを一応は守っているらしい。

「何が?」

いい加減、猫じゃなくおっさんも見て欲しいんだけど、と振り返りもせずに素っ気無く響く声。ココア入れたから、こっちにおいでと手招きすれば、漸く、リタは重い腰を上げた。ただし、視線はやはり仔猫に向かっているが。

「名前。さっきから、にゃんにゃん、にゃんこ言ってるけど、名前なければ困るでしょ」
「うーん、どうしよ」
「オス、メスどっちだったけ?」
「女の子みたい」
「なら、リタにすれば?」
「は?なんであたしの名前よ」
「いいじゃない。リタっちは、リタっちだし。あの仔はリタで、間違わないでしょ」
「そういう問題じゃないわよ」
「じゃあ、どうするの?」
「おっさん、考えてくれないの?」
「リタだと嫌っていうんだし。あんた考えなさいよ」
「……分かったわよ」

眉間に皺を浮かばせて、思案する様は何時もの魔導書の類を読み耽る様と変わりようがないのだが、どうしようと本気で考え込んでいるらしい。

──珍しく悩んでるみたいだなあ。と、レイヴンは、両頬に手を当てて、悩んでいるリタの姿に忍び笑いをこぼす。

「魔導器に名前付けるぐらいなんだから、猫でも同じでしょ」
「それは、そうだけど……」

何か違うとリタは思っている。なんだろう、魔導器達は、確かに、可愛い子達だ。でも、この生物には、もっと違う意味合いがある。 それは、レイヴンの心臓と同じぐらい大切だと。それに、仔猫が欲しいと言った事などはなかった。ただ、何となくではあるが、一人っきりで過ごす夜、血の通う存在が欲しいと願っていた。一番には、レイヴンが傍らに居てくれれば、良いのだろうが、そんなことは口が裂けてもいえない。それは、彼を困らすことと理解している。そこまで子供でもなければ、また、大人でもない。

「やっぱり、おっさん考えて」
「えー、なんでよお」
「だって……」

と、頬を膨らませて上目使いで、その張本人を見つめた。見つめられた本人に、その仕草がどういう効能をもたらすかなんて知る由もないのだが、とにかく、あたしじゃ決められないという。

──だって、おっさんが飼おうって言い出したんじゃない。それに、それに……。

待つ方だって、寂しいし、不安なんだから。少しでもレイヴンとの繋がりを感じるものが欲しいと、言いたくても言えない想いを飲み込んだ。ただ、待つだけのようなリタではない。護るべき者でもあるのは、レイヴンの心臓。それは、レイヴン自身であると意味する。だからこそレイヴンを見守るというべき形で待つという選択肢を選んだ、その筈だった。

一方、見つめられた方といえば、ああ、可愛い顔しちゃって、と思うのは、リタには想像がつかないだろう。ただ、そう思う反面、ほんと仔猫みたいだねえ、と少し呆れ気味。くるくると変わる表情。怒ったかと思えば、笑っている。冷やかに見つめたかと思えば、不安げな色を浮かべ、結果、年端も行かないこの少女に翻弄される。

──そういう顔、誰にでもほいほい見せてないわよねえ。

と、考えて、はた、と我に返る。何を考えていたんだ。思い起こすほどでもないが、リタがこの家に何時居ているのは、二人を結ぶ物、この心臓があるからと思っていた。それは、事実。今は唯一となってしまった魔導器。それを扱えるのも、リタしか出来ない。そして、それを持つのは自分──レイヴンしかいない。

ただ、それだけの繋がり。

偶然が必然を呼ぶのであれば、こんな関係は何故だろうと、二人が口に出せずに抱えている想いは同じだった。その想いは、年々、会う時間が少なくなるほどに積み重なっていたのかもしれない。昔、世界が変わる前、常に隣にいては、その背を預けあっていたような関係。あの頃といえば、お互いに意識するような関係であったかといえば、一方的にレイヴンがリタを子供扱いしていた程度。リタといえば、子供扱いされることを嫌い、レイヴンに対しては、その出会いの印象からも一番信用ならないとまで豪語していたほど。

それが変わり始めた頃、お互いに戸惑いを覚え始めていた。

黙り込んでしまえば、そんな、今の関係を壊してしまいそうな、出口がない迷宮に入り込みそうだった。二人とも、そんな複雑な感情は臆にも出さずにいる。今のままが一番いい、と。暗黙の了解。



「あージュデ……いいや、今の忘れて」

レイヴンは何気なく思いついたようだったが、その名前にピクリと反応を示すのはリタ。今となっては、レイヴンが悉く、リタとの容姿面、その体つきが主に比較対象であった筈の彼女に微かな嫉妬を抱いていた時期もあるのだが、現在では、リタの世話焼き係。エステルやユーリと違い、幾分、自由になる身だけに、四六時中、リタの所にやって来ては、まるで母親のように生活の面倒をみてくれている。お節介というには、感謝しつつ助かるのだが、それに甘えているのも少々腹立たしい。素直になれないのは今に始まった事ではない。そんな複雑な感情を分かってるのか。

ただ、レイヴンの閃きは悪くないようだった。

「ジュディスじゃないでしょうね」
「いや、違う……違います」
「でも、そういうのなら、エステルから名前貰おうかなあ。エステリーゼだから、エス、リーゼ……」
「それいいんじゃない?」
「うーん、でも、何かこの仔、そういうイメージでもないし。もっと活発そうなイメージだから……」
「ユーリとか辞めてよね。呼ぶたびに青年の顔、ちらつきそうで怖いわ」
「それはないわよ。そもそも女の子なのに、この仔」

カロルは、最近、可愛いという形容に過敏なまでに拒否反応を示す年頃。仔猫にそんな名前をつけたなんていえば、本人が嫌がるだろうし、ラピードは、そもそも犬だ。知った人物の名前が浮かぶも、何だか違和感ばかりが増えてゆく。

「いっそのこと、シュヴァーンにでもしようかしら」
「あのね……」

レイヴンががくっと肩を落とす。それは、おっさんの昔の名前でしょ、と。 あんた、それなりにまだトラウマ抱えてる筈じゃない?おっさん自身、あんまり思い出したくもないことを思い出させるんじゃない。

「冗談に決まってるでしょ。あんな薄気味悪い奴」
「リタっち、今、おっさんが凄く傷つくこと言わなかった?」
「言ってない、ほんとのことだもん」

更に傷ついたけどという表情をしたレイヴンに、リタは、もう少し考えようかとやや困り果てた提案をした。



「にゃーん、にゃんこどこ行ったのよ」

気がつけば、レイヴンがいるからと油断していたのか、またも本に没頭していたらしい。ふと、仔猫が居ると思われた場所には、いない上にレイヴンの姿も消えている。レイヴンは、また、旅に出たのかと一瞬思うが、彼の着用している衣服がソファの上に投げかけられている。それに、旅に出る前は、直前ではあるが、一言、必ずはリタに告げていくのが、二人の習慣。

それ程、広くない家の中、大抵のところは探し尽くした。一瞬、外に出て行ったのかと焦るも、まだ小さい仔猫がそう逃げ出すような空間はなかった筈。と、なると後はここしかないと思い立ち尽くす。

そこは、滅多に立ち入ることのない部屋。部屋自体、主が居ることが滅多にない、レイヴンの私室というべき部屋。
僅かにあるのは、古い暗褐色のオーク素材だろう椅子とテーブル。最低限のものしか入っていないであろうキャビネットとベッドだけ。

初めて、この部屋に立ち入った時、リタは何となくこの部屋が好きになれなかった。殺風景というべきなのか、人が住む部屋というものにしては、くすんだ白い壁がどこか物憂げで、そして、何よりレイヴンの半身とでも言うべき男の亡霊でもいるかのような空気が漂っているかのように思えた。

畏怖、多分、それは本能的なもの。

「おっさん、いるの?」

ぎぃと音がしそうな扉を少しだけ開けて顔を覗かせる。返答がないところを見ると、ここにもいないのかといよいよ外に出て行ってしまったのではと、思うもベッドに眠るレイヴンの姿があり、その横、枕元に小さく丸くなる仔猫も一緒。

おっさんと仔猫という組み合わせに、ここに居たのかという安堵感とそのミスマッチさに小さな笑みがこぼれた。

「あんた、ここに居たのね」

双方、レイヴンと仔猫を見比べて、そう呟く。どちらに向けられて言ったのか、リタ自身、分からない。

仔猫は、遊びつかれたのか、それとも満腹になったのか分からないが、身を丸めて静かに眠っている。そして、その仔猫の傍らというのには大きすぎるのだが、レイヴンもまた眠りについていたようだった。扉の方向に、リタを見つめるかのようにして横たわっていた。

それは、薄気味悪いといったシュヴァーンのように、束ねた髪を卸し、眠る横顔に髪が頬を覆う。少し開かれた窓から、冷たい夜風が忍び込んできては、伸びた前髪を揺らし、深い陰影を浮かび上がらせている。

仔猫とレイヴンの眠る傍ら、ベッドに腰掛けては、その長くなった前髪に少し触れた。起こしてしまうかなと思うも、起きても構わないと思った。一緒にいられる時間は短い。それなら、少しぐらい我儘にも似たこの行動に付き合って欲しいと願う。

彫りの深い、それに刻み込まれた皺のようなものが、この男の生き様を物語っているような気がした。浅黒い肌は、旅のせいもあるだろうか。窪んだ目元から、頬に触れ、輪郭を描くように少しざらりとした顎。自分にはない髭の感覚が面白いと思ったのかリタは何度か触れる、尖った喉仏の当たりで、その指の動きを止めた。

「おっさん、起きてるでしょ」

静かに、そっと告げる。

「あ、ばれてた?」

リタを見つめる眼差しは、咎めるでもなく、何か楽しそうにも見える。きっと、この部屋に忍び込んだときから、気がついていただろうとリタは思った。油断していたわけではないが、この男が持つ顔の一部を忘れていたのは事実。他人の気配など、どんなに息を潜めていても、その漏れる息、体温すら感じとっては襲い掛かる獣のような嗅覚を持っている。そんな男がリタの行動など、とっくに気がついていてもおかしくはない。ただ、咎めることもせずに好き勝手にさせていたのは、何故?とリタは思った。




それに気がついたのは、リタが思うようにやはり、ぎぃと扉が開いた瞬間、風が動く気配を感じたからだろうか。数時間前、リタが部屋の隅で本を広げ始めるのを見ると、ああ、これは、餌の時間忘れかねないとレイヴンは仔猫に餌を与え、にゃあにゃあと何や要求の声で鳴く仔猫がリタの邪魔しないようにと抱きかかえたままは良かったのだが、そのまま仔猫は眠り始めた。仕方ないとばかりに私室に連れ込んでは、見つめているうちに自分自身も眠り込んでいたらしい。

そして、気配を感じて薄目を開けて見れば、リタが傍らで座り込んでいる。

──猫だけ連れて帰るかな?

そう思ったのだが、リタは意外な行動に出た。前髪に触れ、頬、そして顎から首筋に触れられた指先は少し冷たくも感じる。昔はもっと温かい気もしたのだがと。その指先の動きにくすぐったくも感じるが、やけに大人びた仕草に、このまま、身を委ねていてもいいのかと思う瞬間、リタの動きは止まる。

絡みつく視線に根負けしたかのような深くため息を吐いたのは、リタの方だった。

「不思議だなって思ったの」

リタは、一瞬だけ迷ったかのような表情を浮かべた。その迷いがなんであるか、レイヴンにはわからない。多分、リタ自身もどういった類の感情であるか解らなかったであろう。だが、咎められない事にリタは何か感じ取ったのかレイヴンの髪に触れた。まるで幼子を眠りに誘うようにあやす母親のような仕草。

「あんたはこうして生きてる。あたしの前にいる。それだけでいいと思ってた」
「それだけ、それ以外に何を思う?」

レイヴンの問いかけに、リタは微かな笑みを浮かべて、頭を振った。

「おっさんが帰って来る度に、安心するあたしがいるの。そして、不安になるあたしがいる。待っている時よりも、もっと不安になる、今もずっと」
「どうして欲しい?」

答えなど分かっているくせにとリタが言った様な気がした。レイヴンは髪を撫でる手を掴んでいる。細い手首は思っている以上に、華奢だった。薄い被膜の中を幾つもの青白い筋が浮いて見える程に白く。もし、リタが拒否するなら、拒否してくれてもいいと思ったが、リタは大して驚く素振りでもなく、照れたような、そして、憂いを浮かべた瞳で見返してくる。そして、手繰りよせると、その指先に自分の指を絡める。

しなやかで細い指だと思った。

小さくて、触れてしまったら最後、二度と手放すことが出来ない。そのまま、リタの体を抱き寄せると、ぎしっと二人分の重みに耐え切れないとベッドが軋む。すっぽりと腕の中に納まる体躯は、柔らかだった。お互いに向かい合う形になったリタを見つめると、それまで、絡めあっていた指先に口付ける。レイヴンは眼を閉じて、リタの存在、そのものを感じていた。

それまで眠っていた仔猫がふわっと大あくびをしたが、まだ眠り足りないのか、丸くなり眠りについた。その様子を見つめながら、リタの手を開放してやると、今度は、レイブンがその髪に触れる。

「この仔がいればね。リタっちがどこにも行かず待っていてくれるような気がした」
「あたしは、どこにも行かないわよ」
「そうだけど、実際、帰るまでは怖いよ。だから、この仔連れてきた」

待つ方が不安を抱えるなら、待たせる方も不安を抱える。個々の互いの感情がすれ違う寂しさよりも、二人で抱える孤独なら、二人で共有するしかないだろう。決して、寂しいなどとは口にしないリタの精一杯の強がりも。そして、レイヴンも、こんな俺の元から、いつしか離れてゆくのではないかという憂事も。

「もし、俺がね。帰ってこなくなるような……」

遥か昔というのには、まだ遠くもなく、数年前というには、まだそれほどの月日は流れてない以上、レイヴンは「死」という言葉を使わなかった。リタが最も恐れている言葉。それは、彼自身が一番良く分かっていただろう。だから、こそ、帰って来なくなるというような曖昧さを選んだ。

「──そんなの許さないから」
「リタっち?」

静かに、だが、明確な意思、憤りを含んだ声と瞳がレイヴンを射抜く。リタは不安を口にすることは避けてきた。そうしなければ、いつか、それが本当に、真実になりそうで怖かった。大人になれば、そんな不安など笑ってしまうような強さが手に入ると思っていた。だが、現実は、それを知るほどに弱く、脆くなる心が嫌だった。そして、それを与えようとするこの男──レイヴンが忌々しく思える。

「そんなの許さない。まだ……?」

リタは、言葉を詰まらせた。そんなことを言わないでという悲痛な叫びのような声だった。レイヴンにしてみれば、そんな気持ちもすべてわかってのことだったのかもしれない。ただ、少しでも不安を取り除きたいのは同じ気持ちを抱えているからこそ。

「いや、だからこそ話すんだよ。よく聞いて。もし、その時はこの家も全部、大した物じゃないけどリタっちに全部あげる。処分して、好きなとこに行くのもいいし、ここで新しい生活送ってくれてもいいから、ね」

俺以外の、別の奴でもいいよ、とは言えなかった。それは最後の我儘。

「……あたしに思い出だけ抱えて生きてゆけっていうの?」
「そうじゃないけど、もし、そんな時の話。おっさんの事なんて忘れて」
「忘れられる訳ないじゃない……こんなに……」

あんたの事が、好きなのに。
そう伝えたかった。だが、想いは言葉に出来ず、瞳から頬を伝い、はらはらと零れおちる。
不安を抱えさせて待たされるなんて、とリタは溢れる想いが止まらなくなっていた。その溢れるものをレイヴンは、指先で頬に触れたかと思えば、ゆっくりと唇を寄せて、何度も掬い上げようとするかのように拭う。

頬にかかる唇の感触が優しい。リタを大切に思う愛おしさが伝わってくる。眼を閉じて、このまま眠りにつきたいとリタは思った。抱きしめられて、その生を感じていたい。だが、額に触れていた唇が離れると、リタは目を静かに開き、レイヴンを見つめた。

シュヴァーンであり、レイブンという名を持つ男は、両極性の眼をしていると思っていた。だが、今は、その根底、本質には別の誰かがいるような気がした。それが、誰かであるかは分からない。ただ、不安で何かに怯えるような子供の目した男がいた。

「ごめん、こんな話しするつもりなかったのに」
「そうよ……縁起でもない」
「ただ、この家はリタっちのもんだから、好きにしてくれていい。この仔も、さ」
「この仔をおっさんの代わりにしろっていうわけ?」
「それでも、いいけど」
「それなら、絶対に帰って来るって約束して。何があっても、おっさんの最後を見届けるのはあたしって」

──ああ、あたしだけじゃないんだ。

滅多に本心を見せない男に浮かぶ物を感じ取っては、リタはそれが同じ気持ちであることを知る。

「おっさんも、不安なんだ」
「……ん、そうかもね。おっさんも、歳よねえ。リタっち見てたら、ほんと、どうしようもないわ」

リタの中である感情が芽生え始める。それは、待つ存在が、彼のレイヴンの生きる証であるなら、その証になればいい。レイヴンの存在があたしが存在する証。でも、それを証明するなら、それなら、どうすればいいのだろう。永遠なんて約束できる筈もない。それを信じるほどの子供でもない。

「リタっちが、笑って傍にいてくれたら、それだけでいいんだよ」

言葉にすれば、ふっと軽く笑うレイヴンにリタは静謐な祈りを願う。どうか、この男が悔いなく、あとどれ位あるのか分からないが、せめてもは、残された命を躊躇うことなく生きて生き抜いて欲しい、と。

「ほんと、おっさんて昔からどうしようもないわよ」

今更、そんな解りきったこと言わなくてもと軽口をたたくが、その声色は静やかで柔らかい。

「どっかで甘えてたのかもね。リタっちに」

リタの稟性など昔から知り尽くしているような声色。二人の気持ちが溶け合って、溢れ出した瞬間、二人の唇が触れ合うか、その瀬戸際だったろう。

「にゃー」

やや気の抜けた、今一番、この空間に漂う雰囲気にはそぐわない鳴き声がする。ぴくりと二人の動きが止まれば、仔猫がぱちりと目を開けて、何をしているんだと、二人の間にもぐりこんで来ていた。

「ごめんね。にゃんこ、忘れてた訳じゃないのよ」

リタに擦り寄ってきては、小さいながらも心地よさを表すように喉を鳴らしている。遊べといっているのか、リタの胸元辺りで、くるくるとその体をくねらせている。

「あー……せっかく、いいとこだったのになあ」

半分、ぼやきのような声にレイヴンはがっくりと肩を落とす。リタの気分は、既に仔猫に移っているらしい。リタの指先でじゃれる仔猫に、目を輝かせている。

「そんなことないんじゃない?」

顔を上げてながら、リタは仔猫の頭を優しく撫でていた。

──にゃんこ、ごめんね。

リタはそう呟くと、薄く笑みを湛えた意地悪げな顔が近づいていることを感じながら、瞳を閉じた。触れ合った唇から、温もりがこぼれ始める。静かに唇が離れた時、リタは少しだけ困惑したような表情を浮かべた。

「どしたの?」
「にゃんこ、どうしよ」
「ああ、そういうこと」

リタなりにその予感はあったらしい。気恥しげに、胸元に居る仔猫の存在が気掛かりだと訴えている。

「んじゃ、ちょっと、一人で待っててね」

リタに向けた言葉なのか、仔猫に向けた言葉なのか分からないが、リタが少しだけ頬を紅潮させた隙に唇を重ねる。


その夜、初めて二人は、本当の姿を晒し出していた。
何もかもが静かな夜だった。二人だけの吐息を感じ、互いの生に安堵しては、与え、与えられる行為。リタにとっては何もかもが初めてのもの。恐れはあったが、その都度、レイヴンはリタの名を呼んでくれた。そして、リタもまた、幾度も、レイヴンの名を呼んでは、温もりに安堵し、レイヴンもまた同じ気持ちだったのだろう。果てる瞬間、握りしめた指先に、力を込めてリタの名を呼べは、今までに見せた事のない婉美な色を浮かべたリタがレイヴンを愛しげに見つめていた。


明け方近く、にゃあにゃあと扉の向こうで、入れろとばかりに叫ぶ仔猫の鳴き声に、レイヴンは気だるさを感じながら目覚めると、その傍らでは、リタも、また、まだ重く圧し掛かるような痛みを抱えているようにも見えたが、やはり、同じように目覚めたらしい。苦笑いに照れ隠しを忍ばせて、二人の視線が絡み合う。再び、唇を重ね合わせた後、「はい、はい、今入れてあげますから」とレイヴンは扉を開けた。

「まったく、ほんと我儘だよね」

誰かさんと同じだわ、とレイヴンが抱きかかえ、二人が眠っていたベッドに連れ込むと、リタに仔猫はぐるぐると喉を鳴らし甘える様子を見せた。

「それで、どーすんの?もういい加減決めないと、にゃんこって認識してるわよ」

枕に顔をうずめ、色っぽいことを期待するのではないのだが、せめて、もう少し余韻に浸りたいんだけどなあ。と、レイヴンは思うもそれは叶わぬ願い。ただ、こうした光景も悪くは無いとレイヴンは思った。朝日を浴びて、昨夜と変わらない肢体でベッドに寝そべるリタを見つめれば、恥ずかしさを浮かべながらも、リタはそっと微笑み返してくれる。

「レネってどう?」

仔猫を撫でながら、リタが呟く。

「レネ?まあ、可愛いんじゃない?どういう意味あんの?」
「生まれ変わるだったかな、確か」
「……なら、いいか。うん、レネでいいわ」

レイヴンは仔猫を撫でた。ぐるぐると喉を鳴らし、眠くなったのか大あくび。

「随分、慣れたみたいじゃない。最初なんて、おっさんの腕、ほら、見てよ。引っかきまくってたのよ」

そういわれ、見せられた箇所には、確かに切り傷ではないが、いかにもというような引っ掻き傷が幾つか残っている。

「どうせ、おっさんのことだから乱暴に扱ったんでしょ」
「そんなことしてないわよ。威嚇するばっかりで、甘えてくるときは腹空かしたか遊べだもんねえ」

ほんと、出会った頃のリタそのものだね、とレイヴン。そんなことを言えば、彼女は臍を曲げてしまうかも知れないけど、どうしても、この仔猫とリタが被るのは仕方ないかもしれない。

「……そんなとこもそっくりか」

一人納得して呟くレイヴンに、リタは「ん?」と怪訝そうな顔。

「いや、なんでもない」

変な、おっさんとばかりにリタは、まだ、遊べと要求してくる仔猫──レネに夢中になっている。

──まあ、少しは寂しさが紛れたら、いいかもね。

レイヴンは、そんなことを思いながら、次に帰って来る時、この仔猫が俺を忘れてないだろうかとふとした疑念もわきあがった。

「レネに嫌われたくないなら、約束どおりに帰ってきたらいいじゃない」

そういうわけにもいかないだろうが、リタは、レイヴンの考えなどお見通しだというような、遠回りなリタの願い。初めて、リタから帰ってきて欲しいと願う言葉を聞かされた瞬間。

「そうだね、そうする。うん。リタっち一人にしておけないものねえ」
「そうよ。ほんと、おっさん一人にしておけないものね。困ったおっさんよね、レネ」
「なんで、そうなるのよ」

さあ?とばかりにレイヴンのことなどお構いなしにリタはレネに夢中。

「うん、まあ、次はきちんと連絡するから、ほんと」

レイヴンは自分自身に言い聞かせるかのように頷いた。



猫と女は黙っていれば名を呼ぶし、近寄っていけば逃げると言ったのは、誰だったかなと思う。
終ぞ、そんな面倒な女に引っかかった事も無ければ、当然、猫などに引っかかる筈も無く、と思っていたのは遠い昔。


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