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BELOVED

春というのはどこか心許無い寂しさと可能性の未来に向かう希望に溢れた季節を連れてやって来る。
耐え忍ぶような寒さだけが横たわる季節が過ぎ去った今、そこに生活する者たちにも様々な波乱めいた予感も伴ってやってきているようだった。




「あの……先輩、これ、読んでください」

放課後、一学年下のクラスが集まる校舎を横切ろうとしていたときだった。突然、呼び止められた男子生徒──ユーリは、めんどくせえなと、ぶっきら棒なまでに素っ気無さを前面に漂わせていた。

おずおずと差し出された手紙は、春色の封筒。それがなにを伝えるかは、言うまでもない様子の少女。そして、それを差し出された少年、と呼ぶにはやや大人びた長身、切れ長の目元。無造作に束ねた髪。精悍な顔立ちは、若干の苛立ちを覚えるかのように無愛想も映る。

今時、こんな愛の告白などは古典的だとは思うも学園において女子生徒の人気を二分する片割れにとっては、頭の痛いことだった。こんなことは一度や二度ではなかったが、その都度、どこからともなく要らぬ恨みも買うこともある。大半は、告白してくる側の取り巻きとでもいう連中、いわゆる、外野。大人しくしてくれればいいのに、中には、何故か、半分やっかみもあるのだろう、向う見ずな力自慢まで出てくるから始末が悪い。それでなくとも、今は少なくとも、この場を、早々に立ち去りたいというのが本心でしかなかった。

「あーわりぃけど、俺、今、そういう気持ちないから、ごめん」

踵を返し、「先輩っ」と泣き出しそうな声を置き土産にその場を立ち去る。

──全く、いきなり言われたって俺だって知らねえよ。

これが、その学園の人気を半分占めている幼馴染なら、もう少し、相手を傷つけずにも出来ただろうと思うも、今は、恋だの、愛だのと浮ついた気持ちにもなれない。と、そんな考えが過った瞬間。
歩くスピードを緩めた。
ユーリとて、全くそのような事に興味がないわけではない。年頃の健全な男子としては、今更、硬派ぶるつもりもないが、何か、違和感を覚える。ここ最近、特にそう感じさせるのは、ある少女の存在。

──いやいや、何考えてんだ?俺。

完全にその歩みをとめた時、思考は完全にその少女が支配していた。

「ったく、あのお姫様はどこほっつき歩いてるんだか」

お姫様。そんな形容が似合う一学年下の大切な少女の顔が思い浮かぶ。ユーリがあんな場面を一番に見られたくない、見せたくない彼女、といっても、世間一般的な「カレシ」「カノジョ」というような間柄ではない。やや特殊な関係ではあるが、彼女を庇護するような立場では、おいそれと手だしの出来るような相手でも無かった。そして、不安定な気持ち。


ただ、今はまだ、お互いにその存在の大切さには気が付いていない。


「もてるねえ。青年」

渡り廊下の向こう側。壁に背を持たれかけている。白い白衣がまだ薄寒い中、静かに裾が舞っている。それは、
ニヤニヤと緩む口角を挙げて物理の教師──レイヴンが、やあと片手を揚げてひらひらと手を振っていた。

「見てたのかよ。出歯亀みたいな真似するんじゃねーよ」
「青年まで酷い事言うのね」

よよよと品を作って泣く真似をするも、ユーリは一向に気にしていない様子だった。そんなユーリの雰囲気を読んだのか、これまたお返しなのか、即座に立ち直った様子を見せた。相変わらず正体の掴めない胡散臭さ。その男の印象は、出会った頃から今でも変わらない。

「さっきの娘。一年の中ではダントツに人気のある娘だよ。勿体無いねえ」
「そんなもん知らねえよ。そもそも顔も名前も知らないし」

若干、何かわからない苛立ちを覚える。冷やかされたというような感覚ではない。何か知らない、薄くヴェールをまとったもやもやとした感覚にユーリ自身、戸惑いを覚えたが、そんなユーリをどう思ったのか、教師は「ふーん」とあまり歯向かって来ないユーリに拍子抜けしたのか、遊び相手ではないと判断したのだろう。

「準備室にいるよ。うちのお姫様と一緒に、ね」

どこまでも侮れない飄々とした教師の顔は本当は嘘なんじゃないかと時折見せる。なんでユーリの訪ね人を知ってるんだと思うも、余計な詮索をしたところで年嵩のこの男にはぐらかされてしまうのは落ちだろうと、あっけなく白旗を上げた。

「ああ、サンキュ」
「なあに、どういたしまして。それより、『帰りに鍵掛けて帰って』って、うちのお姫様の方に伝えておいてくれるとありがたいわ。俺、今日、職員会で遅いから」

どこまで伝えたらいいのか。何やらもう一人のお姫様とこの胡散臭い教師との間にどんな関係があるのかは知らないが、ユーリは伝えられたことは、そのまま伝えればいいと思った。一言一句、そのままの通りに。



全ての授業も終わった放課後は、日中とは違った、静けさを取り戻そうとしている。校庭では、運動部の声がする以外、教室はがらんとしているところが大半だった。時折、風に運ばれてくるのは木々のざわめきだけと遠くに傾きかけた春の日差し。
校内の果てにある物理準備室と掲げられた表札の前に来ると、微かにではあるが甘い香りが漂っている。ややするとあの胡散臭い教師とあいまわって怪しげな実験でもしているのかと思わせるが、甘い香りは、自分がよく知っている。むしろ、大好物だと言える香りだった。それと、同時にどおりであの教師があの場所にいたのかも理解した。教師が最も苦手とする香りでもあった。

ノックもせずに扉を開けると、「あ、ユーリ」という声がした。

花がほころぶというのは、こういう表情なのだろうかと思わせる少女が振り返った。さくら色の髪をふわりと揺らせては、笑顔で出迎える。その笑顔の持ち主こそ、ユーリが探していた少女だった。

「エステル、どこ行ったかと思えば……」

エステルと呼ばれた少女は、その長い睫毛を少しだけ伏せ目がちにすると、「すいません。家庭科の実習で作ったケーキ。リタと食べようって約束したものですから」と説明した。
リタは、エステルの学園内での友人。学年こそ違うが、妙に馬が合うのか、何かしら放課後を一緒に過ごしている時が多い。

「ふーん。で、俺の分は無いの?」
「ユーリの分もありますよ」

当然、頑張ったんですよ。と自慢げに見せる顔は、あどけなさと可愛らしさが同居する。なら、OKと納得して見せると、さらににこりと微笑んで見せた。

「で、あれ?もう一人は?おっさんから伝言あるんだけど」
「リタなら、今、ジュース買いに行ってくれてます。先生かリタに何か用ですか?」
「いや、あんたを探してた。レイヴンは、さっき、廊下で会ったら、ここにいるって聞いて。で、フレンから伝言」

椅子に跨ぐように腰掛けては、ユーリの分も出しますね、と言いながら準備をしている少女の背を見つめる。自分とは違う曲線を描くライン。華奢な肩からなだらかに流れる肢体をそのまま、見つめながら、少しだけ短めのスカートからは、細いながらも柔らかそうな足が伸びている。

──おっさんじゃあ有るまいし。

半ば準備室の住人化としてる教師の顔を思い出すと、一人、毒付いてしまった。エステルのその容姿は人目を引くものがあった。それは、ユーリとて、学園でもその美少女ぶりを知らない訳ではないし、それ相応にイロイロな意味で彼女を狙っている奴らが居ることも知っている。

──だからって俺にどうしようもないしな。

そんな感傷的になりそうな思考を巡らせていると、「フレンから何の伝言でした?」という声とともに、はい、と差し出されたチョコレートケーキ。「ありがと」と受け取ると、「ちょっと待ってください」となにやらゴソゴソと探し物をするエステルは再び、ユーリに背を向けた。

「ああ、生徒会の新役員、引き受けてくれないかって」
「私が?ですか?」
「うん、まあ。そういうとこ。リタは相変わらずだし、最近じゃあアイツの顔見るだけで逃げるっていうしさ」
「それなら、ユーリの方がいいです」
「なんで、俺が」

そういうことは嫌いなんだけどなあと思いながら、ひとまず、その話は保留とばかりにチョコレートケーキを一口で口に頬張る。

「ユーリ、お行儀が悪いです。せっかく、フォークもあるのに」
「いいの。あ、これ美味い」
「そうですか?良かった」

少し不安げな瞳だったが、花開くよかのうに笑顔を浮かべていた。ユーリはそんなエステルの表情を盗み見ては、ころころと変える表情に、嬉しくなるのはどうしてなんだろうと思っていた。彼女が一喜一憂するさまが自分のことのように心動かされること。それが、何かであるかは、頭の隅ではわかっている気もするのだが、今は、まだ気がつきたくないという狡さも同居している。

「ごちそうさん。そんじゃ、まだ、居るんだろ。俺、裏門のとこで待ってるから」

それじゃあと振り返らずに片手を上げようとした時。「ユーリ、待って下さい」と呼びとめる声がした。

「何だ?」と振り返れば、思いのほか距離が近かった。吐息までも掛かるような距離に思わずドキリとさせられる。ユーリの頭ひとつ分だけ見下ろすエステルは、その距離にも動じていない様子だった。香水をつけているわけでもないのに、甘い香りがするのは、この年頃の女の子とよべる生物、特有なものなのだろうか。それとも、先ほど、食べたチョコレートのような甘さがまだこの部屋に漂っているのかと思う。

「口のとこ、付いてます」

そんなユーリの動揺を悟る風でもなく、エステルの白い指先がユーリの口端に触れた。なぞる様に触れられては、急激に体温が上がる気がした。
柔らかいのはその唇だけではなさそうだった。ふわふわとしたような指先は、そっと頬をなでる風のようにユーリの元を去っていく。そして、そのまま口先をぬぐったエステルの指先が彼女自身の薄桃色の唇に触れられ、少しだけ舐める仕草に可愛らしさと別の何か違う艶めいたものを想像してしまうほどに鼓動が激しくなる。

「チョコレート付いてましたよ」
「え?ああ……」

ほんの一瞬の動作なのに、何を動揺してるんだと叱咤する声を頭の片隅で聞いていた。だが、ユーリはその警告を無視するかのようにユーリはエステルの二の腕をつかんでいる。

「……ユーリ?」

抱きしめるでもなく、何かを言うにも言葉をなくしたユーリにエステルも少しばかりの動揺があったのか、暫し、二人の視線が絡み合った。




「エステル、ごめん。遅くなって」

ガラガラと勢い良く開けられた扉と同時に飛び込んできた声は、やや息が上がっているかのようだった。鳶色の髪を少しばかり乱れさせながらも、その瞳は利発そうな少女──リタが胸元にジュースを抱えていた。

「なんだ、ユーリもいたんだ」

咄嗟に離れた二人だったが、それがリタにどう思われるかまでは考えてもいなかった。ほぼ無意識に他人に見られてはという羞恥のような反応だったのかもしれない。ただ、この沈黙を破ってくれた少女にユーリは密かに感謝した。

「あ、いや。俺はもう行くから」
「別に、ユーリならいいんだけど。余分に何本か買ってきたよ」
「俺は先に食ったし、あんたらの話に付き合わされたくないから、いいよ」
「何よ、それ」

利発な少女の一面は、これまた、教師だろうが上級生だろうが向う見ずに食って掛かるような気の強さも持ち合わせている。特に、物理学の教師においては、更にその面が強調されている点においてもだったが。

「いや、俺、ほかにも用事あるし」

女性というべきか、まだ、少女という方が似合う二人ではあるが、それは、他の女子生徒らと変わりがない。何かしらの話題があれば、随分と話し込んでいることは一度や二度ではなかった。よく聞いてみれば、堂々巡りともいえるような終わりのない会話。それにつき合わされるのは勘弁。

と、足早に立ち去ろうとした時、ユーリは準備室の主からの伝言を思い出した。

「あ、そうだ。リタ、おっさんから伝言。『準備室のカギ掛けて帰ってくれ。後、今日は職員会議で遅くなるからってうちのお・姫・様・に伝えて』って、さ」

ややお姫様を強調したのは故意ではない。あの教師が言うがまま、一言一句伝達したまでのことだった。ついでに、投げキッスのジェスチャー付き。そう言い残して、準備室を出たが、何やら声にならない声で教師を罵倒する呪詛が聞こえるのと同時にそれを宥める声が聞こえていた。



──そういえば、俺、伝言ばっかりしてんな。伝書鳩じゃねーぞ。

ふと足を止めて、独り言のように呟いて見せると同時に先ほどのエステルの姿が浮かんでは、何かを否定するかのように頭を振って否定した。




日没前、長い陰が伸びる。

「ユーリ、すいません」

ほら、やっぱりなと待ちくたびれた様子もみせずにユーリは片手を揚げた。

「駅前のとこ迎え着てんだろ。そこまで送るわ」
「すいません。いつも」
「いいって。俺の役目なんだから、さ」

二人が並んで歩く。まだ冬の気配が残る春の夕暮れは肌寒さすら漂わせていた。
一陣の風が二人を包んだ。ふと、止まる足。

「まだ、寒いですね」というとクシュンと小さなくしゃみをするエステルに「大丈夫か?」と気遣うユーリ。

制服姿とはいえ、長く伸びた足元は素足にもちかい。そら、くしゃみの一つでも出るだろうなとユーリは思うも制服なのだから仕方ないといえば仕方ない。

鼻の頭を少しだけ赤くしているエステルを見て、少しだけ笑って見せた。

「ユーリ、酷いです。笑うなんて」

時折見せるエステルの幼さは、彼女の友人よりも幼く感じることがあった。それを妹のように思える時もあるのだが、いつしか守りたいと思うような保護欲を掻き立てられる。ただ、それは、本当に保護欲なんだろうか?幼きものを守りたいという本能的な物とは違う種類。強いて言えば、独占欲。誰にも触れさせたくないという、これもまた、本能的な物。

それが去来する時、何か分からないが締め付けられるような心苦しさも感じるのは気のせいなのだろうか。

「いや、笑ってない」
「いえ、笑ってます」

真面目な顔を作るも、エステルの必死な様子に破顔一笑。「酷いです」と頬を膨らませているエステルもまたくすっと小さく笑っている。




「そういえば……準備室に来る前、どこに行っていたのですか?」

再び、歩き始めた二人。

「え?」
「準備室に行く前、ユーリの教室まで行ったら出て行ったって言われて、すれ違いみたいだったです」
「あー……」

随分酷い男だが、今の今まできれいさっぱり忘れていた。──実は、下級生に呼び止められて告白されていたとは。それを、正直に伝えるべきか、否か、逡巡するが彼女には関係のない事と白を切ることを選んだ。

「ちょっと、野暮用」
「野暮用ですか?」
「そう。大したことじゃないし」
「なら、良いんです」

何か自己完結してみせたエステルに、何が気になるのだろうと聞いてみたい気もしたが、自分自身が秘密を抱えた以上、それを問う権利はないとユーリは思っていた。

「それじゃあ、また、明日ですね。おやすみなさい、ユーリ」
「ああ、じゃあな」

迎えの車に乗り込むエステルが手を振る。ユーリは素っ気無く片手を挙げて見送っていたが、彼女を乗せた車が視界の隅から消えるのを見つめていた。




子供というには、もう幼年期の終わりを迎える頃だろうか。いつからか、大人と子供という範疇のから、男と女というもうひとつの区分を見つけ出した。それは、簡単そうに思えて意外に厄介なものだと思ったのは、春のまだ浅い日。
まんじりともせず朝を迎えたユーリは、それでなくとも眠気を誘う日中の陽気に欠伸が1回や2回では済まないことになっていた。

今朝は、エステルの顔を見ていない。それが良かったのかどうかは分からないが、ユーリは少し安堵している自分にも、何とも言えない気持ちを持て余していた。それでなくとも、昨夜は、繰り返される夢にうんざりとした。

──なんであんな夢ばっかり見るかなあ。

繰り返される夢は、昨日の出来事。エステルにとっては何とも思わない行動だったのかもしれないが、あの準備室での出来事は何かしらユーリに影響を与えている。白くしなやかな指が自分に触れた瞬間やぷっくりとした柔らかそうな唇の感触は、一体、どんなものだろうか。触れてみたいと思った瞬間。その其々が何やらリアルに思い起こされては、良からぬ方向に進んでいることをユーリは持て余し気味に堂々巡りを繰り返している。

──保健室で一眠りでもしてくるかなあ。

ごろんと寝転がった上に広がる青い空。少しだけ高く澄んでいる。ここは、本来なら生徒は立ち入り禁止の屋上。ただ、ここからの絶景をそう簡単に諦めるユーリでもない。ふわあと一つ生欠伸が出ている。ふと思い出した午後の授業は、これまた眠気を誘う授業だった。それでなくとも、昨夜見た夢がやけに生々しく残っている以上、真面目に受けた所で撃沈するのは分かり切っていた。

「ユーリ、やっぱりここに居たのか」

規則に関してはやや口煩いクラスメイト兼幼馴染──フレンが、やっぱりなという声を掛けてきた。

「珍しいな。ユーリがエステリーゼ様と一緒じゃないなんて」
「今日、二年は朝から校外学習だよ。午後からは帰ってくるよ」
「あ、なるほど」

何がなるほど何だかと思うユーリではあったが、今更、気遣い無用の仲。以心伝心ではないが、何か悟られたくはない感情もあった。

またも、欠伸が一つ。

「すまん。俺、急に具合悪くなったから、午後の授業休むわ」

そんじゃあな、と立ち去るユーリに一人取り残されたフレンは、はあとため息を吐いた。




誰もいないのか。保健室に来てみたものの、扉には教師不在の表示版が掲げられていた。だが、そんなものを気にする性格でもない。ユーリは鍵が掛かっていれば、生徒会室かまた屋上にでも行けばいいと考え、扉に手をかけてみれば、どうやら鍵は掛かっていなかったようった。

邪魔する者は誰もいないとなれが幸い。このまま、放課後まで寝てしまえとベット脇のカーテンレールを引くと、ごろんと横になった。

うつらうつらとしていたと気がついたのは、何やら話し声が聞こえてきたせいだったのだろうか。カーテンの向こう側でざわめくような声がしている。少しだけ息を潜めて、様子を窺う風にシーツにくるまった。

「先生、いないみたい」
「大丈夫?」
「熱だけ測っておく?」

二、三名、女子生徒の声が聞こえる。誰か具合が悪くなったのか、誰かを連れてきたところだったのだろう。その時、次の授業開始時刻を告げる鐘の音が響いた。

「ごめん。授業始まっちゃうから、私たち行くね。先生いないみたいだから、とりあえず、そこで横になってる?
エステル」

まだ半分だけ眠りから覚めていなかったユーリはその名前にドキリとさせられた。扉が閉まる音と共にエステルのクラスメイトたちが出て行く気配がした。何やら衣擦れのような音が薄いカーテンの向こう側でするも、横になる気配は感じられず、ユーリはそれまで固唾を呑んで見守っていたが、そういえば、と思い出したのが昨日、笑い話にしてしまったが、小さなくしゃみをしていたエステルの姿だった。そう思うといてもたってもいられない。


「エステル?」

誰もいないと思っていた部屋で勢いよくカーテンが開いたと思えば、見知った顔が、ユーリがいたことにエステルは目を丸くして驚いた表情を浮かべていた。

「ユーリも具合悪いんですか?」

ユーリもと言われ、自分のことよりもまず先に他人のことを心配してしまう、この、ややするとお節介焼きなお姫様には苦笑いしか浮かばないが、常よりも赤く染めた頬が熱っぽさを物語っている。

「俺はサボリ。てか、あんた何してんだよ」
「何してるって……ちょっと……その……」

どうも歯切れが悪い。熱が出始めているのか、いつもよりも潤んだ瞳がユーリを見つめている。

「ああ、もういいから。横になれよ。先生いねーし」
「あ、はい」

制服の上着を脱ぐともぞもぞとベットに入るエステルは相当つらそうにも見えた。ユーリは、薬を探そうと戸棚を開けようとするが、どうやら、こちらは鍵が掛けられているようだった。一瞬だけ、こじ開けてしまおうかと考えるが、無理やりに壊してしまえば、小言だけでは済まないはずの保健医の顔を思い出して、小さく舌打ちをした。、

「熱、あるのか?」

横になっているエステルの傍に腰を下ろすと、頬に掛かる髪を撫でては、額にそっと触れた。どれぐらいあるかはわからなかったが、少なくとも自分よりかは熱っぽいことが指先からしてとれた。

「熱、あるな。大丈夫なのか?って大丈夫でもないな、その様子だと」
「……ごめんなさい」

シーツから顔を半分だけ出して見つめるエステルは消え入りそうな声だった。

「別に謝らなくてもいいよ」

今度は勤めて柔らかい声色で言う。そうでなくても、ぶっきら棒な言い方が他人を傷つけやすい。

「ユーリに心配……掛けてしまいました」

弱弱しい声は、どこか無理をしている。急激に熱が上がってきているのか、少しだけ息苦しそうにも聞こえた。

「いいから、寝てろ。俺、先生呼んでくるし」
「ユーリ……」
「ん?」
「その……先生はいいです。だから……傍に、いてください」

熱のせいなのか、いつになく気弱な視線にどきまぎさせられる。
おずおずと差し出された右手がユーリを手招きしているようだった。遠慮がちに差し出された手は、エステルの性格のような気もしたが、なんだか子供のように縋る視線が、可愛いと思う瞬間だった。差し出された指に指を絡めると、エステルは安堵したように深い息を吐いた。

「ああ、良いよ」

なんとなく笑みがこぼれる。そして、もう片方で彼女の額に掛かる髪を払うと、身体を屈めてそっとその額に口付ける。少しだけ熱っぽさのある額はじんわりと汗ばんでいたが、柔らかな香りが鼻腔に広がった。
気負いもなく何気なくとった行動だったが、エステルもまた、それを静かに受け入れていたようだった。
それが合図だったのか、エステルはふうと大きな息を吐くと静かに目を閉じた。
エステルが苦しくないよう眠れるようにと、ユーリはその指先にまといつく柔らかな髪を何時までも撫でていた。

完全に眠りに落ちたエステルを見届けると、ユーリは側にあった椅子を引き寄せては腰を下ろす。ユーリの傍ら、静かに眠る横顔を見つめながら思うこと。

──ああ、俺、こいつのこと好きなんだな。

何となく春霞のように纏わりついていた思考がクリアになった瞬間だった。自覚すれば、なんともない。ただ、目の前にいる少女が好きだということ。

──恋だの、愛だのと浮ついてるのは自分なんだなあ。

認めたくはないが、そう思ってしまえば、簡単な答えがそこに転がっていた。ただ、彼女──エステルの気持ちはどうなのか分からないが、そう悪くない答えが待っていると思うのは随分思い上がりな気持ちなのかもしれないが、どこかそんな期待をしてしまう。

さくら色の風が校舎横を通り過ぎた時、新たな季節が準備を始めているかのようだった。

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