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大人と子供の境界線



科学教室の外には、紺碧の空、白い入道雲。眩しい程の太陽が照らしつけては、気温も急上昇中。先週、梅雨明け宣言した途端にこの天気だった。七月の第一週。夏休み前の生徒にとっては地獄の一週間。本日はその期末テスト最終日。これが終われば、夏休み。以前は、この学園も以前は二期制をとっていたらしく、夏休み明けに行われる学内テストで悉く落第点を取る為生徒が増加した為に、三学期制に戻していたらしい。

そんな事も関係ないのは、常に学年首位のリタだったが。

カラン、と涼やかな音を立て、アイスコーヒーの氷が融ける。お昼休みといってもテスト期間最終日だけに、午前で授業は終了済み。少しお昼時間からずれているが、学校近くのコンビニで買ってきたアイスコーヒー、ただし、ガムシロップ3つにクリーム入りの甘い物。

「これ、おいしくない……頭、痛い」

新発売と書かれていた為に、何気なく手に取ってみたのだが、今一つだったらしい。もそもそと喉につかえるのをアイスコーヒーで流しこむも、半分も食べ切れないまま、袋に戻した。それに、一人の食事が味気なく、食が進まない。もう一つの食欲不振の原因。先程、外出したせいなのか、この所続く天気の所為か分からないが、朝からリタを悩ましていたのは、前頭葉当たりでずきずきとした痛みだった。やっぱり、保健室で薬貰って来ようと思うも、リタにお使いを頼んだ本人が居ない。

「それにしても、おっさん遅いわね」

せっかく買ってきたサンドイッチとアイスコーヒーこちらは何にも入っていないブラック。もう半分は氷が解けかけている上に、透明なカップの淵からは水滴が流れ落ちた。



「……じゃあ、これで全部だから」

遅いと言われたおっさんは、保健室に居た。ただ、具合が悪いのではなく、保健校医に書類を渡す為に来ていただけ。

「ありがとう。おじさま」

書類を確認しながら、ジュディスは、目頭を抑えた。見目も麗しい保健医は、少しの仕草でも男を虜にするもんだと思うが、思うだけで何もできない。そもそもする気もないのだが。

「どしたの?」
「この所、ずっと書類ばかり目を通してたから、コンタクトが合わないのかしら」
「あれ?ジュディスちゃん、コンタクトしてたの」
「ええ、少し前から……」

そう言いかけて、ジュディスは眉を顰めた。右目を抑え、柳眉がいびつに歪んだ。

「どうしたの?」
「ゴミかしら。何だか急に痛みが」
「どれ、見せてみて?あーなんか睫毛みたいなのがあるわ」

ジュディスの肩に手をやり、覗きこむ。「あーちょっとじっとしててね」と男の指が頬に触れていた。指先に黒い睫毛。「取れたみたいだね」と言いかけた瞬間。レイヴンは思った。こんな場面、傍から見れば、キスしてるみたいだよね。それを、扉が開いた瞬間、彼女に見つかって、なーんて、よくドラマであるけど……。

その瞬間、開いた扉の向こうに、そのレイヴンの彼女が立っていた。

「ジュディス、薬な……」

鳶色の艶やかな長い髪。夏の制服に身を包んだ小柄な少女。大きな瞳が、この状況を、咄嗟に理解し、聡明な頭脳が冷静に判断している。

──俺様の危機察知能力凄いわ。と、他人事のように思うのだが、背筋には冷たい汗が流れ落ちた。

男は女の肩を抱き寄せ、ほぼ密着した状態。しかも、胡散臭いと評判ながらも一部の生徒からは人気がある男性教師。そして、学園一の美女にして男女双方から人気のある女性教師。男性教師が、リタの彼氏という関係でなければ、お邪魔しましたと扉を閉めるとこだろう──いや、彼女なら、涙を浮かべて立ち去り、彼氏は追いかけるよな、とレイヴンは考えた。そんな余裕もないのだが。

「あ……リタっち……」

咄嗟にレイヴンは、ジュディスから手を離して一歩後退り。
リタの顔から表情が消えていた。無表情とばかりに能面のような白い顔が浮かんでいる。見られてしまったのだからどうしようもない──おっさん、マジで泣きたい。

「ジュディス、薬ある?頭痛いの」
「リタっち、どうしたの?」
「あら、リタ。どんな痛み?熱や吐き気はある?」
「この辺がずきずきするの」

と、リタは額の辺りを押さえる仕草。

「そう。薬渡すから、その前に一応、体温測ってね」

「え?大丈夫なの?熱あるんじゃない?顔色悪いよ?お昼食べたの?」と、狼狽したかのようなレイヴンにお構いなしの女性二人は、その存在すらも消し去っているようだった。保健校医も今起きた出来事を、臆する事もなく、立ち上がっては、リタに話しかけていた。

「はい」と手渡された体温計を受け取ったリタとジュディスがレイヴンを見ている。夏の制服は、前開きのブラウス。にベスト着用。当然ながら、体温を測るとなれば、そのボタンを外すのだから、男は出て行けと二人が無言で訴えるのも無理はないだろう。いや、別に今更隠す様な関係でもないんだけど、散々、その下だって見てるとは一部語弊があるながらも言える筈もない。

「レイヴン先生。もう御用はお済みになられたわよね?女の子がいるから、早く出て行って貰いたいの」
「あー……はい。お大事にね」

「リタっち」と呼んだのだが、慇懃なまでに出て行けオーラを発するジュディスの背後にはリタが隠れるようにして、逃げられた。こうなると、弁明の余地も許されずに、レイヴンは保健室を放り出される。保健室の前でリタを待とうかと思ったのだが、出てゆく間際、運悪く保健室の内線が鳴っては、レイヴンを校長が呼んでいると、出頭命令が下された。最後の抵抗とばかりに、出ていく間際、リタを見ては「助けて。説明させて」と目では訴えたのだが、リタは更にその視線を遮るようにカーテンレールのついたベッドに逃げ込まれては、肩を落とすしかなかった。

ペタペタとやる気のないサンダルの音とぐったりと肩を落とした教師が保健室前から立ち去った。



小さな電子音が鳴ると、デジタル表示は平熱を示していた。ただ、これから上がりそうな若干高めな数値。カーテンレールを引くと、ジュディスが立っていた。

「平熱だけど、少し高いわね。お昼は食べたの?」

コップに汲まれた水と錠剤を、リタに手渡した。

「パンだけど、少し食べてる」
「それなら、二錠ね。ここで休んでいく?」
「ううん、いいわ」

水で錠剤をのみ込むと、リタは立ち上がろうとしたのだが、それを制したのはジュディスだった。

「聞かないの?私達が何をしていたのかって」

悪戯げな笑みを浮かべているジュディス。
この保健医が薄々勘付いているというより、近頃は、二人の関係を知っていると分かっているだけに、リタは、その気迫から逃れないでいた。ただ、リタもその気の強さから負けてはいないのだが、今日は、些か分が悪い。朝からの頭痛で少しだけ判断能力が欠如していたのかもしれない。
言われるままに、ベッドに腰かけなおすと、ふと気がついた。なんだ、こんなことか、と。

「どうせ、目にゴミが入ったとかそんな程度でしょう。ジュディス、片目だけ赤いもの」
「正解よ。ゴミが入ってコンタクトがずれてたの」
「大丈夫なの?」
「ええ、おじさまに見て貰ったら、取れたわ」

少しだけまだ痛むのか右目を抑えたジュディスにそこは心配そうに見つめ、「病院行った方がいいんじゃない?」と、リタの気遣いに、「大丈夫よ。単に疲れ目だから。ありがとう」と、ジュディスは涼やかな凪のような笑みを見せた。こんな時、リタはジュディスが分からなくなる。レイヴンの胡散臭さもそうだが、秘密めいたというよりも、秘密しか抱えていないようなジュディスの本性と言うような部分は、一体どちらなのだろう、と。

「……あの、別に、ジュディスとおっさんのこと、誤解なんてしてないわよ」
「そうかしら?私達を見た時のあなた、一瞬で顔色がかわったもの」
「だから、あたし……」
「あなたも可愛いけれど、あんなに狼狽したおじさまも可愛いわね」

おっさんを捕まえて、可愛いといい、クスクスと笑うジュディスに、何か怖い、この女性(ひと)と思うリタだった。

「でもね。リタが驚くのも仕方ないわよね。彼氏が他の女とキスしてるような場面目撃したのが彼女だとしたら、ね」
「彼女じゃないから知らないわよ」
「あら、そうなの?」
「そうでしょう。誰があんなおっさん好き好んで……」
「そんな事思ってないでしょう?」

やっぱり、怖いと再確認。でも、あたしだって思う、もの。

「……大丈夫よ。信用してるもん。そんなことするような人じゃないって。いい加減で胡散臭いけど、大切にするって言ってくれたから。それだけは、あたしがいくら子供だっていっても分かるわ」

思わず素直な気持ちが零れ出た。そんなリタにジュディスは、優しく包み込むような笑顔を浮かべた。

「本当、大切にして貰ってるのね」
「……だから、あたしのことじゃないってば」

気が緩んでいるとはいえ、なんていう事を喋ったのだろうと思う。リタも思う所はあった。ジュディスがリタを気に掛けていてくれることは素直にうれしいことだった。

「でも、子供扱いされて……からかわれて、大人だって見せつけられてるのが悔しい」
「……リタ。そうだわ。誤解させたお詫びに一ついいこと教えてあげる」

艶やかな大輪の華のような笑みがリタを見つめていた。


教室でもないこのリタが今いるのは、青空と入道雲が広がるのを一面に見れる場所。
先輩だったユーリがここに来ていたのは、何時の頃からか知っていたが、立ち入り禁止の標識を無視してまで入る興味もなく、レイヴンがここで油を売っていることも知っていたが、彼なりの時間だろうと思い立ち入らなかった場所。

直射日光が、痛いほど肌に突き刺さる。ただ、風が吹いている為に、そこまでの暑さは感じない。転落防止用の錆たフェンスから見える空の青さは嫌なことすら忘れさせてくれるようだった。二人の男が秘密にしていた場所──屋上にリタはいた。

──こんな綺麗な場所あったのね。ユーリやおっさんが、ここで一人でいるのも、なんとなく分かるかな。

そして蘇るのは、先程の保健室で観た光景。あの瞬間、嫉妬、強いて言えば、悋気などしていないとリタは思っていた。今更、ジュディスとの仲を疑う訳でもない。

──吃驚もしたけど、それより、大人だなって思ったのよね。

美人のジュディスの横顔は綺麗だとかいうまでもなく、それよりも、何故かどこか凛々しくも見えたおっさん。大人の男を感じたと言えば、嘘ではない。二人の距離からキスしていたように、一瞬だけそう見えてしまって、足が竦んだなんて言えない。あんなおっさんのどこが良いんだかと思っていたのは、つい数ヶ月前まで。いや、そう思い込んでいた二年間。それが、想いを打ち明ける事で、進展はあったものの、教師と生徒というよりも、大人と子供の壁は今だ越えられていないような、越えているような不安定な関係。

ふわりと風に煽られた髪が舞う。



レイヴンが、校長室を出て受け持ちの教室に戻った時、リタのカバンがあった。それには一応ほっと胸を撫で下ろすのだが、コンビニのビニール袋と完全に溶け切ったアイスコーヒーの下に何やら置手紙があった。水滴で幾分ふやけたノートの切れ端。

「おっさんのバカ」

殴り書きでデカデカと書かれた文字は、相当怒っていることを伝えている。ノートも力任せに破いたのだろう。しわくちゃになっていた。そして、濡れてふやけた部分が、リタの今の気分を伝えているようにも思えた。

「なんつーか、らしいわねえ」

それにしても、置手紙とは、相当怒っている証拠に苦笑いも浮かぶ。

「ラブレターにしても、もう少し色気のあるもんにして欲しいわ」

さて、不機嫌なお姫様は何処に行ったのかと探すしかないとレイヴンは頭を抱えた。あの状況を勘違いしたにしても、どうやって説明すればいいんだろう。元々、頭のいい子供だから、説明すれば理解してくれるだろうと思うも、そして、生来の無精者の部分。メンドクサイの一言。

──言い訳ぐらい見っとも無い物もないさ。まあ、その前に腹ごしらえしときますか。

融けた氷と茶色い液体が分離した生ぬるいアイスコーヒーを飲みながら、そう思うしかない。ジュディスがいたなら、さっさと行けと蹴り飛ばされていただろうが。

その後、小一時間ばかり、迷子の仔猫を探すかのように、校内をふらふらしているレイヴンの姿があった。



ぼんやりと空を眺めていると、頭痛は薬が効いたせいなのか、それとも、先程の光景の影響か分からないが、遥か遠くに消え去っていた。ただし、妙に意識が遠のくようなふわりとした感覚があった。真夏の太陽はじりじりと高く上り詰め、風が止んだせいで、急に湿度が上がり始めている。

重い鉄製の扉が開く音がした。

「あー……やっぱり、ここに居たの」

教師の癖に何故か長髪の結んだ髪、黒いシャツの上に羽織った白衣がだらしなく見え、襟足を掻く仕草の男が情けなそうに立っている。

「いたら、悪い?」
「立ち入り禁止だよ」
「先生ぶって」
「先生でしょ」

リタは、眩しげに目を細めてその近付いてくる陰を見つめた。淡々と素っ気ない言葉で繰り返される会話。怒っているのか、怒っていないのか。気紛れに近付いて来ては、急に鋭利な爪を出す猫のような視線を投げつけるリタにレイヴンは困惑気味。

「ずっとここに居たの?」

リタの横に並んでは、どう言ったら伝わるんだろ、と暫し考え込む。

「そうよ」
「あのさ、説明させ……」
「──ジュディスから聞いた」
「あ、そう」

なんだ、それなら早く言ってよと、フェンスを背に、へたりこむように座るレイヴンにリタは、ほんと、どうしようもないんだからと笑みを零した。そして、同じように膝を抱えて座った。
焼けつく太陽が眩しい。

「あんな場面見たら、誰でも誤解するわよ」
「やっぱり、怒ってんのね」
「怒ってないわよ」
「怒ってるって。さっきから、その言い方だって随分刺々しいじゃない」
「おっさん、キスして。唇にね」
「は?」

何を言い出すんだと驚いた顔。少しばかり焦っている。そんな様子がおかしくて、つい笑い出しそうになるが、ぐっと我慢。そして、本当の気持ち。

「あたしを不安にさせないおまじない」
「いや、あのね。リタっち落ち着いて。その、ここ学校だよ」

学校でリタの方から関係をねだるなんていうのは、無かった。せいぜい、レイヴンが面白半分に抱きついて来ては、額にキスをされるぐらい。ただ、それも学校という場所ではどうなのかと思うのだが。

──ほんと、ジュディスの言う通りだわ。こんなにそわそわしてる。

『男を本気にさせたいなら、ありのままでいいのよ。何言われても意地を張らずにいればいいだけなの、そうね。自分がして欲しい事、素直に言えばいいだけ』

『そんなの通用するのはジュディスだからじゃない』と食ってかかってみたものの、『物は試しよ。あなた、実験好きでしょう』と言い返されては口籠るしかなかった。しかも、何事も探究心に置いては学園内において随一。実験と言われて黙っているリタではない。

「誰も来ないわよ」
「それ、本気で言ってんの?」
「本気よ。嫌なの?」

何時にはないリタの大胆さに、レイヴンも幾分、年端もいかない少女に翻弄されているのが面白くないと感じたのか、じゃあ、そんなに言うのならね、と少しだけ、先程、リタが見たキリっとした表情を浮かべた。

──どうしたのよ。この娘。というか、えらい肌が白い割には熱っぽいけど。

顎を持ちあげて、唇が触れようとした瞬間、リタは目を閉じたのだが、そのまま意識は、ブラックアウト。急に電池が切れたように崩れ落ちてきた、リタを抱きかかえると、レイヴンはリタの名前を叫んでいた。



──おっさん、凄い剣幕であたしの名前呼んでたわよね。あれ?右腕が動かない。

薄らと目覚めた時、蛍光灯に照らされるモルタルの真っ白い天井が眼に入った。あれ?また保健室?それにしては、何だか違う。ここどこ?と思った時、聞き慣れた声だが、幾分、険しさを含んだ声が聞こえた。 ゆっくりと視線を声の方に傾ければ、ベッドの横でやはり声のように、剣呑とした様子のレイヴンが居た。

「気がついた?」
「あれ?おっさん……ここ、どこなの?」
「病院」
「え?あたし……」
「軽度の脱水症で倒れたの。リタっち、あんな場所にずっといるからよ。それに、朝から頭痛かったんでしょ?」
「……うん」

そう言われて浮かぶのは、おっさんと屋上にいて……と、気がついた。何度が目をぱちぱちとさせると、病院独特のエタノール臭が鼻についた。右腕がだるいと感じたのは、点滴を受けていた為。蒼白い蛍光灯の光が、リノりウムの床を柔らかく照らしている。

「ほんと、おっさん心配させないでよ」

崩れ落ちるような声に少しだけ罪悪感。実際、こうして付き添いしてくれてるところを見れば、相当心配を掛けたのだろうと思う。

「ごめんなさい」
「ほんと、リタっちには振り回されっ放しだわ。ただ、こんなのは勘弁してよ」

薄く微笑んでは、リタの額に掛かる髪を撫でていた。

「点滴終わったら、看護師さんが呼んでくれっていうから、呼ぶね」

空に近くなった点滴液を見ては、レイヴンがそう言った。結局、軽度だった為、一晩の入院は免れたが、一応、用心の為に安静を言い渡された。




「送って行くわ」と、レイヴンが言った為に、「おっさんちに行きたい」とは言い出せずにいた。さすがに、この状況でレイヴンの家に行きたいと言えば、迷惑だろうと思っていた。ただ、部屋は見られなくなかった。

「どおりで嫌がる筈だわ」

玄関先で必死の攻防を繰り返したのだが、そんな身体で何も出来ないでしょうと押し切られ入られた。そして、レイヴンが、呆れた声を出している。リタは「仕方ないでしょ。テスト中なんだから」と言い訳するも、そんな言い訳が通用する相手でもないだけに、唯一、座る事の出来る床に腰を下ろした。

所せましと積まれた本。あちこちに散乱した書きかけのメモらしきルーズリーフの切れ端。生ゴミがないだけマシとしても一人暮らしの男性、レイヴンの部屋よりも、一言で言えば汚い。

「まさか、寝室もこの状態じゃないよね」
「……」
「リタっち?」
「一応寝れるわよ」
「一応ってね……」

もういいから、ちょっとそこ座ってなさいと言われ大人しく座っているリタでもない。寝室に向かうレイヴンの足に縋りついた。転びそうになるレイヴンが、振り返り、リタの前で胡坐をかいて座り込んだ。

「女の子の部屋覗くなんて変態教師!」
「病人なんだから、大人しくしなさいってば」
「する訳ないでしょう。あたしの部屋入らないで、いい加減帰ってよ」

元気そうに言い返してくる所を見れば、回復はしているのだろうが、やはり、気掛かり。このまま、放置しておけば、どうせその辺で寝転んで朝を迎えるのは簡単に想像出来る。しかも、台所は意外にも綺麗。となれば、作ってないのは仕方ないとしても、食べてない。ロクな食生活を送ってないのも知っているだけに、一人にさせておくわけにもいかない。

「今更、見られて困るものなんてないでしょ?」
「そんな事言ったって……あたしだって一応女の子なんだから」

だったら、最低限の掃除ぐらいはしなさいと言いたいレイヴンだが、顔を逸らして頬を染めている当たり、一応、羞恥心はあるらしい。

「また嬢ちゃんに来て貰う訳にもいかないでしょ?」

宥めすかすように抱き寄せると、レイヴンより高い体温を感じた。熱が出始めているのかと思うが、そうでもないらしい。腕の中では、恥ずかしさを誤魔化すように、威嚇する仔猫が唸っている。

「恥ずかしがらなくてもいいんだからさあ。少しはおっさん頼んなさいよ」
「……頼っていいの?」
「当たり前でしょ。おっさんのせいで倒れたようなもんじゃないの」
「なーんだ。やっぱり、あんなことして罪悪感あるんだ」
「──悪いとは思ってない」

軽口のつもりで、リタは言ったのだが、どうやら、それでレイヴンの気持ちを阻害したらしい。切り捨てるような、冷ややかな低い声。こういう声音を発する時、大抵は、怒っているか機嫌を損ねている時。それを知っているだけに、リタは身を竦めるように硬くなる。怖いと思い知らされている為、一瞬だけ、その勢いが掻き消された。

「リタに、言い訳するのも無様だけど、信用されてない方が辛いさ」

すっかり口調まで変わっている所を見れば完全に気分を損ねている。

──何よ。今まで散々、あたしに見せつけてたくせに。急に、そんな事言わないでよ。

第三者視点、傍から見れば痴話ゲンカだろうが、一方的に責められるというのは、勝気な彼女がそれだけで我慢している筈もなく、売られた喧嘩は買ってやろうじゃないかというような声がした。

「あたし、そこまで分からず屋じゃなわよ!」
「じゃあ、なんでさっきあんな事言った?」
「あんな、ことって」
「不安だからキスしろって」

「え?どうなのよ?」と凄まれて、何とも言えない圧迫感。本気で怒ってる男の眼に、リタはしぶしぶ白状するしかない。

「ジュ……ジュディスに言われたのよ。男を、彼氏を……本気にさせたいのなら迫ってみろって……いつも、からかわれてばっりなのが癪だからって言ったから」

聞かされて脱力。

──さすが、ジュディスちゃん、男心分かってるわ。でもねえ。恋愛経験値がゼロに等しい、この娘にそれ言われても……。

腕の中では、リタが「おっさんがあんな紛らわしいことするのが悪いのよ」とか「おっさんの癖に、あたしには怒るの?」とぶつくさ文句を言い出している。
レイヴンは、はあ、とため息。
まあ、さっきはお預け食らったしねえ。ここなら大丈夫か。

「キスして欲しいの?」

指を添えてリタの顎を上に向かせると、澄んだ瞳が見つめ返している。

「……だって、いつもおでことかばっかりだし、するのってあたしから……だし」

小さく呟くのだが、掠れた様な熱っぽい声。
レイヴンも、女にそこまで言わせた男も情けないと思いつつ、ゆっくりと唇を重ねた。一度、離れては再度、柔らかく小さな赤い唇を舐めると、下唇を少しだけ噛んだ。腕の中、強張った華奢な肩が跳ねる。

──あーあー。やっぱり、緊張しちゃってるのね。可愛いけど、無理しなさんな。

リタは、唇に感じていた熱が離れた時、静かに目を開くと、そこには、男だと思わせる視線があった。熱っぽくって、何か欲しそうで求めている様な。

「これで、気い済んだ?」

だが、それに反するような何故か他人ごとの様な、投げやりな声に、ムッと怒りを抱いたのはリタだった。

「何よ。そのイヤイヤしてあげましたみたいな言い方!」
「して、って言うからしてあげたんでしょうが」
「あーそうね。やっぱり、ジュディスみたいなのが良いのよね。あたしなんて、どうせ子供だし。おっさんにとってキスの一つや二つ、どうってことないわよね。どうせ、挨拶代わりでしょう!」
「だから、何でそこで他の女の名前だすの」
「あんたが何時も名前出すからでしょう?あたしが、どれだけ、あの時、ショックだったか分かってない癖に」
「だから、説明しようとしただろ?それを無視して」

ここで、拗ねるかね。と、思うのだが、こちらも大人げなく言ってしまった手前引くに引けない。やめろ、挑発に乗るなと声がしているのだが、止まらない。

「説明ってジュディスの前で、言うの?『彼女だから説明させろ』って!」
「彼女なら知ってるよ。俺たちの関係」
「また、そうやって肩持つんだ」
「だから、知ってる相手なんだから、隠さなくてもいいじゃないの」
「嫌よ。生徒と付き合ってるのばれたら困るのそっちでしょう!」

オーバーヒートしてんのは、どっちなのよ。リタはそう思うのだが、お互いに譲れない性格を分かってるだけに、幾分、虚しさも募り出した。こんな事言いたいはずじゃないのに。

「……困りはしないよ。彼女は知ってるから、その辺は俺も考えているよ。ただ、こんな関係で隠してるのは、ほんとに、悪いって思ってるからなんだよ。それに、知らない奴には、色々、言われたくないんだわ。リタっちにそれで嫌な思いさせたくないから」

静かな男の声が、リタの耳朶を打つ。項垂れるように、リタの肩に顔を埋めるたレイヴンからは、その表情は読み取れない。

「嫌な思いなんてしてないわよ……」
「そお?嬢ちゃんや青年が居る訳でも、無いんだよ」
「……おっさんがいるじゃない」
「今は……おっさんは先生、リタっちは生徒だから、限界あるよ。それこそ、嬢ちゃん達みたいにリタっちのこと気に掛けてやれない部分だってあるんだから」

そこまで言われて、リタは、レイヴンが日頃の様子を見ていた事を知らされる。確かに、レイヴンが言う通りだった。以前なら、お昼休みとなれば、リタはエステルと一緒にいた。三年になり、クラスメイトの仲で、そんな人も少ながらずはいるも、やはり、エステル以上とは言えない関係。

「嬢ちゃんが卒業してから、昼休みとか、つまんなさそうにしてるでしょ?おっさん、心配なんだから」

リタの顔を覗き込む眼が優しい。両頬を包み込まれ、逃げる事が出来ない。幾つしむような眼がリタを見つめている。

──泣きそうな顔してないわよね。あたし。

そんな想いは、喉の辺りでゴロゴロとしている。ここで泣けば更に不安を与えてしまうから。

「ジュディスちゃんのお節介がなければ、こんな関係にならなかったし、彼女は彼女なりに心配してくれてるんだよ」

それぐらいは、分かってね、と言われているようで、心が痛い。信用しているとジュディスに言ったものの、やはり、頭では理解していても、感情はそれを許してくれない。たとえ、それが誤解だったとしても、あの光景は、リタに衝撃的であり、大人の男と女という生き物を見せつけられたような気もしていた。だが、レイヴンが言うように、リタとて、ジュディスのお節介がなければ、こんな風にならなかったと思う。それぐらい、お互いに気持を隠して、すれ違ってきたのだから。今、以前のような、教師と生徒だけの関係が良かったのかと問われたら、それは、違うと言うだろう。

「おっさんは、こんな関係なりたくなかった?」
「はっ?え?」
「こんな面倒で隠さなきゃいけないような関係になりたかったの?」

何を言い出すんだ突然と、驚いた顔がリタを見つめている。

「ううん。ごめん。あたし、変な……」

こと言いかけたわよね、と言いたかったが、強く抱きしめられて、唇を塞がれた。

「面倒でもないし……こういうこと、したいからなりたかった」

動揺とも狼狽などとは違う上に、男っぽくもなく、むしろ、情けないような顔は、本気でそう思っていることを伝えている。少しだけ照れたような眼差しがリタを見つめていた。



それから約半月後の終業式。明日からは待ちに待った夏休み。多少、通知表が悪かろうが、それで親から小言を言われようが無関係。騒ぎだつ季節には、関係もない。七月の太陽はそれだけでも眩しく、平年通りの梅雨明け宣言と共にやってくるのは、解放感。ただし、受験生といわれる人種には、そんな自由すらない。

「というわけで、特に気を入れるように。お前ら、後がないんだぞ」

ホームルームの最後、脅しとばかりに担任からの説教で最後の時間が終わる。生徒の過半数が内部進学をするとはいえ、やはり、さすがに気の重さは拭えない。そんな中、あたしには関係ないわと外をぼんやり見つめる生徒が一人。

「モルディオ、お前は後で職員室に来るように」

一瞬、名を呼ばれていた生徒が、自分の名を呼ばれていると気がつくまで時間が掛かった。あたし、職員室呼ばれるような事してないわよ、と思うのだが、まさかという冷や汗が流れる。リタは、この学園で転入以来、常に模擬試験ですらも連続一位の記録更新保持者にして、天才といわれる少女。もし、学業以外のことで呼ばれるとなれば、ある教師との関係が脳裏を過った。


重い足取りの中、職員室まで来ると、そっと周囲を見回した。

──よかった、おっさんも居ないし、アレじゃないのね。

美人の保健校医は居たのだが、彼女は別の教師と何やら話し込んでいるようだった。ちらりとそちらを見たのだが、リタには気が付いていないようにも思える。

「何か、用ですか?あたし、先生に呼ばれるような事していないけど」
「お前、本当に内部進学でいいのか?」

担任は進路希望書を片手にリタを見ている。生真面目そうな中年男性の担任が言うのも一理あるも、リタは何で今更と思った。

「別に他のとこ行きたくないし。家からだって近いからいいんです」
「お前なあ。そういう理由で一生の事決めるなよ」
「良いんです。あたしが決める事なんだから、先生に迷惑はかけません」
「なら、いいんだけどな。ただ、今の実力からいえば我が高にとっても他の大学受けるだけでも、受けてみないか?」
「そんなのめんどくさいから嫌です」

「失礼します」と職員室を出たリタが向かう先は、部活動のある科学教室。

だって、エステル達もいるんだもん。今から、他のとこに志望替えたってといくつかの理由を思い浮かべるも、一番の理由は認めたくない。

──おっさんの傍に居たいから。


「あら、真面目だねえ」と、声を掛けてきたのは物理学教師にしてこの教室の責任者レイヴンだった。

「おっさんが不真面目過ぎるのよ。また、どこかで油売ってたんでしょう」
「そんな事ありませんよ。それでなくても、夜、採点やら何やらで、ここんとこ忙しいの知ってるじゃない」
「知らないわよ。気が付いたら転寝してんだから」
「あらーどうして、先生が採点していた時に転寝してるの知ってるのかなあ。しかも夜って先生の家でのことだけど」

意味深な言様に、リタは顔が赤らむのが分かった。しかも、まんまとそれに引っ掛かっている。ただ、そんな事は無いと言い聞かせる。この所、レイヴンがいうように期末テスト作成から始まり、採点業務、それが終われば期末の各評価業務。リタがレイヴンの部屋で、彼が転寝をしている姿も何度か見かけた。それを知りながら、平然と顔色一つ変えない男が憎らしい。
また、あたしのことからかってる。

「おっさん、ちょっといい?」

リタは、周囲に人影が居ないことを確認。レイヴンの真正面に立つと、ほわほわと何をしてくれるのかなと期待しているかのような顔を見上げた。
ほんと憎らしいわ。この顔。

「イテッ。イタタタタっ。」

可哀想な中年一歩手前の男の声が響く。思いっきりつねあげられて、腫れあがった頬を押さえつけながら、涙を浮かべているレイヴンにリタは、人をからかうからでしょうと冷たい視線を投げつけるだけ。

「リタっち、酷いっ。おっさん、大切にしてよ」
「知るか。あんたが悪いんだから!」

ざまあみろと思うも、付き合い始めて、約二か月。男女の付き合い形なんて千差万別とはいえ、こんなのが付き合いっていえるのかな?とリタは不満にも思うのだが、これはこれで、好きなやり取りだけに、どうしたものかと考えてしまう時もある。

「あ、今日ね。遅くなるから。寄り道しないで早く帰んなさいよ」

鍵持っているんだから、待ってるでしょうと言葉じりに漂わせては、リタっちのことなんて何でもお見通しだからね、と余裕めいた視線がリタを更に怒らせた。



学校ではない空間に二人でいると落ち着くのは、やはり、教師と生徒という関係が薄れるからだろうかとリタは思う。
見慣れた室内は、レイヴンの住む部屋。白壁の古い部屋だが、あのおっさんからは想像出来ないが、それなりにセンスが良いと思わせる家具。

──その割には、職員室の机の上だとか、準備室の机なんて無造作に本の山作ってるのに。

リビングのホースレザーを使用したオールドレザーソファに座ると、ますますもってあの教師が胡散臭く思える時だった。そんな時、テーブルの脇に置いた携帯が着信を告げていた。慌てて携帯を見ると、そこにはメールの着信が一件ある事を知らされる。

『今、青年らと飲んでるから。もし、家に居るなら遅くなるからね。戸締りちゃんとしときなさいよ』

その文面に、リタは、「おっさんだけずるい」と叫んでいた。

──何よ。あたしだけのけ者にして。遅くなるってこのこと?ずるい。ずるいったら。もう帰って来ても部屋に入れてあげないんだから。

そう思い返信をすぐさま打とうと思うのだが、仕方ないわよね、という気持ちがそれを留めた。

そして、こればっかりはどうしようもない。リタは高校生。飲んでいるというからには、そういう場所だろう。そんな所にリタが出入り出来る筈もない。学園内でそんな場所に行き来している子らが居ることも知ってはいるが、教師がまさか生徒を連れて酒を提供する店にも行けないのは重々至極のこと。誰かに見つかれば、噂よりもレイヴン自身の立場が悪くなる。ただ、大人と子供の境界線をハッキリと見せつけられたようで憤るのも仕方ない。

リタは、返信をしようと、思ったが、もう、いいや、と携帯を投げ出した。


ガヤガヤと賑わっているのは、駅前近くのビアガーデン。夏場にもなれば、珍しくもない光景だが、そこにレイヴンはいた。

昼間、リタがどこで油を売っているんだと言われる前、レイヴンはたまたま高等部の職員室に顔を出していたユーリ達と久しぶりに顔を合わせていた。何でも、夏休み中に同窓会を開くから、当時の教師達に連絡網を教えてくれと来ていたらしい。ただ、ユーリがそんな面倒なことを言い出す筈もなく、発起人であるのは当時の生徒会会長のフレン。幼馴染でしかも、大学でも、ほぼつるんでいるユーリはその巻き添えを喰らっていたらしい。

「おっさん、さっき、何メールしてたんだ?」

ちょっと、野暮用と席を外した時、見られていたらしい。

「いやー何でもないわ」
「まさか、彼女かよ。今夜遅くなるとでも打ってたんじゃねーの」
「あら?もし、そうだったらどうする?」

少しだけ酒が回っているのか。それとも、この教師のいつもの冗談なのか、分かりずらい口調と眼差しにユーリはからかうつもりでいたのだが、からかった方が言葉に詰まった。というのも、ユーリの一歳年下の彼女であるエステル経由でそれとなくは聞かされたのが、ユーリがエステルと週末、過ごす為のアリバイ工作を更に二つ歳下のリタに頼んでいるという事を知っていたからだった。その時、たまたまだったが、リタが誰かの部屋に居ると言う事を知った。そして、その部屋がレイヴンだと言う事を知った辺りから、何かしら、このレイヴンとリタの関係が、教師と生徒というだけではないと思っていた。

ほう、おっさん、そう来るかとユーリなりに知恵を働かせた。

「あんたの彼女も大変だな」
「そうねえ。俺様、モテルから」
「もの好きだっていってんだけど」
「何か言った?」
「いや、なんでもねーよ」
「ユーリ、少しは年上を敬うって言う気持ちないのか?」

ユーリを咎めたのは、元生徒会長のフレンだった。

「おっさん、なんだからいいんだよ。それに、卒業してニ年も経ってんだから、お前こそ、敬語使うような相手でもねえだろ」
「何を言うんだ。レイヴン先生は、こう見えても前回の大学論文の共同研究者として名前まで載ってるんだぞ」
「単なる名義貸しだろ」
「何だと、君はそうやっていつも」

フレンちゃん、こう見えては余計よ。それにしても、この二人は、俺様のことをどう見ているんだとレイヴンは思うしかない。片方といえば、まるで友達、いやそれ以下のような言葉使いの時がある。もう片方は、恩師ということで敬意を払ってくれているのだが、時折、暴走気味に崇拝するかのような言動もある。まあ、まあとレイヴンは二人を納めたながらも、もう一人居ない事に気がついた。

「あれ、珍しいね。嬢ちゃんいないの」
「エステルも来るよ」とユーリはふてくされ気味。

「大変ねえ。箱入り娘と付き合うのって」
「誰が、付き合ってんだよ」
「おっさんに言わせる気?」
「そのニヤニヤした笑いやめろ」

あら、薄ら笑いしてた?ごめんね。あんたらがお泊まりアリバイ工作をリタっちに頼んでるの知ってるからねえ、とは言えない。なんだろう、この腹の探り合いのような一物含んだ言い合い。

「レイヴン先生、お久しぶりです」

がやがやとざわめく中、卒業式以来だったか、大学生っぽい私服に薄く化粧をしている様子に、少しだけ見慣れぬように感じたエステルがいた。そして、何故か、その後ろにもう一人女性がいた。

「あら、ジュディスちゃん……」

こちらはよく知ったどころか、先程まで一緒に居たと言えば語弊があるが、同じ職場の仲間。保健校医のジュディスだった。

「エステルと会ったから誘われたのよ。おじさまが来るのは知らなかったけど……」

うふふと笑みを湛えているのだが、その言葉尻の消えた先に、仔猫はどうしたのかしら?と言われているようで、若干、背筋が凍った。

「それじゃあ、もう一回乾杯しようか。先生達も来た事だし」と、フレンが音頭を取った所で腹の探り合い開始となった。



「やっぱり、リタも誘ってあげたら良かったです」

エステルが珍しく怒気を含んだ声で叫んだのは、その場にいた全員に酔いが回ってきた頃だろうか。嬢ちゃん、その名前は出さないでとレイヴンが嫌な顔をした。こちらも、気心が知れた連中の為か、些か、警戒心というのか枷が外れている。

「仕方ないですよ。リタはまだ高校生なんだし、受験もあるから、下手に見つかれば騒ぎになりますよね、レイヴン先生」

フレンちゃん、ほんといい子ね。ただ、何で俺様にその話振るの。この天然、空気読めないからねえ、と思いながらもレイヴンはうん、うんと頷く。レイヴンもその点を考えて、誘わなかったのだが、リタの気持ちを考えると、悪いことをしているという後ろめたさを感じていない訳でもなかった。

「でも、先生が二人もいるから大丈夫です!」
「いやー嬢ちゃん、そう言っても、今度は俺らがねえ、見つかったらでいろいろ問題多いのよ」
「リタ、可哀想です!」

頬を染めて、ドンとテーブルを叩くエステルに、何だか、様子おかしくない?とエステル以外が顔を見合わせた。

「まさか、な」とユーリがエステルのグラスを勝手に一口付けると、ああ、やっちまったな、と項垂れた。
「これモスコミュールだろ。誰が頼んだんだよ」
「私です。ジンジャーエールって店員さんにいいました」
「酒だよ。エステルが注文間違えたんだろ。いいから、横になってろ」
「ユーリ、優しいです」と言いながら、ユーリの肩に凭れ掛けたエステルは、すやすやと寝息を立て始めている。

あーあとその場に居た者が思うのだが、仕方ないわと肩を落とす。ただ、その安心しきった寝顔に、レイヴンとジュディスは笑みが零れる。

「全く焼けるねえ」
「ほんと、可愛いわよね」

と、オトナ組二人が言えば、ユーリは仕方ねえだろという顔をして飲んでいるだけだったが、自分がからかわれているのが面白くないと思ったのだろう。

「リタといえば、うちの大学の方に進学するってエステルが言ってたけど、ほんとなのか?」

だから、青年、リタっちの話題は辞めてよ。ジュディスちゃんが何言いだすか分からないんだから、と顔には出せない。

「そうみたいね。今日も担任から、他の大学受験しないのかって聞かれてみたいよ」
「へえ、初耳だわ」
「あら、おじさま聞いてないの?」
「どうして、俺が?」

「そんな事も知らないの?大切にするって言ったんじゃない?」というようなジュディスがレイヴンを見ている。猫、といってもこちらは大型肉食獣に分類される猫だろう。止めを刺さないで獲物を甚振るような視線に、ほんと、綺麗な顔してドSっぷり発揮するのねとしか言いようがない。

「レイヴン先生は顧問だから、その辺は知らないですよね?」

助け舟を出したのはフレン。フレンちゃん、あんた本当にいい子ねとレイブンは涙を流している。

「まあね。最終は本人が決める事だから、俺はアドバイスしただけ」
「ふーん、おっさん、それでいいのか?」

「まあ、それよりさあ」と、レイヴンが、この話題を逸らそうとした時、ユーリから投げかられた。

「それでって、何を」
「いや、いいや。何でもないから気にするな」

歳下の青年から言われて、突っ込むのも命取りになるのは分かっているが、嬢ちゃん経由でこれは知っているなとレイヴンは苦笑いを浮かべた。なんだろうね。この腹の探り合いみたいなの。

「リタっちが、選んだのなら、それでいいと思うよ。俺は見守るのが役目みたいなもんだから」

本音を言えば、そこに居た面々が納得した顔を見せた。
ねえ、皆、俺様に何か隠してない?

それから、別の話題に代わり、相変わらず寝込んでいるエステルを残りの二人組も送るからと別れたのは、約二時間後。
時計を見れば、終電一歩手前の時刻だった。

タクシーに乗り込む四人を見送ると、なんだか真綿で首を絞められたような席だったとレイヴンは苦笑いしか浮かんでこなかった。さて、帰ろうかと思った時、リタからの返信が終ぞ無かった事を思い出した。これは、相当怒っているなあと、思えば、帰り道の足取りが重くなる。



「おかえり。随分お楽しみだったみたいね。今、何時だと思ってんのよ」

リビングのソファからは、まるで午前様の旦那を迎える嫁のような、低いうなり声のような声が出迎えてくれた。 やっぱり怒ってる。本で顔を隠したリタの表情は分からない。ただ、その声色から、怒っているとしか判断できな い。

「えーと、1時半です……」
「遅くなるだけじゃわかんないんだから。せめて、帰るっていう時ぐらいはメールしてよね。何かあったんじゃないかって心配するじゃない」
「ごめん。その、すいません……その、リタっち寝ていたら悪いかなあって思ってさ……ごめん、機嫌直して」
「もう言い訳しなくてもいいわよ」
「そういう訳じゃないけど」

レイヴンは、つい月初の出来事が蘇る。誤解され、説明をしなかったせいで、仔猫の機嫌を損ねては、熱中症一歩 手前まで追い込んでいた。

「エステルからごめんなさいってメール着たの。あたしも誘う予定だったけど、ユーリが高校生だから、何かあっ
た時問題になるだろって」

本をパタンと閉じて、レイヴンを見つめるリタは、怒っているふうでもなく、どこか笑っている。仕方ないわとい うような諦めだったのだろうか。

──ああ、嬢ちゃんだから、あんなに怒ってたのね。半分、酔っ払ってたけど。 しかし、この会話、すっかり、夫婦だよねえ。

「おっさん。あたしに気を使わないでよ」

そして投げかけられたのは意外な言葉。

「どうせ、おっさんのことだから、最初から言えばあたしが行けない場所だから拗ねると思ったんでしょう。でも、隠してたらエステル経由でばれて怒らす方がめんどくさいことになるから、さっきのメールで白状してたんでしょう」
「うん、まあ、そういうとこ、かな」

そんな事だろうと思ったわよとリタは笑っていた。

「仕方ないの分かってる。あたしがまだ高校生だから皆が気遣うのも」

大人びた口調でいう彼女は、あっさりしたものだった。

「それに、この間の事もあるから、あたしにきちんと言ってくれたらいいの。そういうとこだけは、おっさんのこ と、信用してるから」
「そういうとこだけって、ね」
「ほんとのことだもん。それに、あたしだっておっさんの行動範囲までとやかく言いたくないわよ。その辺、大人 の付き合いだってあるんだから。あたしはまだ子供だから仕方ないもの」

ただ、遅くなる時だけは連絡して、と言いながら笑顔を浮かべるリタの余裕とでもいうのか、そんなものを見せつ けられては、それはいいことなのか?と考え込むレイヴンだが、少しだけ大人びたようなリタに、ま、それでも いいかと納得するしかないだろう。

「まあ、少しでも信用されるよう善処しますわ」

ほんと、大人か子供か、彼女の境界線が分からない。


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