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feel the love side rita


──ああ、もう、ほんとむかつく。
そこらにある物を投げつけたい衝動。そんなことをしたって、この鬱蒼とした気分が晴れないのは重々承知の上。

「……ったく、ほんとバカっぽい」

再び、バカと呟くのは、一体誰に向けてなのかと、自問自答する少女──リタの姿があった。

正門から並ぶ桜並木は、桜の季節もとっく過ぎ去り、新緑の木々が葉を茂らせる頃、碧く澄んだ空はどこまでも高く迷いのないようにも見れた。いつものように部活動の教室に来て見れば、担当教師はどこに行ったのか所在不明。それも慣れているからと、勝手に実験道具を弄りだしていたまでは、良かったのだが、鬱々とした気持ちはリタの手を止める。
あたしらしくない、何度もそう思っては、窓を開けると、リタの頬を五月の風が撫でては通り過ぎて行った。

──だいたい、あたしが、こんな気分にならなきゃいけないのよ。

そう悩まされ始めた切っ掛け、それは、三月の半ばの卒業式。親友もその日を迎え、それぞれの旅立ちに涙や笑いがする中、部活動の顧問である教師──レイヴンを探して校内をうろついてた時だった。人影の少ない、校舎裏。数名の卒業生、女子生徒らが教師を囲んでいる。何やら話し込んでいるようにも思えたが、その様子は教師が背を向けている為に分からずじまいだった。校舎の陰に隠れることも出来ず、ただの別れの挨拶でしょう、と納得させるのだが、少しモヤモヤとした感情が渦巻く。なんだろ、この気持ち。

「もう、話は終わったの?」

女生徒達を見送るように手を振っている背後、教師が振り返れば、その腕には、何やら花束だのきれいにラッピングされたプレゼントらしき物を抱えてる。教師が着る白衣のポケットに、何やら手紙めいた水色の封筒も見逃さなかったのだが。

「ああ、リタっち、そこ居たの」
「なによ。それ」

リタとしては、プレゼントの類ではなく、そのポケットから見え隠れしている封筒について問うつもりだったのだが。

「ほら〜俺様って面倒見がいいでしょ。慕われているしねえ。『先生と離れたくないんです。大学生になるから付き合って下さい』『お嫁さんにして』なんて告白されちゃったよ」
「本気にしてないでしょうね」
「さあ、どうだろね。お嫁さんはともかく、大学生なら問題ないし」
「何よ、それ。バカっぽい」

手紙のことははぐらかされた上に、お嫁さんだの恋人だの、あの男の口から他の女をにおわせる発言は、何か面白くない。そう感じたのは、気のせい。そう、絶対に気のせい。誰のものでもないのに、誰かのものになるなんて許せない。

アレ?何考えてんの、あたし。

そんな曖昧な気持ちを抱えたまま新学期を迎え、相談出来る相手も居ない。連絡すれば、親友はすぐにで駈けつけてくれるだろうが、今は新しい生活で精一杯なんだろう。時折かわすメールにもそんな様子が手に取るようにして分かる。それ以前に、親友にですら打ち明ける事の出来ない恥ずかしいという気持ち。

その教師とのなんら進展のない関係も三年目を迎えようとしていた。

所謂、教師と生徒なのだから、進展も何も論外なのだが、そうではないような不文律とでもいうのか、何かお互いに腹に一物抱えているような気もしていた。そしてどこか浮き立つ気持ちもあるのに、これが何であるか、認めようとしない自分にも、そして、認めてしまうことの怖さにも苛立ちしか浮かばない。

「ああ、もうバカっぽい!」
「わあ。びっくりした」

びくっとして、振り返ると今一番会いたくなくて、会いたい顔がそこにはあった。「俺、まだ何にも言ってないんだけど」とややおどおどとした様子が更に苛立ちを覚えさせる。人の気も知らないで。

「なっ、何よ。いきなり後ろに立たないでよ」
「さっきから、声掛けてたよ。それが、いきなり叫ぶんだもん。びっくりしたのはこっちの方なんだけどなあ」

ぶつぶつと呟きながら、その世界にどっぷりと浸ることは度々だったが、それはいつも愛してやまない数式やら最新の科学事情を探り求めている時でしかない。多分、この目の前にいる、胡散臭い、それでいて、どこか飄々とした男であり、現在、悩みの種でもあるレイヴンが居た。

「どうしたの?顔赤いけど、熱でもあるの?」

急に声のトーンが変わったかと思えば、心配げな顔が覗き込んでいる。これは、本気で心配してくれてる顔。そんなこともこの三年間で何となく分かる。

「熱は、ないみたいだけど」

額に触れた指は、ごつごつとして決して柔らかな感触とは言いがたい筈なのに、繊細に気遣うような、包み込まれる安堵感。レイヴン本人からしてみれば、多分、何にも考えていない行動の筈なのに、どうして、優しいのだろう。

「熱なんて無いわよ。ちょっと、寝苦しくて寝てなかっただけ」
「あら〜、何?春だから眠れないの?それなら、添い寝して……」
「うるさい!」

その言葉を告げる前に、分厚い本がレイブンに投げつけられていた。

痛いなあと涙目で頭を掻く仕草。心配なだけなんだからと、仔犬みたいな目。
そんな、顔見せないでよ。
顔が赤くなるのが自分でもわかる。

「でも、ほんと顔、赤いよ。風邪、引き始めてんじゃない?なんか、ぼーっとしてるし」
「もう、なんでもないから、ほっといてよ」

勢いよく開けられる扉の音だけが響く。

大体、誰のせいなのよと恨むも、相手はそんな感情すら知らない存在。散々、おっさんの癖にだの、変態だのと悪態をつきながら勢いよく飛び出してみたものの、カバンやら制服の上着やらを準備室に置きっぱなしだと気が付いたのは、それから数分後。このまま帰ろうと思ったが、自宅の鍵、定期やら財布を残しては帰れない。なんだか悔しさが残るのだが、ため息を吐いてしぶしぶ部室に戻ったのは、一時間程してからのことだった。

「もう帰るから、駅まで送るよ」

何で居るのよ、と思うのだが、一応、生徒の私物がある以上、責任義務から帰らなかったのか、それとも、と期待してしまう気持ちが、複雑に入り混じる。

「ふん、別に待ってたわけじゃないんでしょ」
「あれ、待っていて欲しかった?」
「別に、勝手に帰ればいいのに」
「そういう訳にはいかないでしょ。幾ら学校だっていたって、リタっちのカバン置きっぱなしで帰れないよ。それに、待ってたら帰ってくると思ったから」

リタっちの、と個人特定されるのは、どういうことなんだろ。他の生徒なら、職員室にでも預けて帰ればいいの?と期待するも、つい出てくる言葉。

「バカっぽい」

一体、今日はこの口癖を何度言ったのやら。可愛げのないものだが、今更、どうしようもない、三年間の時の流れ。変わりたいけれど、変われない。壊したいけれど、壊せない。




校庭から駅に続く道は、誰にもすれ違うことなく、二人きりの時間だった。

「リタっち、髪伸びたよねえ」

会話が一頻り沈黙を運んできた時、ふと、そんな言葉がレイヴンの口から出ている。昔は、ショートまでとはいかないが、緩いボブだったのを伸ばし始めたのは、何故なんだろうと自分でも思うも、そのきっかけを与えたのは、この男の一言ではなかったのかと思う。

「あんたと違ってそんなに早く伸びないわよ」
「何それ、スケベだから早く伸びるっていうの?」
「何なのよ。それ」
「よくいうじゃない?で、何で伸ばしてるの?」

この男は、と少し機嫌が悪くなるのが自分でも分かる。と同時に、少しだけ胸が痛い。

──あんたが、女は髪が長いのが色っぽいみたいなこと散々言うからじゃない。

自分らしくない、そう強がりに似た気持ちで奮い立たせる、筈だった。

「リタっち?」

急に歩みを止めたリタに訝しげな様子を浮かべて、男も歩みを止めていた。

「やっぱり、髪長いの……似合わない、のかな?」

何時もなら、そんな弱気な言葉なんて言わない筈なのに、何故か、つい心の中で思っていたことが、ほろりと零れ落ちた。本当に独り言のように呟く。しかし、その言葉すら聞き逃さないのは、何なんだろうと思う。

「ううん、可愛い。似合うから、うん」

きっぱりと断言して見せては、まるで幼子をあやすような言い方に、多少、むっとするも、可愛いという言葉に嬉しさがくすぐったい。

「おっさんに誉められても嬉しくないの。もうここでいいから、ついて来ないで」
「ついてこないでって、まあ、駅そこだし、いいか。そんじゃあ、気いつけて帰ってね」

手を振るレイヴンを一人残して、駆け足で去っていく。

「ただいま」と、誰も居ないのに口が出るのは不思議な感覚だったが、一人で過ごす時間の長さはもう慣れっこになっている。薄暗い部屋の電灯を付け、無造作にカバンを放り投げると、ベッドにごろんと横になっては天井を見上げた。

「バカっぽい……のは、誰よ、ほんと」

呟いたのは、誰に向けたものだったのか。自分の素直になれない気持ちなのか、そして、それを見透かしているのか、分からないが、何かと許しては甘やかす男に対してなのか。いくら考えても答えが出ない。数式なら、あてはめるだけで答えがあるのに、と思うも、何時しか、目蓋が重く感じられていた。

もういいや。明日考えよう。

そう呟くと、何時の間にか深く眠りに誘われていたようだった。




放課後を告げるベルが鳴り響くと、更にざわめきがクラス内に広がる。それぞれに解放感を顔に浮かべ、帰宅に付く者、部活動に行く者たちとそれぞれが動き出している中、リタも早々に部活動のある準備室に向かう為、教室を出ようとした時だった。

担任の教師から呼び止められた。

まだ未提出なのは、お前だけだから、早くしろという催促。何のことだったけ?と小首をかしげると、担任からは、幾らか呆れた様な声でその内容を告げられた。──進路調査。学年の半数以上が学園併設の大学部に進学する中、外部を受験するにしても、そのどちらでもないまま白紙なのは、クラスで彼女だけだったらしい。

そういえば、随分前にそんな用紙を貰ったような気もするんだけどと思ったが、学力においては、常に学年一位をキープしている彼女にはそれほど強く言う者もいない。「はーい」と生返事を返しならがら、どうしようと思い始めたのと同時に、後、もう少ししか時間がないと言うことを知らされる。立ち止まっては、窓の外に見える光景を見つめた。

来年、この場所にあたしは居ない。この風景も、こうした生活も、もう二度と帰って来ないんだ。

──ほんと、あたし、どうしたいんだろ?

去来する寂しさに切なさが静かな波となって押し寄せようとしていた。立ち尽くしては永遠に続くと思っていた関係とその時間が無限ではないことを現実として認め、再び、問うもその答えはどこにも見つからない。


何だか今日だけは、重くもなりそうな足取りで部活動の教室に向かうと教師はいた。
何故か、今日は、教師も様子がおかしいと思うのだが、おかしいのはいつもよね。
大げさにため息をついていたかと思えば、リタの気配にも気がつかぬようで変な動揺を見せる。
何、企んでるんだろ。

「おっさん、最近、変よ?なんか拾い食いでもしたの?」
「あ、いや。なんでもないわ」
「ふーん。それなら、いいけど……」

春の陽気にやや眠たげな顔付きの様態をした教師。
やっぱり、いつものおっさんだ。
その何の悩みなんて無いだろうというような相変わらずな顔を見ると、悩んでいる自分が腹立たしく感じるのは、多分、彼にとってみれば、とんでもないとばっちりなんだろうが、今更、この関係を壊す勇気はまだ余り持ち合わせていない。

でもね、と、どこかで別の自分の声もする。

「そういや、リタっち。どーすんの。担任、泣いてたわよ。いい加減決めないと、困るのよ。こっちも」
「何が?」
「進路」

今はあまり考えたくない声が響く。何だか今日は星の巡りが悪いらしい。嫌なことは、向こうからスキップしながら、やって来てくれる。素知らぬ顔をして、実験に逃げようとするのだが、ひょっとしたらというほんの悪戯心にも似た好奇心が浮かび上がってきた。

「おっさんは、どうしたらいいと思う?」
「どうって……」

珍しく言い淀む教師を前に、ハッキリ言って欲しいとリタは思う。

「おっさんに関係あるでしょう?」
「まあ、関係なくは無いけど……」

どうしたもんかね、と顎に手をやり考え込むような教師の次の言葉を待っていた。

「モルディオさん、先生が呼んでるから職員室来て頂戴って。それじゃあ、伝えたからね」

扉を開ける音がしたと思うと、リタのクラスメイトがリタを探していたらしい。要件だけを伝えら、クラスメイトは去った。その瞬間、何故か、ほっとしたような教師に微かな苛立ちをリタは覚えた。

「ほら、早く行きなさいよ」
「おっさん、あたしが帰ってくるまで待ってなさいよ……個別に、部屋で話したい。学校じゃ話せない」
「何言って……」
「分かったのなら、待っててよ」

咄嗟とはいえ、何か随分大胆な事を言ったような気がする。リタは顔を見られる前に部活動の教室から足早に去って行った。



春雨に濡れた公園は薄暗く、周囲にも人影もなく、時折、遠くで聞こえるサイレンやら車の行き来する音だけが聞こえていた。二つ、三つの遊具と、子供用の砂場がある小さな公園。そこに一人佇む少女──リタの陰が青白い街灯の下で長く映し出されている。

ポツンと転がったボールが今の自分のようで何か悲しく見えた。子供用、小さな子供が持つ玩具のようなボールだった。多分、誰かが忘れていったのだろう。持ち主からぞんざいに扱われかのように、そして、その存在すら忘れ去られたボールに今の自分が重なっていた。

先程までの、光景がぐるぐると頭の中を駆け巡る。



──ふうん。おっさんの部屋ってこんな感じなんだ。

ぐるりと見渡しては、案外綺麗にしてるんだなというのが素直な感想。

職員室から戻って来てみれば、教師は待っていてくれた。「帰りなさいよ」「イヤよ」と会話を何度か繰り返して無理やりに着いてきた。どこかで、この男なら無碍にはしないだろうという期待もあった。

男の一人暮らしなんてこんなものなんだなと少しだけ安堵していた。特定の女性がいるとは聞いてなかった。それは、生活をする場からも読み取れ、どこかで安心しているリタがいた。そして、住所は随分前から知っていた。興味がある訳ではないが、何故か知っていた。今にして思えば、何故、知ろうとしたのか。そして、その家近くを用もなく何度も来ていたなんて口が裂けても言えないままだった。

『俺を首にしたいのかねえ』
『別に首になるような事しなきゃいいんじゃない?」
『それって、なんだろね』
『殴られたい?』

『はい』と渡されたコーヒーは甘い程に砂糖が入っている。それは、リタの好みを知っているから。

──どうして、あんな馬鹿なこと言ったの?

リタから切り出したのも、きっと、このままでは教師はのらりくらりと言葉を濁すだけだろうと思っていたからだった。

『うん。本音言えば迷ってるとこある。じゃあ、別の大学行きたいかって言われると、そうじゃないし……』
『俺はさ、リタっちの好きにしたら良いと思うけど。今の成績なら、大半のとこ大丈夫でしょ』
『……好きにしたらって、なによ。その厄介者がいなくなってせいせいするみたいな言い方。ずるいわよ』

どうして、こんな子供っぽい言い方しか出来ないんだろう。こんな事言うつもりじゃないのに、と、段々と冴えてくる頭の隅にいるもう一人のリタが責める。

『それに、ずるいってねえ。いきなり押し掛けてきたと思ったらさあ……』
『……あたしの事、心配、してくれないんだ』
『あー何。リタっちては、おっさんに心配して欲しいの?』

反対して貰いたかった。このまま、近くにいて欲しいって言って貰いたかった。

『何よ、少しぐらい相談乗ってくれても良いじゃない』
『相談って言われても、さ。せいぜい、おっさんは、どこの大学が良いとか言うぐらいしか出来ないよ』
『……あんただけは、おっさんだけは違うと思ってたのに!』
『違うって、何を……?』

自惚れだったと気がつかされた。そう思えば、どこかで何かが崩れ落ちるような音がしては、何か冴えたような意識があった筈なのに、リタが発した声色は、リタ自身驚く程に感情を露わにし、動揺する男のその声色は、常には違っていたかのようにも思えた。

そう思わせていたのは、周囲の大人達の彼女を見る目だったのか、それとも、その弁の立つ性格から、やや厄介な生徒として周囲が評価していたせいなのだろうか。ただ、余り良い感情では思われていないという事実を昔から肌で感じていた。時には遠慮なく興味本位で近付いて来る人間はいても、レイヴンは、どこか違っていた。つかず離れず、時に、見守るように見ていると感じることも多かった。それが、差し出がましくなく、安堵出来るものだと分かった時、この場所を離れたくないと感じるようになっていた。それなのに、自分から壊そうとした。

『リタっち、違うって、何を……?』

気が付けば、リタの傍らに座ったレイヴンの指が髪に触れて、髪を撫でられた。一瞬だけ、男と密室に二人っきりという現実に、怯えた。

『リタっち。どうしたの?』
『……え?やだっ』

そこには、いつもは無い不安げな眼をしたレイヴンがいた。ただ、気遣う色も浮かんでもいる。そんな複雑な眼から離れられない、囚われた自分が居ることも知ってしまう。怖いと思う反面、その指は、そんな不安を打ち消すかのように、優しく、頭を撫でた。

──やだ、泣きそう。

そんな優しさに、目に浮かんだものを必死で堪える為、リタは睨む事でしか見つめ返せれない。でも、ずっと傍に居たい。裏腹な感情だけが渦巻いている。

『もう帰りなさい。途中まで送って行くよ』

いい加減にして欲しいというような素っ気ない言い方が突き刺さった。そうだろう。こんな我儘を言っては、困らせる生徒を誰が相手にしたいと思うのだろうか。

『……おっさんは、あたしのこと何とも思ってないの?あたしは……おっさんのこと』

そして、想いを告げるつもりはなくとも、きっぱりと口にしたわけではなかったが、「自分をどうみているのか?」なんて、誰が聞いても告白にしか聞こえないだろう。

『リタっちは、生徒だよ。それ以上でも、それ以下でもなく……それに、リタっちとおっさんなんて二十歳も歳が違うんだよ?リタっちは、これから、いろんな出会いがあって経験していくんだから、リタっちが今おっさんに抱いてる気持ちなんてちょっとした麻疹みたいなもんだよ』

そして、聞き出した答え。その彼の口から出た言葉は、「生徒」というそれ以上以下でもない関係。

『……あたし、一人で……バカみたい』

完全否定されて、溢れ出た感情が、止まらなかった。

『……おっさん、なんて嫌い。大嫌い』

言いたくもない言葉。それは、正反対の気持ち。こんな醜態を晒したくないと思った瞬間、部屋を飛び出した。そして、呼び止める声が背後からしたような気がした。自分の名を呼ぶ声がどこか悲しげに聞こえたのは気のせいだったのか。

やがて、ふらふらとしている間に何時の間にかどこに迷い込んだのか、帰り道ではない場所を歩いていたことを知らされた。そして、頬を伝っている物が冷たい雨であることにも気が付いた。

──どうして、あんな奴好きになったんだろ。

今すぐに会いたい。でも、会いたくない顔を思い浮かべた。






「最悪……頭痛い……」

目ざまし時計が鳴り響くと同時にその音が何時にもまして頭にずきずきと鳴り響いているのは、完全に体調を狂わしていることを知らされた。あのまま、逃げ帰るように家に帰りついた時は、身体は冷え切り重く感じた。そして、泣き過ぎたせいなのか、ガンガンと痛む頭と濡れた制服を脱ぎ散らかしたまま、疲れ果てて眠りについたらしい。

「もう今日は休む。こんな身体で行けない」

言い訳のように独り言を言っては、携帯電話を握りしてめいた。別に電話なんてと思うも、あの男に余計な詮索をされたくないという想いが脳裏を横切った。本当に風邪なんだからと、思い直し、電話を掛けた。
学園の名を告げる声がした。その声にリタは少しだけ安堵する。
聞き慣れた声は、女性だった。保健のジュディス先生。家庭環境の事も知っている教師が出てくれたおかげで、話は手短に済みそうだ。今の時間、ひょっとしてあの教師──レイヴンが出なくてほっとする。

「あら、リタ?どうしたの?」
「……あの、ちょっと体調悪いから、今日……」

思いのほか、悪かったのか。声質まで変わっている。そして、喉にも違和感を覚えた。ゴロゴロとした異物感に潜む痛みは、声すらもままならない。

「風邪っぽいわね」

そんな雰囲気を察知したのだろうか、電話の向こう側で優しくいたわるような声が聞こえた。

「無理しないで。今は大事な時期だから、休みなさい。先生には伝えておくわ」

優しい声色は、何だか泣きそうになる。どうしたんだろ。ちょっと風邪気味だというのに少しばかり弱気な自分を見せているようで、熱っぽさのせいかぼんやりしてた為に一瞬だけ空白が開いた。

「……リタ?大丈夫なの?」
「うん。今から病院行ってくるから……」
「そう。分かったわ。お大事にね」

そんな気配を電話の向こうでいる人は感じているのかもしれない。何かと勘の鋭い相手だけに、余計なことは告げずに、静かに通話をし終えた。

ベッドに横たわると、自然と眠りに落ちていた。

再び目覚めた時、辺りが薄暗い。汗を掻いていたらしい。水分を含んで張りついた髪や下着が気持ち悪い。熱は下がりつつあるのか、朝に感じた倦怠感は既に過ぎ去っているようだった。

──喉乾いたし、お腹すいたけど、それより、シャワー浴びたい。

恐る恐る起き上がってみると、枕元に投げ出された携帯に何度かの着信があったことに気が付いた。
少しだけ、あの男を思い浮かべるが、履歴を見れば、親友の名がそこにある。あの男では無かったことに、少しだけの安堵と寂しさも覚えた。


「リタ、大丈夫なんですか?」
「うん、もう熱は下がったし」
「ジュディス先生から、リタが風邪引いたみたいだから、様子見て来てくれない?って電話あったんです」

──やっぱり、あの先生は敏いのよね。たったあれだけの会話なのに、こうも気が付くんだから。

リタは、そう思うしかない。
美人で生徒から人気のある先生。何故かリタの事を気に掛けてくれている。

「リタ?」

返答のないリタに、心配そうな顔を覗かせている親友──エステルがそこには居た。

エステルに電話を掛け終えた数十分もしない間に、玄関先でチャイムの鳴る音がすれば、スーパーの袋を両手いっぱいに抱えた親友がにっこりとほほ笑んで立っていた。ついでに、その横にはもう一人の親友とでもいうのか、エステルの護衛のような彼──ユーリも立っていたが。

「リタ、お前、大丈夫なのか?」
「大丈夫よ。それより、ユーリまで来るなんて聞いてないわよ」
「仕方ないだろ。エステルが行くって言いだしたら、言う事聞かないのリタだってよく知っているだろ」
「相変わらず、口、悪いわね」
「リタほどじゃないさ」
「酷いです。ユーリ。さっきまでユーリも心配して……」
「ちょ、余計な事言うな」

久しぶりに見る親友達の笑顔に癒される。エステルのふわりと華のような笑顔が優しく、ユーリもまた、素っ気ないながらも気に掛けてくれていた。

「風邪移したら困るし、ここで良いわよ。二人とも忙しいんじゃないの?これ、ありがとう」

荷物を受け取ろうとしたが、「リタ一人にはしておけません」と言うエステルを部屋に招き入れた。

エステルは僅かばかり年上の筈なのに、どこか、幼さの残る顔立ちだった。凛とした顔立ちの美人ではあるが、まだどこか可愛いという表現が似合う。その外見からしても分かるように精神年齢からいえば、リタの方が上じゃないかと思う時もあったが、今は少なくとも、歳下らしく素直に甘えたい気分だったのかもしれない。そして、ユーリは、後で迎えに来るからと言い残して、帰って行った。帰り際、「あんま、無理するんじゃないぞ」と、リタの頭を掴んでは髪をグチャグチャにしていったのは、ユーリなりの心配だったのかもしれない。

「だって、大学の方忙しいんじゃない?今だってユーリとんぼ返りみたいだったし」
「大丈夫です。講義、明日だって午後から行けばいいです」
「そうなんだ」

レトルトしかなかったけど、と差し出されたおかゆを大丈夫?と不安げに見つめるエステルに「うん。美味しい」と笑顔を返す。安堵したようなエステルが静かに椅子に腰を下ろした。

「リタ何かありました?」
「どうして?」

小首を傾けて、不安げに見つめる親友は、何か知っているのか。それとも、あの保健の先生が何か言ったのか。果ては……とレイヴンの顔が浮かぶが、まさかね、と打ち消した。

「先生が何だか様子がおかしいって言ってたから」
「先生って?」
「ジュディス先生」

やっぱりね。と内心思う。余計なことは喋っていないのに、どうして、自分の周りにいる大人と言われる連中はこうも勘が鋭いのか。ただ、同時に、いつも悟られまいとする気負いに似た様なものを纏っていたのは自分だと気が付かされる。

そして、この目の前で心配げな色を見せる親友もさほど変わりがないとはいえ、年上であることには変わらない。
少しだけ、ほんの少しだけ甘えてみても、頼ってみてもいいのかな?と思った。

「あのね。エステル」
「どうかしたの?」

なんでも聞いてあげるからという表情を浮かべた親友が少し大人びて見えた。



「あたし、おっさんが……レイヴンが好きなの」

ポツリポツリとこれまでの経緯を話し終えた後、リタはそう告げた。

「リタはやっと正直になったんですね」

そう認め、昨日のことを話し終えた時、先ほどの彼と同じように、ただし、こちらは優しく頭を撫でてくれた。何時もなら、子供扱いしてと怒りそうなものだが、今はそんな仕草すら、心地よさを感じる。

「その髪だって、先生の為、ですよね?」

──なんだ、やっぱりエステルには見抜かれてたの。

素直に「うん」と頷く。でも、どうして?という疑問もわき上がってくる。そんな疑問を感じ取ったのだろう。リタが口を開く前にエステルが話し始めた。

「だって、何時もレイブン先生、髪の長い方が色っぽいだのなんだのって、あんなに言ってる傍で、リタはずーっと伸ばさない髪、伸ばし始めてたら、誰だって気が付きます」

ひょっとして、あたしが、自分自身が気が付くよりも、もっと周囲にばれてたのかな?と少しだけ顔が赤くなるのは分かる。それなら、なんでアイツ──張本人が気が付かないのよ、と。同時に怒りも湧いてきてしまったが。

「リタ、今すごく可愛いです」

天然なのか、無垢なのか分からない親友の一言に更に顔を赤くしてしまうのは、熱が上がってきているのではないと思った。


それから数日間、何をするでもなく、夕方にはエステルが買い物袋を持ってきてくれては他愛もない雑談を繰り返していた。まだ、時折、咳が出る以外は、健康そのものだが、受験生という名の三年生にとっては、あまりこの状態で出席するのも、気が咎める。しかし、それ以上に、今はあの教師の顔を見たくない。怖いというのが、正直な気持ちだった。

友人が来る前に、浴びていたシャワーの元栓を締めると、滴り落ちる水滴をバスタオルで拭う。 白いレースのついたキャミソールを着た下着姿のまま、ドライヤーで髪を乾かしながら、鏡に映る自分を見つめた。

──やっぱり、子供っぽいな、あたし。

不意に思い出すのは、保健医でもある女教師。何時だったか、普段は頭上で緩やかに纏めている髪を解いている瞬間を見た。長く艶やかな髪が振りほどかれる瞬間に、見惚れてしまったのは事実。風に纏われるやや青みがかる漆黒の長い髪が綺麗だと思った。しなやかで飾り気のない姿。彼女本来の気ままな性格のようでもあり、それでいて、そんな仕草一つすらも他人を魅了させるものを漂わせている彼女をレイヴンが、何かにつけ褒め称えるのも気に入らないのは事実だった。嫉妬なんてしてないといえば、今は嘘だと素直に認めるしかない。

──結局、おっさんが言えば言うだけヤキモチやいてたんだ。

気がつけば、ドライヤーを持ったまま考え込んでいたらしい。生暖かい風が頬に掛かっている。髪はまだ、生乾き。長くなった分だけ、その時間は掛かってしまうのは仕方ない。もういいや、と肌に張り付く感触が気持ち悪いようにも思え、耳の後ろ側でゆるく二つに結わえては、いわゆるおさげの状態に納得するしかない。より子供っぽさが強調されたような髪形。

鏡に映る姿は、やっぱり、子供だと改めて思うと苦笑いしか浮かばない。そして、今は、思い出したくない顔も浮かぶ。


それなのに、と、やってきた顔に怒りすら覚えるのは何故なんだろう。

玄関のチャイムを連打する音が室内に響くと、リタは慌てて手近にあったパステルカラーの淡いピンク色をしたパーカーを羽織り、脱ぎ散らかしていた服の中から、デニムのショートパンツを履くと慌てて、玄関先に向かう。

エステルにしては早い時刻だと思ったのだが、玄関の覗き窓から見れば、今、一番会いたくない顔がそこにはあった。

──な、何で、あいつがいるのよ。それに、何で家、知ってんのよ。

動悸が激しい。

居留守を決め込もうとしていたのに、ピンポン連打の終いには、聞いてる方が恥ずかしくなるような棒読みで、出て来ないなら倒れてるんじゃないのか、救急車を呼ばなければと叫んでる。こんなとこで騒ぎを起こされてはたまらない。早々に降参して、玄関の扉を開けてみれば、黒いシャツにこれまた黒っぽいパンツ。暗い色をした長い髪は一つに束ねているとはいえ、どこから見ても、教師には見えない。学園内で白衣を着ているからこそ教師と判別できるのだが、今は、下手をすれば、その存在自体が通報されるんじゃないかというような胡散臭さを漂わせている。

──こんな中年のおっさん、どこがいいのよ。

一部の生徒たちに慕われたり、人気があることは知っていた。決して、ハンサムだとかカッコイイとは思いたくもない。それなら、まだユーリやユーリの友人であるフレンの方が、騒がれるのも理解出来る。猫背気味で、何を考えてるか分からない正体不明な相貌。ただ、長くかかる前髪に隠されがちだが、薄い色素をした目の色が時折、優しく見つめていたり、意外にも無駄な肉のない、言いかえれば、筋肉質だと咄嗟にそんな考えが浮かぶも──ムカツク、の一言が打ち消した。

「あ、もう風邪大丈夫なの?」
「……っ。お、おかげさまで」
「ふーん」
「な、何よ。ふーんって」
「いや、元気そうだから帰るわ。明日は来れるでしょ。そん……」


開口一番、もう少し可愛げのある言い方は無いのだろうかと思うも、怒りに似た照れ隠しで出迎えるしかない。
飄々と、「明日から学校来れるよね」と言ってのける神経も分からない。あれだけ、酷い事を言ったのはそっちじゃないと思うが、所詮、それまでの存在だと思うと悲しいという気持ちも湧きあがる。

「あのーシャツ、破れちゃうよ……」

それじゃあと踵を返した、男の広い背を見た瞬間だった。何故かリタ自身も分からない行動を取っていた。それは、待ってと叫ぶよりも早く、男のシャツの裾を掴んでいる。ゆっくりと振り返る顔をまともに見られないほど、体温が上がってくるのが分かった。風邪の熱ではない、急上昇する熱を感じ始めている。

──やだ、震えてるじゃない。何してんのよ。あたし。

ちらりと見たレイヴンは、困惑を隠してない曖昧な笑みを浮かべていた。いきなり、こんな事すれば、そりゃそうよね、と納得するリタだったが、その何を考えているか分からない視線が居た堪れない。ただ、ここで返してしまっても、元に戻りそうにない関係をどうしたいのか、こうなれば玉砕覚悟、半分、キッチリ型をつけてやろうじゃないと言う気持ちもあったのか。

そして、やっぱり、あたし、この人が好きなんだという気持ちが入り交ざる。

ただ、「リタの想うように、素直に、なればいいだけです」という親友の声が後押ししている。そうだ、酷い事は言われたかもしれないけど、あたしはまだハッキリと告げてない。同じ辛い気持ちを味わうのなら、もう木端微塵に砕け散った方がいい。そして、破片だけ集めて泣けばいい。そうすれば、きっと明日から以前のように振る舞えるから。



「きちんと食ってんの?」
「この間、エステルがお見舞い、来てくれたから」
「ああ、なるほど。嬢ちゃんがね」
「ジュースとか甘いのしかないから、本当にお茶だけしかないわよ」
「あ、うん。ありがと」

マグカップを手渡した瞬間、少しだけ触れた指が熱かった。この指で、手で触れて欲しい、と思うと何故か哀しくなるのは気のせいではない。自分用のカップを抱えたまま、そんな事を考えては立ち尽くしてしまう。

「座らないの?」
「あ、あたしの家なんだからどこに居たっていいでしょ」
「別に襲ったりしないわよ」
「おっ、襲うって、やっぱり、変態!」

不安げな目をしていたのは、どちらなんだろう。いつものような軽妙なやり取りの筈なのに。なにやら、レイヴンも思う所があったのか、リタを見つめたまま、何やら言葉を選んでいるような沈黙に包まれる。

──どうして、そんな顔するのよ。あんたにとっては生徒なんでしょう?

誤魔化されるのも嫌いだが、こうやって黙秘を選ばれるのも苦手だった。

「な、何よ。学校は風邪引いたって連絡いれたっていうのに、どうして、あんたが来るのよ」

普段のように咎める口調でこの雰囲気をどうにかしたかった。何か考え込んでいるようなレイヴンの視線は、いつもの彼ではなかった。慎重に手探りで何かを探しだしているような、そんな、感じがした。

「リタっちのこと傷つけたね」

──そんな声出さないでよ。

沈黙を破ったのは、優しい声色。胸が締め付けられる。普段なら、ごめん、ごめんと笑いながら耳の後ろを僅かに掻き揚げる仕草を沿えて、見せる癖に。ずるい、そんな声出されたら、また、泣いてしまいそう。

「傷ついてなんか……」
「だったら、どうして学校来ないの?」
「そ、それは、本当に風邪ひいたし……」
「なら、どうしておっさんに連絡してくれなかったの?」
「……おっさんに連絡しなくてもいいでしょう!」

──どうして、あたしを振りまわすの? 突き放したのは、そっちの方じゃない。じゃあ、どうして、優しくするの?
込み上げる想いが重く圧し掛かる。

「おっさん、こんな言い合いしをする為に来たんじゃないけどね」
「……何よ、今更。それ以下でも以上でもないんでしょう?……あんたに……とってあたしは」
「いいから、座って聞きなさいよ」

逆らう事が出来ない眼。言われるままに座るも、ぎゅうとマグカップを握りしめては、その視線から逃れようとした。
ぽつり、ぽつりと歯切れの悪さに苛立ちを感じる。こんなのあたしじゃない。

「……優しくしないでよ」

そして、レイヴンを見れば、何か複雑な表情を浮かべている。その真意が読み取れなくて、更に不安。そして、苛立ち。

「そんなつもりじゃない……けどね」
「あんたなんてっ……」

素直になれないのは、十分に分かっていたが、今はそれ以上に、レイヴンの感情が読み取れない。そして、繰り返される会話に、今はこの空間に、この視界に男の存在を認めたくなかった。逃げ出そうとした瞬間、ふわりと包まれる感触。

──やだ。何するのよ。

抱きしめられていると悟った瞬間、恐怖と共に情けないぐらいに泣きたくなった。

──あたし、こんなに弱くない。

喉の奥の方で痞えている感情を爆発させれば、どんなに楽だろうと思うも、これ以上、醜態を晒したくないというなけなしのプライド。ぎゅっと、瞳を強く閉じる。泣いてなんかない。そう思うことで、この腕を振り払いたい。

「……やだっ。大声出すわよ」
「いーから、最後まで人の話聞きなさい!」

砕け散った方が潔いと思っても、やはり、拒絶される恐怖の方が勝っていたのかもしれない。ののほんと過ぎしてきた時間が、今は恨めしくも思う。こんな気持ち、気がつかなければよかったとすら思うほど。


「どうして、この娘は先走るんだか。いーから、最後まで人の話聞きなさい」

一瞬、グダグダになった感情がさっと冷める感覚。冷水でも掛けられたように、その動きを止めてしまうほど、何らかの強い意志のある語気がした。

「おっさんがいくらリタっちの気持ち知っても手出し出来ないの分かってるでしょ。リタっちは、まだ高校生なんだから、さあ」
「だって……」
「人の話は最後まで聞く」
「分かったわよ」

宥めすかすように、髪を撫でられ、そんなリタを見透かしているのか、飄々とした声が頭上でする。傷つけるなら、いっそのこと、立ち直れない位に傷つけてくれた方がいいのに。白か黒、プラスかマイナス。グレーというような、ゼロのような曖昧な表現を嫌うリタは、どうしたらいいのか分からない。でも、この腕と撫でられる髪の感覚に、少しずつ冷静さも取り戻してきていた。そして、告げられる想い。


「リタっちが、卒業して、どこか別のとこ行くのにも反対はしないよ。おっさんにそれを止める権利は無いけど、ただ、ね。よく聞いて欲しい。その後でいいからずっと、側にいて欲しいんだ」
「……それって?」
「……愛してる」

何やらごちゃごちゃと言っているようだったが、その言葉だけは聞き逃さなかったというよりも、聞き逃せなかった。言われた瞬間、ぎゅっと強く抱きしめられる。ただ、力に任せたものではなく、優しく包み込むような力強さ。

「……嘘」

自分でもどんな顔をしてたのか、わからない。驚きに目を見開き、見上げたレイヴンに浮かぶのは、いっちゃったよ、という照れ隠しの様な、少しだけ困ってるような。そして、泣きそうにも見えた。

「嘘ついたってしょうがないでしょ?ずっと前からね。リタっちには気が付かれないように、おっさん必死だったんだからねえ」

言い訳めいた言葉、信用されてないんだろうなあと嘆くような素振りが、つい可笑しくて、泣き笑いのような笑顔を浮かび上がらせる。

「おっさんだって色々考えてたのにねえ。後、一年もないのに。こんな騒ぎ起こさずに済んでたんだから」
「大騒ぎって、あたしがなにしたって」
「おっさんのここ、随分、引っかきまわしてくれたんだから」

ここと、胸元を見た。そんなに、あたしのこと考えてたの?
余りにも胡散臭くて、飄々として、風のように掴みどころがなくて、随分な例えしか思い浮かばないが、それでも、そんなに悪い人じゃないと言うのは知っている。そして、信頼した相手にしか、そんな優しさを見せない事も。それまで、抱きしめられるだけで下ろしていた腕をおずおずとその広い背に回してみる。少しだけ緊張するのが伝わったのかもしれない。シャツ越しに自分とは違う、熱を帯びた背は思いのほか引き締まっていて広かった。

暫くはお互いの体温を確かめ合うように、身じろぎもせずに、何も考えられずに、抱擁に夢を見ていたのかもしれなかった。ポンポンと優しくリタの背を撫でるのが切っ掛けだった。少しだけ緩められた力に何か名残惜しさを感じながらも、半歩だけ後ずさるようにして離れる。


「まあ、そういうわけだから卒業したら、エッチとか思う存分させてね」

──今、なんて言ったの?この変態教師。

言葉の意味を理解すると、体温が上がるのが分かった。

「エッッ、エッチってね!」
「だって、そおでしょ?健全な男女がお互いの意思疎通が出来たとなれば、ねえ。それに、リタっちもおっさんのこと好きなんでしょ?」
「う、うるさい。このエロガッパ!」
「もお、リタっちってば純情なんだからあ……いってえええええ」

ニタリと笑って、だっても何もありゃしない。何を言うかと思えば、普段よりもややセクハラ度がアップした、しかも、「エッチしたい」とあからさまなに言われ、咄嗟に力任せに頬を殴ったのは、考えるよりも普段の悲しいまでかの習慣。一応、告白が成就した筈。お互いに想いを通じ合わせたなら、次のステップがあって然り。それがどういう類のものか、いくら、子供っぽいだのと言われているリタだって、それぐらいは知っている。ただ、悲しいかな、知識という物でしかないが。


部屋の隅で、赤く腫れた頬を撫でながら、イジケテいる男を冷ややかに見つめる。
嫌らしい、スケベ。本当に男ってと呆れるしかない。そして、視線が何だか嫌らしいと思うも、どこかで許していることに驚かされる。

ちらりと視線が合えば、そんなに殴る事ないでしょうと訴えている。

全くしょうがないわねと思いながら、洗面所に消えては、鏡に映る顔を見た。なんだか自分じゃないようなにやけた顔がそこにいる。

──ああ、もう、しっかりしなさいよ。何よ。この顔。

冷たい水を浴びせ、もう一度、顔を作って見せる。うん、これでいい。普段のあたし。そう強く念じるように言い聞かせては、タオルに水を含ませて絞っていた。


「……痛かった?まだ、痛む?」
「うん、ちょっと、まあね」


ソファの片隅で、まだ、いじけているように見える男は、何を考えているのか、まだ、分からない。ただ、その腫れた頬が明日、どんな風に噂を運んでくるのか、と少し杞憂を浮かべさせた。

「大丈夫だから。まあ、何か言われるのは慣れてるし」
「……ごめんなさい」

ここまで赤く腫れる様子を見ると、さすがに謝罪の言葉も出てしまう。

でも、「はい」と手渡したタオルを受け取った彼は、半分だけ赤く腫れた頬に押し当てている、その様子がなんとも可愛いと思ったのは、何だろう。いい大人、しかも、おっさんを捕まえて可愛いってね、と不思議にも思う。ペタンと座って、その様子を見つめるが、余りにもその痛がる素振りに少しだけ良心の呵責を問われるようで、居心地が悪い。

「痛かった?」

呟くようにして、膝を立てレイヴンに近づくと、その頬に触れた。やはり、熱を帯びている。言葉を濁すレイヴンだったが、赤く滲んだ跡が、痛々しくも思えた。リタも少々やりすぎたかと思うが、その手のことに免疫がないんだから、仕方ないじゃないと言い訳。そして、そういえば、まだ、返答らしいものをしていないと気がつく。

──あれって、その、アレなのよね。

ずっと傍に居て欲しい。それが何を意味するか、考えなくても、リタ自身が思うよりも明確な答えをレイヴンは示してくれたのだから、それに応えなければと思う。ただ、言葉にするには、まだ気恥ずかしさが邪魔をしている。それよりも、何だかんだと、この男に随分振り回されたものだ、この、あたしが、というリタ本来の持つ勝気な面がうずうずし始めている。

──言葉よりももっと確かなことで、伝わるわよね?

覚悟を決めて、レイヴンに気付かれぬように小さな深呼吸。レイヴンの頬を包み込むようにして触れる。

「……リタっ……ち?」

そんなリタの動きに怪訝そうな表情を浮かべていたが、なすがままのように大人しくする素振りを見せた。
無意識に触れた節くれだった指先が熱い。そして、リタの行動に動けないでいるかの様子。それが少しだけ優越感を抱かせた。

そして、今は、素直に、言葉に出来ない想いを伝えた。

謝罪の意味も含めて、触れ合った唇。ややかさついた唇は、意外にもそう悪くない心地よさがあった。目をそっと開けてみれば、どうやら、レイヴンは余りのことに目を見開いていたらしい。ほんと、デリカシーに欠ける。ムードもへったくれもない。

「……なにバカな顔してんのよ」
「リタっちったら大胆」
「うるさい!今日は特別。あたし、そんな簡単に手に入らないからね」

今はこれが精一杯。まだ、怖い気持ちもあるから、もう少しだけ待っていて欲しいという願いも込めて。

二人の視線が絡み合った。

それは、呆れるほどに、間抜けな顔をした男に勝ったと思った瞬間だった。おろおろと今の夢?とばかりに挙動不審な様子。まだ、混乱の余地も冷め上がらないというレイヴンに、何いい大人が動揺してんのよと呆れかえる。ただし、リタも思い切った行動に、恥ずかしさは隠しきれない。きっと睨みつけて、微笑んで見せると、抱きしめられて、髪を撫でる指先の動きが心地よかった。

ふと、リタは想い起こす。どこかで、こんな安堵出来る場所を探していた。 不安で必要以上に強がりを見せていたのは、こんな場所が人一倍欲しかった裏返し。エステルが言ってくれた「素直になればいい」という意味が漸く分かったような気がした。少しだけ勇気をだして素直になれば、こんなにも身近にあったことに気が付かされた。

──あたしの居場所、ここにあったんだ。

ようやく見つけた大切な場所。
きゅっとレイヴンの服を掴むと強く抱きしめる感覚があった。

──どこにも行かないから、ずっと離さないでね。

いつまでも抱きしめられては、長く伸びた髪を撫でる手が優しかった。

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