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花冠を君に





「約束してなきゃ来ちゃいけない?」

本来、こんな台詞なんぞ、女が惚れた男の部屋にでも来た時に言うべきものではないのだろうか、と口にした本人が思うのだが、哀しい事に三十も過ぎたおっさん。過去においては幾人かの女性からは、そんなを言われた事もあるだけに、何か違うと思うのだが、そんな言葉を大の男、しかも、いい年齢に言わせるのは十五の少女。

「あたしにだって都合あるのよ!」
「誰かと約束でもあるの?まさか、男とか?ねえ、そうなの?」
「そんな訳あるか、バカ!」
「……いいじゃない。リタっち、ちょっと放置しておくとロクな食生活してないんだから」
「放置ってね。あたし何だと思ってんのよ!」

だから、おかしい。絶対にこの会話は男女逆転だと思うのだが、そう言わせない鋭い視線がおっさんことレイヴンを射抜いている。

「だ・か・ら、迷惑なのよ!」

意外なほどに、それは、胸に突き刺さったらしい。居間の隅で膝を抱えてさめざめと泣くレイヴンを見つめる視線は冷やかだった。ただ、三十半ばの男から潤んだ眼でチラチラと見つめられると、さすがに、リタと呼ばれた少女も居心地のわるさ、言うなれば、生理的嫌悪感でも湧くのだろう。

「この所、実験結果が思わしくないから、おっさんに八つ当たりしたかっただけよ」

──あーもう。何言わせんのよ。さっきからうじうじして。ほんとに、泣く子も黙る、あの天を射る矢のレイヴンなの?

ただ、素直じゃないのは分かり切ってるから、あえて、違う方向を向いていうしかない。

「おっさんになら幾らでも八つ当たりしてくれたらいいのよぉ。もう、リタっちってばぁ」
「だから、抱きつくなって!この変態」

背後から抱きしめられて、もがいてみるが、どうやら、本気の力で抱きしめているらしい。

「俺がリタっちの顔見たいだけだから。安心するから」
「……ごめん」

分かってくれたらいいのよ、と優しい声色で囁かれた。

旅が終わり、もう半年近いだろうか。リタは、帝都近くに居を構えていた。と言っても生まれ故郷である街の壊滅は、リタの研究する場所がない状態。エステルの好意により、仮住まいの家は研究所も兼ねている。そして、レイヴンと言えば、遠い街に身を置いていると言っても、神出鬼没ばかりと、あちこちを出歩いているらしい。それも、ギルドを統合するユニオン幹部、実質的には補佐的立場から、以前よりも忙しい生活を送っていたらしい。帝都にも月に数度は顔を見せている。そうして、その都度、リタの家を訪れてはけんもほろろといった具合で無碍にされている。

──どうせ、あたし、からかいに来てんのよね。忙しいっていうのはエステルから聞いてるけど……どうして、世話してくれるんだろ?

テーブルに頬杖をついて、その男の後ろ姿を見つめながら思う。勝手知ったるとばかりに、レイヴンは台所で何やら料理を作っている。

──まあ、心臓魔導器のチェックも兼ねてるからいいんだけど……。

ほんと、つかめない男だわ、とため息を零した。
今日とて、本来はその約束の日ではなかった。旅が終わり、仲間達が別れ間際に、リタは必ず月に1度は心臓魔導器の定期診断させろ、と約束させた。そうでもしなければ、この死にたがりの男は、その辺で、のたれ死にしかねない。だが、予想に反して、月に何度か、こうしてリタの世話を焼きに来るのでは、これこそ、本末転倒ではないかと。世話をするつもりと言うほどでもないが多少は、そんな気持ちもあるのに、世話をされている。そう思うと、二度目のため息が零れた。


「これ?どったの?嬢ちゃんから?」

食後に、テーブルの隅にあった金色の紋章の入った封書をレイヴンは目ざとくみつけていたらしい。さすがに、元帝国騎士団よね。それだけで分かるの、とリタは内心思うのだが、元というのかも、疑わしい。現役と言った方がいいのか。
そんな曖昧な立場が、急がしさに拍車を掛けているというのに。

「うん。ハルルの村でお祭りあるから一緒に行かない?って」
「いつ?」
「確か、来月の……あ、おっさんと約束してた日だわ」
「どうせ、嬢ちゃんとの約束優先よね。おっさんとの約束なんて」

つい今しがたまで、にこにことしていた男の顔が、一気にどんよりと今にも降り出しそうな空の色みたく、辛気臭いものを漂わせている。

「別にいいんじゃない?おっさんも一緒に来たらいいじゃない」

リタとしては、エステルに会えるのが一番の優先順位だからして、おっさんが来れば手間も省けるっていうものだからと、いうような何気ないつもりで言った。

「うん。絶対行くわ。おっさん、這ってでも行くから」
「わ、分かったわよ。エステルに返事しておくから」
「絶対ね」

ほんとは、「レイヴンも誘って下さいね」と、書かれてかれてたなんて言えない。



ハルルという村は、春をかき集めては、掌にぎゅっと握りしめては開いたような花が満開の村だった。あちこちに一面の花が咲き乱れ、木々には緑が生い茂っている。さわさわと風が吹いては、花弁が舞い散る光景に心を奪われる者は少なくないが、淡い白桃色の花が咲く、巨木の下、その二人だけは、相変わらずの様子だった。

「ねえーリタっち、いい加減どいてくれない?おっさん、腰痛いんだけど」

かれこれ三時間。幾らこの態勢が座り心地が良いと言っても、同じ姿勢をとり続ければ、血液の循環は悪くなり、筋肉の弛緩、靭帯の凝固、強いては痛みとなってやってくる。しかも、中年に片足を突っ込み始めた年代といえば、それが、明日ではなく明後日という時間の遅延を伴って。それが想像出来るだけに、おっさんことレイヴンは、ぼやきともつかない言葉を掛けた。

「ねえ……」と言いかけた所で、その言葉が消えた。先程から、腕の中というのか、男を背凭れにしたまま、その間にすっぽりと嵌っていた少女は、読んでいた本のページをめくる様子はなく小さな頭が舟を漕いでいた。

──ありゃ、眠っちまってんのか。

傍から見れば、三十歳過ぎの胡散臭げなおっさんの腕の中、胸を背にして眠る十六歳を手前にしていることを差っ引いたとしても、あどけなさの残る少女というのは、どこから見ても立派な犯罪臭がする。そんなこと分かってるわよ、と自問自答するのだが、この少女の男を男と思わない行動が、そんな隠微な想いを掻き消してしまう。近頃、レイヴンが密かに悩ましく思うのは、これじゃあ、まるで──。

「どっから見ても親子だよな」

頭上から、何してんだ、おっさんという声と共に、この所、気に掛かる言葉が降ってきた。見上げれば、口角に今でも吹き出しそうな笑みを湛えた、青年──ユーリが立っている。

「ちょっと、大将、親子ってね。おっさん、こんな大きな子居ないわよ」
「あんたが、二十歳で出来た子なら十分親子だろ」
「そうねえ。俺様、二十歳の頃なんてモテモテだったから、これぐらいの子、何処かに居るかもしれないわね」
「ったく、ちょいと、からかえばこれだからな」

面白くないと髪を掻き上げたユーリだが、旅が終わり、こうしてみれば、親子にも見えなくない関係性に、こいつらはどう思っているのだろうという疑問も湧いていた。ただ、他人の恋愛事情などには、あまり興味も湧かない筈なのだが、旅仲間であった女性陣の噂話から、そんな風にも考えては、つい、からかい半分で尋ねたようなものだったろう。

「大将が、おっさん、負かそうなんて百年早いわよ」

ユーリの面白くなさそうか表情に、ふふん、どうだ。と、いう辺り、おっさんの精神レベルはあまり高くない。ユーリとて、一回り下、どちらかといえば、リタの方が遥かに年齢的に釣り合いが取れる。それが分かっているだけに、何故か、レイヴンの勘に触った。

ただ、そんなレイブンの思惑は外れた。「なにを」とムキになるかと思ったのだが、こちらの方が遥かに精神年齢は高かった。

「リタの奴、レイヴンによっぽど気許してるんだな」
「はぁ?どう言う意味よ」
「さあてね。あんたも頭は切れる方なんだから、それぐらい理解してるだろ」

言わせるつもりだった「なにぉを」と、言いかけた時、「じゃあ、エステルと俺は甘いもん食ってくるわ」と告げられては、片手を上げた青年を見送るしかない。甘いものと聞けば、げんなりするしかない。しかし、この状況。いい加減、腰も痛いのよと、起き上がろうとした時「んー」と零れた小さな呟きが、レイヴンの動きを止めた。少女が苦しくならないよう、そっと頭をことりとその胸板に凭せ掛けては、寝顔を見つめた。

──青年が言うのも分かってるけどね。

ただ、気紛れな仔猫のような瞳をした少女の心までは、さすがのレイヴンをもっても分からないことだらけだった。各言うも、それなりの年頃の女が、男と密着したような姿勢でいれば、それなりに思う所もあるのだろうが、そんな邪まな想いすら浮かべさせない。むしろ、そんな想像をさせる事すら躊躇うほどに無邪気、無防備という言葉が当てはまる。
そんな時、旅の仲間としての友情に近いような感覚、それとも、心臓魔導器を司る者とそれを制御出来る者としての、よく分からない、強いて言えば、医者と患者とでもいうべき関係性なのか、と悩まされる。

夜の訪れを知らせる、花散らしの冷たい風が吹いた。

再び、小さな呟きが漏れるとともに、寒さを感じたのか、暖を取るかのようにすり寄ってくる仔猫がレイヴンの腕の中で震えていた。

「全くしょうがないわね。この子は、ほんとに」

茄子紺色の大きな羽織から腕を抜くと、その羽織で腕の中にいる少女を包み、花冷えの風から守ってやった。
今少しだけ、こうしていたい、と思うも、その気持ちに哀しげな表情を浮かべた。

──相手は十五だぞ。それでなくとも……。

花弁が舞う空にその想いを、考えても仕方ないと誤魔化した。



「全くどこ行ったのよ」

翌朝もまた穏やかに晴れた空は、霞みがかった様な淡い水色が広がっていた。石畳ではない柔らかな土の道。花がいたるところに咲く小道をリタは、ある人物を探していた。 それは、紫紺色の胡散臭い男。いい加減、宿に帰ろうかと思った時、その男はいた。小道から逸れた花が咲き誇る場所で座り込んでいた。ただ、その男の周りには、村の子供たちが数名群がっている。

「おじさん、あたしにも作ってよー」
「おじさんはよしなさいよ。お兄さんでしょ」

何やらそんな会話が聞こえてきた。おじさんと言われる声には聞き覚えがある。

──何が、お兄さんよ。どっから見ても立派な中年のおっさんじゃない。

羽織の男の背しか見られないが、草原に座り込んでは、その腕の動きから、何やら作っているらしい。



口笛でも吹きたくなるような爽やかな風。レイヴンは、朝の散歩とばかりに、ふらふらとで歩いてた時、何気なく、この場所を通りかかっては、腰を下ろし、長く立派な茎の葉を持つ草を見つけると、草笛を何となく吹いていた。
その音を聞き付けてきたのは、子供達だった。まだ大きな子でも6,7歳というぐらい。よく聞けば、すぐ近くに住んでいる幼馴染やら兄妹達らしい。一番小さな子は、女の子。4,5歳ぐらいのあどけない顔をした少女。
「他にも出来るの?」と少女が問えば、「そうだねえ。お姫様がつけてるような冠出来るよ」と作り出したのは、花冠。
その無骨そうな筋張った指先からは、想像出来ない繊細さで、周囲にあった花を摘み取っては器用に編んでゆく。
最後の大きな淡い色をした花で結い上げると、ポンとその少女の頭にかぶせた。ぱぁ、と明るく輝くような子供の素直さに、レイヴンもまた綻んだ笑みを零した。

「ほい、ちっこいお姫様だねえ」
「ありがとー。おじさん」
「だから、お兄さんだってば」

「おじさん、ばいばい」と手を振る子供らがリタの横を掛けてゆく。幼い子供の中には、女の子がいた。頭には花冠。それを見送る男の眼差しは、優しく、穏やかだった。子供を見送る為に振り返ったレイブンは少女といっても更に年嵩の小柄な少女が立っていた事に気がついた。

「あれ、リタっちどうしたの?」
「どうしたのじゃないでしょう。メンテするから、宿に居ろっていうの忘れたの?」
「あー、そうだったね。ごめん。ちょっとフラフラしてたら、時間、忘れてたわ」

いつもなら、火球のお見舞いでも投げつけてやろうか、と思うのだが、先程の子供たちの楽しそうな顔を思い出すと、今日ばかりは、それも、いいかとリタはレイヴンの横に座った。

「あれ、さっきの、小さい女の子が頭にしてたの、おっさん作ったの?」
「そうよ。何か変?」

レイヴンが変?と尋ねたのは、リタが呆れ果てたような表情を浮かべていたからだった。

「ほんと、おっさんて器用よね。大抵の事、やって見せてくれたのは知ってるけど……」
「何よ。その意外そうな顔。紳士の嗜みよ」

紳士の嗜みにあんな事あるのかしら?とリタは疑問にも思うのだが、元々、手先が器用だったり、博識なのは、旅の中でも知る事は大いにあった。そして、旅の最終章では、その正体を知れば、この胡散臭さを隠れ蓑にしていた本当の姿も知ることになったのだが。その瞬間、とくん、と胸が痛くなる。あの姿を思い出すと、どこか、まだ痛みが疼く。紅緋の鎧を纏う血に塗られた騎士。忘れようと思っても忘れられない姿。

──変なこと考えないの。もう、終わった事なんだから。

リタは、そんな想いを悟られぬように、別の話題を振った。深層に浸る時、この目前にいる男はそれすらも嗅ぎつける。

「おっさん、子供好きなの?」

リタは膝を抱えて、横で胡坐を組んでいる男の顔を覗き込んだ。

「うん、まあねえ。あんぐらいの時ってなーんも考えないで、自由気ままで可愛いじゃない」
「そういえば、おっさんがあの子達見てる目が父親みたいだったわね」
「って、どういう意味よ」

昨日、ユーリから言われた言葉を思い出すと、やや、気が削がれるようだった。レイヴンは、折角、いい気分だったのにと、気が沈んでいくのが分かった。

「どういう意味もないわよ。そのまんま、よ。それに、おっさん、カロルにだけは優しかったじゃない。いっつも、カロルが毛布、蹴飛ばしてたら直してやったりしてたし」
「カロル先生だけって言う事もなかったけど、ねえ。まあ、さっきの子供ぐらいの年齢ならいてもおかしくないからさあ」

ユーリの言葉を反芻するわけではないが、自嘲気味に呟けば、リタもやはりそういう眼で観ているのかと、何故かがっかり。気分が重い。

「欲しいの?」
「何を?」
「だから、子供欲しいの?って聞いてんの」
「ああ、まあね。でも、おっさんには無理だから。そんな机上の空論語る権利すらないわよ」
「な、何でよ。やってみなきゃ分かんない事言うのよ」
「リタっち、朝から何言うのよ。やってみなきゃって、ね。言ってる意味分かってんの?」

レイヴンが考え「やる」とは、子供が出来る行為。リタが考える「やる」とは、結婚という家族を作る事。することは同じなのだが、そこに確実な相違があった。だが、リタもこの男が言う意味を理解した。さすがに、そこまで子供でもない。

「ば、ばっかじゃない。な、何言うのよ。あたしが言いたいのは、結婚とかしてって言う意味よ!」

赤くなっているのがその証拠。口にするのも恥ずかしいとばかりにレイヴンの肩をバシバシと痛い程に叩いている。「リタっち、痛いから止めて」といわれて漸く興奮が収まったらしい。

「だって、リタっちがおかしい事言うからよ」
「おかしくないわよ!」
「リタっち、こんなメンドクサイもん付けてるおっさんにそんな相手いるわけないでしょ?」

リタは、完全否定されて、何故か怒りよりも虚しさを覚えた。まだ、この男は自分に残された未来を否定するのかと。

「分かんないわよ!この子だって全部受け入れてくれる人だっているわよ。あんたって何で何時もそう後ろ向きな発想しかしないのよ。ほんと、バカっぽい!」

お決まりの台詞を残して、リタは駆け足で逃げていくかのように立ち去った。



──おっさんのバカ。どうして、生きようとする望みを見つけないのよ。いっつも、いつも辛気臭い考えしかしないで。

息が切れるまで走ったのか、汗が流れる。手のひらで汗を拭いながら、遥か後方を見つめるも影は無かった。良かった、おっさんに追いかけてきてないと、思ったが、追いかけて来れない程の全力疾走だった。
リタは、古木に凭れ掛けると、「おっさんのバカ」と呟いた。

でも、と冷静になって振り返れば、何故、あんな事を言ったのだろうと思い始めた。ただ、あんなに優しい眼をして、子供達を見つめていたのは事実なんだから、それを望むのが悪い事じゃない、と。

──おっさんにだって未来を選ぶ権利はあるわよ。あの時、皆に約束したじゃない。いつか、おっさんにだってそういう人が現れるって可能性まで捨てる事ないわよ。元々、女好きの癖に、ちょっと美人がいれば、ふらふらしてじゃない……おっさんだって、もてるっていうのは知ってるけど……あれ?何、この気持ち。

もやもやとした、何も形容できない気持ちがリタに浮き上がってきた。

──そういう人?おっさんが、選ぶ人?おっさんを選ぶ人?ちょっと、待ってよ。あたし、そんなつもり……。

「え、え?何これ……」

身体中が震える。息が苦しい。走ってきたから、とかではない。鼓動が煩いぐらいに耳元で鳴っているのが聞こえる。
立っていられない。ずりずりと力なく座りこんでは茫然とするしかない。

「あたし……どうしたの?」

小さな背を自分自身で抱きしめた。
慟哭的というのには、それが何であるか分からない。



そして、こちらは、花が咲き乱れる草原に茫然としたまま取り残されたおっさん一人。追いかけようと思ったが、余りの速さで消えてゆく小さな背はあっという間に見えなくなった。

──いきなり、怒鳴ったかと思えば、何なのよ。

折角のいい気分だったというのに、リタのおかげで不機嫌にもなるとも思ってもいなかった。両手を組んで頭にすれば、ごろんと寝転がる。曖昧な色をした空は、澄んでいるのだが、どこか霞が掛かったようにも見えた。

──まあ、リタっちがいう「辛気臭い」のも分かるけどね。仕方ないさ。こんな胸に魔導器抱えたおっさんなんて、そう、簡単に、ほいほいと誰に気が許せるつーの。

魔導器そのものが消滅した今でなくとも、本来、禁忌とされた手術によって埋め込まれた以上、他人には絶対の秘密。そんな、重い物を抱えているだけでなく、二つの両極の過去を持っているだけに、それを一から理解してくれる女性など、この世に存在するのかと、考えて、ああ、一人居たわ、と気がつくのだが。

その気性の激しさや口の悪さはさておき、純粋で何より真面目で努力家。元々、論理的思考能力から成り立つ洞察力もあれば、大人を相手にしても引けを取らない。見てくれだって十分に可愛いと形容される。子供っぽさはあるけど、後、数年もすれば、男どもが放っては置かないだろう。
何より、この胸にある秘密そのものを知っている。言いかえれば、今更隠す必要もない相手。

──いや、いや。待てよ。相手は十五の子供だぞ。幾ら天才だろうが、そこは、いくらなんでも。でも、リタっち、何でいきなりあんな事言い出しては、否定すんのよ。

「まさかねえ……」

顔を真っ赤にして、今にも泣きそうな不安げな色を瞳に湛えた色。だが、その反面に浮かぶのは、愛しさに想いを込めたような色。リタのそんな顔は、過去にも見た事がない。そして、過去に似たような表情をした女性を思い出していた。レイヴンは、終ぞ、その胸中に抱えた想いは告げる事が出来なかった。その女性が自分以外の男の名を出しては、その男を語っていた時の表情と酷似していた。
横に寝転がっては、その顔に浮かぶ物を否定するかのように、腕で顔を覆った。
まろやかな感情が溢れだす。

「おい、おい。やめてくれよ」


いつまでも、草原で寝っ転がっているのもゆかず、レイヴンが宿に戻った時、他の連中は既に祭りに行ったようだった。そして、思い出すのは、「メンテをするから部屋にいろ」というリタの言葉。先程の事が脳裏を過るが、単なるリタの気の迷いだろうと知らぬふりをして、待つ事に決めた。

どうせ、祭りなどという賑々しい所は性に合わない。

今回、ハルルを訪れたのもリタがエステル達に誘われ、仕方なしにメンテも序にやるからと来いと半ば連れて来られたようなものだった。とは言われても、リタが帰ってきているのか、その様子が分からない。部屋は男女別々の上、個別に取られている。リタの部屋を覗いてみようかと思ったのだが、先程の件が、それを留めさせる。少女とはいえ仮にも女の部屋。いくら、気心が知れた仲とはいえ、気まずい事には変わりがない。ただ、このまま、部屋で転寝するにしても、暇を持て余し気味。

窓の外には、薄青い空が広がり、祭りを開始する合図の花火の音がした。


『シュヴァーン・オルトレイン参る』

忘れ去られた神殿の奥深くに紅緋の男が立っている。死に場所を求めていた哀れな男がいた。ああ、これは夢だ。とレイヴンは感じた。いつも、見る夢は悪夢。塗炭の中で足掻き続けた男が、レイヴンの前に立っている。そして、その前には少女が肩を押さえこんでは血を流していた。鮮血が少女の赤い服の上からでも分かるほどに滲みだしては、その傷口からポタポタと滴り零れ落ちている。

──何度見ても嫌な夢だねえ。

他人事のように、その光景を俯瞰しているつもりだった。あの時、勘が狂った訳ではない。何故か、急所を外し、少女を逃がした。そして、いつもはそこで夢は終わる筈だった。だが、今日だけは違っていた。その振り落とした刀は、少女ではなく、レイヴンという男の胸、魔導器が埋め込まれた心臓を突き刺した。
ただ、痛みはなかった。崩れ落ちる時、シュヴァーン・オルトレインは儚げに笑っていたようにも思えた。意識が空白に投げ出されようかという瞬間、シュヴァーンの声が聞こえた。

『そうやって何時まで逃げるつもりなのだ。もういい加減分かっているのだろう。この少女がどんな想いを抱えているのか』

──そんなの、分かってるさ。本人は気が付いてないだろうけどよ。



「……おっ……おっさん、レイヴン」

彼方から声がした。良く聞きなれた鈴を転がす様な声色。身体が、ふっと深海から息が苦しくなって急浮上するかのようだった。ああ、誰かが呼んでくれている、手招いてくれている。白く細い綺麗な手がレイヴンに差し出された。
その手を掴んだ時、レイヴンはその手が誰のものであるか分かった。

「おっさん!」

見慣れた風景の中に、リタが居た。不安そうな顔色を浮かべている。

「あ……ごめん。魘されてたわ」

リタの掴んだ右手首を放すと、レイヴンは両手で顔を覆った。冷や汗というには、びっしょりとかいていたらしい。
背中が冷たい。

「おっさん、大丈夫なの?」
「あーうん。変な夢見たから、ごめんね。痛かった?」

レイヴンが見つめた先には、レイヴンが掴んだ右手首を庇うかのように左手で掴んでいるリタが居た。何かに脅えたように瞳が震えている。

「……あの時の夢、なの?」
「違うって。やだなあ。青年にケーキ食わされる夢。青年たら、酷いわよねえ。おっさんが甘いもの嫌いなの知ってる癖に、『食べて』なんて言って迫ってくるのよ。怖かったわ」

茶化すような口調。口から出たのは、出まかせ。嘘でも信じて欲しいと願う。子供騙しではあるが、彼女にはそんな心配を掛けたくない。

「嘘。あたしの名前呼んでたわよ。あいつの名前言いながら」

そこに怯えた陰はなく、強い意志をもった瞳がレイヴンを見つめている。嘘を吐くなと咎める眼だった。暫し、二人は見つめあった。リタはレイヴンがどう答えるのかと、待ち構えているかのようだった。
負けたわ。こんな子供騙し通用する相手じゃない。

「はあ……やっぱ、駄目だね。天才魔導士様には」

半ば自嘲的だっただろう。大仰に手のひらで顔を塞ぐ。こんな無様な男の顔など彼女には見せたくない。さっさと、出て行ってくれないかなあ、と少しばかりリタの存在が重く感じた。その癖、出て行かないで欲しいと願う。

「ねえ。あんた、いつもあの時の夢見てんの?」
「いや、たまたまだよ。リタっちが、さっき変な事言いだすからさあ」
「な、何よ。変な事って。それと夢なんて関係ないでしょう」

何か言わなければと思ったのだが、言葉を失った。レイヴンは無言を選んだ。からかって挑発して全てを誤魔化して、それで終わらせるつもりだった。だが、そんな気力も残されていないのだろう。

「ん、ごめんね。リタっちにはこんな情けないおっさんでも全部見せても大丈夫だって油断してたわ」

本音を言えば、それが真実だった。彼女なら、許してくれるだろうというずるい考えもあった。片手を突いて、上半身だけ起こすと、レイヴンはいつものような飄逸な笑みを浮かべた。

「それより、メンテしてくれるんでしょ?」

口調こそ、レイヴンだが、この話はもう終わりだ。それ以上、詮索するな、と拒絶をもった有無を言わせない強さを持った男がいた。リタはそれ以上の言葉が出ずにいた。



風花が舞う夜。リタは宿から離れた巨木の下で膝を抱えて座り込んでいた。幾ら春の村だといっても、まだこの時期は花冷えを告げる風がリタの身体を通り抜ける。寒さに打ち震えながらも、リタは、もやもやとしたものが何であるか、自分なりに答えを導き出そうとしていた。

──あたしは、おっさんの事、どう思っていたんだろ?

出会いからの印象は最悪だった。そして、裏切りを裏切りとも思わない男が、その陰に潜んでいると知った時の哀しみは、舌必しがたいまでにリタを捉えていた。──でも、と思うのは、そんな感情すらも凌駕している想い。気が付かないようにというより、それが何であるか、知るにはまだ子供過ぎた。

これが恋と呼ぶものであるなら、何とも哀情を催すものだと。膝を抱えて、頭を伏せた。風に髪がはらりと舞う。

「どったの?こんなとこ居たの?」

顔を上げれば、レイヴンが立っていた。「そんなとこ居たら風邪引くよ」と。

「別にあたしがどこに居ようが関係ないじゃない」
「まあ、そうだけど……嬢ちゃんが心配しちゃうよ」

そう言いながらも、レイヴンはリタの隣に胡坐をかいて腰を下ろした。

「寒いんじゃない?こっち来る?」

ほれ、お出でと両手を広げて手招きしている。昨日までなら、自分から進んでその腕の中に居たというのに、今は、どんな顔をして、その腕の中に居ればいいのかすら分からない。

「嫌よ」
「まあ、そう言わさんな」

強い力が、リタを抱き寄せた。

「あーやっぱり、こんなに冷えて。女の子なんだから身体冷やしちゃだめでしょ」
「冷えてないわよ。おっさんが寒いんでしょう」
「まあ、そういう事にしておきますか」
「何よ、それ」

分かんない、とリタは、思うのだが、何故か、この男が常には無い力を持ってしてまで自分を抱こうとするのか分かったような気がした。心音を確認するかのように、リタは耳をその胸部に押しつけた。躊躇いがちにリタを抱き寄せた腕の力は、強かった。

「……おっさん、まだ、あの時のこと、後悔してるの?」
「……まあ、ね。いくら皆に殴られようが、俺のやったことはそれ相応の罰を受けても仕方ないことだよ」
「だから、未来まで否定するの?あんな夢見るの?」
「やっぱり、賢いね。そうかもしれんわ」

ため息が零れた。深く、深く、哀しみを吐きだすような。リタは、今、レイヴンがどんな顔をしているのは、分からなかった。ただ、零れおちたため息が少しでも和らぎますようにと願う。こんなに傷ついて、それでもまだ自分を追い込んでいるのなら、それでもういいじゃない。終わりにして、過去に記憶を置いて来て、と。

「俺が、リタっちのとこ行くのって、そんなのは夢だって確認してるんだわ。いくら迷惑がられても嫌がられても、リタっちが、生きてるの確認しては、安心してる」

ずるいね。俺は──と、呟きが零れた。

ざわめきを伴って夜風が騒ぎだした。はらはらと薄紅色の花びらが零れおちる。
そっと腕を抜け出すように、リタは顔を上げる。そこに映るのは、遠くを見つめる男の顔だった。

「そんな、泣きそうな顔しないでよ。あたしは、あんたが来る事、迷惑じゃないし」
「泣きそうなのは、どっちなのよ」

ほら、とリタの両頬を男の大きな手のひらが包み込んだ。吐息が掛かるほどの距離で見つめられ、風が止まったような淡い緑色の眼がリタを動けなくさせた。少しでも、この男の気持ちが安らぐのであれば、そう思うのは、リタが初めて抱いた想いに、気が付いた心がそうさせた。ゆっくりと男の顔が近付いてくる、と思った瞬間。




「何やってんだ、あんたら」

悪魔の声が聞こえた。リタは瞬時に身を竦めた。昨日までなら「何もしてないわよ」と素っ気なく言えるのに、今日はそれが言えない。恥ずかしさやら、こんな場面を見られて、頭が上手く働かない。完全な思考停止。だが、そんなリタを紫色の羽織が覆い隠すように強く抱きしめた。大丈夫だから、と。

「やだねえ。青年、野暮な事言わないでよ。どうみたって逢引中でしょ。儚い男女の逢瀬なのよ」
「あーそりゃ悪かったな」
「そうよ。だから邪魔しないでくれる?」
「あーはいはい。邪魔者は消えるさ」

ユーリとて、邪魔するつもりはなかったのだろうが、一本道の横を素通りしては、素知らぬ顔をするわけにもいかない。それなら、遠回りでもして行けば良かったのだが、生憎、風が強くなり始めている上に、この道を通らなければ宿には入れない。「いい加減、宿戻れよ。雨降り出すぞ」と言い残して、ユーリは通り過ぎた。

「ちょ、ちょっと。おっさん、逢引ってね」
「あら、そうじゃないの?」
「知るか!いつ、あんたっと……」

勢い良く立ち上がろうとしたリタよりも素早くその動きを制したのはレイヴンの方だった。

「……ごめんね。情けないおっさん、見せちゃったから、もう少し甘えてもいい?」

こんな声されたら、逃げられないじゃない。リタにそんな想いを抱かせるほどに切なげな沈んだ声が耳朶を通り過ぎた。ただ、何と言っていいのか分からない。下手な慰めなど言えない。言葉が時に、鋭く突き刺さるナイフのような凶器になる事も知っている。かといってこの状況が良いものだと思えない。

「おっさん、花冠作れたわよね」

不意に思い出したのは、あどけない少女がその頭上を飾ったものだった。子供らしい、その笑顔が羨ましくも見えた。何も考えないで、唯、単純に好きだと言えるような強さ。ありがとうと言える素直さ。そんな気持ちすら、あたしは、小さい頃から失くしてた。

「ああ、作れるよ」
「あたしに作ってくれない?明日、帰る前でいいの」
「リタっちのお願いならきかないわけないでしょ」
「それじゃあ、約束して」


二人は、レイヴンが子供達と出会った草原に居た。色とりどりの花は、今が盛りと咲き綻んでいる。だが、レイヴンは、白い花だけを選んで来ては、編み始めた。

「ほんと、器用に作るわね」

長い茎を幾重にも重ねては、編んでゆく、やり方にリタは興味深く見つめている。最後の花を輪になったところで結び終えた。

「ホイ、出来た。あ、リタっち、それ取りなさいよ」

それと言われたのは、常に頭につけているゴーグルを指している。何をする気なんだろうと思ったリタだが、言うがまま、ゴーグルを取った瞬間、ぽんと頭に載せられた。

「やっぱり、女の子だねえ。似合うわ」

明るい鳶色の髪に、白い色をした花だけを集めた花冠。レイヴンとよく似た薄い眼の色に映える。

「やっぱりだけは余計よ」

口振りはともかくとして、少しだけ薄紅の色で頬を染める辺り、素直に嬉しいのだろう。そういえば、と思いだすのは二日前に同じように花冠を作ってあげた幼女は、こんな風には微笑む事は無く、その感情いっぱいに嬉しさだけを伝えてきた。

──ちっこい、お姫様じゃあないか。

様々な経験をして、色々な感情をその胸の内に秘めた女なんだろう、とレイヴンは思った。強くてしなやかな、直向きなまでにまっすぐに生きている。

「どうしたのよ?黙り込んで」
「いやー、なんだか花嫁さんみたいだなあって」
「な、何言い出すのよ」

真っ赤になって俯く辺りはまだ子供なんだろうが、その一瞬に浮かんだ色は綺麗だと思わせる。

「そんじゃあ、おっさん帰るわね」

立ち上がって、草を払うとリタと向き合った。

「おっさん、あの、ありがと」

はにかんで見せた笑顔。

「次会うの、来月って言ってたけど、また暇見つけたら、リタっちに会いにくわ」
「そんな暇ないわよ。あたし」
「おっさんが会いたいから、行くの」
「勝手にしなさいよ」

そっぽを向かれて、ありゃ、と思うのだがリタが素直に見送ってくれた試しなどないだけに、レイヴンは特に気にしていないようだった。再度、別れの言葉。

「またね」
「おっさんこそ無理しないでよ」

草原にその紫色が遠くになりつつある。いつも、レイヴンがリタの家を訪れた時、彼に気が付かれぬように、そっと、その背を見送っていたようにずっと見送る。そして、リタはその背に向かって叫んでいた。もう、ここからは聞こえないだろう。だから、言ったのだろう。

「おっさん、あたし、おっさんが来るの嫌じゃないからね」

そして、深呼吸と、一応、周囲を確認。誰もいないわね。

「あたし、おっさんの事、好きだから。待つの嫌だけど、おっさんなら待っていてあげる」

叫んでしまえば、すっきりしたとリタは、踵を返した。宿に戻ろうと思ったが、今暫くは、この感情に浸りたい。それでなくとも、頬に浮かんだ熱を、風に冷まして欲しいと願う。この想いがどんな風を運んでくるのかはまだ分からないけど、それほど悪い未来は待っていないと予感めいた物がした。

天には、蒼い空は澄みきっている。地には柔らかな草が緑を湛え、木々には薄紅の花が、風に煽られ舞い散る。

「きれい」

ただ、単純な言葉だが、それ以外に表現が合う言葉が見つからない風景が広がっている。

──そういえば、お祭り行き損ねたじゃない。まあ、来年もあるから、いいか。そうだ。おっさんが、次に来る時は、好物でも作ってあげよっか。あ、でも。あたし、魚、苦手なのよね。パティに捌き方聞かなきゃ。

そんな風に思いながら、そろそろ帰らなきゃと考えた瞬間、別の風がリタを包み込んだ。

「ごめん。次の約束、守れなさそう」

聞きなれた軽薄な声。だけど、どこか甘い、人を惹き付ける声色。よほど、力いっぱいに走ってきたのかゼイゼイと息切れすら起こしている。「駄目ね。おっさん歳だわ」とリタを抱きしめていた手が緩んだ時、リタは振り返った。

「な、なに。びっくりするじゃない。それに来れないって?仕事の約束あるの?」

そこには、膝に手をついて呼吸を整えているレイヴンが居た。暫くして、ある程度、落ち着いてきたのだろう。いつもなら、だらしないと思っていた猫背を隠し、ピンと居住いを正してはリタを見つめる。いつになくその表情は緊張という名を張り詰めて、強張っているようにも思えたが、真剣な眼差しを浮かべているのが、その証拠だった。

「一緒に帰ろう」
「は?何、言って……」

と、言いかけた所でレイヴンが本気で言っていると思わされるのは。

「ま、まさか……今の……」
「うん。思いっきり聞こえた。だから、一緒に帰ろうっていうか、連れて帰るから」
「急に言わないでよ。あたしだって色々事情があるわよ。だから、一緒に……」
「帰りたいんでしょ?」

動転していた為か、素直に言われてしまったというのか言わされたのか。

「取りあえず、帰ろうよ。後で幾らでも何とでもなるでしょ?」
「そ、そんなあ……」

レイヴンに手を握られては、逃げようがない。こんな時だけ、強引な男っぽいとこ見せないでとリタは思うのだが。

「リタっちが居れば、おっさん、怖い夢見ないで済むからお願い」
「……お願いされたら仕方ないわよね」

ほんと、ずるい人。そう思いながら、リタは微笑んでいた。このずるくて、情けない男が、怖い夢を見なくて済むなら、いくらでも一緒に居てあげる。

「それと、それ、花冠もまた作ってあげる」

レイヴンは、いつもの人を喰ったような笑顔を浮かべていたが、眼差しだけは真摯で優しかった。


花冠を君に。
それは、そう遠くも未来への約束。



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