It grew on me

It grew on me







旅が終わり、二人が自然の成り行きとはいえ、暮らし始めてもう半年以上が経っていた。

最終的な決着、傍から見れば今更と思えるも、レイヴンはレイヴンとして生きると決めた。
何だ、世界はこんなにも単純で簡単に生き易いんだ、と思った途端、ある意味、開き直りともいえるが、その少女にかねてより抱いていた想いを素直に伝えた後に、彼の持ち家に転がり込むかのように少女──リタが、やって来ては居着いてしまったというのが正解だった。それでも、元々、憎まれ口とそれの応酬が得意な上に何か小競り合いの喧嘩が日常な二人。それが旅の道すがらのように往来でも繰り広げられる光景となれば、周囲はその年の差やら黙っていれば、この街でも滅多に見かけない素性不明な美少女と胡散臭い風体でありながら天を射る矢の最高幹部の一人の男となれば、いやがおうでも人目を引く。挙句に、その二人珍妙な同棲生活がいつまでもつかなど、勝手に賭けの対象にする始末。だが、それも、勝負はまだまだと続行中。
その賭けの対象である男──レイヴンもそれを知りながら、周囲を煙に巻くが如く「尻に敷かれてんのよ」と嘯く辺り、勝敗は見えていたのだが。

そんなレイヴンにとってリタといえば、レイヴンの秘密を知る数少ない元旅仲間であり、そして、唯一無二にして、その胸に秘められた物を診る事が出来る存在であるも、今はそれ以上にかけがいの無い存在。
そんなリタが寝込むまでに体調を崩したのは、二人で暮らし始めて初めてのことだったろう。

「リタっち、ただいま。ど、どったのよ?大丈夫なの?」

玄関の扉を開けた早々、ソファに横になっては気だるそうにしていたリタを見つけたレイヴンが血相を変えた。

「……おっさん……おかえり……」

掠れ声が聞こえたと思えば、白い頬を赤く染めて、熱の為に潤んだ瞳が出迎えてくれたのは昨日、夜半のこと。おっさんことレイヴンが、ギルドの仕事で暫く家を留守にしていた間にを崩したリタだった。
慌てふためいては、医者を呼びよせ、リタを診察した医者がいうのには、軽度の過労。若干の栄養不足と睡眠不足。そして、それから来る最近流行りの風邪だということ。
結局、一晩、様子を診るようにと告げられては、昼過ぎまでベッドで唸っていたリタだった。

「だーから、俺様、何時も言ってるのにさあ、どうせ、俺が……」
「……うるさい」

ベッドに寝かしつけられてというよりも、起きる上がる気力すらも湧かないのだろう。喉を詰まらせケホケホと咳き込む様子に、レイヴンもそれ以上言えないでいる。常になら、これ幸いとからかいの一つでも投げるのだが、苦しげに言い返されては、流石に、これ以上咎めるのも気が進まない。
ふっ、と優しげな笑顔を浮かべたのは、いたわりを伝えるかのような声色に彩られていた。

「なんか、食べる?」
「……いらない」
「って、昨日から何も食ってないじゃない。食わないと治るもんも治らないのよ」
「……喉、痛い」

言葉を発するのも苦痛なのか。一言一句、区切るかのように呟く。そうは言っても、ね。とレイヴンが頭を抱えそうになった時、それまでレイヴンの小事を忌々しげに聞きたくない、見たくないとばかりに目を閉じていたリタが、ふと、意識を浮上させるかのように目を開いて小さく呟いた。

「リンゴ」
「喉痛いんじゃないの?」
「擦ったやつ」
「……分かったわ。買ってくるから、暫く眠ってなさい」

うん、と頷いては目を閉じている。額にそっと触れると、まだ少しばかり熱もあるのだろ。仄かに感じるのはいつもよりも高い体温と若干、その熱のせいでしっとりと汗ばんだ質感。一人にしておくのは当然ながら不安ではある。ただ、眠るだけなら、大丈夫だと言い聞かせながらも、レイヴンは後ろ髪を引かれる想いだった。

玄関を閉めては、リタの部屋がある窓を見上げていた。この所、体調を崩すまでに没頭している研究が焦りを覚え無理をさせている。何か、気を別に向かせるにしても、もう少しだけ自分のことにも気を配って欲しいと思うのだが、何時までも見続けている訳にもいかず、家を後にしていた。歩きながらも、考えるのはリタのことばかり。数日ぶりに帰宅してみれば、青白い顔で出迎えたリタ。一瞬、冷や汗が出ては、醜態を晒してしまうほどの狼狽。我ながら情けないとは思うも、それだけ愛情を分け合う人となった以上、仕方ないでしょ、と自己反省もどき。

若いたって、薄着でどうせ、その辺で眠ってたんでしょ。俺様が居ないとなると、すぐに昼夜逆転生活どころか、いつ寝て、何を食ってるのか分かんないもんねえ。

落胆の息も零れる。ギルドの奴らに見張りではないが、四六時中、目を放すなと世話を頼む程子供でもない。一度、仲間内の女性に頼み込んで世話をして貰っていたが、その自由奔放とでも言うべき生活態度に根を上げたのは女性の方だった。そうでなくとも、リタは研究になれば没頭する。アイディアが浮かべば、寝食すらも忘れるのは常。結局、誰が居ようと関係ないのだ。自分の事は棚にあげて、レイヴンが考え込むのも仕方ないだろう。

見なれた街並みは今日も変わらない。煉瓦作りのよく似た家々、石畳が続く道。肩がぶつかりあうほどの人の多さも、この雑多で猥雑な街には似合う。ふらりと歩きながらも、目的は決まっている。もう一区画先に行けば、生鮮などを生業とする店が立ち並んでいる市場、レイヴンはその場所に歩みを進めていた。

「あら、レイヴン。久しぶりじゃない。今日は、何にするの?」
「レイヴンじゃない。あんたの好きな鯖、生きの良いのはいっているわよ」

顔馴染みも多いレイヴンに一人が目敏く声を掛けては、誰ともなしに声が掛かるのも何時ものこと。リタが専門に扱う魔導器関連の品から、果てはどこから流れてきたのかも正体不明な物まで売っている街だけに、世界中の食い物も集まる。人が集まり、誰かが必要とするのであるのなら、どんなものであろうとも商売が成り立つのは基本。それが、この街の顔。
色とりどりの鮮やかな青果が並ぶ中、レイヴンがお目当てのものは、リタが良く好んで着ている服と同じ色をした紅く、艶やかなリンゴの山が出迎えてくれた。
店先にいた女性に声を掛けては、これ頂戴と指を射していた。

「うーん、それ。3つね。あと、そうさねえ。そっちのオレンジと、イチゴもあるの、じゃあ、それも」

悩む間もなく、適当に果実を選んでは指示してゆく。今は、何も食えないにしても、欲しいと思う物があるなら、それに準じた物も欲しがるかもしれないと、思っては幾つか選んでいた。それを狭い店先の中でも慣れた動作でそれを紙袋に入れる。この女性も顔馴染みなだけに、二言三言の世間話を交わしながら手渡していた。レイヴンが金を払う間、何気なく、その女性が尋ねてきた。

「そう言えば、最近、あんたのとこの可愛い子、見かけないわね」
「ちょっとね、風邪引いて寝込んでるの」
「それは大変だ。じゃあ、おまけしとくわ」
「あら、ありがと」

目的の品を買い込んでは家路に急ぐも、ある家の軒先を通り掛かった時、レイヴンは、何気なく目に飛び込んできた一枚の張り紙を見つけた。多分、この家の人物が書いたのだろう。足を止めてはそれを黙読すれば、何か思い浮かんでいたかのように顎に手をやり、暫し考え込んでいた。やがて躊躇う事もなく、その家の扉をノックすると、家人である老人が顔を覗かせては、レイヴンは表にある張り紙について簡単ではあるが事情を聞いていた。中に入れと招き入れようとする家人に、家で病人が待っているから、今日は、とりあえず、とだけ言い残していた。
やがて、茜色に染まり始めた街の中にレイヴンの蘇芳色も溶け込むかのように消えて行った。



レイヴンが扉を閉める音がしたのは何となく記憶に残っている。ただ、節々が痛み、喉も痛く、身体中を支配する倦怠感に夢と現実を行ったり来たり。高温多湿な街だというのに、どこか薄寒いと思うのは、熱のせいだろうか。ああ、そんなことよりも実験結果を書かなくては、あの数値なら、そんなに悪くないわ。いや、それよりももっと他にやり方があったのではないか、そんな考えが浮かんでくるも、今は、唯ぼんやりと見なれた天井を見上げるしかない。

「……これぐらいで、情けないわ」

思わず呟いては、寝返りを打っていた。研究に没頭するあまり、自分の体調管理が疎かになってしまった。旅が終わり、以前のような家にこもりきりとなり体力そのものが落ちていたのだろうか。それとも、故郷ともいえるあの学研都市とは違う気候に疲れが出始めていたのだろうか。まだ、思考に囚われている。
ほんと、こんな時ぐらい考えるの辞めなくっちゃ。
常に何かを考えているようなリタだけに、自分自身に苦笑いが零れた。
ただ、リタが行っていた研究といえば、リタ自身にとっても未知の領域である心臓魔導器というある種、禁忌の白物。しかも、その魔導器自体は消滅している。いや、自分達の手で消滅させた。その中で、秘密裏に、この世に唯一現存する魔導器を司るのはレイヴン。生身の人間の生命力をエネルギー源としている魔導器である以上、リタは、その制御法に必死になっていた。こんな魔導器、後にも先にも診た事が無かった。そして、その男がただ一緒に暮らしているだけでない、別の意味を持っている。無我夢中になればなるほど、同時に行っている研究すらも手付かずに疎かになり、己を失っていたと、気が付かされていた。
男が生に対して前向きになれば、今度は自分が迷走している。何とも皮肉な話だ。
だからって、何よ、小事ばっかり言って。
そら、みたことかとレイヴンが呆れ果てた口調で咎めるのではないにしろ、先程のように事実を述べられたら、正論過ぎるだけに言い返すことが出来ない歯がゆさに、リタは本来の気性の激しさである片鱗をみせる。
でも、こんなに眠ってばかりなのも久しぶりかもね。
そっと溜息を零しては、じわじわと上がりつつある熱から逃れるかのように静かに目を閉じていた。

夢を見ていた。

仄かな灯りは、柔らかに室内を照らしていた。秩序正しくも壁のように取り囲んでいる書物。ひんやりとしたような静けさに包まれた気配が漂っている。
ああ、これはアスピオだわ。懐かしいわね。
それが夢であると思ったのは、リタ自身、見上げる景色が違っていた。小柄であるけれど、部屋にある本棚の5段目には旅に出る頃にはもう手は届いてた筈。でも、今は何度つま先立ちをしたり、とび跳ねたりしても、一向に届く気配すらない。それもその筈、夢の中のリタは、まだ十にも満たない年齢の頃の肢体をしている。今よりも遥かに背も低く、アスピオでは、ほぼ全員が着用している制服とでもいえるような大きなフードのついたマントが邪魔で仕方ない。

──後少しなのに。何か足場になるもの、ないかしら。
あの本が欲しいのに、届く気配すらなく、苛立ちが募る。周囲を振り返るも、おぼろげな空間ではないが、判別が付かない。
──困ったわ。あれが無いと、あたし困るのよ。
でも、何がどうして困るのかは分からない。夢である以上、それが何かなど関係ない。
──あんなところに良い踏み台になりそうな椅子があるじゃない。
それを引っ張り出しては、立ち上がった。少し足元がおぼつかない為に一瞬だけ、恐怖が過るも、何故か、その本を取らなければいけないと思わされる。
──後、少し。後ちょっとなのに。
ぴんと手を伸ばしているのに、取れない。つま先で立ちあがっている為に、足元が僅かに震えている。
──もう、どうして取れないの……あれ?え?な、なに。きゃあっ。

ぐらりと視界が歪んだ。薄暗い天上らしきものがくるりと回り、ふわりと身体が中に舞う感覚。

──やだ、落ちちゃう。

痛みは無いと瞬間的に思っていた。夢であるなら痛みなど感じない筈。ただ、誰かに抱きとめられる感覚。がっしりとした、逞しくも、力強さをもって、確かにその腕の中にリタは引き込まれていた。

再び、景色が一変していた。

ここは?そうよ。もう無くなったあたしの部屋だわ。
薄暗い室内。照明は極力落されて僅かな光だけが、辛うじて、傍にある物が輪郭を描きつつあった。見覚えのある本が目に入る。懐かしいわね。この本、勿体無かったわね。要らないと思って処分したんだったけ。それとも、どこかに忘れたのかしら。そう思っていた時、ずきずきとした痛みがリタを襲う。
眉根が歪んでは、唸り声を上げるしかない。

『気が付いたのか?』

リタ以外の誰かの声がした。低い、どこか感情という物が読み取れない。怖い、と思うほどに抑揚がない。それは口調や声質から男性だと判別出来た。
目を凝らして見るも、その人物が姿を見せるまでは僅かに時間が掛かっていた。傍にいたのだろうか。それとも、どこからか湧いてでも来たのだろうか。それほどまでに気配を消している。何故か分からないが、得体の知れない怖さをリタは初めてこの時に感じていたのかもしれない。多分、それはその男が持つ陰鬱な影のような物。ただ、そんなもので怯むようなリタでも無かった。

『誰よ、あんた』
『誰でも良いだろう。それよりも、まともに食っても居ないだな、君は』
『よ、余計なお世話よ』

起き上がろうと思うも、身体が動かない。固定されている訳でもなく、ただ、ベッドに眠っていただけなのに、身体が重くて手を上げる力すらでない。ゆっくりと目を動かした。
意外にもその人物は傍にいた。ベッドの脇に座っている。誰だろう、と思うも顔はよく分からない。彼もまたリタと同じような出で立ち。マントのせいなのだろうか、深く被ったこの街では誰もが見かける服装。若い男の声にも思えるが、どこか冷たくて硬質な、異質な物を感じる。
まるで生気を感じられない。
生きている人なの?まさか、お、お化けなんかじゃないわ。そうよ、夢よ、これは夢。
必死で言い聞かせるリタの額にその男の指が触れた。研究所の人間にしては、随分と硬い質感をした指先だと思った。基本的にアスピオは学研都市であるために研究職を生業とする人間が集まる。ここは陽の光が当たらない洞窟の街。人工的な灯りが始終灯っている、ある意味、不夜城の街だった。そんな中で暮らしていれば、自ずと細く白い指先をした人間が多い。だが、その男の指先は、浅黒い肌の色をして、何か鍛え上げたようにも思えた。強いていうならば、余り見たことは無かったが騎士のように、鍛錬を積み上げた者のような気がしていた。しかし、その無骨な指先は思っていたよりも、繊細にリタの前髪を振り払う仕草を見せては、熱を測るかのように押し当てられた。
ひんやりとした手の冷たさにリタは、怖いというよりも心地良さを感じていた。
気持ち良さそうに目を細めていた。多分、それを見抜いていたのだろう。男の声が静かに聞こえた。

『少し熱が出ているな』
『ほっといてよ』
『それは出来ぬ』
『随分と偉そうね。あたしを誰だと思ってるの。命令なんてしないでよ』

微かに笑っていたのだろうか。ふっと何か息遣いが感じられる。急にリタは気恥しさを覚える。既にこの頃から稀代の天才と一見持て囃されながらも、その裏では、弁が立つ故に扱いにくい子供だと、一種の嘲笑でもあることを、リタはその周囲の視線から感じとっていた。だが、男から感じられる視線には、そんな悪意もなければ、嫉妬めいたものや、好奇の目でもない。ただ、リタの言動にも腹を立てずに、幼き者を見守るが如く、軽く、穏やかだった。
やっぱり、こいつも、あたしのこと子供だと思って。
恥かしさを悔し紛れの腹立たしさにすり替えた。持ち前の気の強さだけを発揮している。だが、その男からは意外な言葉。

『少し、起きれるか』
『……何、するのよ』
『そう、警戒する事もないだろう。別に取って食う訳でもない』
『無理よ』
『やはり、な。気を失うほどだからな』

その声色から何か企んでいるようでもなく、悪意も感じられない。ただ、何を考えているのか分からない。

『ほら、口を開けて』
『嫌よ』
『じゃあ、自分で食えるのか?』

それぐらい、と言いかけたが腕が上がらない。そんなに、あたし熱が出てるのかしら、それとも夢だから、こんな風なんだろうかと思うも仕方なしに、リタはその赤い唇を僅かに開けた。
そっと差し込まれたのは冷たい感触がする銀製のスプーンだった。ん、と小さな呟きと共に、舌先に感じるのは仄かな甘味と酸味が効いた冷たい液体のような、何かをすり下ろしたような流動食にも思えた。

『おいしい……』

何かを口にしたのは、どれぐらい前だったのだろう。そう考えれば、急に腹が空いて来たようにも思える。親鳥に雛鳥が餌をねだるかのように、再び、口を開けては、唯、運ばれるそれを食べる事に集中していた。
ただ、男の気配は変わらない。段々と目が慣れて来るうちに、顔はマントで影を作っているのだと思っていたけれど、それだけではなかった。顔半分を覆う前髪は長い黒髪。ただ、僅かにリタを見つめていたのは、同じ色の瞳。
綺麗な目なのに、哀しげな目をしているんだ、この人。
段々と混濁してゆく意識。何故か、急に眠気が襲ってきている。ただ、その眠りにつく一瞬だけ垣間見た、翡翠色が微かに揺らいでいた。



「……夢?」

まだ、ふわりとした感覚が残っていたが、暗くなり始めたのは陽が傾き始め、茜色に染まる室内の風景が目に入る。ああ、ここは、あたしの部屋だわ、といっても、あのアスピオの部屋ではなく、もう半年以上住み慣れた部屋。うず高く積まれた本やら、書きかけのレポートは綺麗にまとめられている。ベッドのサイドテーブルには、レイヴンが置いたのであろう水射しとガラス製のコップが伏せられていた。

おっさん、あたしがリンゴ欲しいって言ったから、買いに行くって言ったのよね。もう、何時かしら。おっさん、帰って来てるの?

寝返りを打っては、思考に沈む。唇に夢が残っていた。あの、甘酸っぱい味だけが、記憶を呼び覚ましていた。何時の間にか忘れ去っていた出来事。記憶が戻れば、それは鮮明になって来る。
確か、新しい論文を書く為に、最近の様な生活をしていた。それでなくとも、唯一の保護者である母を失い、リタの身の回りの世話をする者など、義務的にしか居ない。食生活からその生活全般を見守っている人などいない中、人知れず体調を崩していた。
結局、あの男は、一体誰だったのだろう。
後にも先にも、あんな奴、いなかったのよね。
その後、一晩ぐっすりと眠ったおかげで熱は下がり、翌日にはまた何時も通りの普通の生活に戻っていた。男が誰であるか、周囲に聞こうともしなかった。そんな事よりも目の前にあることが最優先。この街の人間であるなら、誰でも良かった、その内、出会うだろう、と思いながらいつしか忘れ去った記憶。
それにあたしのことは知っている口振りだったわよね。と、疑問に浮かぶも、じわじわとその才能の頭角を現してきた当時のリタだけであるから、あたしを知らなくても、あいつは知っていてもおかしくはないか、と無理やりに答えを纏めるしかない。

今となっては、過ぎ去った過去の唯一の記憶。

リタはかさついて水分のない唇に指先を触れてみた。あの口にしていた、少しだけ甘い感覚が残っているかと思うも、それは夢の中の出来事。そんな、訳ある筈もなく、苦笑い。もう少し寝よう。そう思った瞬間、微かにノックする音がしては、扉が開いていた。
レイヴンが片手に盆を持ち、リタが望んでいた物を携えている。

「……あ、おっさん」
「いいから、寝てなさいって」

リタが起き上がろうとすれば、レイヴンが慌てて駆け寄ってきた。もう、大げさなんだから、そんな必死な顔するな、と思うのだが、リタの身体を心配していると思えば、それも今は悪くないと思えてくる。
あの頃にはなかった、誰かが自分を心配してくれるという存在。それが今はこんなおっさんでも嬉しいと思えてくる。
心が少し弱くなってるだけ、そう思うも、やはり、誰かが居る事で穏やかに眠りに着き、目覚めた時に誰かの存在を感じることの喜びは、もう手放せない。
あの時、目覚めた瞬間、男は姿を消していた。それだけは、少しがっかりして、寂しく思っていたことも思い出せば、余計に強くそう思わされた。
リタの額に手をかざしては、自分の額にもレイヴンは手を置いていた。

「熱、少し下がってる感じだね」
「うん、喉の痛みもかなり引いたみたい」
「そう、良かった」

ほっとしたような表情を浮かべたレイヴンにリタは、少しだけ罪悪感が浮かんでいた。レイヴンが常々いうことは、至極まっとうな物。規則正しい生活をしていれば、こんな無様な姿を晒す事もなく、レイヴンに心配を掛ける事もなかった。
言えない言葉を告げようか、どうしようかと考えていたが、それを遮ったのは、レイヴンだった。

「はい、リタっちが欲しいっていってたの買って来たわよ。おっさん特製なんだから」

ガラス製の器の中に、微かに色のついたシャーベットのようなものが入れられている。受け取ろうとするも、レイヴンが器を抱え、片手にはそれが載せられたスプーンを持っていた。

「はい、あーんして」

にこにこと、レイヴンからしてみればそれこそ泣く子も黙るスーパーアイドルレイヴン様は俺の事よ、と言わんばかりの笑みを湛えていたのだが、スプーンを掬ったまま、微動だに出来ずにいた。
レイヴンを冷たい視線が射抜いた。それは沈黙を持って、鋭く、痛く、怒りすらも漂わせるもの。
普通に、いつものように真っ赤になって罵られる方が良かった。いや、いっその事、ファイヤーボールはごめんにしろ、低級魔術でも良いから、この沈痛で滑稽な雰囲気をなぎ払って欲しい。
おっさん、泣きたい。
そうレイヴンが思うほどの冷やかさ。だが、それぐらいでへこたれるレイヴンではない。しぶとい。二回も死んだ男、舐めんなよ。

「せっかくなんだから、あーんってしてよお、ね?お願い」
「あんた、恥かしくないの?」

リタの素っ気ないほどに冷たい言葉と視線。この男、そういう甚振られるとでもいうのか自虐性を刺激されるのを好む趣味でもあるのかと思うのだが、それ以上にレイヴンは大げさに肩を落とすと同時に、これまた芝居がかった落胆をありありと浮かべている。一々、格好つけなきゃいけないの、この馬鹿おっさんとリタは思うのだが、今はそれを突っ込むことすら、億劫。取りあえず、溜息を吐いて放置する事にしたらしい。

「って、さあ。良いじゃないの。誰かに見られる訳じゃないんだから、ほら、たまには甘えなさいよ。はい。口開けて」

起き上がるのだってしんどそうなのよ、と存外に漂わせるのは、リタを見つめる視線は穏やかで優しいもの。そして、おっさん、困らさせないで、こんな時ぐらい頼んなさいと訴えて来る。迷い犬とは酷い言い草だが、久しぶりに飼い主に出会えては嬉しそうにキラキラとして輝かせる、そんな眼をするなとリタは思うも、この奇妙な雰囲気に熱が上がりそうになる。
一見すれば、看病される者と看病する者の二人。だが、看病される側はうら若い乙女とでも言うべき多感な十代という年頃、そして、看病する者といえば、紫紺色の羽織にぼさぼさの髪をゆっただけの三十路半ばの男。これが、あの夢の時のように子供であったならば、それも自然だったろうが、それ相応の歳になれば、意味合いも変わってきていた。何か滑稽である以前に、リタには気恥しさが浮かんでくる。これが立場が逆だったとしても、決してあり得ないけれど、何だろう、この新婚夫婦のような甘い雰囲気。いや、それは語弊があるにせよ恋人同士なのだから仕方がない。
世話を焼きたがっている男に浮かんだ、嬉しそうな顔。緩みきってだらしがない。

もう、何も言うまい。

そう思っては、唇を静かに開けた。恥かしげもなく、にっこりとした胡散臭い笑みは耐えられなくて、目は閉じた。少し冷やしていたのか、しゃりしゃりとした食感は舌先に触れた途端、泡雪のように融けて行く、滑り落ちるような喉越しが良く、酸味の中に仄かな甘さが混じっている。
この甘さって、はちみつが入っているのかしら。
単に果実が持つだけの甘さではない、とリタは感じていた。そして、この味がどこかで以前一度だけ味わったものだと感じていた。

「ん、美味しい。もっと頂戴よ」

目を開けては、レイヴンにそう訴えていた。やはり、見る側の方が恥かしい笑みはそのままだった。治ったら一度頭の方もメンテしないと、駄目だろう。

「レイヴン様特製だもの。美味しいのは当然。可愛い、俺様の、リタっちの為に愛情たっぷり入れてるのよ?あっという間に良くなるわよ」

可愛い、俺様の、と強調する辺りが、この男は、過去に恥という概念も忘れてきたのだと思う事にした。
きっと、あの神殿どころか、それ以前に生まれ落ちた瞬間に忘れているのだろうと思うことにした。

「ほんと、おっさんって恥かしげもなく……んっ」

余計なことは言うなと言わんばかりに口にスプーンを放り込まれた。それを何度か繰り返していた。

空になった器をことり、と置くと、レイヴンは再び熱を測る。僅かながらに顔色も良くなってきている。
少し長い息を吐いてリタはまたベッドに潜り込んでいた。
それを見つめては、安堵したかのような表情を見せて立ち上がろうとしたレイヴンを制する声。
見下ろせば、一人にするな、行かないでよ、と目が訴えている。
素直じゃないのは分かり切っているにしても、随分と心細くなっているのかねえ。子供みたいな目をしちゃって。
再び、ベッドの脇に腰を下ろしては、リタを見つめていた。

「ねえ、おっさん、何時まで休めるの?」
「……うん?そうね。リタっちが良くなるまで」
「ごめん、なさい」
「どうして謝るのよ」
「だって、あたし……」

おっさんの仕事の邪魔してるじゃない、そう言いかけた。だが、それ以上は言わせないとばかりにレイヴンの指がリタの唇に触れた。

「いいの。ハリーにも言ってるし、俺もね、暫く休みたかったから、丁度いいタイミングだったのよ」

ほら、そうやって、またあたしの心を救い上げて来るのね。ずるいわよ。そんな大人の面見せないでよ。
そう、一緒に暮らし始めたのだって、何のことは無い、互いに想う気持ちは同じだったから。

「頭、痛いの大丈夫?」
「うん。眠ってたら、それはマシになってる」

リタの髪を撫でる仕草が心地よい。そういえば、と思い出していた。
この味、どこかで……。
まだ、僅かに残る、味覚という曖昧な物が教えてくれる記憶。

「ねえ、おっさん、さっきのリンゴって前にも作ってくれたことない?」
「……何よ、いきなり」
「……あたし、この味、何だか記憶あるの」
「そお。よくある風邪の時のレシピじゃない」
「……そうなの?」
「だって、そうでしょ?リタっちだってその記憶あるから、欲しいなんて言ったんじゃないの?」
「うん、でも」

おかしなこと言うのね、とレイヴンは些か怪訝な表情を見せている。

「あたし、昔、母親が亡くなってからっていうもの、誰かに世話なんてされた事ないの。そうね、母親が生きていた頃も、そんな記憶あったかどうかも、分かんないわ」

唐突に語り始めたリタの言葉にレイヴンは黙って耳を傾けていた。茜色が濃くなり室内を彩りつある。レイヴンを穏やかな夕刻を告げる灯りが照らしている。だが、何故か、ほんの僅かに浮き出た、レイヴンの、その表情が読みとれない。時折、リタが感じていたレイヴンの過去の顔が浮かんでいる。ただ、それも、リタの言葉を待っているかのようにも思えて、何か不鮮明なまま夕闇に隠された。

「十歳にもならないぐらいの時だったかしら、酷い熱を出してね。でも、論文の締め切り前だったのかしら。必死になってその論文に関する文献を探してた時にね、倒れたのよ」

くすり、とリタは笑っていた。そこに浮かんでいるのは、僅か十になるかならないかの子供だと言うのに、今と変わらない自分。変わったようで根本的な気質は、あの頃ののまま。レイヴンもまたそれを読み取っていたのだろう。視線が合えば、リタと同じように穏やかに笑みを零す。二人で暮らし始めて、こんな何もない瞬間、ふと互いに顔を見つめあっては笑顔を浮かべる事が多くなっていた。急かさないままも問う声。

「それで、どうしたの?」
「その時、誰かが助けてくれたの。よくは覚えていないんだけど、きっと倒れる瞬間、咄嗟に手が出て抱き止められていたわ。その後、記憶が曖昧なんだけど、きっとその人が部屋まで運んでくれてたのね。気が付くと、ベッドで寝かされていて、おっさんがさっき作ってくれたリンゴのすり下ろしたの、食べさせてくれたわ」
「なるほど、ね」
「あたし、その人に言えないままだったわ」

ぽつりと零れた言葉。
リタは、レイヴンの顔を真っ直ぐに見つめていた。

「ありがとう、って」

それは、レイヴンに向けられたものなのか、その人物に向けられたものか、リタの真意は分からない。レイヴンは一瞬だけ言葉に詰まるも、リタに気付かれぬように、笑みを返していた。

「そいつの名前やら何にも知らないの?」
「うん。研究所の人間だと思いこんでたの、だから、いずれどこかで会うだろうって、でも、それっきり。顔もおぼろげにしか、ただね。綺麗な翡翠の色をした目をした人だったわ」
「そうなんだ」

レイヴンは、内心、やっぱり、ねと一人ごちていた。
夕暮れ時は様々な記憶を呼び起こさせる。過去の邂逅。
まだ、それはレイヴンではなくシュヴァーン・オルトレインとして名を与えられていた頃だった。
ある人物からの呼び出しを受け、訪れた部屋。分厚いカーテンの隙間から射し込む光だけが恵まれた体躯の輪郭を浮き上がらせていた。重圧すら感じさせる机を前にして座る人物。もう今は亡き、最も尊敬されるべき人物だった。描いた理想に突き進む内に歯車が狂い始めては、何時の間にか、本人もまた深層の淵に立っていたのだろう。引き摺りこまれたまま帰って来ることなく、その罪と共に消えた人。シュヴァーンもまた同罪だった。次第に歪み始めた、その人を止める術すらも知らずに、ただ、一度止まった心臓が再び鼓動をし始め、目覚めれば現実そ知り嘆き悲しんで己を失い始めていた頃。
今にして思えば、全てが狂気の沙汰に見せた幻覚のような年月の始まりでもあった。

『アスピオですか』
『私を良く思わぬ者ががいると、聞いたのでな。密かに貴族の一部と手を組んでいるらしい。判断はお前に任せる』

それだけで、何を言っているのか理解していた。何時の頃からか、この人物の理想遂行の為には、その思想に相反する者を不穏分子と名づけ、それを内偵しつつ、利用価値があると思えば生かしていた。いずれ来る時の為に。そうでなければ、この手でその命を奪うだけ。そんな繰り返しの毎日。シュヴァーンは、無表情のままにそれを即座に行動に移す為のシミュレーションを組み始めていた。

『では、早々に』
『発つのは明け方でよい』
『はい』

踵を返し掛けた時、シュヴァーンは呼び止められた。珍しくも、忘れていたかのような声色とでもいうのか、本当についで、という表現が当てはまるかのような、思い付きだったのかもしれない。

『ああ、そうだ。お前の部下にでも、この少女の身辺を探って来させろ。後何年か後には、必要となる道具にもなろう』
『分かりました』

一枚の写真。そして簡単な身分を証明する記述が記された身上書とでも言うべきものを手渡された。目を通せば、まだ十歳そこらの少女ではないか。こんな子供すらも道具にするのか、と思う反面、その少女の経歴を見れば、さもあらんと納得しつつ、随分と安易な任務だな、と自嘲の声すら漏れそうだった。何時の頃からか、はっきりと記憶はない繰り返される殺戮の日々。それが、こんな少女であっても躊躇うことない。既に、シュヴァーンという名を与えられ、言うがままに動いている人形。やがて、それは次第に狂い始める寸前のことだったのだろうか。それとも、もう狂っていたのだろうか。

今となっては全てが曖昧で混沌としている過去。

少女の身辺は部下に任せ、問題の人物の動向を偵察とばかりに何かを探すふりをしながら、ひっそりと息を潜ませていた先は、アスピオ内に併設された図書館の一角。部屋の最奥にある古めかしい魔導書関連の書物が並ぶ中、一際、小柄な影がフラフラとしている。あんな子供が、と思うもここには建前上、年齢も身分も立場すら、何も関係のない街だった。ただ、魔導器に関する研究だけを行う場所、それならば、あんな子供が居ても不思議ではない。シュヴァーンは、周囲を気遣いながら、静かにその動向をみていた。

少し手を伸ばした先の本が欲しいらしい。必死になるも、あの背丈では到底無理だろう。暫く様子を窺っていた。きょろきょろとしては、頭に被っていたフードが外れると、鳶色の髪に薄い緑色の瞳が、姿を見せた。
ああ、彼女がリタ・モルディオであったか。
写真で見た記憶と一致する。確かに利発そうな顔立ち、幼さだけが残るも、意思の強そうな眼が印象的だった。
同じ色をしながらも、全く違う物だな。
シュヴァーンは、そう感じとっていた。翠の色は、鮮やかな色をした少女の瞳。澱みなく、澄んだ湖のようにも思える透明さ。それに比べれば、まるで薄く膜を張ったかのように、何か靄に包まれたかのような色とでは雲泥の差だろう。

そして、何かに気が付いたのか、一目散に走っていけば、大きな椅子を引き摺ってきている。その椅子に乗ったまでは良かったが、それでもやはり届かないのだろう。何か足元がおぼつかないでいる。ふらふらとしているのは、どうしてなんだろうと思った瞬間、足場がぐらりと揺れては、小さな身が空に放りだされていた。
瞬時にして、それを抱きとめていた。思った以上に軽く、そして華奢。ふらついていたのは、理由は体内から発せられるであろう熱のせいだと理解していた。

俺らしくもない。

誰にも見られぬよう、少女を抱かかえては、彼女の部屋に辿りついていた。それらも全ては調べ上げていた事であるから、簡単だった。
リタ・モルディオと分かった以上、関わるのは危険だと思っていたが、何故か見棄てられないでいた。アスピオを出奔し、この街のはずれで迎えの部下達と落ち合うのはまだしばらく時間がある筈だと時間を計算しては、身上書に記載されていた事柄を思い出していた。母親を亡くし、父親は不明。ただ、その類い稀な才能。遥かに高い位を持つ上級魔導士達ですら舌を巻くほどの見識だった。だが、僅か十歳にも満たない少女にしては、と思うと同時に部屋を見れば、誰かが立ちいる術もない程に荒れ果てていると言ったありさま。

この少女がどんな生活を送っているのか、瞬時にして理解していた。

辛うじて寝床らしき場所を確保すれば、そっと、その身体を横たえていた。その寝顔に、まだ、俺も人間らしい感情が残っていたのか。そう思わされるのは、何故かこの少女に対して湧き上がった想い、憐憫の情とでも言うべきもの。やがて、この少女もこの手で仕留めてしまう時が来るのではないか、そんな気がしてならない。
そっと、汗で張り付いた髪を撫で上げ、シュヴァーンは、周囲を見回すと、彼女が夜食の為にでも取っておいたのだろう。紅い果物が目に止まった。



『気が付いたのか?』

顔を見られては不味い為に、限りなく室内の照明は落していた。それ以前に熱が上がり始めていたリタは苦しげに唸っている。やがて、うっすらと目を覚ましたリタがシュヴァーンを見つめているも、どこか焦点が定まっていないようで混沌としている瞳。だが、それに相反するかのように、不審者を訝しんでは、眉をしかめている。それは彼女の持ち前の気性だろう。見なれぬ男がいると言うのに、震えるでもなく、きつく問い詰める声色。

『誰よ、あんた』
『誰でも良いだろう。それよりも、まともに食ってもいないだな、君は』
『よ、余計なお世話よ』

その辺は羞恥があるらしい。苦笑いが浮かぶも、それすら瞬時に消しさっていた。こんな子供に惑わされる感情など、ある筈もない、と言い聞かせながら。
躊躇う事なく、その額に触れては、やはり、先程よりも高くなりつつある熱を感じていた。

『少し熱が出ているな』
『ほっといてよ』
『それは出来ぬ』
『随分と偉そうね。あたしを誰だと思ってるの。命令なんてしないでよ』

自惚れではなく、どこから来るのか分からない揺るぎない程、自信に満ちた口調に、今度ばかりは苦笑いにも似た笑みが零れた。それはシュヴァーン自身にも、戸惑いを与える。苦笑いとはいえど笑う事など、忘れていたのに。それを誤魔化すかのように、目を閉じては払拭する。そうでなくとも、時間は限られているというのに、俺自身一体、何をしているんだと叱責するが、何故か、捨て置けない。

『少し、起きれるか』
『……何、するのよ』
『そう、警戒する事もないだろう。別に取って食う訳でもない』
『無理よ』
『やはり、な。気を失うほどだからな』

無表情を装い、傍らにあったものをリタに食わせようとしていたが、何か警戒しているのか、頑なに口を閉じたまま。

『ほら、口を開けて』
『嫌よ』
『じゃあ、自分で食えるのか?』

降参とばかりに、不貞腐れる表情。子供らしく、素直に聞き入れてくれることを願うも、案外にそれは簡単だったらしい。小さな赤い唇が僅かに開かれる。そっと流しこむかのようにして、スプーンを持って行けば、後は、もっと、と強請る。

『おいしい……』

一口、含んでは子供らしい、あどけない笑顔を見せた。穢れのない、こんな表情を見せる少女が羨ましくも思えた。相当な偏屈だとも聞いていたが、だが、それも自分自身を守る為なのだろう。どうか、この一時だけは、その頑なに閉じた殻を脱いで欲しい、シュヴァーンではない誰か別の自分が、そう考えている。そして、そんな物を手にしたいと願った日々は失われた現実がシュヴァーンという男を容赦なく引き戻させている。
もう、後戻りできない、とっくの昔に諦めている。
その中には、即効性の薬を混ぜていた為に、器が空になると同時に夢現な表情を見せるようだった。シュヴァーンは、静かにその寝顔を見つめては、何かに決別するような冷たい顔を作り、その部屋から抜け出していた。それが最期にシュヴァーンが人として見せた優しさだったのかもしれない。

完全な日没までは、まだ時間が残されている。この街の夕暮れは地形から、ゆっくりと夜を迎えるまでに相当な時を要する為に、室内を夕陽がじんわりと浸してゆく。

すっかり忘れちゃったと思ったのに、ねえ。
言い出せずにいた訳でもなく、言い出す必要もないと思っていた。もうとっくに忘れているであろう記憶。それとも、夢だったのかと曖昧なままにしておいてくれてたら良かったのに。
勘付いてるんだろうなあ。ほんと、リタっちってば妙な所で鋭いんだから。いや、そういう子だったのよね。ついつい、忘れがちになるけれど。
そんな事を想い描くと、感じる視線。リタは、じっとレイヴンを見つめている。まだ、何かを隠しているように天然小悪魔の笑顔が直視できないでいる。

「あたし、その人の目の色、何故か鮮明に思い出してた」
「……」
「あたし、その人の目と同じ色、好きなの」

ふふ、と笑っている。幸せそうな笑顔。あどけない、あの時の笑顔がオーバーラップする。
やられた。
思わず赤面しそうになっていた。
いや、もうばれているのだ。レイヴンは、片手で手を覆うしかできない。逃げも隠れもするつもりもない。それについては語るにしても、どこから伝えればいいのだろう。いや、そんな事よりも、リタが、さらりと言ってのけた言葉の意味が今更ながらにむず痒い。
普段は、好きだの、愛しているだのレイヴンはそれこそ軽薄に聞こえる程、言っている。リタとからとなれば、早々、聞かされるものではない。だから、こそ重みといえばいいのだろうか。ずっしりと堪えて来る。しかも、それと同時に滅多に見られぬ、優しげな色を浮かべている表情。あの時の少女ではなく、女というような艶を添えていた為に。

「味覚って侮れないわ」

ただレイヴンからは、その記憶に驚く言葉しか出なかった。ほんの気紛れとでもいうべき、与えた、たった一度の味だというのに、それを覚えていた記憶力の良さ。いや、たった一度だけだから、こそ鮮烈に覚えていたのだろう。他人から受けた、施しにも似た優しさという物が形にしていたのだ。仄かな甘い記憶の味として。
それは、同時にリタも思っていたようだった。

「そうね。あたしも忘れてたと思ったけど、どこかに残っていたの」
「……そいつ、もね。まだ完全な人形になり切れなかったのよ。道具としてね、どこかで本心を自分自身を欺いていた。そんな隙間に入り込んで来てた迷子の仔猫が、可哀想に思えた。やがて、この少女も道具にされてしまうんだろうな、ってどこかで思っていたから、つい最期の優しさなんて言う物を見せたのかもね」
「……うん」

でも、あの時、思い描いた未来は違っていた。
なら、それでいいじゃないか。もうすべては終わってしまった事なんだから、そう思うしかないだろう。今更、贖罪の言葉などリタには不必要だろう。この一瞬である今に全てが繋がっていたのであるなら、それだけでいい。その事実は、こうしてレイヴンの前に、悪戯っぽく笑みを浮かべているリタが傍らにいるのだから。
ほんと、子供だと思っていたら、何時の間にか、そんな表情を浮かべてくるんだものね。
そして、咎めて来るでもなく、赦されている。
橙色に染まった部屋で二人は静かに視線を絡み合わせていた。静謐さと、優しさが交わる瞬間。去来するのは、相手を想う愛しさだけ。リタが静かに目を閉じた時、僅かにレイヴンの影がリタに近付いた。
あの時と、同じ指先がリタの頬に触れる。

「ほら、さっさと寝なさい。昔話は終わり」

リタの髪をクシャクシャにしては、レイヴンはおっさんだって負けてないんだよ、というような意地の悪い笑みを浮かべている。今まで漂っていた雰囲気からリタは、レイヴンがどういう行動に出るのか、と予感めいていたものがあったみたいだが、それをあえて押し止めたのはレイヴンの方だった。リタといえば自分が思っていた事とは違う為に、真っ赤になっている。
ああ、なんだ。リタっちも、その気あったの。でも、さ。まだ微熱っぽいんだもの、こんな時にリタっちに変なこと出来ないわよ。
惜しいことしたわと、思わず苦笑いが浮かんだ。

「もう、何するのよ」
「大分、元気出て来たわね」

ほんと、子供みたいなんだから、とリタは思うのだが、こうして赦して、赦されるのであれば、もう、良いだろうと思う。いつの頃からか、曖昧さもまた答えの一つだと思うようになってきていた。レイヴンとこうして暮らすうちに感化されたのか。それとも、また、そういう選択肢もあるのだろうという柔軟な思考も兼ね備えてきている。

「そんじゃ、おっさん、下にいるけど、他に何かいる?」
「ううん。少しだけ休んでる」

「おやすみ」とリタに囁く声がしては、扉を開ける気配がしていたが、レイヴンはリタに声を掛けていた。何か思い付いたであろう感じで、振り返っている。

「リタっち、熱が下がって元気になったら、ちょっと俺様に付き合ってくれない?」
「……いいわよ。あ、おっさん、後でまたさっきのやつ、作ってよ」
「そんなに気に入ったの」
「いいじゃない。美味しかったんだもん」
「はいはい」

パタンと扉が閉まると、リタも深い息をはいて目を閉じていた。
やっぱりね、あの目をした人は、あいつだったの。おっさんだったのね。
自然と笑みが零れて来るも、やはり、何時の間にか睡魔が手招きをしていたようですっかり深い寝息が室内に零れていた。



それから数日後、完全に回復したリタの半歩先を歩くレイヴンがダングレストの街の中で見受けられた。

「ねえ、どこ行くのよ」
「え―とさ、この辺だったけどなあ」

どこに連れて行くかと思えば、それこそよく通う市場への道。格別変わった物がある訳でもなく、何があるのだろうかと思い何度か訊ねるも、はぐらかされては、その背に蹴りの一つでも入れたくなる。
今日も、ダングレストの街は忙しない。往来を行き交う人の流れは、一段と多くも思えた。リタが後をついて歩いている為に、人の流れから蘇芳色の背を見失いそうになる。少し人の波から外れては、レイヴンが立ち止まり、リタを呼び寄せた。
何だろう、と思えば、リタの手をしっかりとそのがっしりとした骨ばった手が掴んでいる。リタは、風邪による熱は下がったが、また、別の意味で熱が出そうになる。ただ、それすらも余裕という穏やかな風を吹かす男は、この街を束ねる男だという威厳もなく満面の笑みで見つめ返されるだけ。

「迷子になっちゃうからねえ。リタっち小さいから」
「余計なお世話よ。どさくさに手を繋ぐなっ!」
「ひっどーい」
「きもい声だすなっていうの!」

握りしめられた男の手をぶんぶんと振り解こうと必死になる少女。男といえば、だらしない程に緩みきっている笑みを浮かべては、少女が嫌がる素振りにも、嫌な顔、一つもせずに、それすらも、赦しているかのようであり、少女の方は、真っ赤になりつつも、ついには諦めたのか、男の手に連れて歩かれるまま、渋々と言った表情を浮かべていた。
ダングレストの住人からしてみれば、それもまた見なれた、ありふれた光景の一部になっていた。そして、この二人の同棲生活はどうやら本格的になりそうだと、噂する者も現れていた。噂が真実味を与えるのは、二人に漂う空気のようなもの。やがては、それこそギルドの幹部である以上、派手な式でも挙げるに違いない。そうなれば次には子供は何時頃だ、いや、どちらになるだろうと、新たな賭けすらも生まれてくるだろ。
そんな外野の声をレイヴンは小耳に挟みながらも、真っ赤に熟れては拗ねた表情を見せるリタの横顔にそっと忍び笑いを零すだけだった。


「あ、ここだわ」
「ここ?何よ、普通の家じゃない」

レイヴンが漸く、手を放してくれたかと思うと、この辺でよく見られる極々普通としかたとえのできない一軒家。しかも、市場に向かう途中にある、リタ自身も何度もその家の前を通っていた為に見覚えもあるが、リタの質問は無視。呼び鈴を押すと、その家の住人が迎え入れてくれた。レイヴンは顔見知りなのだろうか、招かれるままに室内に入って行く。老夫婦だけが住む家らしく、こざっぱりとした室内で何故かレイヴン達を待っていたと言わんばかりに居たものに、レイヴンの背後から、ひょっこりと顔を覗かせたリタは、それを見ては一瞬で顔を輝かせる。

「猫!仔猫!にゃんこ!」

リタが思わず驚喜の声を上げるのも無理はなかった。家人に抱かれた仔猫がいた。まだ二、三月ぐらいだろうか。レイヴンが語る詳細を聞けば、勝手に産み捨てられていた所を保護したのがこの家の人たちだと。だが、そんな話も聞いているのか、居ないのか。リタはすっかり仔猫に夢中になっている。

「うわー猫が猫をだっこしてる」
「なんか言った?」
「別にー」

両手を後ろ手にしては素知らぬ顔をしたレイヴンにきつい視線を投げかけるも、膝の上やら足元には三匹の仔猫がリタの周りをにゃあにゃあと騒がしく鳴いていた。白やら黒、ブチとこれまた全く種類の違う仔猫達。威嚇するのもいれば、興味しんしんとばかりにリタに近寄って来る。一番に小柄で痩せている好奇心の強そうな黒猫を抱き上げては、頬をすり寄せていた。

「全部は駄目だけどさあ、リタっちが気に入った子、一匹だけ選びなさいよ」
「……え?」
「飼っても良いわよ。その代わりに、規則正しい生活しないとね、仔猫のお世話係はリタっちだから」
「いいの?ほんとにいいの?するわ、絶対にするから」
「うん。いいわよ」

レイヴンが買い物帰りに見つけていたのは、猫を譲ると書かれた張り紙だった。何となくは考えていた。リタの生活態度を改めるにしても、誰かが見守るよりも、リタ自身に世話をさせる相手がいれば、いいのではないか、と。リタ自身、根は真っ直ぐ過ぎる程に真面目なのだ。その上、責任感も強い。義務ではないが、何かしら、世話をする相手がいれば、それなりに時間を気にするようにもなるだろう。
寝食を忘れて没頭するような機会も減るだろうし、何より、レイヴンが留守をしている間の癒しにもなってくれるだろう。
まあ、その一人は俺様だけどって、俺は猫じゃないけどさ。
そう内心思っては、仔猫と戯れているリタを見つめていた。

「ああ、もう。喧嘩しないの。あんたは、こら、爪出さないでよ」

何か仔猫を相手に、少女らしい可愛らしい笑顔を見せている。旅の途中でも猫を見つけては、好奇心旺盛に目を輝かせていたけれど、それもどこか変わったと思う。何か、愛玩するだけではない、自分よりも小さな命を幾つしむような瞳の色は、どこか大人びても見える。そして、あの気の強さだけでシュヴァーンを睨み返してきた少女を思い出していた。
あの頃のリタっちが、こんな顔するとはねえ。そういう俺様も随分変わらされたけどね。
生を二度も失い、生きる意味すらも失った果てに、生まれ変わったとでも言うべきなのか、いや、それ以前に変わらされたのだ。
男は女で変わる、なんて言ったけれど、ほんと、そうなのよ。

「ねえ、おっさん」

家人に出された茶を飲みながら、その光景を見つめていると、リタがレイヴンにとっては最大にして最強の弱点ともいえる笑顔を返して来る。
嫌な予感がする。
上目遣いで大きな瞳を更に見据えて来る時、何かしら、悪巧みではないにしろ、お願い事をする目だった。それもレイヴンが絶対に駄目だといえない、どこか仄かな甘さを漂わせた笑顔を見せる。

「やっぱり、この子たち、全員飼っちゃ駄目なの?選びきれないわよ」

予感的中。レイヴンは、項垂れるしかない。
俺様、いきなり3匹の親父になちゃったわ。そう周囲に愚痴を零すレイヴンが居ることも、近いだろう。






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