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「随分、可愛い仔猫に引っ掻かれたのね」

微笑んでいるように見せた表情は、一見、妖艶でありながら、恫喝するような視線が鋭く背筋が凍る。



レイヴンが、その女性を見かけたのは始業前の教職員用の駐車場。見慣れた真っ白なスポーツセダンからしなやかな足がするりと運転席から颯爽と降り立つ。学園一の美女にして、保健室の主。ジュディス。レイヴンが今日一番に顔を会わせたくもない人物でもあった。

──さて、どういう手口で行こうか。

覚悟を決めて、と。
ただ、その辺は、曲がりなりにもレイヴンとて酸いも甘いも噛み分けている、言いかえれば、それなりに歳をくっているだけに、臆することなく「おはよう」と声を掛けるつもりだったのだが、先制攻撃を仕掛けたのはジュディスからのようだった。絶句する間もなく、というより、まあ、想定されたこと。ただし、ここまで攻撃的だったのは油断。

何かしら言われるだろうとは覚悟していたものの、「いろいろありまして」と濁すべきなのか、それとも、「いや、転んでねえ、歳だわ」と誤魔化すべきかと悩む間もなく、ぐいっと顔が近づいた。日頃なら、あら、嬉しいねえと思うシチュエーションなのだが。

「仔猫、大切にしてね。そうじゃないと、分かってるでしょう」

ほぼ至近距離。吐息ですらかかりそうなほどだが、そんな甘い雰囲気ではない。どちらかと言えば、一発触発のような、何やら不穏な気配なのは、鋭いまでの眼光がレイヴンを見つめているから。

「苦しいです。胸倉掴まないで」

締め付けられる息の下、何とかそういえば、解放されぜいぜいと息を切らす。あー死ぬかと思った。

「何なの?いきなり」

くしゃくしゃになったシャツの胸元。ボタン取れてないよね?と確認する。
ジュディスは、女性にしては背が高く、その上、八センチはあろうと思えるハイヒール。男性であるレイヴンとほぼ身長差がない上にいくら女性だとは言え油断をしてたのだから、堪らない。

「心当たりあるでしょう?」

一体、何をしたら、そんな大きな絆創膏貼るような傷が顔につくのかしらと、嫣然と微笑んだ表情からは真意が読み取れないが、やはり、事態は悪い方向に進んでいるようにも思える。「えーと」と言葉に詰まり、頬を抑えてしまえば、私が犯人ですと自供しているようなものだろう。

「俺、そんな無責任な男じゃない、よ」
「そうね。でも、仔猫にとってはどうかしら?」

おっさんね、と普段のように軽口も言えない。思わず素で俺と言ってしまう。
散々、引っ掻き回されたのは、どちらも、同じだったろうが、年嵩な分だけ分が悪い。

「って、俺、まだ何も言ってないけど?」
「あら、何も言わなくても、その顔に書いてあるもの」

認める訳ではないが、彼女に嘘が通じるとも思えない。何より、彼女の差し金という名のチャンスによって、仲直りというべきなのか、どちらかと言えば進展というような形で決着したのだから、勘付かれてもおかしくは無い。

「これだから、女って……」

怖いとは言えなかった。それ以上、言えば、今度は止めなく薮蛇になりそうな思惑を湛えた笑顔に言葉が詰まる。



「おっさん、ここ分かる?」

放課後、まずはどんな顔で出迎えればいいのだろうと杞憂したレイヴンだったが、リタは何を気にするふうでもなく普段通りにやって来ては、以前と変わらぬ時間が流れていた。だが、今日は、正確に言えば昨日からは、少々事情が違う。すったもんだの末、晴れて恋人同士と呼ばれる関係になったといってもキス止まり。学園内では、あくまでも教師と生徒と言う関係で振る舞うと約束した夜が昨日。リタの変わらない様子に、あら、意外に大人なのね、と安堵しつつも、リタがそういう風に振る舞うのであれば、こちらも、以前と変わらないように心を鬼にするしかない。

「どこが分かんない?」
「うーん、問三のAからDまでの選べっていうこれ、この場合って、どの前置詞だったけ?」

リタに呼ばれて、どれどれと覗き込んでみれば、リタにしては珍しく、科学や物理という本来の得意教科外の教科書や参考書を広げ、悩む箇所があったらしい。と、いうのも数日間、学校を休んでいた為の課題を快気祝いに貰ってきたようだった。そして、今日は部活動の部屋で実験道具を弄るリタではなく、机に向かいながら何やら参考書との奮闘中。

「あーこれね」と、参考書を手にしてみれば、英文法の問題集に悩んでいた模様。リタは、うーん、と悩んでいる様子。シャープペンを握りしめたまま口元に添えて悩む姿が、これまた、可愛いのだけど、この場ではどうしようも出来ない。

「過去形になってるから、かな。この文章だと……。て、リタっち、何赤くなってんの」
「う、うっさい。近付きすぎなの!」

え?と、思えば、ああ、なるほど、ねと納得。
机に片手を突いて、リタの肩越し、背後から覗き込んでいる姿勢といえばいいのだが、傍目から見れば、背中越しに抱きしめているとでもいうのか。レイヴンの視線を集めているリタにしてみれば、昨日の今日に始まった関係では、意識しない方が可笑しいのだろう。

「ひっゃあ」

リタの間抜けな声が腕の中でした。ふざけるつもりは毛頭ないのだが、そのすっぽりと腕の中に納める。抱きごこちが心地よい。

「は、放して。誰か来たら……」
「誰も来やしないって。それに、そっちが誘ったんじゃないの、もう」
「誘うってね!」
「ほーんと、可愛いわ。リタっちって」

ぎゅうと抱きしめて、開放すると、すぐに逃げ出すかと思ったのだが、むくれたまま、動こうとはしない。

「おっさん、からかってるでしょ。あたしの事」

上目遣いの半べそ。照れ隠しなのもあるのだろうが、先に意識したという負い目もあるのだろう。

──ほんと、この娘って、無意識におっさん煽ってるの分かってんの?

これなら、悪態を吐かれて、殴られた方が数倍、いや数十倍ましだったろうか。潤んだ瞳が、これまたそそるんだわ、と妄想全開になりそうな気力を押し込める。

「からかったりしてない。ほんと、可愛い」

そこはきっぱりと断言。どれだけ、伝わるかは分からないが、少なくとも本心であるのは間違いない。
更に、熟れるほど真っ赤になったリタだったが、もし、この部屋に第三者がいれば、悶絶するほどの空気に耐え切れないかっただろう。当然、言われた当人ですら、絶句するほどなのだから。


辺りに暗闇が落ち始めた頃、そろそろ帰らないとまずいかなと思う時間。もうこの辺で切りにしたら、とリタに声を掛けては帰り支度を始めた。

「飯、食わない?駅まで送っていくからさ。あ、忘れもんない?」
「あっ、うん」
「まだ、課題残ってる?」
「そうじゃないけど……」

何かを言いたげな視線。愁いを帯びたような、それでいて、誘うというのか。少女ではなく、女。そんな雰囲気すら漂わせる。でも、ここで触れてしまえば、最後のような気もしてしまう。

「また、明日ね。会えるでしょ」

リタに気遣わせないように、先回り。

「……うん」

リタの頭をくしゃくしゃと撫でては、子供扱いすんなと怒る顔に笑みがこぼれた。



──ほんと、あたし、どうしちゃったんだろ。

帰宅後、部屋で一人っきりになると、急に地に足が付かないというような気持ちが沈むのが分かった。先ほどまで、一緒にいたレイヴンの残り香ではないが、何か、心に残るのは、郷愁にも似た寂しさ。思いが通じ合えば、それなりに変化した筈の心。だが、そうなってみれば、みればで更に圧し掛かる漠然とした不安に戸惑いを覚える。そして、まだ、もっと傍に居たい。その声が聞きたい、その指で触れて欲しいと望む自分がいることに驚かされる。

今日とて、放課後になるのが待ち遠しくて、日中、どこかですれ違わないかとそわそわしている自分がいた。たとえ、それが以前と変わらない気持ちだったとしても、今日からはどこか更に特別な気持ちが上乗せされたような感覚だったのかもしれない。

──明日がこんなに早く来て欲しいなんて……。

自分らしくない、こんなことを言えば、きっと笑われるだろう。でも、そんな笑った顔を許してしまいそうな気持ちすら、なんだか、切なくて愛おしい。



こちらも、帰宅してみれば、見慣れた1LDKの部屋。古い外観のアパートだったが、室内はそれなりにリフォームされているのを気に入り借りて住み始めたのは、何年前だったか。余り物に執着しない主義でもないのだが、それなりに過ごすのであればと、気に入り購入した革張りのソファの上に座り込むと、天井を見上げる。やけにがらんとした、その空間。一抹の寂しさまで湛えているように思えた。

じゃあ、明日ねと振り返ったリタを思い出した。長い睫毛に隠すように浮かべた寂しげな瞳の色。一昨日までは、何気なく交わされた言葉すら、今日からは、何か其々に意味を持っているようにも思えた。

「大切にするから」

そう約束したのは、昨日。いくらなんでも、ねと。昨日、リタの自宅で「リタっちが欲しい」と半分本音、半分冗談と誤魔化して言ったものの、いきなり十八歳の少女に肉体的な繋がりを求めるのは酷。今時の子供と揶揄する訳でもないが、そんな子供よりも複雑な感情を抱えているリタを相手にしては慎重にもならざる終えない。これが、年近い相手、少なくともそんな男女の機微など分かりきっている相手なら、ここまで苦労もしないだろうが。

──言葉だけじゃ、伝わらない事も分かってる。

大切にしたい宝物だから、こそ。そんな想いを分かってくれていると思いたいのだが、どこまで伝わっているのかと、悩む面もある。今日とて帰りたがらない素振りを見せた先に、何を意識していたのかと。多分、リタ自身、分かってないのだろうとも思えた。



鬱蒼とした日々が続く中、ある晴れた日。校庭の隅では、鮮やかなこの時期の花が初夏に近い日差しを浴びている。

「今、一人なのね」

その声に振り返れば、ジュディスが立っていた。今日は、細いブルーのピンストライプのシャツに濃紺の細身のタイトスカート。ハイウエストタイプのタイトスカート先からは、光沢感のあるストッキングに包まれた足。その見事な曲線が見え隠れするも、邪魔をするのは上着代わりの白衣。

「おっさんに用?」

「いえ、リタ、あなたに用があるの。いいかしら?」と、リタが一人いる教室は、科学クラブの部室。ふらりと、たまたま校内探索の途中とでもいうようにジュディスは、気負いなくリタのテリトリーに侵入してくる。

「おじさま……レイヴン先生とは、結局、どうなの?」

は?と手にしていたフラスコを落としそうになる。「あら、危ないわよ」と涼やかな反応。きっと世間話でもしに来たのだろうと、そう油断していたリタだからこそ、この動揺すらも予定内のこととして受け止めているジュディスに苛立ちを覚える。

「な、何言って!」
「あなたの家にレイヴン先生、寄越したの、私なの」

にっこりと、とっくの昔に全て何もかも知ってたのよと存外に漂わせる。ジュディスの大人の余裕とでも言うべきものにリタは微かな嫉妬を隠して、睨んでみるも幾ら威嚇しようが、ジュディスにとっては、何ともないのだろう。鷹揚という名を浮かべた笑みで返すだけ。

「可愛い仔猫に、引っ掛かれたのねって言ったら、珍しいぐらい動揺していたわ」

さすがにリタもジュディスが何を言いたいのか、理解したらしい。眉間に険しげな線を浮きだたせている。

ジュディスとて、本来なら連絡もなく数日間休んでいるのなら、自分が出向いてもいいと思っていた。それを女生徒が独り暮らしの部屋に男性教師を行かせたのは、一種の掛けだったと思う。いつからか、ジュディスは二人の関係が、教師と生徒という一般的なものではないと思っていた。ただ、当の男性教師は、のらりくらりと逃げ回っている様を目の前にいる女生徒は哀しげに見つめている視線に気が付かされたから。小さなお節介と理由付けては見守ろうと考えていた時に、この一連の出来事が転がり込んできた。

「何にもなかったわよ。別に」

素っ気なく返すも、ジュディスは、それを真実だとは受け止めてなかった。先ほどまでの、にこやかな表情に陰りを見せた。

「そう。それにしては、あんな傷負わせるような事されたの?」
「いつもみたいにからかってくるから殴っただけよ」
「本当にそれだけ?」
「あんたにそこまで言わなきゃならない?」
「そうね。そこまでは、流石に下種過ぎたわ。ごめんなさい。リタが納得していればいいの」
「……そういうつもりじゃないんだけど。あ、後、エステルに電話してくれて、ありがと」

素直に謝れて拍子抜けしたリタだったが、そういえば、と思い出すことは、ジュディスが親友に連絡を入れてくれたこと。一人暮らしで、病気となれば、それだけでも心細い。しかも、レイヴンとは喧嘩というのか、気不味い関係途中であった以上、頼るわけにもいかない。多分、そこまで知っていたかどうかは分からないにしても、親友に手をまわしてくれたことは、素直に伝えるしかない。

「私に話す事があるなら、いつでも保健室、来ていいわよ」

あくまでもリタの任せるという言い方だった。それは押しつけがましくもなく、あなた自身が決めることだからと、ある意味、レイヴンのような放任的な印象を受けた。そして、リタの威嚇する様ですら、余裕を浮かべた微笑みは、どこか似ている。

「別に、あんたに話しなんてないわ」
「そう?それならいいの」

何をいったい知っているのだろうと、リタが再び睨む。やっぱり、気を許せる相手ではない、と。ただ、リタに睨まれた所で動じるようなジュディスでもないのだが。


──えーと、何?この雰囲気。おっさん、入れないじゃない。

一見すれば、美人と美少女とでもいうのか、正反対の魅力を持つ女教師と女生徒の並びは、福眼的な要素もあるのだが、何せ、会話が聞こえなければ、その漂う空気が何か渦巻くような重さを漂わせている。ただ、ジュディスの方は、そんな気配はないのだが。一方的にリタがおどろおどろしい渦巻く気配を出しているだけ。
また職員室に戻ろうかとレイヴンが思った時、ジュディスの方が一歩早く、レイヴンの存在に気が付いたらしい。

「あら、レイヴン先生」

二人の美女と美少女に見つめられて、挙動不審とばかりに落ち着きを見せない男など居ないだろうが、レイヴンはまた違った意味で感じた落ち着きのなさは、恐怖感だったかもしれない。

「何か用でもあったの?」
「ええ、もう終わったからいいわ。お邪魔したみたいだし」
「あ、そう」

ひらりと白衣を翻し、教室を出る間際、丁度、レイヴンの横をジュディスが通り過ぎる時だった。

「意外に臆病なのね」

リタには聞こえないだろう小声が耳元で掠めて言った。え、何のこと?とレイヴンが振り返るも、既にそこにジュディスの姿は無かった。

取り残されるのは二人。

「おっさん、話しあるんだけど」
「えーと……」

ツートーンだけ低い、抑揚のない声。睨みつける瞳に、首の後ろ、盆の首辺りを抑え、レイヴンは今日は厄日だったけと天井を見上げた。




「何にも言ってない。言う筈ないでしょ?」

何度も言うセリフにレイヴンもやや疲れを見せる。ほんとに?、と繰り返されること、早、数回では済まないだろう。
同じく堂々巡りにリタも疲れた様子。

「おっさん、信用して、よ」
「信用できないから、こうなってんでしょ」

信用できないと言われて、項垂れるしかない。確かに今までに置いて、信用されてきたかと言えば、そうではない方が多い、多すぎるぐらいだろう。

「それでなくても、今までジュディスの名前出せば、あたしのこと散々からかってきた癖に」

そりゃ、そうだよね、と過去の自分を呪う。何かにつけ、リタを子供扱いした先に、比較対象としてジュディスの名前を口に出してきた。それが、密かなコンプレックスに繋げていたことを知る由もなかったと言えば、やはり、今までの関係性に胡坐をかいていたことのしっぺ返し。

「ほら、男ならあんな美人。しかも、あの体だからねえ。興味が無い方が男としておかしいでしょ?」

ふふんと、鼻を鳴らして腰の手を置いては自慢げなポーズ。胸を張るような事でもないのだが、これは素直な感想。

「……サイテー。今のあたしの前でそれを言う?」

ほんと、男ってと冷たく見下したような視線が突き刺さった。それ以外にも、一応、晴れて彼女という立場になった今、他の女性を誉めるというデリカシーの無さも咎めている。

「でも、リタっちみたいにこんなことさせる女なんて、他に居ないわ」

結構、男心も複雑なのよ。
ひょいと、抱き寄せては、長くなった前髪をかき分けてチュと額にキスを落とした。
あら、顔真っ赤だわ。

「何よ、誤魔化すな!結局、同じじゃないの。女なら誰でもいいんでしょ!」
「同じじゃないけどねえ。リタっち以外にこんな事しても嬉しくないし、ドキドキもしない。そもそも他の女にはしないけど」
「……本気で言ってんの?」
「本気も本気。たとえ、胸が発展途上だろうが、無かろうが、それはそれで……」

ぐっと顎に鈍い痛みが走る。星が見えるとはこんなことだろうなと思った瞬間、見事に入ったアッパーカット。 ゆっくりと倒れる間もなく、リタがサイテーと更に叫んでいた。バタバタと掛け出してゆく音がしたと思えば、ひらりと翻ったスカートが視界の隅に見えた。



──まったく、ほんとサイテー。バカ。何よ、おっさんの癖に。

持ちあげたかと思えば、落とすような、何でも落ちを付ければい言って言う訳じゃないでしょ。一瞬でも本気にしたあたしがバカみたいじゃない、とブツブツ言いながら歩く様は何やらどす黒い蠢くものすら漂わせている。そんなリタの横を、すれ違う生徒らは、そのオーラに慄き、モーゼの如く、道を開けるのだが、リタはそれすら気が付いていない。

ふと、足を止めた先に、保健室の文字が目に入る。

『私に話す事があるなら、いつでも保健室、来ていいわよ』

先ほどの言葉が脳裏に浮かんだ。ただ、相談相手が悪過ぎる。なんで敵に塩送られるような真似しなきゃならないんだ、と。どうしたものかと立ち尽くすが、はあ、とため息をついて踵を返した。少女は少女なりのプライドが許さなかったらしい。


「イテテ、ほんと。ちょっとは手加減して欲しいわ」

倒れる瞬間に、腰も強か打ちつけたのか、腰をさすりながら、立ちあがる。やれやれとこちらもため息。

──だって、おっさんだって我慢してんだからねえ。

抱き寄せたまではよかった。額にキスも、まだ、許容範囲だろう。いや、他人に見つかれば、それこそ大問題なんだがと、少しばかり油断していたことに自嘲気味。抱き寄せた瞬間、仄かに香ったリタ自身の香り。いつもは意識しないのだが、学校という場所に惑わされたのか、やや湿度の高い日のせいなのか、よく分からないが、何とも言えぬ清廉な香り。リタに限って香水を付けている訳でもないだろうが、強いて言えば、厳しい冬の中でも、日差しを浴びて凛と咲く花のような匂いだったかもしれない。

年甲斐もなくと、自虐的になるも仕方ないだろう。



レイヴンの自宅にリタが来ることは、これで何度目だろう。片手では足りないが、両手では事足りる程度だったろうか。二人は、四六時中、一緒にいるようでもあるが、それは学園内でのこと。担任でもなければ、担当教科以外で過ごす時間も限られている。レイヴン曰く、借りてきた猫とはよく言ったものだが、初めて来た時は、大人しくしていた筈。ただ、それは、お互いに感情の行違いを見せた時だったが、二度目からは、まるで昔からこの部屋に住み付いているかのような振る舞いをリタは見せている。

そして、無防備過ぎるのも困ったもんだけどね、と首筋を掻くのは癖なのだが、大抵、そういう時は何かしら企みを逡巡させていた筈。だが、今の状況は、本当に困り果ててのことだったろう。

ベッドの上で、すうすうとうたた寝をする姿。

細い黒と白のボーダー柄のTシャツ。そして、珍しく黒のふわりとしたミニスカート。暑いからと、部屋に着た途端、早々に脱いだハイソックスはどこに行ったのか知らないが、剥き出しの生足が十代の少女だけが持つ肌の弾力をこれでもかと見せつけている。リタの足もしなやかさで言えば、ジュディスのように均整がとれそそられる物は十分にある筈。ただ、こちらは、小柄な分だけ可愛らしさが目立つのだが。

──おっさん、犯罪者にする気なの? まだ高校生なのよ?それより、おっさんてロリコンなの?

再度、無防備なのも考えもんだと、思うしかない。


『あ、ちょっと買い忘れたもんあったから、そこのコンビニ行ってくるけど、なんか欲しいものある?』
『うーん、お水。あ、炭酸水がいい。レモンのね』
『りょーかい』

そんな会話を、本を読んでいる視線も外さずにしていたリタを残し、出掛けたのは僅か数分、いや、十五分前後だったと思うのだが、帰って着てみれば、自分の寝床──ベッドの上で、これまた、自分が先ほどまで着ていたカーディガンを毛布代わりにして眠り込んでいる姿。

「リタっち、眠いのならきちんと……」

タオルケットを掛けようとした時、その姿に見入ってしまう。横向きになったまま、胎児のように丸く体を丸め、膝を抱え込むように折りたたんでは、肩に掛けたカーディガンの袖口をぎゅっと握りしめている。確か、胎児のように眠る時、母体回帰ではないが、不安と隣り合わせな深層心理だと、聞いたことがある。多分、科学的根拠もない、世間話のネタだろうと笑ったものだった。ただ、気になったのは、ぎゅっと掴んだままのカーディガン。小さな子供が何時もお気に入りの毛布を手放すことのない──ライナスの毛布ではないが、執着行動のようにもみて取れて、若干、不安が広がる。

子供っぽいと揶揄することはあっても、どこまで子供なのか、その境界線が曖昧すぎる。

──無理させちゃってんのかねえ。

リタ自身は何とも思っていないのかもしれないが、幼い頃からだれにも頼らない生活を送ってきた聞いた事があった。複雑な家庭の事情とでもいうのか、そんな背景を背負った人間は、他人が入りこむことを極端に嫌う傾向にあるとレイヴンは過去の経験からも知っている。そんなリタがレイヴンの自宅にやってきては、何をするでもなくこうして過ごすのも、リタが望んでの事だったが、その反面、他人との距離を隔てる少女が、必死でこの居場所を守ろうとしているようにも見えた。

──おっさんは、どこにも行かないから安心してよ。

眠るリタにそう呟いては、髪を撫でた。


「やだ、もうこんな時間じゃない」

おっさん、起きろと起こされたのはいいのだが、もう少し優しく起こして欲しいと、レイヴンは踏まれた腰をさすっていた。リタの寝顔を見つめていたのだが、一向に起きる気配もなく、どうやら、レイヴンも睡魔が移ったかのように大欠伸をしては、ベッド近くのソファで横になったまま眠りこけていたらしい。

「あーほんとだ。電車の時間……大丈夫?」
「大丈夫だけど、外、なんか凄い雨降ってない?」
「ありゃ、ほんとだわ」

眠っている間に降りだした雨音は、会話すらも途切れさす程だった。近年、予測が難しいとされる集中豪雨のような気配。窓辺に立って、レイヴンが見上げた空は、真っ黒以外なにも映す気配はなく、時折、稲光と共に雷鳴すらも聞こえてくる。窓を叩きつけるかのような雨脚は更に強まっていた。

「まさか、電車止まってないよね」
「これぐらいなら、大丈夫じゃ……」

レイヴンがそう言いかけた時、ほんの少しだけ室内が暗闇に覆われた。それはほんの一瞬だが、この雨の強さを物語っている様子を伝えている。

「あ、これどこか落ちたな」
「あのさ、おっさん」
「ん?」
「電車、止まったみたい。今日中の復帰無理っぽい」

携帯画面で運行状況を確認していたであろう、リタが、呟いた時、二人を何とも言えない滑稽な静寂が包んだ。


「……あ、はい。そうですか。どうも」

何度目かの電話を切ると、ため息をついたのはレイヴンだった。タクシーがあるかもと提案したのはリタ。ただし、周辺の事情に詳しくは無い為に、レイヴンが何社か問い合わせてみたのだが、やはり、この嵐にも似た大雨。大抵のところは出払っているらしいと電話口で説明された。近隣の目ぼしいところはもうない。電話をかけ始めて、早小一時間は経過している。今からタクシーが捕まったとしても、更に待たされるとまで言われていた。

「また?」
「うーん、なんか殆どが出払ってるみたい」
「そう……」

ベッドの隅で膝を抱えているリタの視線が痛い。時計を見れば、既に深夜と言える時刻。今日ほど、車を持っていない事を後悔した日はなかった。レイヴンを見つめる瞳に不安が見え隠れしているのがありありと分かる。

「……泊まってく?」

いっちゃった、ねえ。ほんと、どうすんのよ、俺。半ば、投げやりな気分。

「……リタっち?」
「……って、それしかないわよね」
「……だね」

何やら目には見えない緊張感が走ったような気もする。キス一つで大騒ぎするリタに余り無理強いも出来ないのは十分承知してのこと。努めて、紳士らしく、ここは振る舞うしかない。そして、なるべくは、重荷になることのないようにと、願いを込めて、レイヴンはリタに告げる。

「って、何もしないよ。まだ、そこまで気持ち固まってないでしょ?」


やけに時計の針の音が響く。本来、人が完全に睡眠に入った時は、自然と寝息らしきものが聞こえてくるのが、今は、その気配すらない。とにかく息を潜め、下手をすれば、寝返りを打つことすら躊躇われるほど。

──っていうことは、起きてるよねえ。

レイヴンが、眠れないように、リタもまた眠ることは出来ないであろう気配は、ひしひしと感じられた。

──明日、起きれるかな。

日中、惰眠を貪っていたのもあるのだろうが、何しろ、この緊迫感の漂う中で眠れるとしたら、相当な根性の持ち主だろうと思える程。それでなくとも、泊まると決めた時から一悶着。


「シャワー浴びたら?汗かいてるでしょ」

なるべくリタに重圧を感じさせないように、普段通り振る舞っているつもりなのだが、反応が鈍いなあと思ったのは、風呂上がり。濡れた髪を拭きながら、出てきたのはいいのだが、返答がない。ベッドの片隅で本を抱えて読む姿。リタが本の虫とでもいうのか、没頭しては、気が付かない事も多々あり、それほど、珍しいわけではないのだが。

「リタっち?」
「ひゃっ、えっ?」

近寄って、覗きこむようにリタの肩を揺する。瞬時に顔が赤らむのが、可愛らしく思えるのだが、ただ、本、逆さまだよ。それ、と指摘するまでもなく脱力感すら覚える。何時もなら、これ幸いと弄るネタが出来たと思うのだが、何かを言う度に、おどおどとした、まるでレイヴンの一挙一足に全神経を張り巡らしているかのようなリタをからかうのは、流石に、レイヴンですら躊躇われるほど。

「シャワー、浴びてきたら?」
「あっ、うん……」
「別に覗いたりしないし。鍵掛かるよ……リタっち?」

じっと食い入るように見つめる視線に、ああ、これかと、レイヴンは、その違和感を浮かべたかのような戸惑いの意味が分かった。

「なーに、見惚れてたの?」

ついには見せない、やや長めの髪を下ろした上に濡れている為に、余計、胡散臭さを醸し出しているのだろうとレイヴンは思い、この緊迫した間抜けな雰囲気を変える軽口のつもりで言ったつもりだったが。

「シャワー、浴びてくるから」

脱兎のごとく逃げ出す様にレイヴンは、え?ああ、と何やらキツネに抓まれたような感覚を覚える。

「あーバスタオル、掛かってるから、それ使ってね。きちんと洗ってあるからねー」

聞こえたのかどうかすらも怪しい。



適度な温度になったのを確認して、生温かい水滴が顔を、体を流れ落ちると同時に湯気がリタの体を包んでいる。
伸びた髪を留めようと思ったのだが、生憎、バレッタの類はリビングにあるバッグの中、今更、取りに戻れない。一瞬だけ、考えては、髪を濡らさないようにすればいいと思った。

──びっくりするじゃない。

まだ、心臓の辺りが激しく鳴っているのが聞こえるほど。レイヴンが感じたであろう違和感。それは、やはり、彼の姿だった。濡れた髪が、頬辺りを覆い、何時には見せない陰影が違う男性のように見えた。上手くは言えないが、常に見せている飄々とした顔ではない。当の本人からしてみれば、そんなつもりもないのだろうが、何故か、怖いという恐れに似た思いを抱かされるようでもあった。それを、何かと問われるとリタには理解出来ない。ただ、畏怖するような面もあるのでは、と思うしかないだろう。

──それに……変なことしないって言ってたじゃない。

一応、その辺は信用してもいいかと思うのだが、それはそれで何か面白くない。じゃあ、その先に進んでいいのかと、問われれば、どうしたいのか分からないと漠然とした不安。子供だと思われようが、怖いものは怖いの、と暗然たる気分に浸るしかない。そんな想いがぐるぐると回転木馬のように回るが、いくら考えた所で答えが見つからないのでは仕方ない。
シャワーヘッドから水滴が一つ、落ちては滑り落ちた。


「あ……おっさん、着替え……ある?後、ソファにあるあたしのカバンも取ってくれない?」
「へ?ああ、着替え?俺のだけど、いいの?」

ドアの向こう、顔だけを突き出して覗きこむリタの顔があった。扉のこちら側、リタ自身はバスタオル一枚だけ巻いたまま。脱衣所で、着替えなど用意してくる筈もない上に、さっきまで着用していた服でいいかと思ったのだが、汗をかいたのか、少しだけ湿り気を帯びていた。何となくこれから眠るというのには、不快感が残る。どうしようと思うのだが、あ、そうだ。借りればいいんだ、と思い付いたらしい。ただ、バスタオル一枚でレイヴンの前に出るのは、どうしたらいいの?と数分間だけ悩ませる。

「なんかあったかなあ」

ただ、リタが躊躇している程、レイヴンは気にも留めない様子。少々、リタからしてみれば拍子抜け。絶対に何かセクハラめいた言葉を一つや二つ、用意していると思っていたのだが。レイヴンは、気にも留めてない雰囲気でクローゼットを開けて探している。そんなレイヴンの後姿をリタは、居心地の悪さを抱えながら、待つしかない。

「これでいいか。後、はい、カバン」

と、渡されたのは男物のシャツタイプのパジャマ。

「ずっと前に貰ったまま新品だから」
「あ、うん。ありがと」
「早く着替えたら?湯ざめするよ」

再び、脱衣所でリタは崩れ落ちそうになるのを必死で留めていた。

──何よ。少しは何か言ってよ。あたし一人舞い上がってるだけじゃない。

張り付いた髪が気持ち悪さを伝えてくるようで、何か苛立つ気分もある。早々に着替えては、髪を二つに緩く結んだ。
鏡に映る姿を確認しては、しっかりしなさい、と自分自身に喝。さすがに、男物のパジャマだけに、上だけ羽織るだけで、ほぼ、すっぽりと覆われる。ずり落ちてきそうな大きさの袖を捲ればなんとかさまにはなるだろう。


「あれ?おっさん……」

再び、戻ってみれば、リビングのソファの上でタオルケットに包まろうとしているレイヴンがいる。

「リタっちは、ベッド使っていいから、おっさんはこっちで寝るわ」
「え?」
「えっ、て何?」
「だって、おっさん、そんなとこで寝たら眠れないでしょう?」
「別に大丈夫だよ」
「良くないわよ」
「って、ベッドで一緒に寝る?」

淡々と言われては、リタは言葉に詰まった様子。男物のパジャマだけを着たという無防備過ぎる状態なのに、更に、その裾をぎゅっと握りしめてレイヴンを見つめている。

──頼むから、リタっち、おっさんをこれ以上追い詰めないで。なんですか、そのご褒美みないな格好。おっさん、誘惑してんの?そんな泣きそうな顔しないでよ。まだ、犯罪者になりたくないんだから。
平静を装うも、正面向いて話せない。

「……っ、そ、それは」
「でしょ?」

──何が、でしょ、よ。そんな何でもない風に言わないでよ。あたしだって。
と、リタは既に半泣きに近い気分。
恥ずかしいというよりも、本気で泣きたい気分。だって、急過ぎるわよ、この展開。

「あ、あたしがこっちで寝たらいいじゃない。おっさんこそ自分のベッドで寝ればいいじゃない」
「そういう訳にもいかないでしょ。リタっち寝相悪いから、落ちるよ」
「あんた、何でそんなこと知ってのよ」
「散々、今まで昼寝したりしてた時、その辺、転がりまわってるじゃない」
「いいの、大丈夫だから」
「良くないって」

お互いの想いを隠したまま、喧々囂々と言い争うことで体力も気力も使い果たしたのか、じゃあ、とレイヴンが提案したジャンケンで勝った方が、ベッドで寝ることで決着をつけたのが、更に三十分は経過していただろうか。



──で、お互いに意識して眠れないってねえ。情けないわ。

レイヴンは、寝返りを打とうにも狭いソファの上では、思うようにならないまま、天井を見上げるしかない。

リタが、ひょいと扉から顔をのぞかせた時もそうだった。ドア越しに多分、バスタオルだけの姿やら何故かパジャマの上着しかきていない姿を意識するなという方が可笑しいのだが、普段のようにセクハラめいた発言でもすれば、また、冷ややかな視線どころか、警戒されるのは分かり切っていた。

──下手に追い詰めて、泣かれても厄介だしねえ。

それに、今更、女の裸の一つや二つでどうという歳でもないのもあると言い聞かせて、紳士たるというのか騎士のように振る舞っていたのだが。ただ、リタの何か拍子抜けしたような表情にいつも通りにふざけたセクハラの一つでも言えば良かったのかという判断ミスも浮かぶ。調子狂い過ぎ。

──あ、目覚まし。そういや、セットしてなかったけ。

この状況下、眠り込んで二人とも遅刻などしようなら、それこそ、更に変な誤解をするかもしれない人物が思い浮かんだ。今度こそ、絞殺される。あの目は本気だったと、思うのはジュディス、その人。
ピリピリと張り詰めた緊張感漂う中、レイヴンは、ええいと覚悟を決めた。

「リタっち、ごめん。そっちに目覚ましあるから、取るね」

眠っていないというのは気配から感じている。それなら、もう、いいか、と。自分が緊張したところでリタは更に凍り固まっているに違いない。



ギシっと軋む音がした。枕元が沈む感覚。レイヴンがリタのすぐ傍にある目覚まし時計に腕を伸ばしている気配を感じた。リタも当然ながら眠れないまま。レイヴンに背を向けて眠る姿勢だったのだが、背後に感じる視線のような存在に様々な想いを抱え込んでしまっていた。

──え?ええ、どうしよ。ほ、ほんとに目覚まし取りに来ただけ?

ぎゅうと目を瞑るのだが、どうせ、ばれてるわよね。まだ気配は感じている。盗み見るつもりで片目をそっと開けた。

「あ……」
「えーと、その……」

二人の声が重なりあう。ちょうど、レイヴンが手を伸ばそうとした時、視線が絡み合う。

「やっぱり、起きてたのか」
「……うん。眠れない」
「添い寝、してあげようか?」

おっさん、調子狂ってんじゃない?とリタはため息をつくしかない。どうして、この状況でその台詞を吐けるのだろうと思う。さっき言ってくれた方が全然良かったのに。変に気を回したかと思えば、今度は、この言いざま。ただ、お互いに気遣いのようなものが空回りしているのが、可笑しくも感じる。そう思うことで少しだけ生まれるのは余裕と言うべきもの。

「添い寝、だけなら……いいわよ」

もう覚悟決めたとばかりにリタはそう告げた。そうすれば、今度はレイヴンが硬直する番だった。リタは、レイヴンの方に向きを変えるために寝返りをうち、ここに来ればいいでしょうと、ベッド脇に体を寄せている。

──えーと、これは、そのどういう意味というのか、つもりなんだろ。何なの?ほんと、この娘って。

いい歳して、と思ったのだが、据え前くわぬどもなんとやら。いや、でも手は出しませんよ。

「添い寝だけ、ね」

レイヴンは自分に言い聞かせるようにして、半ば、投げやりな言葉を吐いた。「リタっち、ちょっとごめんね」と、ぎゅっと、やや乱暴に抱き寄せる。「そうじゃないと、リタッちの後ろにある時計とれないの」と説明するのだが、何やらぎゃあぎゃあと騒ぐリタを組み伏す姿勢でタイマーセット完了。

「ちょ、ちょっとおっさんってば」
「黙ってなさいって、六時でいいよね。それから帰っても大丈夫?学校、間に合う?」
「……うん」
「そんじゃあ、六時にセットしたから。はい、おやすみ。少しでもいいから眠ってた方がいいから」

そうそうに目を閉じたのだが、何やら腕の中から強烈なまでに視線を感じて眠れない。まったく、と目を開ければ、やはり、子供のように目を大きく見開き、珍しいものを見たかのようなリタに思わず笑いそうになった。

「……あたしってそんなに子供なのかな」

魅力とは言えないプライドもあるのだが、やはり、この男の目にどう映っているのかは気掛かり。同衾して、男が手を出してこない状況というのも、余りにも情けない、とリタなりに思う所はあるのだろう。

「どうして、いきなり、そんな事言いだすの」
「だって、おっさん、何も言わないもん。普通、こういう格好って男の人って興味湧かないの?それに、こんな状態って普通は……」
「……リタっち、なんか変な雑誌でも読んだ?」
「何それ?」

きょとんとした顔を見ると、その手、いわゆる成人男性向けの雑誌から情報を得た訳でもなさそう。だが、やはり、何かしら思うとこはあるのだろう。

「それならいいけど、あのね。好きな娘が、バスタオル一枚でいたりとか、パジャマ姿でウロウロしてたりして、どうにかならない、何とも思わない男なんていないんだからさあ」

あんまりおっさん刺激しないでよ、と萎える気分を押しとどめる。無防備かと思えば、こうやって男が翻弄されるような事を分かっていながらやっている。とんだ小悪魔じゃないの。

「だって、さっきなんて……」
「あー、はいはい。もう、ほんとにねえ。可愛いって言うだけじゃ足りないのか」

さも面白くないというような半ば投げやりな感情をありありと浮かべた口調にリタは思わずカッとなった。

「だって、その言い方だって!あたしのことバカにして」
「さっきからだってばっかりじゃない」
「……うー……だって……」

おっさんがきちんと答え出してくれないのが悪いと言わんばかりの責める瞳。レイヴンは、ほとほと困り果てた様なため息を吐いた。どうしたもんかねえ、と。抱き寄せたまま、リタの前髪をかき分けると、唇を寄せる。

小さな肩がピクリと跳ねた。
ああ、やっぱり緊張してんの。好きな子ほど虐めたいっていうのも、限度あるしねえ。

「怖いっていう気持ちも分かるし、それだけ大事で大切なんだよ。リタのことを傷つけるような真似だけはしたくないらね、俺は」

リタの髪を撫でながら、見つめる眼差しは、柔らかくて優しい。何時になく真剣な声色に、「うん」と小さく頷く声もまた、素直なまま。

「怖いっていうのもあるし、まだ、よく分かんない……かも」
「だったら、怖くないって思った時、分かった時でいいからさ」
「……ごめん、ね」
「なんで謝るの?」
「だっ……もし、あたしがもう少し胸とかもあったらって悩んでたんだから。それでおっさん手出さないのかなって」
「……気にしてたの?」
「……誰だって気にするわよ。ぺったんこだの幼児体型だの胸が発育不良だのって、頭ばっかりに栄養いってるんじゃないとか」

いや、そこまで酷いことは言ってなかったとレイヴンは思ったのだが。
ぼそっと呟くような口調には、完全に非難の色が浮かび上がっている。賢い筈なんだけどね。この娘。ただ、やっぱりその辺りは、普通の女の子なんだという安心感。だけど、あーあー、俺、相当、酷いこと言ってたのね。ほんと、ごめんね。謝って済む問題じゃないけど、と後の祭り。

「本気で言ってた訳じゃないんだけどって言い訳がましいよね」
「うん」
「即答されると……やっぱ、ごめん」
「謝って損した。やっぱりおっさんが悪いんじゃない」
「うん、そうです。だから、もう寝ようよ。おやすみ、リタっち」
「……ん。おやすみ」

リタが理解してくれたのかは、本当の所、よく分からない。ただ、くすっと小さな笑みを零して瞳を閉じると、やがて、寝息がこぼれ始めていた。レイヴンもまた、目を閉じる。

──ああ、臆病者は俺なんだ。

ふと、眠りに落ちる瞬間、ジュディスが言った意味が分かったような気がした。
大切な宝物だから大事にしたいと思うのは事実。でも、悲しませたくない、傷つけたくないからと言い訳を探しているのも、結局は、自分自身が、どこかで急ぎせしめては、嫌われ、失うことに恐怖を抱えているから。多分、ジュディスはそんな事を見透かしていたのかなと思った。

──失うようなこと、しないよ。

独り言のように呟いた時、リタの顔が浮かんだ。少し大人びた笑顔がそこにはあった。



往々にして、休日明け、月曜日というのは、学生や社会人の一般的な、カレンダーどおりの社会生活を送る者にとっては、その倦怠感さとこれからまた始まる一週間という長さの憂鬱さを伴ってやって来るものだが、レイヴンは、これまた今日は何度目だという欠伸を噛み殺した。

──早く帰って寝たい。

今思うのはそればかり。結局、あれから眠りについたと思ったのもつかの間。普段よりも早めの起床は、やはり堪える。
そして、やっと放課後がやってくるだろうかという一歩手前の時刻。リタも同様なら、そのまま、今日のクラブ活動は中止と決め込んでいた。窓辺に立ち、頬杖をついて生欠伸を噛み殺した時、ふと、背後から声がした。

「春眠暁をっていう時期でもないのにね」

ふふふと笑みを浮かべたジュディスが扉にもたれるかのようにして立っていた。膝上数センチから見える足が艶めかしいのは、相変わらずだねえ。ほんと。

「び、びっくりさせないでよ。ジュディスちゃん」
「あら、私の気配なんてとっくに気が付いてたと思ったのに」
「いや、完全にその気配消してたでしょ、今」
「さあ、どうかしら?それより、仔猫のご機嫌いかがかしら?」

──速攻、その話題ですか、はい。

レイヴンの目が泳ぐようだった。眠気も吹っ飛ぶわ、ほんと。

「今んとこ、ご機嫌麗しく、過ごさせていただいてますよ」
「そうなの、それなら良かったわ。難しいわよ、この時期の仔猫って。拗ねたと思ったら甘えてきたり、自分自身でも持て余すような気持ち抱えているのよ」

レイヴンの横で腕組みをしながら、口角を上げて見せるジュディスは悪戯っぽくもあり、どこか、嬉しそうにも見え、なかなか手強いでしょう?と言っているようだった。

──早々に振り回されてますよ。こんなおっさんがねえ。

そう言葉にせずとも、レイヴンはそんな表情を浮かべると、ジュディスは、静かな笑みを湛えていた。

「あのさ、ジュディスちゃん」
「何かしら?」
「臆病の意味、分かったわ。確かにね、ずるいわ」

交差させた指を後頭部で組み合わせると、うーん、と背伸び。

「ただ、ずるいけど、大人になるまで、待つって言った以上は……まあ、責任は取るつもりだよ」

しみじみとそう言えば、ジュディスは、ふっと風のような笑みを湛えている。遠くを見つめるかのような、優しい眼をしていた。

「おじさまがそんなに苦戦してるなんて、ほんと、面白い物見せて貰ったわ」
「面白いって、悪趣味すぎない?」
「そうかしら?いつも逃げ回ってたのに、手に入れた途端、怖くなって、大切過ぎて手出しできないんでしょう?」

──ご明答。ほんと、この娘、なんなの?エスパーなの?テレパシーでも使えるの?

伸びをしていた腕が、ピタリと止まる。完全にいい当てられ、情けなさよりもその推察力に驚くしかない。いやいや、彼女もリタ程ではないが、随分、歳下で若い筈なんだけどなあ、と。なんでこうも手の打ち読まれてるんだか。

「それも含めての、大切な宝物じゃないかしら?だから、臆病でも、私はいいと思うわ」
「うん、まあ。そうだわ。そう、だね」

改めて言いなおすと、それでいいか、と。ぎこちなくも安堵する。

「また、仔猫の話し聞かせて貰うわね、おじさま」

それって、何よ。そんなに気になるなら本人に聞けばいいでしょと言いたかったレイヴンだが、ジュディスの姿はなく、変わりに、また、何話してたのとややご機嫌を損ねているような仔猫がレイヴンを見ていた。

「おっさん、あたしの事、言ってたの?」

えーと、と。どうやって言い訳したらいいんだろうと思うレイヴンにぐいと詰め寄るのは、今度はリタだった。
モテル男は辛いわ、そう思うしかない。

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