「昨日さ、マジヤバイの見た。あの子、男つれてたけど、今年で何人目よ」
「うそ、マジ?チョーやばくない?」
「ウケるし。それよか、日焼けしてなくね?」
「昨日、あいつと海行ってきたし」
「やばいじゃん。あたしなんて近所のプール行っただけー。で、あの子って……」
会話として成り立っているのか、分からないまま、話題が二転三転としてはループ。きゃはははと甲高い笑い声、特有の声とその内容からクラスの大半の生徒はうんざりした表情を見せた。
ああ、もう煩いなあ。あたしら受験生なんだけど。
物理学教師に暇してんなら三年生対象の補講に参加してみれば?と言われ、たまには素直に言う事を聞いてやろうと思えば、この有り様だった。担当教師が授業開始時刻から十数分遅れて来たかと思えば、所用が出来たとかでプリント一枚配らせ、それっきり帰ってくる気配は無し。実質、自習状態。そうなれば、当然、騒ぎだす輩もいるわけで。どっちも真面目にやる気があるのかとリタはうんざりした気分に陥っている。そのリタ自身といえば、僅か数分でプリントは解答し終え、退屈という名にぼんやりと外を眺めるだけ。窓の外から見える風景は、見慣れた学園の校庭。ジリジリと焼けつくような日差しに、植物たちも元気なさげに頭を垂れる姿に、ため息しか出ない。先程から嫌でも聞こえる「それであの子ってさー」という噂話が更に追い打ち。
こんなバカ卒業させて大丈夫なの?
季節は、主に学生達にとっては夏休み。さもすれば開放的な季節。だが、受験生と名が付けば、立場は一転する。海とかプールなんてどうでもいい。そのまま海の藻屑にでもなってしまえ、とリタが毒付くのも仕方ない。
「バカっぽい!」
バンっと机を叩くと立ちあがる。一瞬だけ注目を浴びようが、ふん、あんたらの方が煩いのよ、と冷ややかな視線を投げつけ、教壇にプリントをバンと叩きつけては、教室を出て行った。
「こら、さぼりだろ」
そして、今、居るのは科学クラブの教室。同じく、夏季講習に出席とでもいえばいいのか、こちらは教える側なのだが、物理学の担当教師であるレイヴンが、呆れたように扉に凭れかかっていた。
「サボってなんかいないわよ。先生、来ないし。それに、あんな低俗な話聞かされるなら、こっちで実験でもしてる方がよっぽど有意義なのよ!」
逆毛を立てた猫のように怒りの矛先を向けられたのだが、そんな事で動じる程でもない。何やら怒りの原因が意味不明だけに、興味を覚えた。
「低俗な話って?」
「彼氏と海行ったとか、誰が誰と付き合ってるっていう下世話な話。そういう話してる余裕ないんじゃないの?あの子たち。ほんとバカっぽい」
湯気が出そうに怒る所を見ると、相当なご立腹らしい。確かにこの学園は、名門伝統校ではあるが、一部の成金子女の奔放ともいえる派手さは問題になりつつある。ただ、他人に無関心なリタにしては珍しく、そんな彼女達に憤りを見せていることにレイヴンは、忍び笑いを漏らした。
「あーら、羨ましいの?」とは、面白いもの見つけたとチョッカイを出したくなるのは悪い癖だった。
「はあ?どうして、あたしが」
「だーって、それって、デートしたいからとかの裏返しじゃないの?」
「はあ?何なの?それ。まさか、おっさんの方こそ、デートしたいの?どうしてよ?まさか、ジュディスとじゃないでしょうね!」
半分、からかうつもりだったのに、墓穴を掘ったのは俺の方じゃないかと思うレイヴンは、壁に頭を打ちつけたい気分。いや、それ以上に、どうして?と答えられたのがショックを受けた。ジュディスからのお誘いなら受けたいのは山々だが、そんな美味しい話がある訳でもなく、当の恋愛関係においてにいうところの彼女から言われたのだから。
おっさん、当分、立ち直れなさそう。
柱にゴンと頭を打ち付け、ひんやりした壁の冷たさを感じる時、リタの親友であるエステルとその彼氏であるユーリが思い浮かんだ。彼らは今は大学生。当然、あっちの方がいろいろと確実に進んでるわよねえ。夏だもの。
「いやーそのさ」とこめかみを押さえるしかない。
何とか、脱力する気分から必死で立ちなおそうとするのだが。当のリタは、あたし、なんか変な事言ったけ?と怪訝そうに見ている。
「だってさ、一応、俺たちだって、ね?そんでもって、夏休みだし、デートの一つや二つねえ」
「だから、なんでそれが羨ましいになるのよ」
「うーん、リタっち、勉強もいいけど、少しは遊んだ方がいいよ。受験生っていうの抜きにしても」
半ば憐れみの目をもって言われると、小馬鹿にされたと感じてしまう。実際、そうではあるが。
「あたしは、今のままがいいの。何よ、おっさんこそデートしたいの?」
「うん、まあ、ね。当然、リタっちとだけど」
「……え?ほんとに?」
だから、なんでそこで漸く気が付くのよ、この子ってば。 しかも、薄ら頬染めてるし、そんな滅多に見せない可愛い顔するのよ。頼むから、こんな可愛い顔、余所の男の前でするんじゃないぞ。ほんと。
レイヴンのそんな想いなど露知らず、リタは、何やら考え込むような表情を浮かべる。
「今だってそんな感じじゃないの?あたし達」
「そう言われたら、そうだけさあ。リタっちは一緒に出かけたりするの嫌?」
「そうじゃないけど、学校の帰りに一緒にご飯食べたりしてるし、昨日の夜だって一緒って、何言わせんのよ。この変態教師」
「いや、まあ。早々派手には出来ないけどさ、リタっちだって普通の高校生したいでしょ?」
「あたしが普通の高校生じゃないっていう訳?あんな低俗な高校生なんていやよ」
「うん、低俗ではないけど、普通とは違う。断言する」
どうして、こんな会話してんだろ。あたし。ほら、少しばかり変わってるわよ。変人なんていう嬉しくないあだ名あるわよ。でも、そんなあっさり肯定しなくてもいいんじゃないの。
腕組みをしてうんうんと頷くレイヴンに、どうやら、物理学を持っても乙女心を理解してくれない教師には落胆するしかない。
「あ、いや。そんな変人とかじゃなくて個性的っていうか偏物っていうか」
「結局、一緒じゃない。もう、いい。あたし、帰る!」
「え?いや、待ってってば。ちょ、ちょっとリタっち」
大股歩きで、勢い良く正門に出た途端、立ちくらみすら覚える暑さがリタを萎えさせた。本日最高気温40度。ここは砂漠かと思うほど。雲一つなく晴れ渡った空、じりじりと焼けつく校庭に蜃気楼が浮かんで見える。
「こんな時間、帰っても暑いだけよ」
涼やかな声の持ち主にリタは振りかえれば、「冷たいものあるわよ」と、保健室の主、ジュディスが微笑んでた。
外の暑さに比べると、幾分マシに思えるのは冷房の利いた保健室。どこに隠してあるのか分からないが、ジュディスは、どっちがいい?と小豆味のバーアイスキャンディとバニラのカップアイスを取りだして来てはリタに見せた。
どちらも、誘惑されるが、暫く考え込んで、そっちと指したのは小豆の方。
「他の生徒には内緒よ」
別にアイスにつられた訳じゃないんだからねと、妙な言い訳をしているリタは何やら居心地の悪さを感じていた。ジュディスが、レイヴンとの関係をリタ自身認めた訳ではないが、何やら勘付いているだけに──苦手と気恥しさ。そんな意識がある。
「……ありがと」
一口含んでは、硬いアイスを頬張るとその冷たさと甘さに、少しだけそんな気遅れも融けていく。ジュディスがバニラアイスクリームを食べようとしている姿を何となく眺めていた。
「また、おじさまと喧嘩でもしたの」
ジュディスはその紅く艶やかな口元に、乳白色のアイスを一口放り込んだと思えば、リタには爆弾投下。
「顔に書いてあるわよ。あなた達ってほんと仲がいいからすぐに分かるわ」
無言を選らんのは、口の中でアイスがなかなか融けないから。硬過ぎなのよ、このアイス。
リタとしては、表情を変えずにいるつもりなのだが、ほんと、すぐ顔に出るのね、と微笑むジュディスの表情が恨めしい。リタは、歯の折れそうなほどに硬いアイスをバリバリと頬張るしかない。口の中でひんやりとしたアイスが融け、冷静さを取り戻されるのか分からないが、何時だったか、いつでも話聞くわよと言っていた言葉を思い出した。
少しだけため息。
「あのさ、ジュディスも、彼氏とほとんど毎日一緒にいてもデートしたい?」
「そうねえ」とジュディスは、突飛とも思えるリタの言い分に耳を傾けている。
「そのデートって言うのが、どういうのか分からないけど」
「例えば、帰り道にご飯食べたりとか、部屋で一緒にいたりするの。別に何かするっていうんじゃないんだけど」
「普通は、それもデートっていうものだと思うけど、人によるかしら?」
「そ、そうよね」
人によるという意見は無視。ジュディスが言うなら、デートには変わりがない、と、何故か言い聞かせるように頷く。
「でも、ね。リタの年頃じゃなくても、今なら海行ったりとか、したくない?海じゃなくても映画とか、遊園地とか」
「日焼けするし、人多いの嫌いだから行きたくない」
「ああ、そう」
ほんと、おじさま、苦戦するわね、と、レイヴンに密かに憐憫の情すら浮かんだ。リタが唐突に何を言い出すのだろうと思えば、どうやら、デートに関しての意思疎通がうまくいってないことだろうと考えた。
「でも、早々大っぴらに出来ない関係なら仕方ないのかもね」
「……そんな変な関係じゃないわよ」
「そうね。でも、教師と生徒は多少ならずとも問題には、なるわ」
「……誰も、教師と生徒だなんて言ってない」
「あら、私、リタのことだって言ってないわよ?」
「……だったら、どうしてそんな誘導尋問みたいなことするのよ」
虚勢を張るも、耳まで赤くなっているリタを、ジュディスは本当に嘘が付けないのねと思う。年上の余裕とでもいうのか、まだ、恋をし始めた初々しさに一喜一憂する表情が純粋で、愛おしくも思うも、そんな事は億尾にも出さずにアイス、垂れてるわよ、と。
「今って言う時間、大切にして貰いたいんじゃない?隠れて付き合うなんて、本来、リタの性格からは嫌っていうの分かってる筈でしょう?」
「だから、それは、あたしだって、おっさんの立場考えたら納得してるの……」
そこまで言って、リタは完全黙秘を選んだ。飲み込んだアイスの塊によってこめかみがズキズキしていたのに、別の意味で頭痛がする。ええ、そうです。付き合ってます。一緒にいるだけで満足なんです。もう、あのおっさんが好きなのよって放送室から全校生徒に言い出したい気分。頭は冷えている筈なのに、頬が熱い。両手で頬を抑えては唸るだけしか出来ない。
「別に、あなたをからかう訳でも虐める訳でもないの」
慌てふためいているリタを横目にするかのように、何時になく真剣なジュディスの眼差しを向ける。
「エステルやユーリが卒業してから、あたな、時々、塞ぎこんでる時あるでしょう?」
「そんなこと……」
ないとは断言出来なかった。確かに、去年までは、エステルが傍にいてくれた。ただ、リタが三年生になるということは、一学年上のエステルは卒業し、大学生という新たな生活を始めている。せめて、エステルが同級生だったらよかったのにと何度思った事か。今日みたいなクラスメイト達のどうでもいい会話や他愛のない事でも、お互いに話してしまえば、笑って済むだけの話。おっさんがいるから寂しくない、と思うも、そこは彼氏と親友では、思いやる立場が違う。
「そういうの心配してるのよ、彼。大っぴらに出来ない関係に負い目があるからこそ、リタにはもっと普通の高校生らしいことも楽しんで欲しいんじゃないかしら?」
彼、と言われて少しカチンと来るものがある。その彼が誰であるかを分かっているだけに、悔しい。しかも、ジュディスは、何でもお見通しだといわんばかりか、適格に、リタの気持ちやレイヴンの思惑まで言い当てている。
「あんたに彼なんて言われたくない」
「おじさま……レイヴンって言っていいの?」
「それは……」
「そうでしょう?」
「だからって、知った風に……」
と、言い淀むリタに、ジュディスは珍しく、少し考えるような表情を浮かべた。ただ、それは瞬きするかのような間。
太陽が沈むと幾分、涼しい風が吹いているようにも思えるのだが、思うだけでそれは日中の暑さと変わりがない真夏の夜。扇風機の風に当たりながら、アイスキャンディーを咥え、ソファに寝転ぶのは、行儀が悪いと思うも、おっさんの部屋だからいいかとリタは、携帯の画面を見つめながら考えあぐねいている。
TOリタ FROMエステル
リタ、元気ですか?今度の週末、泊まりがけで海に行きませんか?ユーリやフレンも一緒です。詳細は、後日メールします。木曜日までに、返事待っています。
そんなメールを貰ったのが、月曜日の終わり。そして、今日は水曜日。出来るなら、今日中の方がいいわよねと思うのだが、何故か、せっかくのエステルの誘いだと言うのに気乗りがしない。そもそも、この暑さが嫌い。海なんてもっと嫌い。それに、あたし、受験生なんだけど、と様々な理由を探しても、学園創立以来の秀才と言われたリタには、受験勉強らしいことなど全くやっていないに等しい上に、このまま試験を受けない以外は落ちないと太鼓判を押されている。結局、夏期講習すら、行く気が失せている今は、どうしようかと考え込む。
『普通の高校生らしいことして貰いたいんじゃない?』
ジュディスの言葉が浮かんだ。
でも、おっさんがいないとそんなの意味ない。そんなのつまんない。
と、考えて、ガバっと起き上がった。
「な、な、何考えてんのよ。あたし!」
大声を出したことに、はっとした時、携帯のメール着信音が鳴る。画面を見れば、エステルからだった。
帰り支度をし終えた頃、ふらりとやってきたジュディスの「海に行かない?」という意外なお誘いにレイヴンは振りかえった。
「え?ジュディスちゃんがデートのお誘い?いやー困るなあ」
「理事長のお孫さんが帰国しているんだけど、海外暮らしが長いから誰もこっちに知り合いがいなくて、夏休み退屈してるみたいなのよ」
話し聞いてる?と思うほどの完全スルーにもめげないのは、慣れた気安さから。
「孫ねえ?ああ、確か女の子だったよね」
この学園の理事長の孫といえば、年の頃は、確か十五、六歳ぐらいだったか。学園内で、その姿を見かけた事を思い出した。
「何、それで子守しろって?」
「まあ、そういう事よね。理事長所有の別荘があるの。プライヴェートビーチになってるから、何人か一緒に行ってくれないかって。まあ、監視役っていうとこかしら?」
「監視役ねえ……て、ジュディスちゃんも?」
「ええ、当然。そうなるわね」
「ほー海といえば、当然、ジュディスちゃんの水着……」
鼻の下が伸びそうなレイヴンに冷や水どころか氷山が投げ込まれた。
「──あら、おじさまの大切な彼女も誘えばいいんじゃない?」
「え?あ?彼女ってね、そんなの……」
いないよ、とは言えない。ジュディスが二人の関係を知っている以上、今更、否定しても白々しく虚しいだけ。その麗しい肢体を目の前にして水着姿も想像も出来ないほどに、萎えて行くのは気分。
「そう言えば、もう話行っているかも?」
「ええ?どういう事よ」
「仔猫の彼女に聞けば分かるわよ。取りあえず、明日までには返事頂戴ね」
ウィンクを残して去っていく同僚は、見惚れるほどの笑みを浮かべていたのだが、それすら、今は目に入らない。
特別約束をしている訳ではなかったが、リタがレイヴンの自宅に来ているとは予感していた。夏休み中、暇を弄んでいる受験生なんてこの世に居ない筈なのだが、帰宅してみれば、案の定、その受験生はリビングのソファで本を読んでいた。「ご飯食べた?」と聞けば、「まだ」。ついでに、「おっさんが作る方が美味しいもん」と言われたら、頑張るしかない。
夕食後、其々に思い思いの時間を過ごすのにも慣れた。レイヴンは、ベッド脇にある机に向かい持ち帰った仕事の書類を書いている。その傍ら、ベッドに寝ころんだまま本を読んでいるリタを見ると、お互いに何か言いたそうな視線が合った。
なんとなく、今日は気まずい。
「……リタっち、海行かない?」
キィと椅子の背もたれに背を押しつけては、レイヴンはリタの方に身体を向けた。唐突に思い出したかのように伝えれば、リタが「やっぱり」という表情を浮かべた。
「おっさんも、なのね」
「うん。そういう話あるんだけど」
レイヴンは黙って首筋を掻くしかない。何だか仕組まれたような、嵌められたような気もしないではないが。少々、何やら自分たちの預かり知れぬところで物事が運ばれているのが面白くないのもあるのだが。
「エステルからメールが来て、もし、行くなら、明日、買い物行かない?って」
本を閉じて、リタは起き上がると、レイヴンの正面に胡坐をかいて座る。
「何時連絡もらったの?」
「海に行かない?っていうのは月曜。さっきメールで理事長の孫娘があたしらとそんなに年変わらないから、遊び相手になってくれって」
「なんで、嬢ちゃんがそこで関わってくるの?だいたい、嬢ちゃん、大学生でしょう?孫娘って十五、六ぐらいだよ」
「その子、ユーリに一目ぼれなんだって。ユーリが相手しないのが可哀想になって話し聞けば、友達が、こっちに居ないっていうのが分かったからとか、なんとか……ほんと、エステルも物好きよね」
「はあ、嬢ちゃん、余裕だねえ」
多分、これがリタなら臍を曲げるどころか、大怪我するほどに殴られるだろうなあとレイヴンは思うのだが、そんなエステルが随分、大人になったようにも思えた。元々、エステルは困っている人を見捨てられない性格だが、いわば恋敵でもある少女にまで気遣いを見せるのは、やはり、ユーリとの間には絶対的な信頼とでもいうものがあるのだろう。ただ、ついこの間まで、リタと一緒になっては笑っていた姿といえば、幼さの残る少女の面影が浮かぶのみ。
「で、おっさんはどうなのよ」
ぼんやりとそんな事を考えていたレイヴンに、ずい、と近寄って来た顔は、なんだか照れているようにも見えるが、怒りも含んでいるような気配があるのだが。
顔に「行きたい」って書いてあるよ。
「どうって?」
「おっさんが行くなら……行って……あげてもいいわよ」
「何なのよ、それ」
「いいから、どっちなのよ!行くの?行かないの?エステルに返事しないと困るの!」
相変わらずの捻くれぶりに忍び笑いが浮かびそうになるが、リタのこんな一面が好ましいのも事実だけに、ここは素直に「そんじゃ行きますか?」と言えば、リタは、「おっさんが行きたいのなら仕方ないわね」と一応の納得を見せた。
ただ、盗み見たリタの横顔が、嬉しそうだったのには、安堵したレイヴンだったのだが。
肌を射す太陽が眩しく、蒼茫に広がる空と海は、どこまでも遠く、その境界線を曖昧に色濃く映している。雲一つない紺碧の中、入り江に面した奥まった白い桟橋の上で一人の少女が膝を抱え佇んでいた。
「もう、ほんとにむかつく!あの変態教師、おっさんの癖にバカっぽい!何よ、二点って!」
この光景に似つかわしくない罵倒を大声で繰り返しているのは、リタ。大きな麦わら帽子は、おっさん、レイヴンから先程、奪い取ってきたもの。半ば強制的に嵌められとでもいうのか、連れて来られたのは、離島に浮かぶ理事長個人所有のプライヴェート・ビーチが完備された白亜の瀟洒な別荘。そして、海と言えば、水着。夏と言えば水着と、ばかりに着替えてみたのに、リタの機嫌を損ねたのは唯一の人物。
「おっさんのバカ……」
膝を抱えて呟くと、余計に惨めな気分に陥りそうだった。
「着替え終わった?」
と、其々に割り当てられた部屋をノックする音がすれば、ジュディスがリタ達の部屋に来ていた。
おっさんが騒ぐのも仕方ないのよね。
リタがそんならしくない想いを抱かせるジュディスと言えば、その肢体を惜しみなく曝け出した際どいながらも大人の色気と貫録を湛えたコバルト・ブルーのビキニ姿。透け感のあるパレオを巻いては、普段なら結えている髪を下ろしているものだから、計算し尽くしたかのように、色気が加味されている。そして、親友のエステルといえば、清楚ながらも品のある白いワンピース。ジュディス程ではないが、身長もあり、すらりと伸びた手足がスタイルの良さが露わになり、緩やかに纏めた淡い色の髪のおくれ毛が、最近は富に大人という範疇の色気を醸し出している。何より、程良く男性の手のひらに収まりそうな膨らみを包んでいる胸元のレースたっぷりな水着が、余計に、その包まれた中を想像された。
「もう用意出来きたのじゃ。リタ姐はまだかのう」
と、パティ。理事長の孫娘。キラキラと輝く金色の長い髪、大きな青い瞳が印象的な少女だった。どんな我儘娘かと思っていたリタだったが、やや癖のある口調がインパクトを残した。ただ、忌憚ない物言いは、リタにとって、嫌味なものではなく、何か近い人種のようにも思え、すぐに打ち解ける事が出来た。しかも、リタよりも二、三歳歳下だったのが幸いした。そんな彼女は、ボーダー柄のタンキニ姿だった。マリンテイストが活発さと可愛らしさをパティの魅力を十分に伝えている。スレンダーと言えばいいのか、まだ発展途上の肢体は、リタとそれほど差がないのだが、十八にもなるリタと同じというのは、やはり、今にして思えば幸いでもなかった。
「ごめん、髪、まとめてたら遅くなった」
「おーリタ姐、なかなか似合っておるのじゃ」
当のリタと言えば、ピンクのギンガムチェック柄のホルターネックになったビキニ。腰のあたりにヒラヒラとしたギャザーフリルが付いている。 同色のシュシュをポニーテールにして留めていた。似合わないというのをエステルに「絶対に、似合っています」と力説されて、そうかなあ?と思いながらも昨日、買ったばかり。
そして、野郎共は、割愛。
ジュディスに、先に外に出ているから、「ユーリ達呼んで来てくれない?」と言われ行った先は、別荘のエントランス。高級リゾートを思わせる別荘のエントランス脇には、大きな窓ガラスがはめ込まれ、来賓用のソファが備え付けられている。そこで、たむろしているのは、さっさと着替えを済ませた男性陣。
「ジュディス達、先に行ってる……」
女性の支度に時間が掛かるのは何時もの事と、先にソファで待機していた連中の視線がリタに一極集中。
「え?何よ」
友達というのか仲間ともいえども、ここはやはり異性。しかも、リタもお年頃。その視線を浴びてしまえば、その視線の意味が分かるだけに、一瞬、躊躇する。彼らもまた、珍しいとも思えるリタの姿に一往が驚いたようだった。
「やっぱりエステルの見立てだな。案外、似合ってるな」とは素っ気ないながらもユーリ。「リタらしくて可愛いよ」と爽やかに誉めてくれたのはフレン。「うん、すっごく似合ってる!」と、元気いっぱいに言ってくれたのは、現生徒会役員のカロル。 人数合わせで呼び出されたらしい。
ついでにユーリが飼っているラピードまでわおんと誉めたのか吠えたのか分からないが、概ね、男性陣からはお世辞半分としても悪くは無い感想だった。
「え?そ、そんなことないわよ」
余り誉められるという事がないリタにとっては、異性からの言葉につい頬が赤らむのは仕方ない事。黙っていれば十分に可愛いのにと言うのはカロルなのだが。それは、周知の事実。
そして、オオトリ。
肝心要のレイヴンと言えば、じろじろと上から下まで品定めという言葉が似合うほどに見ては、にたりと不気味な笑みを浮かべた。
「ニ点」
咄嗟にリタの顔色が変わり、レイヴンはニヤニヤと薄ら笑いを浮かべている。そんな二人の間に漂う空気に、またかよ、とユーリがげんなりした顔を見せ、フレンは、まあまあ、とこの漂う雰囲気を変えようとし、カロルはオロオロするのみ。ラピードは犬も食わぬと本来の正しい意味で空気を読んでいた。
「おっさんに見せたい訳じゃないんだから!」
思いっきり、レイブンに踵落としを決めて走り出していた。 ついでに、レイヴンが被っていた麦わら帽子もひったくり「バカ」と叫んでいた。
リタが立ち去った後、蹴られた足を抱えて悶絶しているレイヴンに三人と一匹から冷ややかな視線が注がれる。
「あーあ。あんなにリタ怒らして」
どうすんだ、と長い髪を掻きあげたユーリが非難がましくレイブンを見ていた。それに続くのは、カロル。
「ほんと、酷いよ。女の子にニ点って、リタ可愛かったのに」
「さすがに、二点は言い過ぎじゃないですか?」
普段なら、どういう訳だかレイヴンを尊敬しているフレンまでもが、厳めしげな顔付き。年端もいかない少年までに責められて、一番年嵩の男が、みっともない程の拗ねた口調。
「えーだってさあ……あんなペッタンこでビキニって、ジュディスちゃんはともかくせめて嬢ちゃんぐらいないとさあ。嬢ちゃんなら、丁度いい具合の持ち主だし、最近、ちょっと、おっぱい、成長してない?」
と言いかけて、凄まじい程の殺気を感じた。
「おっさん、また殺されたいのか?ていうか、それ、どこで見たんだよ」
「やーだ。またって何よ、青年、目がマジよ。見てないって、冗談なんだから」
ふん、とユーリは面白くなさそうな顔をしたが、何やら思う所があるような表情を浮かべた。
「いいから、リタ追いかけろよ。せっかく来たのに、痴話喧嘩に付き合わされるのもいい気分しないし、俺ら、クルーザー乗ってくるから、おっさんとリタは留守番な」
「何よ、それ。おっさんらだけ仲間外れ?」
「パティの爺さんが出してくれるんだよ。どっちにしろ、二人定員オーバーだから」
「僕、頑張ってでっかい魚釣ってくるからね」
健気にレイヴンを励まそうとしたのか。こーんな大きなのと両手を広げたカロルは、カジキマグロでも釣る気か、この少年と思うのだが、確実に居残りしろと言っているのに変わりがない。
「そう言う訳で、レイヴン先生、後、お願いしますね」
「フレンちゃんまで冷たい」
三人に見放され、更にいじけるのはもうすぐ不惑のおっさん。そんな、野郎共の騒ぎなど知らないまま、今度はリタがなかなか来ない事を不審にでも思ったのか、エステルが顔を覗かせた。
「ジュディス先生達は、先に浜辺の方で……あれ?リタは……?」
「いいから、行くぞ。エステル」
「え?ユーリ?リタを、な、何ですか?」
きゃあと叫んだエステルの腕を掴んで、半ば強制連行するかのようにユーリは立ち去った。それに続く、二人と一匹もまた同じような逃げ足の速さ。一人取り残されたレイブンは、またも、してやられたとため息をつくしかない。
「そんなとこ居たら日焼けするよ」
どこに行ったんだとブラブラと探し歩いて来てみれば、砂浜から少し離れた桟橋の上で膝を抱え込む姿。どこを眺めているのか分からないが、長く伸びた髪を解いていたらしい。大きめの麦わら帽子から、その髪が海風にあおられている後姿は、どこか寂しげにも見えた。
故意にペタペタとビーチサンダルの気の抜けた足音を立てながら近づいてみれば、何か反応があると思った。
「二点で悪かったわね」
反応はあった。ただし、極限にまで抑揚のない無愛想な声。振りかえりもせず、そう言われては苦笑いしか浮かばない。
だって、リタっちが誉められて頬染めてるから、おっさん意地悪したくなっただけじゃない。
なんて、口が裂けても言えない。
リタの横に腰を下ろすと、数センチ逃げるように間を開けられた。
相当、怒ってんのね。
「そんな、冗談だって。真に受けないでよ、リタっちってば」
「冗談でも言っていい事、悪い事あるわよ。それに、あんたの冗談は……」
あたしにとってシャレにならないのよ。
見上げた先には、にやりと笑う男がいた。紫紺のハーフパンツに上はグレー色のパーカーを羽織っていた。ついでに、こちらも麦わら帽子を被っている。
あ、やっとこっち向いてくれたという安堵する表情に、リタは顔を背けた。
何時も振り回されて、お互い、素直になれないで遠回りするのは何時もの事。レイヴンが言うには、ジェネレーションギャップの緩和対策とのことらしいが、そう思っていても、今日だけは、許せないという気持ちが強い。
誰の為に、来たのよ。誰の為に、水着になったと思ってんのよ。
「まあ、いいわ。ほれ、これ飲む?」
冷えた缶ジュースがリタの目の前に差し出されるが、その手をペチンと振り払う。「冷たいなあ」と乾いた笑い声がするも、その何とも思っていないような口調が余計に虫の居所を悪くさせるだけ。
オヤツで釣られるほど、子供じゃないんだから。
「良くないわよ。あたしが気にしてるの知ってるくせに」
低く呟かれる声色に、レイヴンは、ビールのプルトップを開けようとしていた動きが止まる。最近の気安さから、どうも油断していた。一応、彼女という立場からしてみれば、「ニ点」の意味がどういうものか以前に完全な侮辱だったのだろう。単に似合わないとかではない。そこには複雑過ぎて、到底、レイヴン、いや、世の中の男性という生物には理解出来ない乙女心という厄介な物が潜んでいた。
「リタっちは、リタっちでしょ。やだなあ」
覗きこむようにしてみれば、リタは顔をそむける。一瞬、泣いてるのかと思ったのだがそうではなさそう。ただ、泣いたような跡があり、淋しげな瞳が何か言いたげだった。咎めているという色合いとは違う。レイヴンは、なにか居た堪れなくなり、視線を別の方向に向けると、エメラルド色に透明な海がキラキラと輝いている。ちらりとその横顔を盗み見ると、同じような色をした瞳が随分、少女とは言わせない物を漂わせている。
こんな顔させちゃってたのか。ごめん。俺も、大人げない。素直に言っていれば、ここまで機嫌損ねることもなかったかのにね。
せっかく、海でデートという願いは叶ったのに、こんなにも拗ねられてはどうしようもない。いや、そのきっかけを作ったのはお前だろう、ともう一人の冷静なレイブンが言うのだが、そんなこと分かってるよと切り捨てた。今は、何を言っても、リタの機嫌を損ねるだけ。沈黙が金なら、それを選ぶしかない。
午後の日差しを浴びて、遠浅の海辺は色を変え始めた。パームツリーが並ぶ、木陰は涼しげな風が吹き、白いパウダーサンドの浜辺に静かに波が寄せては返す。そんな、風景を見つめながら無言の二人。どれくらい時間が経ったのか分からないが、ジリジリと照りつける日差しに汗が流れ落ちた時だった。
「リタっち、泳がないの?」
「……」
「気持ちいいよ」
「……」
「皆、居ないし。俺とリタだけだよ。今」
「え?」とリタが驚いた顔を見せた。レイヴンの口調が変わる時、二人っきりだという暗黙のルール。
「クルーザー出して貰って、沖の方までいってんじゃない?当分帰って来ないよ。あの連中。俺らは定員オーバーだからお留守番だと、よ」
「留守番って何よ?」
「まあ、嘘でしょ」
「……どういうこと?」
「ここに来る前、船見たけど、あれ二十人は余裕で乗れるもの」
レイヴンは、車中でパティが、港に停泊している大型クルーザーを指差し、あれも爺さんの持ち物だから後で乗ろうかと言っていたのを思い出していた。
「まあ、こんな騒ぎ起こしたのもあるけど、滅多に表で二人っきりなんてなれないから、ユーリが気を使ってくれたんだよ。まさか、青年にこんな芸当が出来るとは思わなかったけどね」
なんともいえない落胆の息を吐き出せば、「嬢ちゃんに俺らの事喋ってんでしょ?」と。リタは頷くしかない。そうなれば、当然、その彼氏であるユーリにも伝わっている筈。それでなくとも、あの青年は色々と勘が鋭いとレイヴンは思う。プラス、フレン達が知っているかどうかまでは分からないが、先程の様子を見れば、何かしら知っていてもおかしくは無いだろう。ただ、彼らは大学生。カロルは別にしても、多少、ばれた所で支障がある訳でもない関係。むしろ、一連の仕業は、リタを気遣うエステルか、もしくは、ジュディスの差し金でもあったのかと考えていた。ここまでお膳立てされて、しかも、ユーリまで気遣うような関係の超本人達が、これでは情けなさすぎる。
やっぱり、口で言わないと伝わらない事もあるよね。
「正直言うと、面白く無かった。リタが、他の男に可愛いって誉められて、浮かれた顔見たくなかった」
ああ、言っちゃったよ。口裂けちゃった。来年、俺、いくつになるんだったけ?
胡坐をかいて、憮然としたまま言えば、今度はリタが、顔を真っ赤にしている。レイヴンの顔色を窺ってみれば、海の色が濃くなる当たり、水平線を遥か遠くに眺めているだけで、その意図までは分からない。ただ、嘘じゃないというのは分かる。二人っきりになれば、リタの事を甘やかす時も最近は増えてきたように思える上に、ある嵐の夜に、可愛いからと言ってくれたのは嘘を吐いてる眼差しではなかったから。その時と同じような眼をしていると思った。
それって焼きもちやいて?だから、あんな事言ったの?
ただ、素直になれないのは、いつものこと。
「他の男って、ユーリ達じゃない。それに浮かれてなんていないわよ」
ふん、と。すねたふりは継続中。言われた事実は変わらない。
「浮かれてたよ。可愛いって言われて、頬染めてさ。俺にはあんな顔滅多に見せなくせに」
「浮かれてないわよ。それに、皆、お世辞でしょう!」
「お世辞じゃないよ。十分可愛いよ。他の男が見ても、可愛いのは変わりようがないさ」
そこまで言い合いをして、リタは、あたしたちって相当なバカじゃない?と思うしかない。 何が悲しくって、お互いに回りくどい言い争いをしてるんだと。多分、それはレイヴンも同じようだった。無言で、缶ビールを飲み干しては、気まずそうに、リタを見つめた。
おっさん、精神年齢低過ぎよ。あたし、十八よ?おっさん幾つよ?でも、一応、『他の男から見ても』って、おっさんが見ても可愛いって言ってくれたのと同じなのよね?ええっ、どうしよ。そりゃあね。二人っきりの時に、可愛いって言ってくれるけど、それとこれは別よね?
頬を両手で押さえては、どう言っていいのか分からない。素直になるベきなのかとリタは思うのだが。そんな無言で頬を染めているリタを見つめては、レイヴンは諦めの境地。ここまで言わすなら、全て言ってしまえ、と。
「……それでも嫌なもんは嫌なんだよ。自分の女が他の男の前で水着になってるのも含めて」
「……良く分かんないけど」
「ほんと、頭はいい筈なのに、男心がわかんないねえ」
「な、何よ。バカっぽい」
大体、おっさんが最初に仕掛けてきたんでしょ。ビンタの一つでもお見舞いしてやろう、そう思った瞬間。先に立ちあがったレイヴンが、「ね、泳ごうよ」と、何やら思惑ありげな笑顔を浮かべていた。こんな時は、ロクなことを考えていないと思う間も僅か。
派手にザブンと波しぶきが立った。
一瞬、身体が浮いたと思った瞬間、水に包まれる感覚に、リタは焦ったのだが、つき落とされたと瞬時に理解した。波間に消える一時、悪戯げなレイヴンの顔が見えては、してやられたと思うしかない。
危ないじゃないの。溺れたらどうする気よ。
透明度の高い海は、思いのほか海上より観ているいるよりも綺麗で、亜熱帯特有の色をした原色の青や赤の色とりどりの小さな魚達が泳ぐ様は、海の中でしか見られない光景。煌めく海中は、太陽の日差しを浴びて更に光り輝き、大小のゆらゆらと揺れる光と泡にリタは包まれる。
ぐっと身体に力を入れては、息が苦しくなる前に水面に上がろうとした時、一泡吹かせたいと思った。
ざぶん、と顔を出しては息継ぎ。そして桟橋の上で、ニタリとした笑みを浮かべた男に大きく手を振る。
「どう?そんなに冷たくないでしょ?」
悠長に構えている男を目にして、笑いそうになるもここは我慢。
「おっ、おっさ、ん。あ、足つった」
手をばたつかせて、波間に浮かんでは沈む。苦しくないようにその都度、深呼吸。
「リタっ!」
一瞬にして、レイヴンの顔色が変わる。さすがに悪ふざけが過ぎたと後悔するよりも、咄嗟にに身体が動いていた。二人を大小の気泡が包んでは、ぐっと強く抱き寄せられる感覚があった。ゆらゆらと泡が浮かんでは消える。
「大丈夫なのか?」
思いのほかにぐっと至近距離で必死という形相。心配げな顔を見せるレイヴンにリタはニヤっとしてその腕から離れた。
そして、おもむろにその顔に水を浴びせかけた。水しぶきが太陽の光に乱反射。
「おっさん、引っ掛かった」
思いっきり笑う顔にレイヴンは、一瞬だけ、カッと血が沸き立つ感覚があった。それは怒り。いい大人が、十代の少女相手に、必死になればなるほど滑稽なのは分かっている。溺れかけたと思った瞬間、焦りに似た苦しさを覚えたから。ただ、同時に、光を受けて輝く水しぶきの向こうに見えた、何の混じりっけもない天真爛漫にも見える笑顔に心を奪われた。それは多分、リタが隠し持ってる、彼女本来の純粋な笑顔。
こんな顔、他の奴になんてもっと見せたくないわ。
「な、何よ」
あっという間に、再び、その腕の中に引き込まれる。何時になく有無を言わさない強さ。その表情はレイヴンにしては珍しく怒りを湛えている。これほどまでにレイヴンが感情を露わにしたのも珍しいほど。
「ちょっと、から……んっ」
その剣幕に押されるかのよう言い訳をしようとしたのだが、その唇は塞がれた。逃げようと、腕を振り払おうとするのだが、すればするほど、痛いほどにリタを抱きしめる力は込められてゆく。リタの抵抗など意にも返さず、腰に手を回し抱き寄せ、もう片手では、リタの顎を掴んでいる。逃げたくても逃げられない。噛み付くようなキスが襲ってきたかと思えば、唇を分け入り舌が口腔内を犯し始めた。追い詰められて、リタは息苦しさに涙ぐむしかない。
初めての体験に、頭がぼんやりと混濁し始めた。舌先を絡めてぎこちない反応を見せるのが精一杯。
「な、何なのよ。突然……」
二人を繋いだ唾液を拭いながら、肺に新たな空気を入れ替えた瞬間、またも唇は塞がれる。しかし、今度は、啄ばむように強弱をつけて。そして、頬を掠めては、形の良い耳朶を舐められた。ゆらゆらと揺れる身体は波間で漂うだけ。今までに体感したことのない感覚に震え、力が入らない。顎を捉えて放さなかった筈の手が、リタの背中をすっと逆立てては、這っていいく。ご丁寧に、パチン、とビキニの紐を強く引いては弾くと、更に得体のしれない感覚がリタを襲った。
「……やだ、あぁっ……やっ、ん」
可愛らしいが艶っぽい声が漏れた。リタが、初めての感覚に戸惑うのは仕方ない。常に触れられると言えば、せいぜい、額にそっと添えられる唇の感覚程度。こつんと、額を合わせられては、ニヤっと笑う顔が憎たらしい。所詮、この男には敵わないの?とリタは、潤みきった瞳で見つめ返すしか、抵抗は出来ない。
「騙したから、お仕置き」
心配したんだからね、と存外に漂わされる視線に、リタは悪ふざけが過ぎた事を後悔するしかない。でも、そのきっかけは、おっさんじゃないと言い訳で鼓舞しては強がるしかない。
「おっさんが役得だけじゃない」
「そお?リタっち、いやらしい声だした癖に。ね、まだ、キスして欲しい?」
「な、何言うのよ」
この変態と叫びたいのだが、誰も居ないという開放感なのか。夏が魅せた幻想なのか。欲しいと言われたものが何であるか分かるだけに、焦らされる。こんな気持ち、どうしていいのか分からない。
それは、レイヴンもだった。
──海の中で助かった……。あんな声出されてたら、どうにかなっちまうわ。
どこかで冷静にレイヴンは、これ以上は危険と思うも、腕の中で焦らされる事を初めて知ったリタに、もう少しだけ、悪さをしてみたいと思う。こちらもまた、碧い海の色に騙されているのか。
「して欲しくないの?」
「して……欲しいわよ」
リタは諦めたように、レイヴンの首に腕をまわした。ゆらゆらと波間に二人の姿が浮かぶ。
「…ん…んっ……レイ、ヴン……」
啄ばむような軽いキスが何度も繰り返されて、漸く唇だけは解放された時、リタはレイヴンを見つめた。相変わらず身体は抱き寄せられ、密着したまま。
「どうしたのよ。おっさんの癖に……」
「リタが色っぽいから我慢できなくなった」
「が、我慢ってね!」
「もう一回していい?」
「ちょ、ちょっと、もお……」
唇、ふやけちゃうんじゃない?と思うほどにキスを繰り返されて、リタは熱っぽい何かを感じたのだが、それを冷やすかのような波間でレイヴンに身体を寄せるしかなかった。こんな行為そのものが初めてで戸惑うしかない。唇が離れ、リタはそっとその首筋に頬を寄せた。浅黒い肌に、猫背気味だと思っていた背は思った以上に広くて、直に触れるのは初めてだった胸板は意外に逞しくて、奇妙な安堵感がある。
おっさんて、こんなに格好良かった?
好きになった理由は、色々あるにせよ、リタは本来の理想とは随分かけ離れていると思っていた。ただ、その理想が誰かと言われたら、具体性もなく、ただ漠然としたものしかなかったのだが。まさか、二十歳も年上の胡散臭いおっさんを好きになるとは思っても居なかった。
大人しく抱かれて波に浮かぶと内に籠る熱っぽいものを諫めているかのようで、それが、少しだけ心地よくも思えた。
「疲れた?」
「ううん」
「でも、そろそろ戻ろうか。あいつら帰ってくるし」
「……うん」
もう少し、こうしていたいと思う。肩に置いた腕に力を込める。キスに熱中していたせいか、知らぬ間に深みのあるような所まで流されているのを知った。
「おっさん、ちょっと待って」
リタの足が海底に着く位まで戻ってきた頃、リタを掴んでいた腕が離れるとレイヴンを呼び止めた。訝しむようにしてレイヴンが立ち止まると、そのまま、上にきていたパーカーを引き寄せてはリタの方からキスをした。先程、レイヴンがしたように、舌を指し込んでは、絡み合わせる。リタの行動に一瞬、驚いたようにレイヴンの腕に力が入ったような気がした。
何も考えられなくなる。もっと、と強請るリタから唇が離れる瞬間、鼻先を噛まれ、ニカっと笑う顔があった。
「リタっちったら、もう大胆なんだから」
「……」
「どうしたの?」
何か言いたそうなリタをレイヴンが、見つめている。
「……何点?」
「え?ああ……」
ぼそっと呟けば、意味を理解したレイヴンがやや困ったなというような顔をして、首筋を掻いている。
「どうしても言わなきゃダメ?」
「うん」
「んーー。点数つけられない位可愛いけど」
「嘘ばっかり。やっぱり二点なんだ。せっかく、エステルが選んでくれたのに」
「あーもう。おっさんにこれ以上、恥ずかしい事言わせないでよ」
「恥ずかしくても言ってよ」
「……百点。百点満点」
「ほんとに?」
「ほんとにほんと」
珍しく、照れているようなレイヴンを見つめながら、自分自身が疑い深いのは仕方ないにしても、どこまで本気なんだか、と思う。
ただ、自然にこぼれるのは笑みにレイヴンは、小さな声で「酷い事言って、ごめんね」と。
ほんと、こんな男好きになったのが運の尽きなのよね。
夕暮れ時。波の間に沈む太陽が周囲を黄昏に包むと、マゼンダ色に染まる室内。シャワールームから汗を洗い流したエステルが出てきた時、ベッドサイドに置かれた時計を見た。夕暮れに合わせて、皆でバーベキューをしようと決めていた。
「あ、もうこんな時間。リタ、夕食の準備しないと……」
そう言いかけてエステルは声を潜めた。窓辺側のベッドに横たわったリタはエステルに背を向けている。遠くに聞こえる潮騒と眠りについた微かな吐息が聞こえて来る。
──疲れたのかしら?
濡れた髪をタオルで拭きながら、もう一つのベッドに静かに座る。
日没前に港から別荘に戻ってみれば、リタとレイヴンは何もなかったようにも見えた。日中、ユーリに訳も分からず引き摺られるようにして、港まで来る車中に聞かされた事。
『おっさんもリタも素直じゃねーんだから、二人っきりにさせときゃなんとかなるだろ』
それだけで、事情は聞かずとも、また、レイヴンの過剰な愛情表現が原因だと、ため息をつくエステルだった。更に、詳細をフレンやカロルから聞けば、エステルに浮かぶのは、余計なお世話だったかという不安。昨日、リタを買い物に連れ出しては、あれやこれやと試着させた挙句に、これが可愛いですと言ってのけただけに、レイヴンは何が気に入らなかったのだろうと思う。確かに、女性がいうところの可愛いは、男性とは違う感覚。でも、誰が見たって、その姿のリタは十分に可愛いと思っていた。
『エステルのせいじゃない。レイヴンが悪いだけだから、気にすんな』
そんな気持ちを知ってか、知らずか、眉根を歪ませるエステルに強くきっぱりと、だが、素っ気ないのはいつものままだが、ユーリの否定する言葉には『そうですよね』と頷くしかない。
ユーリには、そういったけれど、やっぱり……。
以前、リタが「おっさんが好き」と呟いた時、エルテルは、静かに見守るように微笑んだ。他人との距離に不器用で。でも、無関心を貫くのは、その裏返し。どこかで甘えたい気持ちを持て余しては、強がりを見せる、歳下の友人が初めて、自分の心の内にある脆さを見せた瞬間だったかもしれない。
その相手がレイヴンであるというのは、多少、頭が痛くなるのはエステルも同じだったかもしれないが。
その時、リタには告げる事が出来なかったが、歳の差や教師と生徒という立場に、レイヴンがそれを口実にして逃げるのではないかという不安もあった。傍から見れば、変わり者の生徒、何事も理論立ててはそれを証明しようとする学者肌のような気質をもったリタをからかうのは、単に面白いからという不真面目な教師。そんな関係だと周囲は見ていであろう。ただ、エステルは、時折、双方が見せる眼差しや二人だけの空間に漂う空気などが、違っていたことに、気がついていた。
レイヴン自身に言えば、即座に否定するだろうが、どこかレイヴンもリタと似たような感性の持ち主だとエステルは密かに思っている。だから、寄り添い、惹かれ合うのだろう、とも。
「仲直りできました?」
そっと呟き微笑んでは、部屋を出ようとした時、小さくノックする音がした。扉を開ければ、レイヴンが立っている。
「あ。嬢ちゃん、ちょいと足りないものあるらしから……」と、言いかけた時、エステルは、人差し指を立てて口元に添えた。静かにというジェスチャー。自分の影になっているだろうと思っては、ひょいと顔を向けると、レイヴンも、ああ、と納得したらしい。
白いシーツの中で、眠るリタの後姿。
二人はリタを起こさないよう、静かに扉を閉じては、通路に出た。
「夕飯に足りないものあるらしから、フレンちゃん、車出すっていってんだけど嬢ちゃんも行く?」
「ああ、はい。あ、レイヴン先生はリタと待っていてください」
「嬢ちゃんまで、気い使わないくていいんだけど」
まいったね、と頭をかくしかない。ユーリに続き、今度はエステル。
「いいえ。せっかく二人になれるチャンスなんですから、頑張ってください」
何を頑張るんだろうと思ったのだが、エステルの好意を無駄にもしたくないのは事実。港から帰って来たユーリ達からは何も問われないまま、顔をあわせた分だけ、そこは男同士、承知しているにしても、エルテルの気の回しようには、気恥しさが浮かぶ。
「あ、そういえばさ」
ユーリ達がいる場所に向かうエステルを呼び止めた。
「はい?」
「あの、リタっちの水着選んだの、嬢ちゃんでしょ?」
「あ……はい」
エルテルは、やはり、過剰に世話を焼き過ぎたのかと後悔。
「おっさん、男だから分かんないけど、リタっち似合ってたから、ね。ありがと。後、こんな事言ったの、他の奴ら、特に青年には内緒にしておいてね。そうじゃないと、ばれたら立ち直れないから。お願い」
大げさに両手を合わせては頼む様子にエステルは微笑んだ。
「はい。分かっています。ただ、あんまりリタのこと可愛いからって虐めないであげて下さいね。リタ素直じゃないけど、先生の事は大好きなんです」
「は?ええ、うん。肝に銘じます」
参ったなという表情をしたレイヴンを見て、やっぱり、似た者同士なんだとエステルは心の内で一人ごちる。二人を呼びに来たジュディスが、何だか含み笑いのような笑みを湛えているのも、怖いのだが、まあ、今更隠しようもないしねと、レイヴンは思うしかない。
室内にある椅子を引き寄せて、座ると、窓辺から広がる光景とリタの微かな寝息に忍び笑いを零す。
昼間、こちらが驚くようなキスをしてきたかと思えば、子供っぽく、拗ねた表情を浮かべて「何点?」と聞いてくる姿。これが普通の女なら、適当な言葉であしらうことなど慣れているのに、その時ばかりは、素直に言わされたというのか、思わず言ってしまった。
──おっさん、一生の不覚かも……。
二点と言った事は、素直に嫉妬からと言えば、いいのだろうが、それ以外の行為については、些か自己嫌悪。
衝動を抑えようとすれば、リタがそれを煽る。気が付けば、翻弄されているのは自分自身。からかっている筈が、結果、これだものねえ、とため息も落ちそうになる。
──歯止め効かなくなるじゃない。
様々な面で我慢していないと言えば、嘘になるのだが、まだ、恋愛に不慣れなリタを思っての事。立場を考えてなんて、世間体を気にする訳でもない、十代のようながっつく訳でもないし、と自己分析してみるのだが、どう考えても、今日の出来事は惑わされていると思うしかない。それなりに気遣っていたつもりなのに、リタの予想外の行動に、振り回されている自分が滑稽でもあり、大切にするからと言った手前、男としてのプライドも多少は邪魔をしているのかもしれない。
──そんなプライドあった所で、どうしようもない、か。
多分、感情に流されてしまってもリタは受け入れてくれるという自負はあるだけに、厄介だなと他人事のように考えも浮かんでしまう。
「おっさん、生殺しにしたいの?」
何も知らずに眠る小さな背中に呟いては、肩を落とすしかない。
眠るつもりはなかったのだが、色々な意味で火照った身体をシーツに横たわると、自然と睡魔が襲ってきていらしく、僅かではあるが、転寝をしていたらしい。リタは、浮上していく意識の中、薄らと目を開けてみれば、茜色に染まる海と暮れて行く太陽が遠くに見え、開け離れた窓からは、心地よい海風が入りこんでいる。確か、エステルはシャワーを浴びる準備をしていた筈。だから、隣のベッド近くからの人の気配はエステルだと思っていた。
正面切っては言えない想い。エステルならどう答えてくれるのか。
「……ねえ、エステル。あたし、我儘なのかな?」
夏の濃くなってゆく夕暮れがそう思わせたのか、つい、本心が零れた。
エステルがユーリと付き合ってると聞かされたのは、随分前の話。
元々、可愛くて綺麗なエステルが、更に綺麗に見える瞬間が増えたのは、ユーリのせいだろうと思っていた。何気なく交わされる二人の会話や視線に、エステルの絶対的な信頼を感じていた。それは、ユーリとて同じだった。多少、ユーリは口の悪い部分はあるにしても、無意識にまで、ユーリはエステルを気遣い、また、エステルもだと。
それは、エステルが持つ素直さをユーリが拠り所にしているからだと思う。
そんな二人をただ眺めるだけで、自然と心が柔らかくなっていた。そして、どこか羨ましくも感じていた。
リタとて、好かれているという想いは感じている。それが言葉であったり、仕草であったりと安心させてくれている。
ただ、その愛情表現には些か疑問符がつくのだが。挑発やらからかい等々。今までに受けた仕打ちを考えれば、本当に好きなの?と問い詰めたいことも一度や二度ではない。しかも、その挑発にまんまとのっ掛かるあたしも、どうなのよと思っていた。今日だって、嫌味の一つも言い返していれば良かった。それを「ニ点」と言われた瞬間、何も考えられずに、子供染みた怒りを湧きあがらせ、結果、ユーリ達に気を使わせる羽目になった。それについては、挑発にまんまと乗ってしまうあたしも悪いと自己嫌悪。
ただ、今更、変えることも、変わることも出来ないのはお互い様。
あんな飄々として、手慣れたおっさん相手に、何でも初めてのあたしが太刀打ち出来る筈もないわよ。そんなの分かり切ってるわよ。覚悟の上で付き合いしてるんだもの。我儘だって、全部許してくれるけれど、それじゃあ、あたし、甘やかされっぱなしじゃない。それに、今までみたいに可愛くない皮肉だっていつまで許してくれるんだろ。少しは余裕持ちたいわよ。
そんな意地っ張りで覆われた自分が情けなくて、素直になれない心が、痛くて。
短く鮮やかな季節が終わる時に見せる一抹の寂しさがリタを捉えていた。
「おっさんに、いつか嫌われて、愛想尽かされるんじゃないかって考えたら怖い」
「そんなことないです」と期待する訳ではないが、どこかでそんな答えを期待する自分が狡いと思う。ただ、エステルの自信をもった声で少しだけ安心したい。少しだけ笑って欲しい。そして、叱ってくれたら、また、明日から笑える筈。
「ほんと、あたしどうしちゃったんだろ?ねえ、エステル?」
こんな弱音を吐いてるなんて、おっさんに知られた、この窓から飛び降りたいぐらいに情けない気分に浸るのは、自分らしくないと思う。だから、こそエステルに愚痴めいた事を言ってしまったのかと思い始めていた。
「……エステル?」
一向に返事がない。そんなに重いこと言っちゃったかな?と起き上がろうとした時、スプリングの効いたベッドにもう一人の重みで撓った音を出した。エステルにしては、重くない?と思った時、それが誰であるかを知った。
「ぎゃあああ。な、なっ、なんで……んん」
「ちょっと大きな声出さないでよ」
口を塞がれ、組み伏されて身動きが取れない。一番に聞かれたくない相手、おっさんであるレイヴンがいた。パニックを起こしそうになるというより、起こしているのだが、怒ったような眼差しに急に気持ちが沈んでいくのが、冷静さを取り戻していた。それにレイヴンも気が付いたようで、塞いでいた手を放すと、リタの横に座り込んだ。
「お、おっさんが、どうして、あたしの部屋にいるのよ!」
ガバっと起き上がり、シーツに包まるしか逃げようがない。顔が赤くなるのが分かる。胸がドキドキと鳴っているのが煩いほど。一瞬、窓の外を見たのだが、二階建てのこの部屋から飛び出した所で、死ぬことないだろうが、大怪我はしそうだと思い諦めた。
あたしのバカ。なんだって、確認しないのよ。そもそも、おっさんとエステルの気配、間違うなんて、どうしちゃったのよ。
崩れそうになる自尊心を建て直しては、レイヴンを睨むのだが、呆れた顔をしているだけ。大げさに、額に手をやって、困ったねというポーズすら腹立たしい。
「嬢ちゃんは買い出し。他の奴らは夕飯の準備で外に出てるよ……」
何よ、その気の抜けた声。呆れてるなら、呆れてるって言えばいいじゃない。
「じ、じゃあ口塞ぐことないじゃない!」
「リタっちが大声出してたら、おっさん、また皆から叱られるでしょ。リタっちに悪さしたかと思われて」
「それは、おっさんの普段の行いが悪いからでしょう!」
そう言われると、ぐうの音も出ないのだが、こんな痴話喧嘩してる場合ではない、とレイヴンは頭を掻いた。
「……それより、どうして俺が、リタのこと嫌うの?愛想尽かす訳がないだろう?」
昼間、あれだけ甘えてきたともえば、今度は、これだ。我儘というのが、リタ自身、持て余し気味な、気の強さだとしても、レイヴンの方から嫌うだの愛想を尽かすなどという発想は考えもつかない事だった。
むしろ、俺の方じゃないの。それって。
年齢差、そんなことも頭を掠める。これから、リタが羽ばたいて行く世界がある。そこで、いろんな出会いを繰り返していく内に、もっといい男がリタを見つけるかもしれない。リタ自身が変わっていくのではないか、そんな不安を今は感じないわけではないが、どこかで燻っている。
「何が怖いの?どうして、そんなふうに思うの?」
多分、聞いたところでリタ自身、理解出来ていないのではとレイヴンは思った。それは案の定、正解だったらしい。
「分かんない……」
がっくりと肩を落とすしかない。そんなに責めるような眼で見ないでよとリタの瞳が訴えている。あたしだって分かんない事ぐらいあるんだから、と。
「あたし、どうしちゃったんだろ?こんなのあたしらしくないわよね?」
てっきり、笑い飛ばされるか、からかってくるだろうと気構えていたのだが、真剣なまでに問われると拍子抜けしたせいか、つい本音にも似た弱さが零れおちた。
「……そんなことないよ」
温かな声音。こっちにおいでと手招きしては、リタを抱き寄せた。おずおずと近寄ってきては胸元に額を埋めた。
「……おっさんにこうして貰ったら、凄く安心する」
すりすりと猫が足元に纏うかのように、安心しきっている顔を見つめた。髪を撫でると、リタは静かに目を閉じた。
素直になれば、可愛いとこあるのにねえ。て、ゆーか、リタっちさん、胸、見えてますが……。
リタはキャミソールにショートパンツ姿だったが、大きく開いた胸元から、薄いながらもきっちりと女性であることを伝える膨らみがちらりと見えた。先端こそ見えはしないが、案外、綺麗な胸しているのね、と。いわゆる、美乳。細いながらも円錐形の形。若さ故に、張りは十分にあると想像出来る。それこそ、水着姿は、可愛いと思うも、婀娜っぽいというのには程遠い。どちらかと言えば健康的な色香。それが、今度はこれだ。誘惑する気など更々リタは持ち合わせていないだろうが、計算無しのチラリズムに動かされぬ男などいないだろうと、確固たる信念をもってレイヴンは思う。
しかも、この娘、下着(ブラ)つけてない。
ああ、おっさん、また歯止め効かなくなりそう。
どうか、嬢ちゃん達、今、部屋に来てくれるなと神がいるなら願う。ジュディスに咎められようが、ユーリ達に冷やかされようが全員に鉄拳制裁されようが、なんでもいい。もう、この際、押し倒して……。
いや、まて俺。落ち付け。何を言ってんだ。
理性を総動員しては、邪まな想いを叩きつぶそうとしているのだが、それを煽るのは腕の中の少女。
「今日、キスしてくれたの……嬉しかった」
「え……?」
髪を撫でている手が一瞬、止まった。
随分、大胆な事をさらりと言ってのけてくれるもんだと、レイヴンは更に葛藤にする羽目になるのだが、何なんだ、この甘ったるい空気。胸やけがしそうなほど。リタもまた、言ってしまえば、もう消えて無くなりたいほどの後悔は恥ずかしさしかない。だが、何時にないこの雰囲気に流されてしまえという声が囁いた。
「キスしたり、髪撫でて欲しい。それに……」
「それ以上は、まだ、駄目だって。怖いんでしょ?だけど、リタの事は好きだから、嫌う事もない、愛想尽かすこともない」
「おっさんが我慢してるの見たくない……」
何時もみたいに食ってかかる程の勝気さをここで出して欲しいと思うレイヴンだが、やたらとしおらしい。こんな、いじらしさの一面を持っているリタが可愛くて愛おしくて、そして、仕方ないのも事実だけに、どうしたものかと少し持て余し気味。ほんとに乙女心は奇々怪々。もう、こんな不純で汚れたおっさん許して。
「ほんと、この娘(こ)は」
呆れ果て、疲れ果て、ため息。
軽く触れるだけのキスをして、レイヴンは、そのまま、胸元に口づけた。リタが驚くのもお構いなしに、強く吸い寄せる。キャミソールの裾から手を指し込んで、細い脇腹にそって軽く指でさすれば、ビクンとリタの身体が跳ねた。
「あ、やだ……っ」
拒絶ではなく、恥じらいの意味を持って零れおちた。無意識に、身体をこすりつけて来てるの知ってんのかね、この娘。もっと、とねだってくるのは本能なのか、いくつか強いキスを胸元に残す。柔肌に紅い跡を残すほどの強い刺激。ぼうっとした熱に魘されたような潤んだ瞳で、レイヴンを責めているようにも見えるが、誘っているようにも見えた。
「キスして欲しいっていったのは、リタだけど」
「そうだけど、こんなとこ。明日、水着着れないじゃない」
半泣きで睨むも、レイヴンは意に反さずといった風情。
「Tシャツでも上から着ていればいいでしょ?それならリタの水着姿、他の奴見れないし。俺にとっては都合いいの」
「……うん」
「おっさん、こう見えても独占欲強いのよ」
そんなとこひっくるめて、大切で好きなんだけどねえ、と言えば、いつも通りの「バカっぽい」と返された。漸く複雑な男心は伝わったようだった。
「……おっさんのバカ」
ほんと、バカだよね。二人とも。
触れるだけのキスを繰り返して、見つめあっては、笑うしかない。
コンコンとノックをする音に二人は居住いを正し、僅かばかり離れた。
「いいよ、誰?」
レイヴンの声に、扉が開く。
「準備出来たから、外、来ませんか?」
エステルがひょっこり顔を覗かせている。
「あ、うん。ありがとね。今、行くから嬢ちゃん達、先に始めていてよ」
「はい、じゃあ。遅くならないでくださいね。ユーリが今フレン止めてる最中なんです」
先に待ってますと、扉が閉められた。フレンが何やら調理をしようとしていると聞いてリタは早々に立ちあがった。絶対的味覚音痴のフレンは単に焼くだけの調理を更に一手間咥えよとでもしているのだろう。だが、その動きを止められた。
「なんか、羽織るものある?」
どうして?と小首を傾げたリタに、レイヴンは、自分が悪いという考えは微塵もなかった。
「胸。そんな跡つけて、ガキンチョ達には刺激強過ぎるわ、ジュディスちゃんに虫刺されだなんて誤魔化せないでしょ」
「ぎゃあ」と小さく悲鳴をあげ、ぎゅと胸元を覆うリタに追い打ち。
「だから、おっさんが悪いんじゃない!」
「リタが『……して』なんて色っぽく迫る方が悪いんだよ。俺をその気にさせて」
「その気って……あ、あたし……」
「リタっちがこんなに色っぽいとは思わなかったよ。後、下着つけた方がいいよ。ほんとにその無防備さに、おっさん、不安で仕方ないわ」
殴られる前に抱きしめた。
「早く着替えておいで、外で待ってるから」
下唇を噛んで睨むリタだが、今ここで喧嘩を始めてもまた皆に余計な心配を掛けてしまうと思っては諦めた。それでなくとも、レイヴンがリタを見つめる視線、リタが可愛くってたまらないという眼差しにドキドキしているのだから、取りあえず、ここは大人しく引き下がるしかない。
扉を開けると、その横にレイヴンは背を凭せ掛けていた。
薄出のパーカーを羽織っただけだが、「これで大丈夫よね?」と尋ねると「うん、大丈夫」という返事。
「そんじゃ、行く?」
「うん」
差し出した手にリタは驚いたような顔を見せた。普段なら、手を繋ぐなどない行為。冗談半分で、何度かそういう事はあったが、リタは「おっさん、ウザイ」と嫌がって振りほどくのが常。そんな時のレイヴンと言えば、からかっているという態度がありありと手に取るように分かっていた。それが、今はごく自然に、当たり前のような真面目な顔。
「別に、あいつらなら見られたっていいんじゃない?多少、冷やかされたって、俺が居るからいいでしょ?」
「……うん。そうよね」
おいで、と手を握りしめられる。絡めた指が強く、確かな意思で握り返される。
「不安になるなら、全部言って。何でも受け止めてあげるから。それが俺の役目なんだから、ね」
素直に言葉にすれば、応えてくれるのだから甘えてもいいのよね。
絡めた指に力を込めて、リタもまた頷き返した。
少しだけ大胆になったのは、水着と夏のせい。そして、それに惑わされたのは、この二人。
彼女が水着に着替えたせいで、とんでもない事になったと思うしかない。