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時として、少女というのは曖昧にして、その透き通るような肢体を惜しげに男に見せつけて、男を嘲弄している。

なーんて、考えた所でおっさんだって健全な男子なのよ。とレイヴンが思うのも仕方ないだろう。あはれも過ぎて、もの恐ろしくも、悩ましい姿態が目の前に横たわっている。

「……リタっち、これはないわ」

そんな言葉も出てくるのは仕方ない。帰宅してみれば、早々に歳下の彼女は制服姿から眩しい素肌は露出傾向の部屋着で眠りこけている。しかも、男のベッドの上。

やっぱり渡すんじゃなかったかなあ。

そんな考えが浮かぶのは、テーブルの脇に、可愛らしい猫のモチーフが付いたキーホルダーが付いた鍵が置いてある為。当然、男性であるレイヴンにそんな趣味はありもなく、ただ、鍵はレイヴンの住む部屋の物。


週末ぐらいは来てもいい?という歳下の彼女からのお願いされたのは、二人の関係が教師と生徒という関係ではなく、一組の男女として始まった頃。まだお付き合いと言うのも恥ずかしいぐらいの、ただ、暫くして一夜は過ごした仲と、言っても滑稽なほどに、お互いが気持の空振りを見せて何もなかったが。

大っぴらに出歩けない関係だからな、と思ったのは教師である彼氏。人ごみ嫌い、人が多いとこなんてもっと嫌いという生来の物臭というのか、学校では実験、家で本を読んでいる方がマシだという生徒は、歳下の彼女。其々の思惑こそ違うが、何もなかった一夜から、一週間後、今日は、週末金曜の夕刻。


「それじゃあ、あたし帰るから」

放課後、今日は教職員の慰労会とでもいう呑み会。あまり参加率の良くないレイヴンが今日こそは出ろと早々に同僚に捕まっては、しぶしぶ強制連行される為に、部活動も中止。部員兼歳下の彼女は、仕方ないかと諦め、帰宅しようとしていた。
教室の扉に手を掛けた時、呼び止められた。

「あ、リタっち、これあげる」
「え?何?」

振りかえったリタに銀色の小さな何か投げられた。 戸締りをしていたレイヴンは窓辺近くから、それを、ほんの軽く、白衣のポケットに一個だけ残ってたから、あげるよと、飴でも投げるような感じだった。
キラリと光り放射線状の弧を描いて、それはリタの手元に落ちる。

「失くさないでね。スペアーそれしかないから」
「……え、これ?」
「おっさんちの鍵」

リタの掌の中、それがどういう意味を持つか、暫くは、その鍵の持ち主と交互に見比べては、ポンと湯気が出そうな位なのは瞬間湯沸かし器並で真っ赤になっている。

「これから今日みたいに、居ない時、外で時間潰させるのも悪いしさ」
「あ、あのね。何言ってるのか、分かってるの?」
「そのつもりで言ってるんだけど、リタっちは嫌なの?」
「……い、いやじゃないけど」
「それならいいじゃないの。今日、先生らの会合の後、呑み会もあるからかなり遅くなるよ」

お付き合いしている男女が、自宅の鍵を渡すなど、遠まわしに家においでよと言っているようなもの。確かに週末ぐらいは行ってもいい?と尋ねたのはリタ本人。でも、今日みたいな露骨なお誘いは初めてだった。普段なら土曜日の朝か日曜。夜になれば帰るというような健全過ぎるような関係。

この間は、アクシデントだったじゃない。それを、それを……鍵って。

何考えてんの?この変態と眼差しが冷たい。今から来いって、泊まりに来いって言ってるようなものじゃない。どういう意味だか、私だって理解しているわよ。バカにするなと訴えている。

「だって、リタっちってば、せっかくの週末、先生いないから寂しいっていう顔してるんだもの」
「言うかそんな事!」
「リタっち、ちょっと、こっち、おいでよ」
「おいでってね。人を犬か猫呼ぶような風に言わないでよ」

大きな瞳を釣り上げて威嚇するも、三十も半ばを過ぎた男には通用する手口ではない。しかも、仔猫みたいな怒り方に、保健校医が彼女のことを仔猫と比喩的表現をするのも仕方ないと思わせる。

「そんなとこ居たら、誰かに聞かれるかもしれないよ」

しぶしぶ、と不満顔の彼女。リタは長く伸びた髪を耳に掻きあげる仕草をしながら、何なのよ、と照れ隠しを隠しきれないでいる。露わになった耳は、朱色に染まっていた。そんな様子も、可愛い仕草の一つ。肩を掴んで、抱き寄せるかのようにしては、一応、周囲の気配に気を使いながら、レイヴンは、そっと耳打ちした。低く囁く声がリタの耳朶を震えさせた。

「何もしないけど。俺が寂しいの。リタの顔見ていたいから」

近くにあった黒板消しを投げつけられるという反撃を喰らったまま、リタは教室から出て行った。照れ隠しにしても、少しは労わって欲しいと、頭から白墨の粉を被ったレイヴンはまたも苦笑いを浮かべるしかない。


夕闇はまだ少し早く、街灯が付き始めた時間ではあるが、空はまだ明るい。もうじき、訪れる夏の始まりを伝える風が吹いている。

いきなり何なのよ。そんな気軽に受け取れるようなもんじゃないでしょう? あたしのことからかって。

一応、そういう関係である以上、勝手に入ってもいいよ。待っていて欲しいと言われている事を思い出しては、そういうものなのかなと思うしかない。なんせ、知識量は多いが、この手の経験値はからっきし。

エステルにでも相談してみようかしら。あの子、ユーリと半同棲みたいな生活してるし。

今は大学生になった親友カップル。超のつく箱入りお嬢様が、一人暮らしをしているユーリの家に週末になれば泊まっていることに、アリバイ工作として、リタ自身も関わっている。

そう言えば、また、今週も協力してって言ってたっけ。あたしんちに泊まっていることにしてるのって、今のとこ、エステルの家から連絡はきたことはないけど、いい加減、ばれるんじゃないの。外泊の片棒を担ぐ訳では無いけれど、と思うも、同じことだった。


正門を通り抜け、駅までの道すがら、ふと足を止めた。日常の風景がそこにはある。

コンビニ寄って行かなきゃいけないかな。おっさんちにあたしが使う物、何もないし……着替えもいるから、やっぱり一旦帰って……。と、思った所でリタはため息を吐いた。

結局、あたし、今日からでも行きたいんじゃない。

ひんやりとした初夏の風が、赤らむ頬を撫で、制服のスカートの裾を通り抜けた。
教師と生徒と言う関係ではない時間が始まる。そして、そんな関係ではない場所に行きたいと願ってる。恋人同士といわれる時間がそこで手招きをしていた。
やっぱりエステルもこんな気持ちなのかなと、親友を思い出しては、微かにため息。

まだ始まったばかりの関係に、戸惑うのは、慣れていないから。

ガチャンと鍵を開ける音が異様に響くように聞こえた。誰にも見られてない筈だが、やはり、他人の部屋と言うのはどこか落ち着きを失くす。正体不明の居心地の悪さ。何度か訪れているが、その時は、部屋の主が一緒か、出迎えてくれていた。

「お邪魔します……」

そんな台詞を終ぞ言ったためしがないのだが、何故か、零れ落ちた。

「って待ってろって言われてもね」

これといってする事もなくテレビを点けてみたが、くだらない番組ばかりで興味を惹く物もない。勝手に家探しをするほどの趣味もなく、ソファに膝を抱え込んでは呟いた。

「帰ってくるまで、何しろっていうのよ」

独りでいるのには慣れていると思っているのに、やっぱり、この部屋の住人が居ない空間はどこか寂しい。だが、今更、自宅に帰る気もさらさらない。

そういえば、おっさんの部屋にあった本でも読もうかな。

寝室兼書斎とでもいうのか、その部屋はリビング横にある。何も言われなかったからいいわよね、と言い訳を口籠りながら忍び込む。ベッド脇からずらりと並んだ本棚には、まあ良くもこれだけ雑多に集めてるもんだわと、リタが思うのも無理も無い程に無造作に置かれている。各ジャンルにわたる専門書は大学で使用されているような書籍。外国語で書かれた原書もあれば、中には教師らしい、何とか省推薦などというような教育指導書などもあるが、それに関しては興味はない。

「あ、これ、面白そうかな」

手にしたのは、脳科学読本とかいう代物。何やら小難しそうな字面だが、パラパラとめくったまえがきにある「恋のセオリー」という文字が興味を惹きつけた。

あたしって恋すらも科学的に理論立てるのかと、リタは少し溜息を零した。

制服から、ここまでに来る途中で立ち寄った店で買った部屋着に着替え、何となく、リビングで読むのも億劫だと思い、ベッドに寝転んでは、本を読み始めたのだが、何だか、文字が頭に入らない状態。先週は、混乱や緊張といったもので、そこまで感じていなかった。それとも、いつもは部屋の住人がいるから感じなかったのか、分からないが、一人になって初めて気が付かされる。

おっさんのにおいなのかな。これ。

男の寝所での残り香なんて、余り、いいものではないと思うのだが、何故か、安心させられる。埃っぽく、乾いたようなにおい。抱きしめられた時に感じる静穏さにも近い風がリタを包んでいるようだった。

早く帰ってきてよ。バカ。

シーツに包まると、そっと目を閉じた。そこには居ないけれど、居るような気配を感じながら、何時しか、安穏とした眠りが誘っていた。




「ごめん、リタっち。遅くなったよねえ」

灯りが付いている事に安心して部屋の扉を開けたのだが、リビングにリタの姿は無い。まさか、と思い寝室に行けば、居た。ある意味、想定内のだったとしても、その寝姿に、「はぁ……まったく……」と、崩れ落ちた。

ベッドの上で眠るリタがレイヴンを出迎えてくれている。

酒の酔いなど吹っ飛ぶわ。げんなりとしてレイヴンはその肢体を眺める。寝相が悪いのは薄々感じてはいたことだったが、何なの、この挑発した姿。

枕を抱きしめて、シーツから肌蹴た太ももが露わになっている。扉を開けた瞬間に見た時は、裸でシーツに包まっていたのかと、心臓が止まりかけた。良く見れば、シーツの隙間、淡い色をしたショートパンツがちらりと見え、髪のせいで隠れていたが、細い肩紐らしき物がずれ落ちている。

こんな格好するなら、あらかじめ教えておいてよ。おっさん、歳なのよ、心臓弱いのよ。

そういえば、初めてリタの家を訪れた時も、こんな格好だったけ、と思い出す。ただ、あの時は見るからに風呂上がり。それだから、あんな無防備な私服というような姿だと思ったのに、通常運転がこれですか。

はあああああ、と再度深いため息が零れた。
どこまで、おっさんを試したら気が済むの。
そして、まだ、鍵を渡したのは、レイヴン自身にとって次期尚早だったか、と思うもレイヴンを鬱蒼とさせる出来事というのか、切っ掛けがあった。



三日ほど前のことだった。保健室の前を通りかかった時、レイヴンを呼びとめる声に振りかえる。

「あら、ジュディスちゃん、今日も一段と綺麗ね」

というのは、挨拶。「今日は」と言わないのは、女性限定博愛主義者らしく、いつも綺麗だからという持論らしい。まあ、当然ながらリタが聞けば、機嫌を損ねると分かっているのだが、こればっかりは仕方ない。だが、そんな挨拶すらも今日も綺麗な彼女は、どこ吹く風。

「おじ様、いい加減、出席した方がいいわよ。校長先生、今回は来るらしいから」
「は?校長来るの?」

最近は少し親しいともいえる、保健校医であるジュディスから言われたのは、ありていに言えば、教職員による呑み会。サラリーマンじゃあるまいしと思うも私学の教師も、その辺は変わらないだろう。しかも、校長まで来るとなれば余計に億劫。

「じゃあ、行かない」
「仔猫とじゃれあってる方が楽しいのは分かるけど、退任する先生もいらしてるから、今回のメインはそっちよ」

さらりと絶句させる事を言うもんだ。そういえば、臨時教員が辞めるんだったけと思い出す。それほど、交流もないのだから辞めようがどこに行こうがいいもんだが。

「あーじゃあ、考えておきますけどね。期待しないでよ」

片手をあげてヒラヒラと手を振った。分かりましたからというポーズだけで、この時点では逃げるつもりではあった。


口笛すら浮かびそうな心地よい風が校舎を駆け抜けてゆく。乾いた風が白衣の裾を翻す。暑くもなく寒くもなく、湿度も控えめ。からりと晴れた空が眩しい。それじゃあ、そろそろ、部活動に来るお姫様のお出迎えでもしておきましょうかねと、学校脇から少し離れた自販機に向かっていた時だった。

校舎の片隅。あれ、こんなとこでと思った場所に生徒がいた。背の高い男子生徒の後姿が見える。そして、その背後には女生徒らしき小柄そうな細い足が見えた。

あらら、若いわねえ。今時、こんなとこでデートの待ち合わせでもしてるの?

お邪魔になっても悪いからと、別ルートで行こうかと踵を返しかけた時、鋭くも怒気を含んだ少女の声によって、その歩みが止まる。

「ウザイ。こんなの辞めてよ。あんたなんて知らないんだから」

苛立ちを含んだ声に聞き覚えがある。相手に対して完全な拒絶だが、聞き覚えどころか、十分によく知っている少女の声。

「いいじゃん、お前、彼氏いねーんだろ?携帯貸せよ。メアド教えてやるから」
「彼氏いるわよ。だから、付き纏わないでよ。あんたに、お前なんて言われたくないんだから。バカっぽい」

口癖の言葉を残して去っていく後ろ姿に、勝気だねえと忍び笑い。こちらに振り向き、ちっと舌打ちをした男子生徒とレイヴンはご対面。

「あらー、駄目よ。女の子には優しくしないとね。それにうちの部員にチョッカイ出さないでね」

ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべたレイヴンだったが、眼は笑っていなかった。その後、男子生徒が学校に来なくなったとかどうとかいう噂が出回ったのは別の話。


レイヴンが教室に戻ってきた頃には、リタは既に来ていた。いつもなら、勝手に実験器具を取りだしては、ごそごそと何かしらやっているのだが、カバンを机の上に放り出しては、苛立ちを隠せないままウロウロと教室内を行ったり来たり。「バカっぽい」と叫んでいるのは何度目なのか。

「まあ、まあ、どうしたのよ。ジュース買ってきたから飲む?」

さらりと何かあったの?と努めてご機嫌取りをしている素振りを見せるが、知っていて聞く俺もどうなのよ。と、意地の悪さにほくそ笑む。そんなレイヴンの心内など知らないリタは、一瞬だけ、迷うような表情を浮かべたのだが、このイライラの原因を聞いて欲しいと思ったのだろう。

「どこかのクラスの奴に告白された」
「あら、そんな物好きまだいたの」
「物好きってね。い、一応」
「リタっち、声大きいよ」

はい、これでも飲んで落ち着きなさいと、買ってきた缶ジュースをさし出した。「ありがとう」と受け取る声は、トーンダウンした様子をみせ、次に困惑という表情が浮かんでいた。良いから、座ればとリタを座らせたまま、レイヴンは窓辺に凭れる形で立っていた。

「さっき、校舎裏通ってたら、いきなり、呼び止められて言われた」
「なんて?」
「彼氏居ないんだろ。付き合ってやるよって」
「尊大な発言なことで。物の言い方知らない子ねえ」
「そうでしょう」

先程の出来事を思い出したのか、再び、興奮気味。
リタを学年一位キープ記録保持者として名を知らない者はいないだろう。それ以前に、黙っていれば、その性格を知らなければ、顔立ちは可愛らしいだけに、同世代の男が声を掛けてくるのも分かるのだが、レイヴンは、ただ、あんな誘い方したらねえ。このお姫様、相当プライド高いのよと思うしかない。

「ほんと、思い出してもムカつくわ。サイテー」

リタは、告白されたというよりも、その不躾までな言い方にご立腹の模様。リタに近寄っては、腰を下ろして、その顔を見上げるように覗きこんだ。

「で、何て言い返したのよ。リタっちが言われっ放しでもないでしょ?」
「付き纏うな。迷惑だって」
「それだけ?」

じっと見つめられて、リタは目が泳いでいる。少しだけ、頬が赤い。
俺も根性が悪いわ、と内心、苦笑い。こんな年端もいかない少女の戸惑いに優越感覚えてるんだからねえ。よいしょ、と声を掛けて立ちあがると、レイヴンは、リタの肘を抱えて、正面に向かい合う形で立たせた。

「他に何か言わなかったの?」

いじめるわけじゃないんだけどね。答え聞きたいのよ。さっき言った言葉がね、と熱っぽい視線でリタを見つめれば、リタは、下唇を噛んでいたが、その艶やかな唇が小さく囁いた。

「……彼氏が居るっていったわよ」
「もう、リタっちったらおっさんのことそんな風に言ってくれるのね」

ぎゅうと抱きしめては「ほんと、可愛い。愛してるぜ」とお決まりの台詞。事実、可愛い上に好きなのは変わらないのだが。軽薄な口調をリタがどう思うのか、なんては考えていない。

「……おっさん、嬉しいの?」

いつまでも抱きしめられる場所ではないから、リタから手を放した途端、そんな言葉を呟かれた。

「え?そりゃ、そうでしょ。その彼氏なんだから」
「そ、そうよね。あたしたち一応は……」
「一応じゃないでしょ?きちんと付き合ってんだから。リタは正真正銘、俺の彼女だよ」

まだ、どこかで不安を感じているようなリタの口調は何か確認するようにも聞こえた。真面目に告げた所で過激な愛情表現を好むお姫様に、レイヴンは最低でも殴られるか、何かが飛んでくると覚悟しつつ、常のふざけた口調ではなく、優しい声色で告げた。少しでも彼女の憂いが取り除かれますようにと願いながら。

「おっさんのバカ。……レイ、ヴン……の彼女だもん。断るわよ」

その願いは叶ったが、言って当然でしょう?と、恥じらいの中に嬉しさを湛え、潤んだ瞳が、レイヴンを硬直させた。




ああ、もう。俺様のバカ。両手を覆ってバカバカと呟いた。あの時のリタの表情を思い出すだけでも、体中がこそばゆい。以前は、からかうだけ手荒い報復されていたというのに、関係性が変化した途端、気紛れに素直な面を見せ始めている。それが、どんな効果をもたらすのか、彼女は知らない。

最も効果的な仕返しが、飾り気のない偽らざる気持ちなのだから。

しかし、リタ自身は、何も考えてなかったのが正直なところだろう、とレイヴンは思った。男の悋気ぐらい無様なのは分かってるけど、その事実を素直に言ってくれるのは、信頼されてる証拠。ただ、リタの前でジュディスを誉めるだけでも、眉を顰めるというのに、自分が告白され、それを告げられたレイヴンがどんな気持ちでいるかと思い浮かばない当たり、些か、その他愛無さにも気をもんでしまう。その上、リタにちょっかいを出す男がいる事実に、奇妙な焦りを覚えて鍵を渡したなんて。何なの?この独占欲。俺様に嫉妬心なんてあったのか?

何も知らないで、眠りこけるリタを見つめれば、その邪まな想いなど彼女は微塵にも勘付いていないだろうと思う。

「ほんと、無邪気な寝顔しちゃって」

ベッドに肩肘をついて、眠るリタの頬に触れた。柔らかい感触。髪を撫でると、気持良さそうな寝顔が、レイヴンを惹き付けて離さない。

レイヴンがふざけながらも困り果てるのは仕方ないだろう。かつて、幾人かは、恋人と呼べるような関係の女性も存在はしていた。ただ、何時の間にか終わった恋も多いが、女が恋愛関係の終わりに見せる煩わしさから自然消滅を狙っては逃げた節もある。結局、それだけ、他人に執着しないのは、リタと良く似ているのだろう。

素直じゃないのは、お互い様か。
溜息を零した所で、リタが目覚めたようだった。

「あ、おかえり……ごめん、あたし、眠ってたみたい」
「ただいま。いいよ。俺が来てっていってたんだから」
「怒らないの?」
「何を?」

いきなり奇妙な事をいうリタにレイヴンは、不思議そうな表情を浮かべたが、「ううん。何でもない」と即座に否定された。

「それより、おっさん、酒臭い。それに、タバコの臭いもするわよ。お風呂入ってきてよ」

リタの眉間に浮かんだ皺が、さも嫌そうな表情を作る。そんなに呑んでないし、タバコは喫煙者がいたから仕方ないでしょうとレイヴンは言い訳していたのだが、良いからさっさと風呂に入れと寝室を追い出された。

シャワーを浴びながら、レイブンは、さっきのは何だったのだろうかと不意に思う。「怒らないの?」という意味不明な発言。不可解な言葉に首を捻るしかない。



リビングに戻ると、そこには両手に二つのマグカップを手にしたリタがいた。さすがに、上にはパーカーを羽織っている姿に、ほっとする。剥き出しの素足だけは、どうしようもないが。ソファに座り、濡れた髪をタオルで拭きながら、そんな、視線を勘付かれないよう、細心の注意を払っていた。

「あ、おっさん、ゴム持ってない?」

風呂上がり、コーヒー淹れたよと出迎えてくれるのはありがたいが、聞き捨てならない言葉がリタの口から発せられた。今、なんて言いましたか?とレイヴンが固まった。

「……リタっち、今、なんて言った?」

いや、待て。早急過ぎるだろ。ついこの間、付き合うってなったばっかりでしょ? それに、あなた、まだ怖いってこの間言ってたじゃない。おっさんの苦労と忍耐と努力、水の泡にしたいの?それとも、覚悟決めたの?と、動揺を悟られまいと、リタを凝視したのだが、当のリタといえば、きょとんとレイヴンを見つめ返している。

「え?だから、ゴム持ってない?二個でいいんだけど、あたし、買うの忘れちゃったから」

さらなる追い打ちに、レイヴンは撃沈。リタといえば、レイヴンが腰かけている横に座った。テーブルに、コーヒーの入ったマグカップを置くと、彼女はホットココアらしい。両手にマグカップを抱えていた。甘い匂いが微かに漂っている。一口、含んでは、「美味しい」と呟いて微笑む横顔は、無邪気そのもの。

そんな余裕すらあるリタにレイブンは冷や汗が流れ落ちる。

いや、おっさん、二回と言わず何回も頑張るけど、ちょっと、ちょっと待ってよ。おっさんだって気持ちの準備ってものがあるわよ。おっさんの純潔ならリタっちに幾らでもあげちゃうわよ。それに、女の子がそんな言葉言わないの。おっさんが用意してあげるわよ。さらっと、そんな手慣れた風にいうな。リタっちって、経験ないわよね?こういうの初めてじゃないの?あ、駄目だ。鼻血でそう。

「ねえ、持ってないの?」

リタは、少しだけ苛立ちを浮かべ、何なの?と見つめる視線がレイヴンには痛い。

「リタっち、それはまだは早いよ」

余裕を持った大人としてかっこよく決まったぜと思うような声色で言うも、リタは、何決めてんだと呆れ顔。

「早いってどうしてよ。寝るんだから、困るのよ」

寝るってね、そんなはしたない言葉、君には似合わない。本当に困った子だ、と濡れた髪を掻き上げた。大切にしたいんだから、無理しなくてもいいんだよと大人の男が持つ余裕を見せつけた。

俺様、今、最高に決まったな。

「髪の毛邪魔なの」
「え?いや、そんなこと……」
「──だから、髪留めるゴム、ヘアゴム。おっさん持ってるでしょう?」
「あーそっちの……ね」

もう一度、風呂入ろうかしらというぐらいに虚脱。そして、何かわからない汗が流れ落ちる。

「そっちって何よ」

変なおっさんとリタはテーブルにマグカップを置いた。

この娘、そっちの知識あるのかなあ。正しい意味で保健医のジュディスちゃんに一度、きちんと教育して貰った方がいいんじゃない?とレイヴンは不安にもなる。あ、いやでも、保健体育も成績良かったよね。

「え?いや、何でもないわ。気にしないでいいから。絶対にジュディスちゃんとか嬢ちゃんに聞かないでね」

聞くなと言われて聞かないリタではない。ましてや、絶対とまで言われたら最後。

遥かな後日談だが、ユーリとエステルに会ったリタは、何気なくこの一件を二人に尋ねた。ユーリは、飲み掛けていたジュースを噴出し、なぜか、「あのおっさん」と怒鳴り、エステルは真っ赤になったままフリーズ。ジュディスは、にこやかにほほ笑んでは、「それはおじ様に聞いてね」とはぐらかされたが、何故か、こめかみに青筋が立っていた。後に、レイヴンは、この三人から、特にユーリとジュディスからは、おっさんが悪いということでかなりの嫌味を言われたのだが。

閑話休題。


「でも、おっさんが、いきなり鍵なんて渡すから吃驚したわよ」
「いや、だってさ。今日みたいに遅くなる時もあるし、もし行違いとかで、外で待たしておくのも悪いから」

それは、本当。ただ、他の男が狙っているから、自分の所に隠しておきたいなんて口が裂けても言えない。コーヒーを口にしながら、レイヴンはそう言ったのだが、何やら納得していないという声がした。

「本当に、それだけ?」

何、勘付いてるのよ。疑念を抱えたような視線が突き刺さる。

「ほんとに、それだけだよ。他に何があるのよ」
「他人が知らない間に自分の部屋とか入られるの嫌じゃないのかなあって思ったの」

少しだけ、心許無い、遠慮染みた色を浮かべる瞳。

ああ、そういう面もあったよね。だから、さっきも、「怒らないの?」なんて尋ねてきたのか、と、改めて気が付かされた。余り人付き合いが上手とは言えない、彼女。この二年近くは、親友と呼べる存在らが、そんな隠れた思いを消し去っていたが、親友らが卒業した今、また、そんな想いがまた見え隠れしていた事にも気がついていた。それは、時折、こうして瞳に浮かんだ憂いの色。

「リタっちは、他人じゃないでしょ?」
「他人じゃないって言っても……」

何が言いたいのだろう。まだ、距離を測りかねているのだろうかと思う。

「他人にこんな事したりしないよ」

細い華奢な肩を抱き寄せると、額に口付けた。抵抗されると、何が飛んでくるか分からない為に、事前に、手首は抑えつけていた。なかなか仔猫の扱いも手慣れてきたとレイヴンは自画自賛。

ただ、唇が離れると、おでこだけなの?と、不満げな顔がそこにはあったのは予想外。手を緩めると、今度はリタからキスを返された。唇に、甘いココアの味が残っては広がってくる。甘いものなど嫌いな筈なのに、不思議と苦みと甘さが入り混じった。

「あたしだって他人にこんな事しないわよ」

顔を背けたリタに、レイヴンもまた別方向を向いて笑うしかない。お互いに視線を逸らしては、片方は真っ赤になり、もう、片方は茫然自失。

「あはは……うん、しないよね……」

乾いた声しか出ない。ただ、少しは他人ではないという関係をリタなりに分かってくれているのならいいのかなあ。おっさんの方がかなり役得なんだけど、とレイヴンは思うしかないだろう。

「ね。顔見せて」と、正面を向かせると、やはり、紅く頬どころか首筋までもが熟れたリタがいる。なれない事させた、と少し心が痛む。

子供なのか、大人なのか。惑わされて、引っ掻きまわされても嫌だと思わせない。

「だから、安心して、ここにいたらいいよ。後ちょっとで夏休みもあるしさ」
「勝手に来て、ここに居ていいの?」
「だって、彼女なんだから、別にいいよ」
「うん……ありがと」

リタの頬に掛かる髪を撫で、耳に掛けてやると昔みたようなリタがいた。

「……リタっち、前も聞いたけど、髪伸ばし始めたのって、やっぱり、俺の為だった?」

ふと思い出したように、レイヴンは尋ねた。学校では、下ろしている髪だが、まだ、綺麗なうなじが見え隠れしていた頃が少しだけ懐かしい。
リタからの返答はない代わりに、触れている部分が更に熱を持って応えてくれている。
「ね。どうなの?」とした眼をして、覗きこむと漸く口をきいてくれた。

「だって、おっさん、髪が長い方が好きなんでしょう?」
「うん、まあ……どうだろ」
「何よ。その曖昧な言い方」
「リタっちは、どっちでも似合ってるからいいの」

ああ、もうほんとに可愛いわ、いじらしいわ。何だろうねえ。この娘。

「だって、ジュディスとか綺麗な髪してるの誉めてたじゃない」
「ああ、まあ。あれはね、挨拶みたいなもんだから……」
「あたし自身、ジュディスみたいになれたらって思ってたのかもね」

意外な言葉にレイヴンは、おや、と思った。

「おっさんとジュディスが並んで話ししてるの見ると、もう少し、早く生まれてたらとか、前にも言ったけど、あたしがもう少し大人っぽい外見だったらとか、いろいろ思ってた。簡単に変われる訳じゃないけど、髪ぐらい伸ばせば少しは変わるかなって」

あら、俺だけじゃなかったのね。年齢差気にしてたの。

「まあ、おっさんの精神年齢だとあたしぐらいがちょうどいいんだろうけど」
「酷いっ、リタっちってば」
「だって、そうでしょう。子供相手にからかっている中年のおっさんなんて」
「リタっちは、自分で思ってるほど子供じゃないけどね。頭が良いのもそうだけど、こうやって自己分析するような子供なんていないよ」

ほんと、敵わないわと笑った顔に、今日のあたしはどこか素直だとリタは思った。多分、この指先の優しさとか、触れる安堵感がいつも張り付いている仮面を剥がしてくれていると思う。そして、この声色の先にある視線がそうさせている。

「おっさん、どうしてあたしのこと……その……好きになったの?」

レイヴンは、言いにくい事を言ってくれると思うしかない。でも、こうも素直さを見せてくれるのなら、それに答えない訳もないか。それで、彼女が少しでも安心できるのなら。

「なんだろうねえ。顔は可愛いって思ったかな。勉強も出来るし、努力家だけど、一番は、素直じゃないわ、捻くれたとこが、一緒に居て飽きないからかなあ」
「飽きないって、だから、あたしのこと玩具にして」
「そうやって、拗ねる顔が可愛いから」
「拗ねてないわよ。おっさんがからかうからじゃない」
「……おっさん、好きな子ほど虐めちゃうのよ」

それでもって、独占欲は人並み以上だけどね、とは言えないが、心の奥底に潜む、色んな心の鍵を開くリタに、ますます、夢中になっていると感じれば、そう悪くもないかと思った。

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