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指先に塗られた嘘と本当





ザーフィアス城の中庭。目にも鮮やかな緑の木々が風に揺れ、赤にピンク、白、黄色、紫と色とりどりの花が咲き
乱れている。中央のコンコース。噴水からは涼やかな音が流れている。その中をこの城内では珍しい、白の大きな
フードが目立つ身頃は博士の称号の色である赤を基調にしたアカデミックマントを羽織った小柄な少女が噴水の淵に
座っていた。その姿にすれ違う数名の男女は、二十歳前後の若者。着飾った服装は貴族の子弟だろう。少女よりも幾
分年嵩に見えるが。その少女を珍しげに見ては、歩みを止めていた。

「今の娘。誰かと思えば、リタ・モルディオじゃない?」
「あの天才魔導士の?随分、小柄なんだな。偏屈の変わりものと有名らしいが」
「この間も新しい特許申請してたらしいわ」

ひそひそとこちらを窺いながら、何やら数名の男女がリタを見ている。慣れているとはいえ、やはり、あまり気分のいいものではない。アスピオの研究所でも、そんな事を言う連中もいるには居たが、ここまで露骨に見定められることもなかった。

──言いたいことがあるなら正々堂々と言いなさいよ。

聞こえようがしに言われては、流石に無視も出来ない。ただ、きつい一瞥をくべることすらしない。それなりに、経験を積んでいるからこそ、他人になど興味も関心も示さない。どうせ、こんな奴ら相手にしたって時間の無駄。小脇に抱えていた本を読もうとした時、顔色一つ変えないリタを嘲笑するかのような話声が聞こえた。

「随分、幼い顔をしているなあ」
「騎士団のシュヴァーンの部屋に入り浸っているっていう噂よ」
「人はみかけによらないものね。あんな幼い顔してどんな風にたらしこんだのかしら」
「まあ、あのシュヴァーンの後ろ盾があれば、好き勝手も出来るさ。さすがは天才魔導士様だよ」

クスクスと下卑た笑い声。そんな声が漏れ聞こえた時、「バカっぽい」と口癖を叫んでは、その集団をにらみ返した。瞬間的に怒りが勝るのは、変わったようで変わってない。

「誰か叫んでるかと思えば、リタ、君だったのか」

数名の部下をその背後に携え、呆れた声をくべたのは、紅緋色の外套を纏った帝国騎士団といわれる集団に属する男だった。その姿を見た男女は、顔を引き攣らせ駆け足で去ってゆく。逃げ足だけは一人前のようだった。今の聞かれてないわよねと、リタは瞬時に思ったが、叫んだぐらいだから、その声にかき消されていることを願う。あたしのことはいい。シュヴァーンの名を出されるのが、リタにとっては屈辱以外の何物でもない。

「お前たちはここでいいから」と、部下を先に行かしては、普段の軽装ではないリタを物珍しそうに見つめている。

「だいたい、おっさんがこんなとこで待ち合わせしようなんていうから」
「今は、シュヴァーンなの。おっさんて辞めてよ」

「リタっちったら酷いわ」と、口調はすっかりレイヴンなんじゃないとリタは呆れ顔。

「いつ見ても、その二重人格。よく崩壊しないわね」
「まあね。どっちも俺様だもの」
「そんなものなの?」
「あら、興味あるの?」
「あたしが興味あるのは、その子なの」
「もう、ほんとつれないんだから、リタっちってば」

「バカっぽい」と再度言うも、今度は安心したかのような笑顔を見せた。

「おっさんの部屋、行こうか。約束してたよね」

シュヴァーン・オルトレインの執務室の奥にある小部屋は簡易の、といって調度品は一級の品が置かれ、ベッドの上、シーツはパリっと糊が効き、染み一つない真っ白な物だった。そのベッドの上で、上半身は裸の男。その手前には、マントを脱ぎ黒いアメシトリーになったワンピース姿の少女がいた。ただ、ベッドの上といっても、二人の間には青白く術式を描く文字盤の発光体が煌めいている。

「リタっちさ。いつもあんな事言われてんの?」

聞かれたくない事をさらっと言うもんだとリタは、睨み返しては無言を決め込んだ。それに聞こえていたのは、いったいどこまでなのだろうと気掛かりにもなる。

「ねえ。リタっちってば」
「うるさい。今、この子見てんだから、話しかけないで。気が散るの」
「はい、はい。分かりましたよーだ」
「はいは一回でいいの」

リタは余計な事を考えている場合じゃないと、気を引き締め直しては、真剣な表情で、その複雑な術式を巧みに操っていた。魔導器を操る少女の白く細い指は、嘘を吐いた。

「いつもじゃないわよ。あたしが珍しかったんでしょう」

今、この世界で唯一の魔導器となったレイヴンの心臓。それを扱えるのは、レイヴンの目前にいるリタ、唯一人。星喰みの終焉は、それまで当たり前だった生活が一変した。不便を感じない人などいなかっただろう。生活の一つ、ほんの些細な事すら頼り切っていた。だが、それもいつしか慣れてゆくのが人間の営みだったのか。それでも、このレイヴンの心臓については、その存在を知る数名の人間を除き絶対的な秘密が二人を結びつけるようになった。

フッと二人を隔てていた青白い光が消える。

「はい、これで終わり。今のところ、特に問題ないようね、この子」
「そおなのよ。リタっちの定期メンテのおかげねえ」
「おっさんが無茶しなければ、あたしのメンテも二、三ヶ月に一度でいいかもね」

ほっとして安堵した表情を浮かべたリタとしては何気なく言ったつもりだったのだが、レイヴンとしては、聞き捨てならなかったらしい。

「そんじゃ、おっさん、思いっきり無茶しようかしら」
「はあ?何言ってんのよ。今だって、無茶してるようなもんよ」
「別に問題ないって言ったばっかりじゃない」

「何をいきなり言い出すのよ」とリタは咎めるもレイヴンは知らぬ顔。ふーんだと口を尖らせるも、三十五歳のおっさんが拗ねた所で可愛くもない。

「……今だって、ギルドと騎士団の兼任で、ダングレストと帝都の往復生活してるじゃない」
「そんなことないわよ。ギルドはハリーが仕切ってくれてるし、フレンちゃんも頑張ってるわよ。おっさんは二人から指示受けて仕事やってるようなもんだから、随分、楽させて貰ってんだから」

「それにさ」と、レイヴンは言葉を継ぐ。

「今だって一月にニ、三回しか会えないからねえ。二、三カ月になんてなれば、おっさん、寂しくて死んじゃうわ」
「勝手に死んでれば」
「もう、どうしてこの子は久々に会えたっていうのにつれないの」

今度は、ベッドの上でのの字を書く仕草。レイヴンはともかくとして、あの帝国騎士団隊長主席である人物とは到底同一人物とは思えない。もし、彼の部下がこんな姿を見たらどう思うのだろうとリタは頭を抱えた。

「いいから、さっさと上、着なさいよ!いつまでそんな格好でいる気!」

本当に、いつも冗談なのか真剣なのか分からない。嘘と真実が入り混じる言葉に一喜一憂しては、翻弄されていると気がつかされ、それが癪に触る。同時に、以前は、その魔導器の完璧までの仕様や複雑さから気にも留めていなかった事に今は戸惑いを覚え始めたのはいつからだったのか。メンテと称してこの男の引き締まった体躯を見ているつもりだった。魔導士として、その術式に感嘆するも、純粋な興味を覚えた筈。それが、何時、この浅黒い肌をした男を意識し始めたのか。
今になっても分からない。

「あら、リタっちったら。顔、赤いわよ。何、おっさんのこの野性味溢れる筋肉美に惚れたの?」
「はあああ?今、何って言ったの?誰があんたなんかに」
「惚れてるんでしょう?」

ずいと近寄ってこられて、両肩を掴まれた。逃げる事が出来ない力。そして、射るような眼がリタの逃げ道を塞ぐ。

「リタ、どうなんだ?君の気持ちが知りたい」

耳元で低く囁く声に震えた。

──ずるいわよ。こんな時にシュヴァーンにならないでよ。

リタの狼狽ぶりを面白がっているのは分かり切っている。きっと耳まで紅くなっているだろう。そう自分でもわかるほどに、血流が激しく流れるていることを意識させられる。

「そんなの知ってるでしょう?いいから、放してよ」
「放さない」

ほえ?とリタが思った時、ベッドの上に呆気ない程、簡単に押し倒された。

「ま、待ってよ。あ、あたし」
「今、君が、欲しい。いいね、リタ」

一言一句、区切るような大仰な言い回し。芝居がかったような口調なのに、怒る事すらも、撥ねつける事も出来ない。頬に掛かる髪を撫でる指先は優しく、春の若葉を思わせるような眼の色がリタを捉えて放さない。熱を込めた視線。
そんな眼で見つめられたら、イヤなんて言えない。

この指先に、真実があるとしたら、それは、この行為そのものだったろう。

リタの全てを奪い去り、貫かれ、その逞しい腕の中で少女から女になったのは少し前のこと。こうして、会えば求められるような関係は、まだ、数える程だった。まだ男を完全に受けいられない身体は、次に目覚めた時、その残り香を痛みとして忘れようがない。

「目が覚めた?」
「うん……」

何時の間にか意識を手放していたらしい。背後から抱きかかえられるようにして眠っていた事に気がつかされた。

情交の後ほど、気だるさを感じさせられるものはないとリタは思った。旅の途中、何度も遭遇した魔物達の戦いよりも、その虚脱感は、激しい。全ては、この男が与えるもの。そして、今日は格段に堪えていた。普段なら、リタを焦らすだけ焦らせては、恥ずかしい言葉で責め立てるというのに、今日に限って、優しく甘い言葉で囁かれては、慈しむような指先の動きで果てを見せられた。そのせいだろうか。何時に増して感じる倦怠感の原因は、とリタは思うのだが、髪を撫でる仕草すらも、その余韻に震えてしまいそうだった。

「リタっち、さっきの話。嘘でしょ。ここに来る度にあいつらみたいな事言われたでしょ」

先程の男女から言われていたことなどすっかり抜け落ちていた。それほどに疲れ果て、男の片腕を枕にして眠っていたリタだったが、起きぬけに、まだ、忘れてなかったかとその物覚えの良さに敬服しつつ呆れる。

「別に気にしてないわよ。あんただってあたしが昔からそんなに気にしない性格だって知ってるでしょう」

事実である以上、仕方ない事も理解している。シュヴァーンという存在が伝説から現実に舞い戻って来た当たりから、彼の様子を窺う貴族の娘がいたり、リタの存在を面白おかしく吹聴する人間も居た。それも、全ては、こうして心臓魔導器を守る為に密室に二人で長時間いるという行動が噂を呼びこんでいる。それについて反論するほど、リタも子供ではない。ただ、男の言うことはどこまでなのだろうか、とリタは想像がつかない。

「ふーん。まあ、ね。リタっちがそう思うならいいけどさあ」
「ふーんって、あっさりしてるのね」
「あ、何、やっぱり、あいつら裏で絞めて欲しいの?」

嬉々とした声色。だが、どこかぞくりとさせられる低音で呟かれては聞かされる者は堪らない。

「誰がそんな卑怯な真似するか!」

物騒な事を言う男だ。耳を引っ張っては、余計なことするんじゃないわよと念押し。本当にやりかねないからこの男は怖い。向かい合う形で、抱き寄せられる。

「貴族評議会員チュデュクの娘でギャレンとラーナ、男はカポクの息子カトフだったかなあ。後二人は顔を見てなかったから分からないけど、何時もつるんでる貴族の連中だよ」
「……よく覚えてるのね」
「まあ、こう見えてもね……ドラ息子にバカ娘だよ。親の権威を傘にきてるだけの」
「おっさんも大変なのね」
「そおなのよ。ほんと、あんなガキ守らなきゃいけないなんて。おっさん誉めてよ。偉いでしょ」
「そんなのおっさんの仕事じゃないでしょう。あんたのやってる事なんてお飾りで判子押すだけの無能とは違うんだから」

──だから、無茶しないで、と小さく呟く声がした。

ほんと、鋭い子ね。おっさんが今やってる事知ってるような口振りじゃない。あんな脛齧りの子供(ガキ)とは違う、とレイヴンは思う。年の頃は大して変わらないが、先程まで、散々、煽ってくれた姿態は艶やかで、リタ自身気が付いていないだろうが、その瞳が帝国騎士団主席であり、その名を出せば戦慄させる者すらいるようなシュヴァーン・オルトレインをただの男に成り下がらせるなど思っても居ないだろう。

「そう言えば、いつまでこっちにいるの?」
「今回の決議案が可決されたら、次はダングレストだから、今月いっぱいまでかな」
「じゃあ、やっぱりメンテは二ヶ月で一回でいいわ」
「え?どうしてよ」
「ダングレストまで遠いもの。今月中にまた来るわよ」
「あっちに来てくれるつもりだったの?」
「だって、そうじゃないの?」

見つめあっては、お互いに、何か変な事言ったっけ?と思うのだが、先に笑ったのはレイヴンの方だった。

──ほんと、よくころころと表情の変わる娘だわ。それに、嬉しいねえ。わざわざ来てくれるつもりだったのか。

ダングレストの街をリタ一人で来させるという事が、彼女にとって、どんなに時間を割く事かレイブンもよく知っている。それに、いくら、旅に慣れたとはいえ、やはり、あの街の持つ裏の顔を知る以上、心配も募る。

リタを抱きしめると、素直に笑う声がリタを赤くさせた。

「ちょっと笑わないでよ。あたしはあんたの事が……」
「いや、ごめん。俺が行くつもりでいたからさ」
「そんな暇ないでしょう?」
「作るよ。今は、自由が利かないからリタっちに来て貰ってるけどね」

大きな手のひらがリタの頬に触れた。真剣な眼差しを湛えた薄い色をした目がリタを見つめた。

「こんな愛しい姫を、危険な目に遭わせるわけにはいかない」

だから、どうしてここでシュヴァーンになるの、とリタは呆れながらも頬を染めるしかない。レイヴンが言えば、胡散臭いだけの台詞がシュヴァーンになると、くすぐったい程に胸に蕩けてゆく。気障だと思うのに、そうさせない何か。
キスをされて、もう少し、この腕の中でまどろみたいと思った時、扉をノックする音がした。
咄嗟にリタは、身を竦めるのだが、レイヴンはそんな様子を微塵にも見せず、「いい子だから大人しくしておいてね」と耳元で囁く。

「シュヴァーン主席、お休みの所、まことに申し訳ありませんが、フレン団長がお呼びです」
「ああ、分かった。今、支度をするから、フレン団長にはすぐ行くと伝えておいてくれ」
「はい。それでは失礼いたします」

よく通る声。低いながらも、きりりとした威圧感がある。派手な紫紺色の羽織を着たおっさんとは雲泥の差。声色どころか、眼つきまでも瞬時にして変わるシュヴァーンにリタは、やっぱり変な人としか思えなかった。

「そういう訳でちょっと待っていてね。フレンちゃんだからリタっちが来てるって言えば、時間掛からないし」

身支度を整えたレイヴンは、確認するように再度、リタに問いかける。

「君は勝手に帰るような真似はしない筈だが」
「……分かったわよ。待ってる」

やはり、リタが来ているからと言ったのかどうかは分からないが、レイヴンが帰って来たのは、それから小一時間もしなかっただろうか。ただ、レイヴンが帰って来た時、リタは、既に帰り支度を整えていた。

「それじゃあ、あたし帰るわ。来月、来るから」
「え?ちょっと、待った」
「約束通り、待ってたし、帰らなかったわよ」
「そういう意味じゃないんだけどねえ」
「いいでしょう。もう用事済んだのよ」

リタが踵を返した時、強い力で腕を掴まれた。そこに居たのは、シュヴァーン。有無を言わせない。お前に選択肢などないというような強引さでリタを引き止める。

「ちょっと……痛いわよ」

男の有無を言わせない強引さにリタは戸惑いを覚えた。それに、レイヴンもリタの困惑に気がついたのだろう。気まずそうに腕を放す。

「……ごめん。あのさ、飯行こうよ。リタっち、昼から何も食ってないでしょ?」
「食事してる時間なんて無いわ。もう帰らないと間に合わないの」
「誰かと何か約束あるの?」
「違うわよ。新しいエアルの安定装置について研究してる最中だから」
「リタっちが居ないと、それ駄目なの?」
「そんなことないけど……一日ぐらいなら……今はデータ集積している段階だし」
「じゃあ、いいでしょ?せっかくなんだからね。嬢ちゃんだって会いたがってたわよ」
「エステルには、もう会ってきたからいいの」
「あ、そう……おっさんよりも先に会ってたのね」

──おっさんが、そんな上目使いで見ないでよ。どうして、エステルに先に会うぐらいで拗ねるのよ。

帰ると言えば、必死になって足を止めようとする。腕を掴んでは、強引なまでに、従わせようとする。そして、今度は言葉での傀儡を使ってまで制止しようとする。全く、つかめない男だ、とため息よりも肩を竦めるしか、他にない。

「いいわよ。食事ぐらいなら付き合ってあげる」
「うん。それなら、宿も取ってあげるから」
「あたし、泊まるなんて言ってないけど?」
「もう便がないよ。まさか今から歩いて帰るなんて言わないでしょ?」

さすがに、リタも帝都からハルルまで一人で夜道を歩きたいなんては思わない。

「分かったわよ」と、ぼそっと呟くリタにレイヴンは嬉しそうな眼をしていた。


「案外、慣れてしまえば、こんな生活もどうってないのかもよ」

帝都の街に、白と赤のマントを着た少女と葡萄色の大きな羽織を羽織った男の陰が長く伸びる。

食事が済み、二人が店を出たのはもう深夜近く。魔導器の無くなった夜の街は寝静まっているかのように静かだった。原始的な街灯の灯りがぼんやりと二人が歩く石畳を照らしている。レイヴンの言葉に、自分達が犯した罪を感じてしまう。だからこそ必死になって元の世界を取り戻そうとしている。それはレイヴンだけではない。リタも、そして、旅の仲間、其々が様々な場所で。

歩みを止めたリタを見守る男は、背後から静かに語りかけた。リタのそんな後ろめたさに似た想いを掬うかのようだった。ただし、返す言葉は、相変わらずの憎まれ口。

「だからって、リタっちが必至になるのも分かるけど、まずは自分を大事にしなきゃ駄目よ」
「あんたには、言われたくないわ。エステルから聞いたわよ。この間も一月掛かるのを二週間で停戦調停してきてたんでしょう。しかもシュヴァーン・オルトレイン帝国騎士団主席様がわざわざ最前線まで出向いてまで鎮圧したとか」

「嬢ちゃんも、余計な事を」とぼそっと呟く声が聞こえた。

「なんか言った?」
「いいえ。いいえ。あれはたまたまよ。ユニオンとの共同戦線だったしね。カロル先生とこに新しく入った奴らが優秀だからよ。それにこっちだって、若いのが増えた分、今までみたいにチンタラやってる訳じゃないから」
「カロルかあ。そういえば、ユーリ達も元気なのかな?」
「元気、元気。青年もガキンチョ達やジュディスちゃんらも皆元気だったよ」
「おっさん、そんなに皆に会ってるの?」
「まあ、シュヴァーンだろうが、レイヴンだろうがね。どっちも関係ある奴らだから」
「……いいな。皆に会えて」

呟くつもりではなかった言葉が零れおちた。旅が始まる前は、羨むなど、こんな風に思う事などなかった。それこそ、研究だけが毎日の全てだった。他人から何を言われようが、あからさまな態度で煙たがれようが、それこそ、結果だけ出せばそれで納得していた。ただ、それが、自分自身を守る強がりという鎧であるということもリタは分かっていた。そして、旅で出会った仲間達によって、少しずつ、リタは変わっていった。

「皆に会いたい?」

薄暗い街灯が照らす灯りは、どこか温かみがある灯りだった。ぼんやりと春の陽炎のような明るさの中、ほのかにレイヴンの顔を照らし出している。そして、そう告げた声音も穏やかに包み込む。そんな時、リタは奥底に隠し持っている素直な顔を見せる。多分、レイヴンだけしか知らない顔。

「うん。会いたい。ハルルの村はいい所だけど、やっぱり、寂しい」

十五歳の少女らしい横顔を見せては、レイヴンは、その身体を背後から抱きしめた。少しだけ見えた横顔。

──もっと手元に置いておけば、こんな憂いのある顔させないのか。寂しいなんて、今の一度も言った事なかったのにね。

ただ、そうしたいのは山々だが、リタが素直に言う事も聞かない性格なのは十分に承知している。それでなくとも、アスピオが無くなった今、仮の研究所はハルルにある。リタがいなければ進まない研究もあるだろう。シュヴァーンである以上は、帝都に身を置く立場だが、レイヴンとなれば、それこそ世界中を行ったり来たりの生活になるだろう。余計に、寂しさを与えるような生活が待っている。

レイヴンの腕おそるおそるか細い指が重ねられ力が込められる。 重ねあった指に寂しさと愛しさが交わる。



「宿、取ってくれるんじゃなかったの?」

レイヴンの後をついて歩いていたのはいいのだが、宿屋が並ぶ街角からは、少し離れた路地裏にレイヴンは歩みを進めている。どちらかと言えば、生活臭の漂う普通の平民達が暮らすような所だろうか。

「おっさんてば、聞いてるの?」
「聞いてるよ。て、着いたよ」
「ここって、普通の家じゃない?」

リタが見上げた家は、この辺ではよくあるような一軒家だった。灯りは付いていない上に、宿屋らしき看板も出ていない。おっさん、酔っ払ってるの?と眉間に皺が浮かんでいる。

「おっさんちだよ。って言っても、随分前に借りてからは、全然、来てなかったけどね。一応、最低限の生活は出来るようにしてるよ」

リタは呆れかえって言葉が出なかった。

「どったの?そんな顔して?」
「住まないのに家借りてたの?」
「あー、まあ、いろいろとね。こんなとこで立ち話もなんだから、中に入ろうよ」

鍵を開ける音がしたと思うと、先に入ったレイヴンが、恭しく出迎える。

「ようこそ。リタ・モルディオ嬢」

そんな仕草に、リタはレイヴンとしての笑顔を向けた。

居間にあるソファに座り、リタは、物珍しそうに周囲を見渡していた。一見すれば、変哲もない部屋。台所から続く部屋は大きな間取りだが、男一人が住むには広すぎるようにも思えた。しかも、まだ上に部屋もあるのだろう。玄関先から奥に続く階段が、それを伝えている。

「定期的に人の手は入れてるから、何時でも生活は出来るようにしてるんだわ」
「だから、綺麗なんだ」

「よく、こんな大きな家借りたわね」と言えば、「まあ、いろいろ事情もあるから」と、はぐらかされたような気もした。

「はい、今は酒ぐらいしか置いてないけど」
「あたし、お酒飲めないけど」
「これがお酒に見える?」

笑いながら、テーブルに置かれたカップにはココアの甘い香りが立ちあがっている。いくら、即座の生活が出来るようにしているとはいえ、随分、用意周到だとリタは思った。

「おっさん、初めからここに連れてくる気だったんでしょう」
「ばれた?さすが天才魔導士様は違うね」
「どうして、こんなことするのよ。やっぱり帰れば良かった」

騙されたという感情がリタの気分を阻害させる。だったら、はじめから素直に伝えてくれたら、と。

「リタは、俺と一緒に居るのが嫌?」

レイヴンでもシュヴァーンでもないような声色だった。誰なの?と思うのだが、本当のレイヴンでありシュヴァーンの素顔なのかと思った。

「……い、嫌よ。おっさんなんて一緒にいたら、あたしの方が気が休まらないわ」

本当はずっと一緒に居たい。毎日、その顔を見て、名前を呼んで、その指先で触れて欲しいと思っている。

「それなら、少しだけリタの時間、俺にくれない?今だけでもいいから」

随分寂しげな言い方だと思った。散々、今まであたしのこと好き勝手にしてたのにと思ったが、惹き付けられて離れられない。



「あんな言われるような事してごめんね」

暗い寝室に誘われた時、背後から抱きしめられて囁かれた。

「何の事よ」
「部屋に連れ込んでるのは、俺の方だから」
「やっぱり、最後まで聞こえてたのね」
「まあね。噂になってるのは知ってるから」
「あたしはそんなの気にしない」
「嘘つかなくてもいいよ」

ぎゅっと強く抱きしめられる。細い腰に手を廻され、二度と手放したくないというほどの力強さ。リタの首筋に顔を埋められているせいで、表情が見えない。

「嘘なんか……」
「だったら、なぜ、怒鳴ったの?リタっち、あんな事言われたって今までは気にもしてなかったでしょ?」
「そ、それは……」

きっと誤解しているとリタは思った。噂なんて気にしない。正々堂々としていればいい。

「おっさん、勘違いしてる」

抱きしめられた腕を振り払うと、リタは真正面を向いた。強い意志をもって、男を見据える。

「あたしは、こんなに必死になって戦ってるあんたを、あたしのせいで、好き勝手言わせたくないの!」

本当は、静かに伝える筈だったのに、その、言葉は叫ぶような声だった。それだけ言ってしまうと、喉の辺りに仕えていた異物が頬を伝っていた。

「あたしのことはいいの……」

今度は弱々しい声だった。溢れ出た涙を拭おうとリタはしたが、それを止める手がリタの手を掴んだ。

「俺の為に泣いてくれたの?」
「当たり前でしょう。大切な人が悪く言われてるなんて黙っていられない」
「ありがと。だから、次からはここで会おうよ。あんな奴らにリタっち、見せたくないもん」

──なんだ、だから、こんな家借りたの?

抱きあげられて、ベッドに静かに横たえられた。灯りがない部屋だというのに、男の眼がリタを欲していると分かるほどだった。それほどに、熱を帯びた視線がリタをみつめている。頬に触れられ、涙の跡を拭うような指先の動きに、視線を外せない。唇が触れようかという距離まで、その顔が近付いてきた時、リタはそっとその胸板を押し返した。

「え……また……その、するの?」

ムードもへったくれもないと思うも、気恥しさだけが先回りする。昼間、散々、あたしのこと……あんなことしたのに、またなの?と。

「またって……嫌?」
「……え、と。その……」
「今夜一晩、俺の為に時間ちょうだいって言ったよね」
「分かったわよ」

顔を背けて、目を閉じた。「ごめんね」と囁く声が、心に沁み込んでいった。
ああ、だからさっきもあんなに優しかったのね。


朝陽が、カーテンの隙間から射し込んでいた。結局、昨夜は何度も繰り返すように、「好きだ」と囁かれ、名を呼ばれる度に、「あたし」と応え続けた。その時、リタは、男の名を呼べないでいた。シュヴァーンなのか、レイヴンなのか。どちらを読んでいいのか、分からなくなる。どちらもが、本当のシュヴァーンであり、レイヴンだから。彼は、そんなリタに気が付いているのだろうか、と思う時がある。

眠る男をみつめて、リタはその胸元で息衝く魔導器に触れた。指先に、それは穏やかな温もりを伝えてくる。水晶のように光る部分に触れると、その腕を掴まれた。

「何してんの?」

レイブンね。この声は、とリタは思った。

「生きてるんだなって思って確認してたの」
「おっさん、そんなに殺さないでよ」
「おっさんなんて、殺そうと思っても早々くたばらないわよ」
「ほんと、リタっちは強いわ」

抱き寄せられて、リタの首筋に顔を埋めた男は、引き攣ったような声で笑ったいた。リタは、その背に腕をまわした。下ろした黒い髪を撫で、指先でその毛先を巻き付けた。

「気がついてた?あたしが、あんたの名前呼べないでいる時があるの」
「うん。分かってた。まだ、混乱してるんでしょ。レイヴンなのかシュヴァーンなのかって」
「分かってるなら……」
「どっちでもいいよ、っていうのはずるいか」
「ずるいわよ。そうやって、また、あたしを困らせて笑うんでしょう」
「笑いはしないけど」

リタから離れるように肩肘をついて、横になった。穢れを知らないような瞳が男を見つめ返している。こんな時、思うのは、どうか、その瞳は何時までも真実だけを映し出して欲しい、と。そして、そんな瞳に嘘を吐かせた事がどこかで小さな破片になっては突き刺さる。

リタの細い腕を取ると、その指先を唇に押しあてた。小さな、子供の手だと思っていたのは、まだ、知り合って間もない頃。それが、しなやかで細く繊細な動きをする指先だと思ったのは何時の頃なのか、分からない。ただ、その指が触れる都度、静穏な風に包まれては、シュヴァーンという嘘で固められ、幾多の血で汚れた男ですら癒していると思った。

──でも、気がついてないんだろうな。どんな時でもレイヴンって呼んでるって。リタにとって、目の前に居るのがシュヴァーンであっても、レイヴンって。

それが哀しいとは思わなかった。彼女の瞳に映るものだけが、真実だから。

「リタっち、本当のこと教えてあげようか?」
「どういう意味よ。それ」
「気がついてないだろうけど、いつもレイヴンって呼んでるよ」

面白そうに笑う男の顔が憎らしい。それなら、はじめから言ってよと訴えるリタは言葉を失くしている。

「リタっち、自分が何を言ってたのか分からないそれぐらい感じまくってるんだねえ。おっさんのテクそんなにいいの?もっとして欲しい?」

そこには完全にレイヴンがいた。厭らしくて、女と見ればすぐにちょっかいを掛ける男が薄ら笑いを浮かべている。

「ば、ばっ……」

バカっぽいと言いたいのだが声が出ない。余りの下品な言様に怒りで震えるしかない。

──ありゃ、殴ることも忘れてるのか。

衝撃が強すぎたかな、と笑って見せたが、指を掴んでいるせいでリタは思うように動けない。もう一度、目を伏せて、静かにその指先に唇を寄せた。

「ん、でも。ありがと。シュヴァーンを受け入れてくれて」

康寧にそれを漂わせ、リタの細い指に節くれだった指を絡めた。

「だって、おっさんはレイヴンであり、シュヴァーンじゃない」
「そうだね。そうだったね」

言い聞かせるように呟くレイブンに微笑みかけてリタはそっと口付けた。
レイヴンであるなら、それでいいと。
指先を絡めあわせ、伝えるのは真実だけの想い。

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