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Memories filled with laughing and smiling and you







7月の最終日、もう中旬から三十度を突破するような日が続く。茹だるような暑さに身体は既に疲労感を覚え始めるも、子供と呼ばれる人種にとっては夏休みという名の天国。夕刻も過ぎたというのにまだ太陽の残像。うろうろとしているのは、夏休みを満喫とばかりの若者たち。それを横目に、この時ばかりは、ほんと学生に戻りたいとばかり思うのは大人といわれる人種。そして、家路につく教師、この男もその内の一人だった。

「リタっち、これ何よ」
「見たら分かるでしょ。スーツケースじゃない」
「どっか旅行でも行くの」
「どうしてよ」

レイヴンが帰宅した時、玄関先には海外旅行にでも行くのかという大きなスーツケースが転がっている。玄関を開けたら、いきなり漂ってきた冷気。寒い程に冷房を効かせた部屋。俺様、寒さ弱いのよ、と言いだすよりも、その通路を塞いだスーツケースに閉口するしかない。その上、キッチン兼リビングルームのソファに寝転んだまま、ロゴ入りのTシャツにデニムのショートパンツ姿でアイスキャンディーを頬張っている。一見すれば、どこにでもいるよう若い女の子の服装。それこそ、先程、帰り道で見かけたようなどこにでもいるような高校生。そんなラフな格好で、出迎えてくれたリタっちと呼ばれた少女がいた。夏休みになってから、彼女はレイヴンの部屋に入り浸り。それもその筈、レイヴン自身が、彼女に鍵を渡しているような関係であった。ただし、レイヴンの通う学園随一の頭脳を誇る天才と呼ばれる少女。当然、学生となれば彼女は休みだが、教師であるレイヴンは仕事がある。世間一般でいうところの、教師と生徒という間柄で生徒が教師宅に入り浸りというのもどうなんだか、とレイヴンは何故か冷静に考えていた。
ダイニングテーブルの椅子に重い黒のカバンを下ろすと、腰に片手をやっては、少々、威厳を持ってこの女生徒を注意しなければ、と思ったレイヴンだったが、先制攻撃はリタの方からだった。

「家に帰るの面倒だから、いろいろ持ってきた」
「はい?」
「あたしんちまでこの炎天下、往復するのが面倒なのよ。タクシー代だってバカになんないし、電車だって、駅まで行くの面倒なんだもん」
「いや、いや。それって」
「だから、暫く住むわ。ここに。おっさん、平日の昼間いないんだし、あたしはおっさんの部屋の本が読みたいから、合理的でしょ?それに、夏休みなんだからいいわよね」

暫く住むわ?合理的?はい?何を言ってんだろ?この娘、それに何がいいんだか。
呆然と、言葉通りに立ち尽くしたのはレイヴン。
いやいや、夏休みだから?と暫く言葉を失っていた。

「あのさ、リタっち、意味分かってんの?住むって、おっさん、男よ?先生なのよ?分かってんの?」

外の暑さなど一気に引く。詰め寄ると、アイスキャンディーを舐めていた彼女の肩を掴んで力説するが、彼女は、だから、何か問題でもあるの?と大きな瞳で見つめ返してくる。しかも、アイスキャンディーを含んだまま。何となく淫靡。
あ、何だかエロイわ。
男であるから、邪まどころか、ある意味健全な妄想を浮かべてしまいそうになる教師。そんな思惑すら、ウザイとばかりに、生徒は聞き分けのないのは、あんただと不平を口にしていた。

「男なのは見てのとおりだし、先生っていうのは分かり切ってるし。それに彼氏なんだからいいじゃない?」
「いや、まあ、そうだけど」
「あたしが居たら都合悪いの?」
「そんな事はないけど……」

いや、むしろ嬉しいぐらいなんですけど、と思うが、いや、いや。週末に来て泊まるのとは違うのよ?これから一月一緒に暮らすって意味分かってんの?と眩暈がしてきた。それでなくとも、棒状のアイスキャンディーを舐める赤い舌先やら、仄かに色のついた唇が堪らなく、艶めいて見えるというのに。
誰か、この子どうにかしてよ。
そう思いたいが、それが出来るのはレイヴンだけ。
きょとんとしたまま、何か挑発するようにアイスキャンディーを舐め続ける、遥かに歳下の彼女をどうしたものかと思案する。

「あのさあ……」
「あ、一応タダで住まわせて貰うの悪いから、幾らか払うわね」
「そういう問題じゃないでしょ」
「じゃあ、家事ぐらいするわよ」
「それは期待してない」
「……悪かったわね」
「いや、そういう意味じゃなくて」
「どういう意味よ」

リタは、暑苦しい顔近付けるな。何一人テンパってんのよ。と訝しげに顔に浮かべている。
はあ、と大きなため息をこぼしたのはレイヴンの方だった。「あのさ」と切り出したまではいいけれど、リタの顔を覗き込んだまま、考え込むふり。聞きわけの無い子供を宥めすかすかのように、極めて優しく問いかける口調。

「教師の家に生徒が入り浸ってるって誰かに見られたらどうするのよ」
「見られる訳ないんじゃない?あたし、昼間、家から出ないし」
「いや、そうだけど」

確かに言われてみれば、と思う所もある。極端に暑さを嫌うリタが、日中好んで外出する気も起きないだろう。それこそ、冷房の効いた部屋で本を読んでいるぐらいが関の山。ああ、いえば、こう返されると、本当に屁理屈だけは一人前過ぎるリタに多少の苛立ちすら覚え始めて来た。そして、もう一つの問題には、既にどうにでもなれと投げやりな想いをそのまま直接告げる。

「そりゃ、俺様、彼氏だけど、男ですよ?狼さんになっちゃっうかもねえ。どうなちゃっても知らないよ?」
「いいわよ。別に」
「は?え?ちょ?な、何言ってんのか……」
「信用はしてるけど、おっさんだって男だし、彼氏だから、もし……その気なら、あたしはいいわよ」

リタは僅かばかりに頬を染めて視線を逸らした。その可愛らしさに、レイヴンも少しだけ珍しく照れたかもしれない。いや、まて。と、理性を総動員して落ち付け、俺と考えるのだが。
あたしはいいわよ、って、それってどういう意味よ。と、反芻するのだが、分かっているから、二の句が出てこない。すっかり、汗ばんでいた筈の背中が、別の意味で冷や汗となって流れている。

「えーと」

情けない事に、漸く考えて絞り出した言葉はそれのみ。
暫く間抜けな空気が二人の間に流れていた。
頭が痛い、とばかりに額を押さえるレイヴンを、変なのとリタは呆れたように見つめている。

「それよりお腹空いた。おっさん、何か作るの?それとも何か頼む?」

アイスキャンディーを食べ終わったリタがその萎んだ風船のような雰囲気を変える一声。

「ああ、いや。何か作るけど、炒飯とか、簡単なもんで良い?」
「うん。それでいい」

キッチンに向かいながら、何だか誤魔化されたとレイヴンは思うしかない。いや、俺自身も誤魔化していないか、と。


夏休みに入った直後、リタの親友達、レイヴンからしてみれば学園の卒業生や同僚から海に行かないかと誘われたまでは良かった。外で大っぴらに出来る関係でも無い上に、親友が卒業してから、幾分ふさぎ込んでいるであろうリタの気分転換にでもなれば。少しは高校生らしい夏休みの一日とでも思っていたのだが、結果は、夏休みの思い出というのには、些か、衝撃的だったかもしれない。リタの水着姿を巡っての、痴話ゲンカ。そこから始まって、リタがレイヴンに零した抱えている感情に惑わされては、関係を押し進めるように、多少、彼女の意識に変化を見せた。


深夜のニュース番組は、今年の暑さをニュースアンカーが伝えていたが、レイヴンには、声すらまともに届いていない。

──全くどうしてこうなったんだ。

ソファに座り頭を抱えたレイヴンだが、リタが何を考えているのか分からない。いや、分かっているからこそ、だろう。夕食の間も、お互いにそれには触れず終い。無理やりにでも送って行くべきなのか。今なら、まだ、電車も動いている筈。いや、こんな夜中に一人で駅からの夜道を歩かせるのも危険だろう。それなら、今日だけは特別に泊まらせてと纏まらない思考が渦巻いていた。

「おっさん」

ふわり、花のような甘い香りが漂ってきた。不意に、顔を上げれば雫が落ちる髪をタオルで拭きながら、リタが名前を呼んでいる。思いの外、近くにいたリタにドキリとしたのはレイヴンの方だった。「飲む?」と差し出されたコップには、麦茶が注がれている。

「な、な、何、リタっち?」
「お風呂上がったから、ついでにおっさんの分も淹れたんだけど」
「あ、ありがと」
「そんなに驚かなくてもいいじゃない」

レイヴンの横に座ったリタといえば、ローテーブルに置いてた雑誌に目を通している。
完全に、そのまま泊まるという意思表示なのだろう。パジャマと言うのには、色気が少々ないが、大き目の黒いTシャツを着ていたが、それが確か、レイヴンの物だった筈。いや、十分色気があるじゃない、とレイヴンが思うのも仕方ない。何時の頃からか、伸ばし始めた髪。既に背中を覆うぐらいの長さ。濡れていたせいで、ゆるりと結えては、久しく見てはいなかった白い項に、雫が流れ落ちては消えた。しかも、若さだけが持つ肌の輝き以上に、整った顔立ちに惹きつけられる。綺麗な横顔だな、とは思うにしても、風呂上がりでこんな無防備な顔されてもねえ。
化粧っ気もないのに、こんなに上気した肌が、傍にいるだけでも男にとっては毒。
仄かなシャンプーの香に惑わされたのか。

「リタっち」

「何?」とリタが振り向いた時、その小さな顔を両手が包んでいる。リタが、あ、と思う間もなかった。そっと目を閉じて、軽く触れるだけのキス。突然のことでリタは身を竦めていたが、慣れて来るうちに、レイヴンのシャツを握りしてめている。軽く、啄ばむだけのキスを繰り返して、最後に額に口付けた。
以前なら、「何するのよ、この変態」といわれていたのだが。
リタの瞳といえば、潤みきってほんのりと色付いた頬が完全に誘っているとしか思えない程に紅潮的。泣き出しそうなほどに潤んだ大きな瞳がレイヴンを見つめていた。

「ごっ、ごめん」

思わず謝ってしまう。

「謝るな、馬鹿」
「いや、そうはいってもさ……なんか、急にこんな事したから……」
「ごめんだなんて、悪い事してる訳じゃないわいわよ」
「そんなもんなの?」

こくん、と小さな頭が頷いたが、レイヴンにはよく分からなかった。

「おっさんから、キスなんて滅多にしてくれないくせに」
「して欲しいの?」
「そういう、いやらしい聞き方、ほんと得意ね」
「別にそういうつもりで言った訳じゃないんだけど……」

レイヴンとしては、思わず素の状態で訊ねたのだが。拗ねたようにしては、お互いに妙に照れが入ったのか、リタはそのままレイヴンの胸に顔を埋めていると、そっと抱き寄せられた。
あ、おっさんとあたし同じ香りしてる。
近寄ると言うよりも抱き寄せられては、ボディシャンプーの香る石鹸のようなさっぱりとした匂い。
当然な話だが、今更ながらに一緒にいることを感じて、リタは少しだけ嬉しいという感情が浮かんで来ては、こっそりと微笑んでいた。何かを共有している訳ではないが、何かしら同じという繋がりが、心地よく包み込んでくる。
別に、いいじゃない。夏休みぐらい、先生と生徒じゃなくたって。
そう告げた所で、この臆病な男は何を考えているのか、リタには到底理解出来なかった。


「おっさん、まだ、寝ないの?」

ベッドでうつらうつらとしていた時、小さな物音で目覚めたリタがベッドからレイヴンを見上げていた。青白いモニター画面からの光にレイヴンの顔が照らされている。

「うん。まだ、終わらないから」
「……会議資料なの?」
「あ、いや。別の仕事」
「ふうん」
「それより、リタっち寝れないんじゃない?おっさん、あっちの部屋で……」
「前にも、それ言ったけど気にしないでよ。少しぐらい傍に居たって問題ないでしょ」

肘を着いて、レイヴンを見上げている小さな恋人。襟ぐりが大きいのか、ちらりと見えた胸元を長く伸びた髪が邪魔をしている。まるで、レイヴンの僅かばかりとでもいう自己抑制の気持ちを逆なでするかのように。
ほんと、簡単に挑発してくれてるんだからなあ。
そう思えば、ちょいとばかり、仕返し。

「何?添い寝して欲しいの?」
「いい加減、休めばっていってんの。もう二時過ぎてるのよ。おっさん、今日だって学校あるでしょ?」
「……あ、はい。うん、そうだよね」

言い返されては至極御尤も。時計を見るまでもなく、深夜とも言える時刻。いい加減、床に就かなければ、何かと翌日にその疲労を残し始めている年代。そう思えば、リタの言い分は理に敵っている。
何だか、俺様、リタっちにやられっぱなしじゃないの。
渋々とでもいうわけではないが、パソコンの電源を落とすと、急に室内が暗闇に包まれた。

「ベッド、入っても良い?」

とは、レイヴン。普通逆だろ、とは思っているが口には出せない。僅かに身をずらしては、リタが一人分の空間を作っていた。

「いいわよって、おっさんのベッドじゃない。何遠慮してんのよ」
「……じゃあ、失礼します」

何を失礼するんだろうとも思うのだが。小柄なリタだけに、レイヴンが横に伏せて抱き寄せれば、胸元にこつんと額を寄せて来た。

「……おっさん、変なの。おやすみ」

変にしちゃってくれてるのは、リタっちでしょ。そう告げたかったが、聞こえるのは穏やかな寝息。きっと、レイヴンが眠りに着くまで我慢していたかのように、あっという間に眠りに落ちていたらしい。

「……おやすみ」

はあ、と溜息。こうして一緒に眠るだけも何度も経験しているが、何故か、今日だけは振り回されっぱなしに、我ながら、情けなくもなって来るとレイヴンは思うしかないだろう。




一夜明け学園に来てのレイヴンの朝一番の仕事といえば、壁に貼られているカレンダーを破り捨てると夏本番という月になるも、たった一日、日付けが変わっただけで昨日と変わらない夏の日差し。まだ午前だというのに燦々と照りつける校庭を眩しげに見つめては、大あくび。伸びをした所で眠気は去ってくれそうにもない。手付かずになっている仕事もある、夏休みといっても教師となればそれなりに仕事もあった。

「しかし、何でこうも眠いんだか」

余りの眠気にサボリ心がむくりと湧き上がるも、書き掛けの書類が脳裏を過れば、そうもう行かないと一人、喝を入れるしかないだろう。

「濃いコーヒーでも淹れましょうかねえ。リタっちはどうせ午後から来るんだろうし」

表向きは部活動の事を思い出す。それまでには、と。部室隅にあるコーヒーメーカーが置いてある場所に向かうも、ふと思い出した。

「そういや、俺昨日書きかけた……書類のUSBメモリー持って来てたよな?」

確か、朝、カバンの中に放り込んだと思っていたが、いや、まてよとカバンを取り出しては、しまったと後悔。このところの暑さで頭まで耄碌し始めたかと。
携帯を取り出しては、ある少女の電話番号を呼び出していた。


携帯の着信音が鳴った。
目ざましではないことに、ぼんやりと目を覚ますと不機嫌さが如実に表れていた。

「なによ。折角、気持よく眠ってたって言うのに」

携帯を見れば、それが誰からであるか。見慣れた名前にうんざりとした表情を浮かべる。

「……何よ」
『ごめん。起きて……』
「──だから、何よ」
『あのさ、昼過ぎから来るでしょ?その時でいいんだけど、俺の机の上。USBメモリー置いてないかなあ?もしなければ、引き出しの中だと思うんだけど持ってきてくれない?お願いなんだけど」
「……ん」
『そう?お願』

早々に通信終了をしたのはリタの方だった。誰かといえば、レイヴン。多分、リタが自宅にいることを分かってのことだったのだろう。

「人をなんだと思ってるのよ」

彼氏とはいえ、押し掛けていた状態でなんだとは、ないのだが。

「えーと。あれ、どこよ。おっさん、机の上にあるって言ってたのに」

リタの自宅とは違いそこざっぱりと整理整頓されているのは、見かけよりも意外に几帳面さを隠しているレイヴンの性分なのだろう。小難しい本が数冊置かれていた机の上を探すのは諦めた。引き出しの中と言われて、少しだけ躊躇いが浮かぶも、本人が良いって言ってるんだからいいわよね、と理由を探し求めてはその引き出しを開ける。引き出しの中も、その性質を表すかのように、こまめに区分されて最低必要現の文具用品が置いている。

「あ、これかしら」

見覚えのあるUSBメモリーを手にしては、ほっとした表情を浮かべる。
そして、閉じようとした時、何か引っかかる物があった。

「もう。何よ」

余り無茶に押し込んでも、何か大切なものだったらと思い、リタはその引き出しを取り出していた。そっと奥に手を伸ばすと、何か金属のような冷たい物が指先に触れる。えい、とその引っ掛かった物を取り出すと、怪訝な表情を浮かべるしかなかった。

「ライター?おっさん、煙草吸うの?」

リタの白い手のひらの中には、幾分、鈍い光を放つ艶消しがされているシルバーのジッポーライタが転がっていた。そして、もう一度、引き出しの奥を覗き込んでみれば、何やら紙のような物も見えた。手を再度伸ばしては、それを破らないように慎重に手繰り寄せては、リタはそれが何かであるか知った。

「写真?誰?これ、おっさんよね……?」



校庭脇にある向日葵が揺れていた。木陰すらない程に高く昇った太陽に照らされたアスファルトの向こう側に蜃気楼が立ち上がるような暑さの中、夏の制服に身を包んだ少女がうんざりとした顔をしながら校舎の中に消えてゆく。

「はい。おっさん、もって来たわよ」

科学部の横に併設されている小部屋の扉が開くと、リタが汗を拭きながら忌々しげに唸っていた。微かにエアコンが稼働している音がするも、元々寒がりな男の居る部屋だけにそれほど冷たさは感じないが、やはり、それでも外の熱気に比べれば天国といえる涼しさ。振り返ったレイヴンが、そんなリタに苦笑いを浮かべるのも仕方ない暑さだけに、努めて柔らかな笑顔を向けていたつもりだった。

「ありがと。助かったわ。今日中に提出しなきゃならない……リタっち?」

リタがカバンから出したUSBメモリーを受け取ろうとしたレイヴンだったが、リタの様子がおかしいと動きが止まる。ぼんやりとして焦点の定まらないかのように、何か影が覆っているかのようにも見えた。また、具合が悪いのだろうか、と不安が過る程に顔色も悪い。白い肌が、妙に熱を持っているかのようにも思える。

「リタっち?」
「……外が暑かったから、気分悪いの」
「ああ、そうだよね……何か飲む?」
「いい」
「保健室で休む?」
「いいの。そこで少し休む」

壁にあるソファにぼすんと座り込んだかと思えば、そのまま上半身だけを横にしていた。レイヴンが窓の外を見れば、確かにうだるような暑さ。運動部ですら、その暑さから練習時間をずらしている程。焼けつくような太陽がぎらぎらと地表を照らしている。

「ほんとに大丈夫?前に見たいに……」

振り返って見ると、リタは目を閉じていた。ぐったりとして、生気も失せているかのように見える。以前もリタの機嫌を損ねては、急上昇する気温の中、屋上で過ごして居たことを思い出す。まだ梅雨明け前だという季節だった頃。それでも、この茹だるような暑さでは、ほんの数分、外を出歩いただけでも気分が悪くなるだろう。
今日、確かジュディスちゃん居たよね。
レイヴンの脳裏に保健校医である美女が浮かんだ。さっさと保健室にでも連れて行って休ませておくべきか。本人が、ここでいいと言っていても、何かと無茶をしたがる。それでなくとも素直でないのは十分に分かり切っているからこそ。
白衣を脱いでは、その横たわっているリタに掛けてやった。片目を開けてリタがレイヴンを見つめたが、すぐに目を閉じる。

「このまま休んでる?おっさん、早く終わるから、夕方には帰れるし」
「……うん」
「それじゃあ、おっさん、職員室行ってくるけど、気分悪いのなら保健室行きなさいよ?ジュディスちゃん居る筈だから」
「……分かった」

レイヴンが扉を閉める瞬間、何か切なげに訴える瞳がその背を見つめていた。当然、気が付くも筈もなかったが。そして一人になれば、少しだけまだ冷静になってくるのだろう。リタは上半身を起こしては、カバンの中からレイヴンの部屋で見つけて来たジッポーを取り出しては手にしていた。

「おっさんの馬鹿」

肩に掛けられたレイヴンが着ていた白衣。少しでも風避けになればと掛けて行くようなさりげない優しさがある癖に、何にも問わない、いや、口にしない過去があると知らされてはどこかで燻る想いがリタを困惑させながらも、どこかで嫉妬めいた気持ちがわき上がっている。部屋で見つけた写真はそのまま机の上に置きっ放しにしてきた。ただ、何となく、手のひらの中で転がしているこれだけは、大切な物のような気がして持って来てしまっていた。

「誰よ、あの女の人」

それが、問えない自分自身にも苛立っては、白衣を纏うかのように、再び、横になっていた。


結局、夕刻までレイヴはン姿を見せずに西日が射す時刻になって漸く準備室に戻ってきていた。静かに開けられた扉の向こう側、惰眠というよりもすっかり眠っていたかのようにリタは目を閉じている。呼吸の様子から見ても、眠り込んでいるのだろう。起こすのも忍びないが、もう職員室にも殆ど残っていないことを思い出すと、レイブンはリタに声を掛けていた。

「リタっち、起きてる?気分悪いならタクシー呼ぼうか」
「……うん」
「学校来る前に昼食ったの?」
「欲しくなかったから……」
「ちょっと、また熱中症にでも……」

リタの横に腰を屈めてはその額に手を触れようとした時、リタが目を開けた。猫のような瞳がレイヴンを見つめていた。何か戸惑いのような色が見え隠れするも、どこか憂いのあるような影もちらつく。

「おっさん、煙草吸うの?」
「……何よ、いきなり」
「これ」

そういうと、リタは制服のポケットからシルバーのジッポーを取り出しては、レイヴンに差し出した。一瞬、どこでこんな物をとレイヴンが考え込んだ。喫煙者でないリタが持っている筈もなく、そもそも高校生。俺自身だって、見覚えがない、と思いかけたが、それを受け取ると、僅かに手入れされていないかのように鈍い艶を持っていたそれが長い年月を隔て手にされた記憶が蘇る。
ああ、俺のだわ。リタっち、見つけちゃったの。
嘆息が零れ落ちる。僅かに緩んだ笑顔を見せながらも、リタに忍び寄る影がこいつのせいだな、とレイヴンは内心思い浮かんだ。

「どったの、これ?」
「おっさんの引き出しの中から出てきた」
「……ああ、昔ね。ほんの一時だけね」
「……そう」
「あたし、煙草嫌いだから」

素っ気なく言われると、レイヴンは肩を竦めていた。どこか棘のある口調。
まあ、確かにリタっち嫌うもんね。俺が飲み会で煙草の匂いさせて帰ってきたら、嫌そうな顔してたし。でも、こいつ、また出て来たの。随分前にしまっていたと思ったら。
手の平に渡されたジッポーを見つめては、暫し逡巡。思い出というのには、嫌な記憶が蘇る。ただ、リタを目に前にして、そんな事も思い起こす訳にもいかないとばかりに平然と素知らぬ顔を作る。

「今は、吸ってないよ。それはリタっちも知ってるじゃない。あーそろそろ、俺タクシー呼ぶから、来たら帰りなさいよ」
「おっさんは帰らないの?」
「はい?」
「あたしんちまで送り返そうとしても無駄よ」
「……」

手の内を読まれていたらしい。仕方なく、レイヴンは襟足を掻くしかなかった。

「はーい。じゃあ、おっさんも帰り支度します……」

ほんと、洞察力まで鋭くなっちゃって。
レイヴンの思惑など知っているかのようにリタは立ち上がっていた。
こいつの謂れを聞きたくないけど聞きたいのだろうな、とレイヴンが一人ごちる。嫉妬というには、可愛らしい表情で機嫌を損ねているけれど、それを聞かせるには、やや気分が重くなる。


帰宅後、リタは夕飯も取らずにベッドに伏していた。やはり、具合が悪いのだろうかと、レイヴンが寝室を覗き込むと、薄明かりの中、リタは壁側に寝返りを打っていた。

「リタっち……何か食べる?」
「……いい。欲しくない」
「んなこと言ったって、朝からまともに食ってないでしょ?何か食べやすいもの……プリンでも買ってこようか?」
「いいってば」

最後には怒ったかのように言われては肩を竦めるしかない。
本当に、どうしちゃったのよ。
顔色が悪いと言う訳ではないが、何か不貞腐れているようにも思える。レイヴンは、そっとベッドの端に座ると、リタの肩に触れた。

「……おっさん」
「ん?」
「ライター……昔付き合ってた人から貰ったの?」
「え?」

突然の告白にレイヴンは思わず間抜けな声を出していた。唐突過ぎる質問である以上仕方ないにしても、どこかでやはりリタも女の子なんだなと苦笑いも浮かんでいた。
黙っていた訳じゃないのよ。おっさんにとってさ、重い過去の話なんてリタっちに聞かせたくないの。
そう告げたいが、元々、好奇心ではそこら辺の生徒などよりも数段上。ただ、リタとて他人の過去、いくら彼氏と言われようともそうずかずかと過去に踏み込むことを良しとしないのも十分に分かっているのだろう。

「……違うよ。友達。誕生日のプレゼントあげたら、そのお返し」
「嘘」
「嘘じゃないってばあ」
「綺麗な人ね」

冗談めかしていた口調だったが、それも消える。リタの言葉でレイヴンの表情が変わった。背を向けたままぽつりと零れる言葉。タオルケットに包まった背が随分と小さく見えた。元々、小柄な上に線も細い華奢な身体つき。それでも薄い生地からも緩やかに描く曲線は少女の物。

「ライター見つけた時に、写真も挟まってたの。引き出しの奥に」
「……見ちゃったの」
「勝手に見たのは悪かったって思う」
「……うーん、別にいいわよ。ほんとに、友達だったから。ね、その写真、どこにある?」

どうやってはぐらかそうかなと思うも、何故か嘘がつけなくなってきている。
レイヴンの声にリタはややけだるそうに起き上がると、机を指差した。レイヴンは無言でその方向を振り返れば、本の上に一枚だけ裏返された写真があった。それを取っては、何とも言えない想いが浮き上がる。

「……ヤキモチ妬いちゃった?」

おどけて言えば、微かにリタの表情が曇った。首を縦にも横にもしないまま、レイヴンを見つめるでもなく、ただ、空を眺めるかのように視線は冷たい床に固定されている。何か他にも見つけたのだろうかと思うが、これ以上は何もなかった筈とレイヴンは溜息を零す。
どうやって話そうかね。
めんどくさいな、と何処かで思う自分もいるが、リタの気持ちを思えば、どこか後ろめたさすら浮かんでしまう。
これが互いに恋愛慣れまでとは行かないにしろ、それなりに経験もしている女なら、それだけで理解したまま、心の奥底に潜ませるか、問い詰めてくるにしても、リタ程の複雑な感情は持ち合わせていないとレイヴンは考えていた。
他人に興味を示さない少女が相手なら、全てが真っ白な状態。
それだけに、少女が気に留めるのであれば、それを誤魔化してはいけない、と。

「ごめん、ちょっと座っていい?」

リタが起き上がるとベッドに腰かける。その隣に座ると、レイヴンは写真を見ながら、どこかで懐かしさも浮かんできている。

「昔ね、好きだった人。もう居ないけどね」

それだけ告げると、リタは唇を噛みしめていた。きゅっと握った手が僅かに震えている。肩を抱き寄せては、写真を見つめるリタの横顔。薄明かりの中、長い睫毛までも揺れる。繊細な心緒を持つリタだけに、どんな感情が渦巻いていたのか、手に取るかのようにも分かっていた。

「ほんとに、真剣に好きだった。事故でね。ううん。俺が殺したようなものかな」

柔らかな笑顔を浮かべては、相反するような言葉にリタは目を見開いて、レイヴンを見つめていた。
もう居ないと告げられては、どういう意味なんだろうと考えないまでに、この写真の中に映る女性が既にこの世に存在していないことを悟るぐらいなら誰でもできた。ただ、その次にレイヴンが発した言葉にリタは急に心がぐさりと何かによって突き刺さるような衝撃すら覚えていた。
乾いた声しか出ない。
だが、レイヴンのどこか他人事のようにも聞こえる淡々とした口調が過去を紡いでゆく。

「……え?」
「事故は事故なんだけどね。俺が彼女を誘わなければ、事故に遭うこともなかっただろうし……俺自身も、それで死にかけてたの」
「……」
「ここんとこ、傷跡あるよ。この間の海でもさ、俺脱がなかったでしょ。ずっと上に着てたでしょ」
「そういえば……」

レイヴンが親指で示した場所は生命を維持するための臓器。半年近くこうして二人で過ごす時間があったとはいえ、レイヴンが常に何かを隠すかのようにその肌を見せたことは無かった。リタは自分に対しての防御線と考えていた。そういえば、夏だと言うのにいつも長袖、半袖を着ているかと思えば白衣を羽織っていたり、何かしら隠しているようにも、今にして見れば思える。

「そう。心臓のとこね。手術の後があってね。他にも傷跡があってね。あんまり見れたもんじゃないし」
「……だって、おっさん、今までだってそんなこと」
「今はね、何ともないんだけど……結構酷くてね、ひょっとしたら本当に生きてるのが不思議だったらしいから」
「……ごめん、なさい」
「リタっちが謝る事ないの。いずれはさ、きちんと話さなきゃいけなかったし……見る?」
「え?……」
「いいか。あんまり、気持ちのいいもんじゃないから」

何故、突然リタにそんな事を告げたのか、レイヴン自身にも分からなかったが、いずれは告げなければいけない事実であるなら、この写真とジッポーが今だと告げているような気がしていた。
そうだよね。リタっちが俺に対して真剣な気持ち見せてくれるなら、俺だってね。もう、いいよね。
ごめん、ね。
写真の中で微笑む人にそう問いかけた。答えてはくれぬが、どこかで求めていたのは贖罪だったのか。
レイヴンを見つめていた視線は、真っ直ぐなまま。

「いい。見る」

そんじゃあ、ねとレイヴンがシャツを脱いで見せた時、リタはその胸元に残る傷跡に触れていた。薄明かりの中、それは無残にもレイヴンの肌を切り刻んだ後。何か火傷のようにも見えて、リタはそっとその部分に頬を寄せていた。

「リ、リタっち?」
「ね。聞かせてよ。その人のこと、おっさんが真剣に好きだった人なんでしょ?」
「……いいの?」
「おっさんが嫌じゃなければ……」

「じゃあ、座り直そうか」と、リタを抱き寄せたまま、膝に間に座らせるようにして抱かかえていた。

「まだね。今のリタっちよりちょっと上ぐらい。大学の先輩でね。頭も良いし、何をしても敵わない人だったわ。笑うと屈託ない顔してた。その頃ね、親と上手くいかなくなって、まあ、色々あるじゃない。それで半分やさぐれてたのかな」
「親……?」
「うん。もう、親っていう人たちも居ないしね。おっさんも」

おっさんも、と言われリタは小さく頷いた。多分、身上書などでレイヴンは自分の家族構成は知っていると思っていた。ついぞ口にはした事が無いが、リタも幼少期に両親を失い、遠縁の家で育っていた。そんなレイヴンとは違う環境ではあるが、彼自身からその出自を聞くのは初めてだったであろう。

「……そうだったの」
「うーん、そんな顔しないの」
「だって……」
「まあ、いいわ。その頃ね、一丁前に煙草なんて吸ってたのよ。それを咎められてたけれど、ある時、彼女の誕生日にあげたらお返しにこれ、くれたのよ。『あんまり吸うな』とか怒りながらね……そういうとこ、リタっちに似てるかな」

懐かしげに笑うレイヴンをリタは黙って見つめた。どこか儚げにも見えた笑顔。遠くを、見つめる先には懐古の中に生きている彼女が羨ましい、と。レイヴンにそんな優しい顔を浮かべさせる人。リタとて、それがどんな感情であるか、何となくでは分かっていた。勝ち目がないといいう諦めも共に。過ぎ去った過去の中で息づく人は、それだけ輝いた思い出しか残さない。リタにそんな記憶があるかといえば、無かった。だが、レイヴンの顔を見つめて思うのは、そんな事。

「……綺麗な人ね」
「うん、まあ美人だったしね。狙ってる奴も多かったわ」
「おっさんだって、そうだったんでしょ?」
「まあね。ただ、彼女は別に居たのよ。そういう相手が、たまにそいつの愚痴きかされてたぐらいだもの」
「完全な片思い?」
「そういうこと……リタっち?」

何故か頬を伝う涙を拭えなかった。嫉妬というよりも興味本位で覗きこんだ物が、こんなにも深く横たわる想いだったとは知らずに居た方が良かった。どうしても越えられない時間の壁を垣間見た瞬間。常に意識していた訳ではなかったが、それでも、レイヴンとてそれなりの人生を歩んできていると突き付けられているようだった。
残酷なのは、あたしじゃない。おっさんの傷跡を抉っている。子供だから、単純な好奇心で聞いただけ。
ただ、それなのに、どうしてこんなに苦しいんだろう。

「ど、どうしたのよ」
「……バカみたい、あたし」
「リタっち……嫉妬したの?」
「違う。気掛かりだったの。でも、でも……」
「もういいの。おっさんだってさ、こんなに言えるようになっただけ思い出になってたのよ。こいつの存在だって忘れかけてたぐらい」

ベッドの脇に置いてあったジッポーを眺めながらレイヴンは、そっと告げていた。
そう、思い出さない日なんてなかったはずなのに、何時の間にか、思い出すようになってる。

「……おっさん?」
「リタっちにはさ、まだ分からないかもしれないけど、時間がね、解決してくれることもあるから」

そう、何時しか過ぎ去る季節が色褪せるかのように綺麗な思い出だけが蘇る。あれほどまでに忘れたくて、忘れないでいた筈なのに。

「ほんとにさ、情けない話。彼女をさ、誘ってちょっと出かけようってなった時の事故。俺だけが生き残ってたの……責められた方が良かったのにさ、周囲は腫れものみたいにしか接しないで、遠巻きに見てるだけだもの」
「……でも、あたしはおっさんが生きていてくれて、嬉しいの」

そうじゃなければ、出会う事もなかった。運命なんて信じないけれど、どこかで結びつき合っている糸が引き合わせているのなら。

「うん、俺も今はそう思うよ。こうして生きてなければね、リタっちと出会えなかったから」

肩越しにリタの顔を覗き込むと、潤んだ瞳が見返して来る。

「おっさん、痛くなかった?……苦しくなかった?」
「そりゃあね。ほんと一時期は、荒れてた。まあ、あんまりリタっちには知られたくないような悪さもね。女なんて……あ……いや、そのね」
「相当、悪かったのね」

思わず口が滑ったのではないが、ついついそんな愚痴めいたような言葉が零れていた。少しばかり冷やかに見つめる視線が、痛くてレイヴンは苦笑いが浮かんだ。子供というよりも少女としての潔癖さなんだろうなと思いが浮かんでいる。耳年増でも無かろうが、その辺は歳相応の知識もあったらしい。零れ落ちた言葉から察知しては、侮蔑にも近い色が浮かび上がっている。
俺、今凄く拙い事口にしてたよね。
そう決定付けるのは、リタの視線。お子様と揶揄する所以はこんなとこにあるのか、とリタは考えていたのだろう。単に年長者としての、言葉ではなく、それ相応に遊んでいたと思われる断片。
だから、あたしのこといつもからかって。
悔しいと思うよりも、そんな相手が本気なんだろうと思うのは不思議な気持ちも浮かぶ。
こんなあたしなのに?
到底、レイヴンの過去に存在していた女性などリタはこの写真以外は到底思い浮かばないのだが、それでも保健校医の顔を思い浮かべれば、おのずとその相手らしき人物も想像出来た。そこまで、子供じゃないと咎めるような色に瞳が変わる。

「そんな目で観ないでよお。今は真面目じゃない」
「どこがよ」
「生徒に……」
「あーもう。それ言わないでよ。大体、リタっちが……」
「あたしのせいだっていうの?」
「……半分、そうじゃないの?」
「そ、それは……」

赤くなって口籠るリタをレイヴンは抱き締めていた。
君以上に愛しさなんて感じる人はもう出てこないだろうと思っていたのにね。こんな気難しい女の子が俺の前に現れるなんて、ねえ、そっちで吃驚してるかな。ほんとに大切な女の子なんだよ。俺にとって、ね。
写真に映る女性にそう心の内で語りかけては、リタを見つめた。
口ごもっては、赤くなっている。

「冗談ですってば。リタっちが言わなくても俺が先に言ってたの」
「何だか……」
「ん?」
「今日のおっさん、なんか違う」
「違わないでしょ?胡散臭くて、ちゃらちゃらしてるおっさんでしょ?」
「……良く分かんないけど、もう一人いるような……何だか別人みたい」

リタは、ふと影を感じていた。淡々としながら、どこか朧げな生気が失せたような気配を感じていた。
やっぱり聡い子だわ。ちょっとした変化も見過ごさない。でも、隠してた訳じゃないのよ。封印しただけ。
そう彼女の記憶と共に。

「あの頃の俺なのかねえ。妙に冷めきってた、だから、淡々とこんな風に話ができるのか」

レイヴンの陰鬱な影が宿る横顔をリタは息を潜めて見つめた。それだけに、この写真の女性に対しての想いは間違いなく本物であり、言い出せない程に恋焦がれていたもの。
その何もかもが全ては過去となっている今。
綺麗な人ね、おっさんが好きになる筈。もし、この人が今おっさんの隣に居たら……どうなって……そんな筈ないわ。
もし、と仮定した所で今が、それでない以上、徒労に終わる。でも、否定も肯定もせずにいたが、やはり、何処かで嫉妬めいたものはあったのだろう。


「そうね。こんな綺麗な人、おっさんなんか相手にしてくれないわよね」

だから、精一杯の強がりを見せる。

「リタっち、それは酷過ぎるんじゃない?いくらおっさんでも傷つくじゃないの」

本気で心外だと咎める声にリタはにやりとして言葉を返した。

「だから、あたしでいいの。そうでしょ?あたしにはおっさんの過去も今のおっさんも全部受け止めるわ」
「……ほんと、口の減らない子」
「そういうとこが良いんでしょ?」
「……はい、そうでした」

ぐっとリタの腰にまわされた腕に力が籠っていた。首筋に顔を埋めるかのようにしたレイヴンの前髪を指先に絡める。

「ねえ、名前教えて、この人の」
「うん、いいよ。彼女の名前は……」

そっと囁かれた名前にリタは、写真を見つめながら静かに思う。
ことり、とその名が心に刻まれる瞬間。
こんなおっさんだから、あたしずっと傍に居るから安心して。あたしだっておっさんが居ないと駄目なの。ねえ、だから、見守っていて。

静かに二人で写真を見つめながら、夏の夜が更けてゆく。
短い夏が始まり、何か一つだけリタはレイヴンの記憶を手にしていたような気がした。
たとえ、それが哀しい過去であっても、レイヴンの一部となっているのであれば、それすらも全てが今は赦されるような気がしていた。



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