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November








静かに降り始めた雨が街を濡らしては、少しづつ薄寒さを連れてやってくる季節。秋が終わりを告げては冬の入り口だから、何となく寂しさまで潜ませてる。でも、そんな外の風景に気が付かず、おっさんの自宅、そのキッチンでいた。もうあたしが半年前から入り浸っているって言うと聞こえは悪いけど、週末はここで過ごす時間の方が遥かに多い、居心地のいい部屋。そのキッチンでコトコトと煮込んでるのはおでん。あたしは、その鍋の中で踊ってる具材を見ながら、必死でメモと睨めっこ。

『リタ姐、それは違うのじゃ。そう、そうやって、切り込みを入れて』
『ああ、もう。煩いわね』
『ナマコの腸のように、そっと優しく』
『なんなのよ。その例え、こんにゃくじゃない、これ』

そんな会話を繰り返してたのは数日前の学校、と言っても高等部にある調理実習室。切っ掛けは、先月の学園祭で中等部のパティが作ってたおでんが好評だとかでおっさん、中等部まで行っては教師特権でくすねて来てたのを、部室の科学準備室で美味しそうに食べてたのよね。あたしも少し貰ったけど、確かに何時も以上に美味しかった。
部室の片隅、空になったパックをゴミ箱に捨てながら、何となく会話。ペットボトルのお茶を片手に、本当におっさん臭く、爪楊枝なんて咥えてるし。見っとも無いから、やめて欲しい癖なんだけど。

『パティちゃん、おでんは上手なんだよねえ』
『毎日なら飽きるわよ』
『まぁ、そうだけどね』

あたしの素っ気ない言葉に、苦笑いを浮かべてたけど、おっさん、基本的にはあっさりした和風の好みだからこういう薄味が好きなんだろうなって思ってた、その時は。ただ、それからっていうもの事あるごとにパティのおでんを誉めてたもんだからそれを耳にする度に、あたし機嫌が悪くなってた。だって、あたし、そんなに料理は得意じゃないから。何となく遠まわしに作って欲しいのかと思ってたりしてたもの。でも、おっさんの方が料理上手だから、勝手に作りそうなもんだけど。
学園祭だとかテストやら色んな行事が終わった10月も終わり、久しぶりに会ってたエステル達にそれを何となく愚痴ってたら、『パティに教えて貰えばいいじゃないか』ってユーリが余計な事言い出すし。そして、数日後にはユーリ経由でそれを聞きつけたパティも何故か張り切っていた。そして、最初の会話に戻るけれど、放課後、何故か調理実習室を借り切ってのパティの即席料理教室まで開催してくれてたもの。理事長の孫娘だから、こんな越権行為というのか、無茶も出来るんだろうけど。

「これで片付けは終わりっと」

今はおっさんの家。そして、あんまりあたしが立つことのないキッチンでさっきからメモを見ながらの悪戦苦闘。鍋の様子を見ながら後片付けも終わってた。こうなってくると後はとことん火の見張り番。

「だ、だいたい。おっさんが悪いんじゃないの。あんなに美味しそうに食べてるから」

女の子らしいっていうのか慣れないから、急に恥ずかしくなっては逆切れもいいとこよね。少しだけ溜息。こうして部屋に居るのも、付き合ってるから鍵を持っているから。春に告白をしてから、それから暫くしておっさんから手渡されて。そんなことも、あいつら、主にユーリ達にもばれてしまってるから、おっさんもたまにはからかいの対象になってるけど、どうしてもエステルに会う機会が多いから、メインターゲットはあたしなのよ。

『まるで、新婚さんじゃのう。愛しい旦那様に作ってあげる若妻、いやリタ姐の場合、幼妻……な、な、なんでもないのじゃ』

あたしが一生懸命、材料とか調味料の配分をメモしてる時にパティがぼそっと言ってたのよね。その場にあった包丁をちらりと見つめたら、黙ってたけど。……思い出したら恥ずかしいじゃない。
そんなこと考えてたらぐつぐつと見張り番忘れてるって言い出してる。吹き零れないようにと火加減調整。鍋を開けると、湯気がふんわりと立ち上がってた。お出汁の香りが立ち込める。うん、いい匂い。でも、パティってやたらおでんが得意みたいで何かあると「またおでんなの?」なんて、あたし言ってたけど、こんなに手が込んでるなんて思ってもいなかった。昨日の夜からの仕込みだとか、大根の角を切ってとか、いろいろ教わったけど。
つやつやの卵が大きな鍋の中で泳いでる様子をみては、何となく、また溜息。ほんと、あたし受験生だっていうのに、18歳の女の子だっていうのに日がな一日、何をやってるんだろうって。そう、昨日の夜から仕込んでは作ってた。それもその筈、こんな料理なんて出来るのは、おっさんが居ない土曜日の夜だから。
木曜日、部室で帰り支度をし始めたあたしにおっさん突然言い出すんだから。
夕日が沈む部屋、あたしがコートを羽織りかけた時、本当に思い出したようにさりげなく、戸締りをしてたおっさんが振り返って告げられた。

『リタっち、明日から俺いないから部活もお休み。ちょっとね、研修会と別の学会行くからね』
『学会?』
『そうなのよ。金曜日の夜から、学校終わったら即行くから』
『ふうん』
『あら、会えなくて悲しいわ、ぐらい言ってくれないの?』
『誰が言うか。おっさんが居ない方が静かでいいわ』

本当はがっかりしてた。そんな色は見せないで、いつもの嫌味っぽい強がりを発揮。この所色んな行事が立て込んでいて、おっさんと碌な会話も無かったから。あたし自身もテストだとか、色々あったし。そして学会や研修会で不在だから金曜日の夜からずっと独り、この部屋を占拠してる。
多分、あたし達が付き合い始めて初めてだったかも。
こういう研修会みたいなのはたまにあったけれど、それは平日だから、あたしは無関係だった。こうして、部屋に来るのは週末だけで初めて過ごす週末。パティにそれも言われたのよね。あの子、中学生の癖に古いドラマのこと言っていたっけ。

『そういえば、昔、週末婚というテレビドラマがあったのう……』

包丁を握ったら、完全に怯えた眼をしてたけど、絶対、ユーリが何か吹きこんでるに違いないわ。でも、その出所はエステルよね……。あの二人、エステルとユーリだけど、一度、何を言ってるのか、締めておかなきゃ、まったく、ほんとに。

「ああ、もう。バカっぽい」

急に恥ずかしくなって呟いてみたけど、いつも二人でいる部屋が妙に静かで、ひっそりとしてる。あたしが何か言えば、返ってくるおっさんの声がない。それこそ「どうしたのよ?」なんて笑いかけてくるのに。鍋の中を覗き込んでは、溜息ばっかり、零れては、沸騰させないようにと火の番をしてるせいもあってか、ほんわりと登る湯気だけがあたしを包んでる。
でも、それだって、からかわれてるっていうのか、冷やかされてるのは恥ずかしいけれど、嬉しいっていう気持ちもある。あたし達の関係を皆は知っているから、おっさんとも普通に過ごす事が出来る。学校だと先生と生徒っていうのを無意識の内に演じているって言うとおかしいけれど、どこかぎこちなくなってしまう時があったり。そんな生活も半年が経とうとしている。後、半年でそれも終わり。あたしが卒業したら、堂々とはできるけれど、それも、あたしにとってはハードルが高いのよね。二十歳も年齢差はあるし、あたしはもう十八歳にもなるって言うのに、未だに一年生、酷い時なんて中学生に見られる時だってあるから。

……また、パティのどうでもいい言葉を思い出しそう。

鍋の様子を見ては、コンロの火を止めてた。そっと掬ってはしっかりと味の染みた大根を一つだけ味見。見た目よりもほんのりとした和風出汁と微かな野菜特有の甘味。うん、パティの味に近いかな。これなら、満足してくれるわよね。鍋に蓋をしてほっとひと息つくと、後はおっさんの帰りを待つだけだから、急に、しんとした部屋が寂しく思えてきた。リビングに戻ってテレビを何となく点けてみたけど、そこに映るのはくだらない恋愛ドラマ。あんなに単純に行けば誰だって苦労しないわよ。他の番組も似たような物ばかりだから、何だか余計に空しくなって消しては壁際に配置された大きなソファに寝転んでいた。

ちょっとくすんだクリーム色の天井があたしの視界いっぱいに広がってる。

おっさんが住んでる部屋だから、もっとごちゃごちゃとしてるのかと思うけど、実際はシンプルな部屋だった。必要最低限、それだって意外な一面。学校のおっさんの場所なんて乱雑っていう言葉が一番に似合う癖に、自分の一番大切なテリトリーになれば余計なものを置きたがらないなんていう面も初めて知った。几帳面っていうのか、置物というのか、少しの物一つにも拘りもあったりしてる。センスがいいか?って言われると良くは分からないんだけど、それなりにお金が掛かってそうなのよね。今、寝転んでるソファーだって年季は入っているけど、革張りのシックだけど、ゴロゴロするには丁度良くって、品物がいいんだろうなって余りこういうことを知らないあたしですら思ってしまう。そんな中、唯一、この部屋にあたしの存在を残してるのが、あたしが何となくエステルと遊びに行った帰りに買って来てた猫モチーフの置物。長い尻尾をくるりと巻いては座ってる。可愛いっていうよりシンプルで綺麗なガラス細工みたいな置物だから、おっさんの部屋にあっても違和感がなかったから、そのままにしてる。テレビ台になってるスチール製の棚の上に猫が一匹。あたしみたいね。おっさん、これを一人で居る時、眺めてるのかななって思ってはちょっとだけ気恥しさも浮かぶけれど、それ以上に気掛かりなこと。

「それにしても何時に帰ってくるつもりなのよ」

起き上がっては、膝を抱え込んでた。テーブルの上に置いてる赤い携帯。おっさんとは色違いの機種。付き合い始めてから機種変更した時、何故かおっさんまで一緒に変えてた。携帯を取って、そっとなぞってみた。着信履歴は昨日の夜が最後、あれから全然鳴らない。メールフォルダを開けてみたら、付き合ってからおっさんからのメールばっかり保存してるの。おっさんにそんな事知られたら、恥ずかしいけど。でも、平日だってそんなにメールはする方じゃない。そして、送って来るのはいつもおっさん、「家についた?」とか「おやすみ」なんて簡単な会話ばっかり。
悔しいからあたしからなんてメールも電話もしない。

はあ、と溜息。もう何度目何だろう。可愛いくないわよね。分かり切ってるけど。

こうしておっさんの帰りを待ってる時が何だかよく分かんない感情だけど、退屈で物足りなくて、やる気とか、そんな物を全て流してしまう。殆ど毎日顔を合わせて、週末だって一緒に居るって言うのに寂しいっていうのも変な感情だと思うけれど、ぽつんと音の無い部屋にいると誰も居ない世界に取り残されてるような気分。たった一人で立ち尽くしてるような、そんな心許無い気持ち。それを掬い上げてくれるのは、あの胡散臭いけど、あたしが心を惹かれる笑顔。目尻を下げて、癖になってる無精ひげをさすっては、ちょっと悪戯っ子みたいな表情を浮かべてる。
膝に頭を着けては、また、溜息が零れる。おっさんの飄々とした笑顔を思い出すなんて。
変なの。おっさんを好きになる前なんて、こんな気持ち知らなかった。好きだって気がついた時だって分からなかった。好きって伝えて、好きだって言われてから、こんな気持ち、初めて知った。ねえ、どうしてくれるのよ。こんな気持ち、あたしどうしていいのか分からないのよ。

立ち上がって、気を紛らわせるために、何か飲もうと思った時、着信音がしてた。

慌てて携帯を見たら、おっさんからのメール。「今、電車の中だから後30分ぐらいで帰るけど、リタっち今どこに居るの?」って。ばか、あんたんちに居るのに決まってるじゃない。エステルからの誘いを断って、今日だって一日おでん作ってたんだから。

「何が、どこにって……おっさんちしか居場所なんてないでしょ」

そう返信しようかと思った時、何か外が騒がしいなっていう音がしてた。料理をしてたから、少しだけ開けていた窓から聞こえてくるのは雨音。そんなに激しくは無いけれど、おっさん、傘なんて持ってないわよね。どの辺の電車に乗ってるんだろう。マンションは、駅からまではそんなに遠くはないけど、徒歩だから確実に濡れて帰って来るわよね。

駅に着いてから返信しておけばいいわって考えながら、あたしは、おっさんの黒い大きな傘を持って駅に向かってた。

もう薄暗い時間。でも、それなりに家路に向かう人が多い道。駅に向かうあたしだけが反対方向に歩いてる。お店も閉まりかけてるから所々明かりが消えてる。そっか、来月はそんな時期なのね。まだ11月の初めだって言うのに、少し足を止められたのは、雑貨屋さんのショーウィンドウ。
もう赤と緑のディスプレイ。クリスマスの季節を装っている。売り物のスノーボールが周囲の灯りに反射してキラキラしてた。

「クリスマスなんだ」

何となく呟いたのは、あたしには関係のないイベントだった。小さい頃に両親を早くに亡くしてるから。その後は遠縁の家で育ってた。高校生になってから、その家も半分飛び出す様な形で一人暮らしを始めていた。こんな事思い出すのも、この季節のせいかしら。暫く、ガラスに映ったあたしを見ていたけれど、おっさんがの事を思い出すと、急ぎ足に立ち去っていたの。

「やっぱり、日が暮れると寒いわね」

雨が降りだしたら急に冷え込んできたから、あたし、手をすり合わせては独り言。先週は木枯らしだって吹いてたし、冷たい雨が音もなく降るから、一段と寂しさなんていうものがあたしの中に忍び込んでくるようだった。

おっさんの傘、大きな黒い傘をぎゅと握りしめてた。早く会いたい。

だから、こんな事させるのかもしれない。そして、ちょっと驚いて、あたしを見て笑ってる顔を一秒でも早く見たかった。駅に着くと、あたしは携帯を取り出してた。「駅に居る、雨降ってるから」とだけ送信。電車の中だから気がつくかしら、と思ったから改札口で待ち伏せ。大きな柱に凭れて、改札口をぼんやりと眺めてると色んな人が駅を通り過ぎるんだなって実感してしまう。子供が迎えに来てる若いお父さんだとか、その反対に塾帰りなのかしら、小さな子をお母さんが待ってる。

誰かを待ってるなんて昔のあたしから想像出来ない。

やがて、ざわめきと共に電車がまた着いたみたい。改札口を一番に駆けて来る黒っぽいスーツ姿の人が居るなって思えば、やっぱり、おっさんだった。たった三日振りだっていうのに、あたし、怒ったような顔して出迎えてる。本当は嬉しいのに、でも、こんな事してる自分が恥ずかしいから。

「リ、リタっち。迎えに来てくれてたの?」
「そ、そうよ。どうせ。傘なんて持ってないと思ったのよ」
「うん、よく分かったわね……ありがと」

ほらね。驚いて、嬉しそうにはにかんだ笑顔見せてくれた。スーツの上にトレンチコートまで着てるから最初誰だか分かんなかった。髪だって、いつもみたいに適当に結ってるんじなくて下ろしてはきちんと整えてるから別人みたいに見える。何時もそれぐらいきちんとしてればいいのにって思うけれど、そんな、あたしにおかまいなしに、おっさんは多分書類の入った大きなカバンを抱えて傘をさす前に、それまでおっさんが手に持っていたマフラーをあたしの首に巻き付けてた。でも、いきなりこんな事されたら、あのね。恥ずかしいじゃない。

「ちょっと、いきなり何……」
「そんな薄着でさ。寒いんだから、はい。これでいいと、リタっち、飯食った?お腹空いてない?」
「空いてるけど……」
「じゃあ、その辺で何か食って……」
「──家、帰るわよ」
「え?ねえ。ちょっと待ってよ、リタっち」

おっさんに傘を渡すと、あたし、先に駅を出ていた。おっさんも慌てて後をついて来るように小走りで駆けだしてる。そして、帰り道。行きは一人で急いでたから、気が付かなかったけど、随分雨が降ってたみたい。雨で濡れたアスファルトが車のライトで光っていた。街路樹の黄色や赤い落葉樹があちこちに散らばって誰も居ない夜の風景に姿を変えている。雨はポツポツと降るからこれからもっと冷え込みそうな気配。
はあ、と白い息が微かに分かる程に冬の気配が深くなっているのね。
あたしに追いついたおっさんと二人で並んで歩く帰り道って、見える景色が違うなんて思ってもいなかった。たまに学校帰りに駅まで送って貰う時があるけれど、今は制服じゃない。ちょっとかしこまってスーツなんて着てるおっさんとあたしって他の人が見たらどう思うんだろう。どんな風に見えるのかな。普通の恋人同士に見えたらいいのにね。ゆっくりと歩いていると不思議と寒さが気にならないほっこりした気持ちが湧きあがってきてる。

「ほんとに、外で食べなくていいの?俺んち、何にもないよ」
「いいの。知ってるわよ」
「リタっち、お腹空いてんじゃないの?」
「どうせ、食べないで本でも読んでたとでも思ってんでしょ」
「……まぁね」

何が、まあねよ。一生懸命作ってたんだから。その、味見してる時にちょいちょい摘んでたからあんまりお腹空いてないのもあるんだけど。それにしても、ほんと寒いわよね。あたし、適当に羽織ってきたフード付きののパーカーに下はミニスカートにブーツなんていう格好だったから、すっかり冷え込んでたのかも。マフラーに顔を埋めながら、隣を歩くおっさんをちょっと横目で見つめてた。こんなスーツなんて持ってたのね。ダークグレイの、黒に近いような色をしてる。まるでこの夜に溶け込むかのよう。何度かスーツ姿は見た事があったけれど、それでも見馴れない分だけ新鮮なのよね。

こんなことしたら、もっと、驚くかしら。

悴みそうな指先、パーカーの裾に引っ込めていたけど、おっさんの左手、そっと握ってた。慣れない事してるって十分に分かってるから、その爪先だけ。小さな子が迷子にならないみたいに、少しだけ握ってるような感じ。おっさん、あたしのこんな事に驚いた素振りを見せないで、指を絡まして来てた。強い力であたしの指におっさんの男の人だなって思うような長くてごつごつとした指が絡んでは、逃がさない、離さないって言ってるようにぎゅっと握りしめられた。

「お、おっさんが寒いと思ったからよ」

お互いに視線を合わさずに、あたしは前を向いてた。驚くかなって思ったのに驚かされたのはあたしの方。盗み見た見馴れない横顔は、あたしをみるでもなく前を向いていて、ちょっと怖いぐらいに別人にも見えるから、本当に何を考えてるのか分からない。ぎゅっと握りしめられた指をおっさんの指が包み込むように絡められている。

「リタっち、ずっと待ってたの?冷えてるじゃない」
「おっさんの手が冷たいからそう思うだけよ」
「そうなのかねえ」
「そうなのよ」

ちょっと拗ねたように言えば、おっさん、いつもの苦笑いでも浮かべているわよね。どうせ、素直じゃないわよ。でも、握り返してくれる力が嬉しくって少しだけ頬が緩んでくるのが見られたくなくて、あたしは傘で顔を隠してた。



「あれ?何かいい匂いすると、思ったら、リタっち作ってくれてたの?」
「そうよ。だから、食べないで待ってたんだから」

帰り着いた途端、玄関を開けるなり、おっさん台所の方を見て気がついたみたい。そりゃそうでしょ。昨日から頑張ったんだもの。玄関先でどう?って少し得意気な顔でおっさんを見返してたら、嬉しそうにしている。学校では見せない、緩みきってる顔。その何でも許してくれるような笑顔に何となく、湧き上がってきた不思議な感情。

「……リタっち?」

きゅっておっさんのスーツの上着握りしめて、あたし、おっさんに抱きついてた。こんな事、初めて。分かんないけれど、何故かほっとして甘えたくなって、本当に迷子の子供が漸く安心出来る人を見つけたみたいに、もう逸れないように、その手を離さないって決心したみたいにおっさんを抱きしめてた。雨の湿っぽい匂いが混じってスーツから漂うのは少しだけおっさんのいつもの香り。香水じゃない、なんかよく分かんないけどお日様みたいに乾いた匂い。落ち着きっていうのか、安らぎっていう感覚で満たされる。

「……どったのよ?」
「……何でもない。でも、少しこうさせて」

「いいよ」って優しく囁く声が耳元でしてる。ゆっくりとあたしを包み込む太くてがっしりとした腕。あたしの髪を撫でながら、頭に唇を寄せてる。何となく恥ずかしくなって、あたしは顔をおっさんの胸に埋めては誤魔化してる。だって、こんなのあたし自身が戸惑う程だもの。何度か、こんな風に気持ちを持て余しては、おっさんに対して理不尽に怒ってた時もあるけれど、こんなに素直に抱きつくなんて、今までのあたしなら考えられない。

あたし、どうしちゃったんだろう。まるで子供よね。情緒不安定な。

でも、おっさん、そんなあたしに困った素振りなんて見せないで静かにあたしの髪を撫でてくれてた。ここに居るから、安心してっていうように。そして、あたしが息苦しくない程度の力で抱きしめてくる。おっさんの心臓の音が聞こえるぐらい密着してるから、心細い気持ち。さっきまでこの部屋で感じてた寂しさみたいな塊が融けてゆくように感じられてた。

「……ちょっとは落ち着いた」
「……うん」

恥ずかしいから俯いてた。おっさんの安堵してる顔が見たいけれど。こつんって、おっさんの胸に頭をつけて、まだ握りしめてたジャケット。その手をおっさんの大きな節くれだった指がほどいてゆく。そうして、手が離れた時、漸くおっさんの顔を見つめる事が出来てた。どうしたの?って覗きこむ眼。穏やかな凪の止まる瞬間のような同じ色の瞳。憂いを浮かべたあたしが映り込んでいる。

「リタ……っ?」

おっさんの声が消える。あたし、少しだけ背伸び。つま先を上げて、解かれた指をもう一度、その胸に置いては、おっさんを自然と屈ませるようにして、あたしからその唇に触れている。ゆっくりと、静かに。唯、抱き締められるだけじゃ足りない分を補うように、あたしの唇がおっさんの唇に触れていた。その唇はひんやりとしてるけれど、それだって心地良くて、何だか泣きだしそう。
そうよ寂しいの。心のどこかに、ぽっかりと穴が開いたような三日間。おっさんが居ないだけっていうだけで、こんなにも色がない世界だなんて。

ぐっとあたしの肩を掴む力。抱き寄せられては、啄ばむようなキスをおっさんから返されてた。

何度も何度も繰り返して、あたしの気持ちを伝えたくて、少しでも良いから分かって欲しくて。情けないけれど、あたしがどんな風に想っているのか伝えたかった。
唇が離れた時、あたしの頬をおっさんの指が拭うような仕草。

「……寂しかったの?」

こくん、と頷いてた。冬のせいかもしれない。人恋しくなる季節だから。さっきだってそうだった。駅の改札口、色んな人が通り過ぎる風景の中で、あたしと同じように帰りを待ってる人の不安そうな、つまんなさそうな表情を浮かべていた。冬の曇り空みたいに。でも、待ち人が来たら見せる笑顔。そんなのが羨ましく見えてた。あたしよりも少し年上みたいな恋人同士っていうような人達が見せてる笑顔が何故か眩しくて、そんな人達を見ていたら、おっさんに早く、会いたいって。その笑顔を見たいって強く思わされていたの。

「……分かんないけど。何だか、あたしにも分かんないの」

あたし自身ですら見つからない答えなのに、おっさんはあたしを抱き寄せて「ごめんね」って、ちょっと寂しそうな声色で囁いていた。胸に顔を埋めて呟く。おっさんが悪い訳じゃないの。どうしようもい強がりばかり覚えてゆくあたしのせいなのよ。

「おっさんが謝る理由なんてないわよ。仕事だったんだから」
「うん、まあ、そうだけどさ」

そうよ。おっさんが悪い訳じゃない。勝手にあたし一人が空回りしてる。そんなあたしの頬を包み込んでる指先は普段は冷たいのに、暖かな日差しみたいな温もりが伝わって来てた。おっさんの視線から逃げられないようにしなやかな力で、あたしの心を掬い上げようとしてくれてる。

「リタっちは寂しがり屋なんだから」
「どうして分かるのよ。あたし、そんな……」
「そりゃ分かりますって。リタっちみたいな女の子はね、特にね。気難しい癖に、こうやって甘えてくるんだから」

おでこを合わせて、どう、凄いでしょ俺様って得意気な表情を浮かべてるおっさん。ほんと、敵わない。年齢とか、いろんな差があるけれど、こうやって時々、あたしを驚かせてるの。あたしなんかよりあたしを知ってる。そのまま額にキスが落ちてくる。こんな我儘で分かりにくいあたしなのに、それすらも分かってくれてる。
ほら、もう大丈夫でしょ?って仄かに浮かんだ笑顔。あたしも安心したように半べそで笑っていた。

「って、さ。この匂い何作ったの?」
「おでん……だけど」
「じゃあ、リタっち特製のおでん食べようよ?」
「……うん」

あたし、冷え込んでいる玄関先でずっと居たもんだから、慌ててキッチンに向かう。寒さのせいで鼻がおかしくなってたみたい。味付けにイマイチ自信が無くなってたから、おっさんを呼んでた。スーツからラフな部屋着に着替えを済ませてから髪も何時も見たいに結え直してる。
取りあえずは、大根を一つ、小皿に盛ってから渡して見てた。

「どれどれ?」

実験結果を調べる時みたいに、もう、大げさなんだから。おっさんが、大根を口に入れる瞬間までじっと固唾を呑んで見守ってた。ちょっとドキドキしてるっていうのか緊張してる。大きな口をして、ぱくっと放り込むと、口をモゴモゴさせながら味わって食べてる。

「あ、うん。この味、一番美味いわ」
「……ほんと?」

パティのおでん、あんなに美味しいって言ってたから、どうなのかな?って少し疑心暗鬼。だって、面白くないじゃない?パティとはいえ他の女の子の手料理誉められたらね。固唾を飲んでおっさんを見つめてたら、おっさん、ちょっとだけ笑ってる。

「疑い深い子ねえ。ほら、これだけ美味しいからおっさん驚いてるのよ?ほら、口あけてよ」
「あたし、味見して……んっ」

なんて言いながら、半分に割った大根をあたしの口に突っ込むな。思わずあたしも食べちゃったじゃない。うん、さっきよりも一段と味がしみ込んでるような感じがしてる。ちょっと熱いから口の中でじんわりと味が広がってるのを確認。

「ほんとに、ほんと。俺様、パティちゃんの味よりこっちの方が好きだわ」

まだ疑ってるの?っておっさんの顔。そんな事ないけど、さっきのことがあるから気遣ってるんじゃないかって後ろめたさ感じる。おっさん、大抵からかうから、疑心暗鬼じゃないけれど、少しは何か言われるかと思ってたから肩透かしっていうのも変なの。でも、本当に美味しそうに食べてくれるのって、こんなに嬉しいんだ。
漸く、口の中にいた大根を咀嚼し終わったから、照れ隠しじゃないけれど、あたしの方がブツブツ言いだしてた。

「でも、このレシピ、パティからよ」
「うーん、でも、何となく匙加減変えてるでしょ?」
「うん。パティからは、そのままの分量でって言われたけど、何だか違うって思って」
「俺の好みの味、分かってるからでしょ」

そう言われると、そうかもしれない。たまに料理する事はあるけど、おっさんが作る物食べるのメインだから、何となく味付けを覚えてたのかも。そう思うと、どこかすとんと腑に落ちる気がしてた。なんだ、あたし何時の間にかおっさんの見えない部分を理解してるんだっていうような、上手く説明できないけれど、一緒に過ごす時間の小さな積み重ねから生まれて来てた何かを漸く手にしてたのかも。まだまだ小さな星屑みたいな欠片だけど、深々と降りつもっては確実にあたしを包み込んでくれてた。

「……何点?」

だから、そんな事聞いている。おっさん、また?っていうようにうんざりした顔してる。そんな顔しなくたっていいじゃない。だいたい、あんたが悪いんじゃない。切っ掛けは、夏休みに皆で行った海、二点なんて水着評価されてから多少まだ根に持ってる。まあ、後で百点って訂正はしてくれてたけど。でも、今日は違ってた。眉を顰めたのは一瞬。あっさりと、嬉しそうな顔して点数評価してくれた。

「満点」
「……良かった」
「うん。この味なら美味い。ね、食べようよ。おっさんの全然食ってないからさ」

安堵に綻んだ笑顔が自然と零れてた。二人で夕飯の用意をして、研修の事とか色んな話を聞いたり、あたしもおっさんが居ない間の事を話しをしてた。久しぶりに見る笑顔が、あたし自身をほっとさせてた。


夕飯後、先にシャワーを浴びるからってバスルームに消えてたおっさん。入れ替わりにあたしが、寝室に来た時は、もう既にベッドの上で撃沈してた。
読みかけの本がページを開いたまま照明も点けっぱなし。ほんと疲れてたのね。枕を抱きしめてうつ伏せのまま、本を読んでいたであろう姿勢のまま、眠ってる。
そっとベッドの脇に座ると、その頬を覆ってた髪を撫でた。普段、あたしが本を読んでたりしてたらくどいぐらいに話掛けてきたりつまんない悪戯をし掛けてくるけど、本当はそれだって嬉しい。今だって、本当はもっと話して欲しいと思っているけど、これだけ熟睡してるとね、悪いかなって思うもの。だから、起こすつもりは無かったけど、瞼がぴくぴくとしたもんだから、あたしは撫でる手を止めていた。でも、やっぱり起しちゃったみたい。薄らと、ぼんやりした目が、数回瞬きをしたと思うと光を宿らせてあたしを見つめてた。

「ん……?リタっち?」
「ごめんね。起こすつもり無かったけど……点けっぱなしだったし。もう寝る?」
「いいよ。別に。ちょっとだけ転寝してたわ……」
「いいわよ、もう休んだら?」
「添い寝してくれないの?」

起き上がるつもりじゃなかったみたいだけど、おっさんは枕を抱え込んであたしを見上げてた。何してたの、俺にって言いたけげな眼。ちょっとだけ面白い物を見つけたかのように口角を上げて、楽しい事を見つけたような口元が緩んでる。こういう時って、大抵はからかってくる事前なのよね。それでもいいのだけど、今は疲労を浮かべてる顔色の方が心配。だから、あたし、逃げるようにベッドから立ち上がってた。

「やだ。一人で寝なさいよ。あたし、こっちに布団敷くわよ」
「いいじゃないのお。寒いんだもの」

あたしの腕を掴んでは、おいでよって言わんばかりの強さ、これじゃ離してくれなさそう。寝ぼけてる訳じゃなくて、何となく、こうして誘われてる。でも、何かする訳じゃなく、本当に一緒に眠るだけ。それでも、今のあたしには勇気が必要、おっさんもそれを知ってるから何もしないけれど。

「ほんとに、しょうがない、おっさん」

ちょっとだけ笑って、その腕の中に素直に引き込まれていた。



リタっちを抱きしめてると風呂上がりの仄かに石鹸のような淡いさっぱりしたいい香りがして、子供みたいな体温に引き込まれるかのようにもう一度、眠ってた。

「……早く寝過ぎちまったね」

ぼんやりと目覚めたら、まだ夜明け前じゃないの。疲労困憊っていうほどじゃないけれど、やはり疲労が蓄積されていたらしい。思った以上に美味いリタっち特製のおでんで満腹になってた夕飯後、碌に会話らしい会話もなく俺の方が先に撃沈してた。ほんと、歳だけは取りたくないわね。ふと、視線を移せば俺の胸に顔を埋めるようにして眠ってるリタっちがいる。ほんと、髪も随分伸びたね。時々は切ってるみたいだけど、それでも出会った頃からしてみれば、肩まで覆う髪の長さは想像出来なかった。

肩に掛かる長い髪の毛先を一房、指に巻き付けては遊んでた。柔らかな栗色の髪の毛先はリタっちの性格みたいに自由奔放にも思える。何度か弄っていたら、「んっ」と小さな呟きが漏れては、寒いせいか俺にすり寄ってくる。何となく苦笑いが浮かんだ。無邪気な寝顔過ぎてさ。こうして、何度か夜を一緒に過ごしているけれど、キス止まり。本音を言えば、今すぐにだって、それこそ、心だけじゃなく身体だって俺の物にしたいなんて軽薄な男が頭の片隅でいるんだよね。そいつが悪さをしないように見張っている俺も居るけれど、何よりも傷付けたくない。せめて、制服じゃなくなるまでの関係になってからと、そう言い聞かせている半年……そうか、もう半年か。俺にしちゃ、ほんと我慢強いわ。

「まったく油断しきって、おっさんだって男なのよ?」

自嘲気味に呟いていた。あの頃たってほんの2年前。まだリタっちが転入生として濃紺のセーラー服の襟を翻してた頃が浮かんだ。上級生どころか教師陣にまで食って掛るほどに気が強くて口は悪い。何かあると「バカっぽい」なんて言う口癖はどこか冷めていて、一見、見下したような、前評判通りの横暴さもあったからねえ。天才児にして問題児。それとなく前の学校に居る知人から聞いていたけれど、それ以上だった。でもさ、そんなリタっちが、俺の隣であどけない寝顔を見せるようになってたなんて、あの頃の俺自身、想像も出来ない。

「ほんと皮肉っていえば皮肉」

胡散臭いおっさん扱いされて、多分、初対面の印象は最悪だろうな。俺自身だって小生意気な生徒ぐらいにしか思ってないかった。でも何故か気になってた。最初はそれが、教師としての責務なんていうものだって思ってたさ。誰とも打ち融けようとしない転校生。でも、拒絶とも取れる程の交わりの無さが、複雑な家庭環境やら生い立ちからくるものだって分かり始めてたら、ほっとけなくなってた。同年代よりも大人びている思考の癖に、顔立ちは反対にあどけなさの残る、アンバランスさ。くるくると表情の変わる大きな瞳だとか、まあ、庇護欲っていうのか、そんな物を感じさせる華奢で小柄な肢体だとか、何時からなんて明確な答えは出せれないけれど、生徒じゃなく一人の女の子として見てるようになってた。それでも、たっ二年だっていうのに随分大人びた顔立ちになってきている。
女っていうこの世で一番に理解しにくい厄介な生き物、そして、少女から女にっていう開花する、その狭間で揺れるような顔を見せ始めている。

「誰かと似てるなあ……」

唐突に不思議なんだけど、保健校医であるジュディスちゃんが浮かんだ。気の置けないというのか、機転の利くウィットに飛んだ女性だから、俺の印象も悪くはない。一時期は、俺と噂があったりとか、リタっちも警戒してたりと、まあ、色々あったけれど、そんな彼女とリタっちが、どことなくだけど似たような影がちらつく。全く正反対の二人だっていうのに、奇妙な共通点でもあるのかねえ。ジュディスちゃんも外見こそ男が見惚れるぐらいだけど、それだけじゃない明晰さもある。当然、リタっちも頭の良さから言えば、俺ですら舌を巻くぐらいに弁も立つ。回転の速さも相当なもん。でも、そんな駆け引きなんて出来ないぐらいに真っ直ぐだ。

「ほんと、どうしちゃったのよ」

そんな彼女が、切ないぐらいに必死になって俺に纏わりついて来てた夜。
駅で待っていたリタっちが俺を見つけた瞬間。泣きそうに歪んでた。嬉しさと安堵に揺れる気持ちの中、それがほんの一瞬だけ浮かんでは消えていた。すぐさま、怒ったように眉間を寄せていたけれど、それだってさ、照れ隠しの強がりだって知っている俺からしてみれば嬉しいけれど切なくさせてしまう。

「ごめんね、リタっち」

思わず口に浮かんでた。長い髪を撫でながら。寂しい想いなんてさせたくないけれど、きっと、彼女にとっては初めての気持ちなんだろうな。誰かを好きになるなんていう事が無かったから、戸惑っている。それぐらい自分自身だけを信じて来た十八歳の女の子って言うのも、どこか哀しいけれど、それを変えてしまったのは俺自身だから、少しは自惚れてもいいのかね。

帰り道、リタっちの小さな白い手。よほど待ってたのか冷たく悴んだ指先が、俺の手を繋いでこようとしてた。

滅多にそんなことリタっちからする事なんて無いのにさ。咄嗟に俺からの視線から逃れるように傘で顔を隠してたけれど、指先から伝わる温もりだって、少しづつ上昇するのを感じたら、どんな想いで待っていたのか、痛いぐらいに伝わって来てた。
どんな想いで、自分を守ってきたんだろう。
棘に覆われた、いびつな彼女。己だけを信じて、真っ直ぐであろうとするから、傷つくことすら分かってなくてただ直向きに生きてゆこうとしている。何もかもに恨み節で不貞腐れていた俺とは違うわ。俺の十八の頃なんて、ただ、苛立ちだけ抱えて突っ掛かってただけ。それが若さだっていうけれど、通り過ぎた季節は、それだけ残酷に今を映し出すから、むず痒い想いだけしか残らない。俺自身が生きる意味すら失って、自暴自棄もいいとこだった。こんな愛しくて切ない気持ちなんてとっくの昔に封印してた筈なのに、それを彼女は抉じ開ける訳でもなく、ただ、開くのを待っているかのように、俺の心の中に住みついてるんだもんね。そして、呼び起されてた。

人を好きになることがただ綺麗じゃない気持ち。

嫉妬とか、色んな気持ちもあるけれど、裏腹に抱えてしまう、ガラス細工みたいに脆い感情。
そんな感情をリタっちは覚え始めているんだろうな。まだ、芽生えたばかりの気持ちだから、どうして良いのか、分かってないんだろう。少し前だって、そんな持て余し気味の複雑な感情に散々振り回されたけれど、今度だけは、真正面からきちんと向き合ってあげななきゃならない。それが俺の役目。嬢ちゃんやジュディスちゃんみたいに、同じ女の子だからって分かりあえる気持ちでもないし。俺じゃなきゃどうしようもない。
頼ることを、甘えることを知らないから、どうしていいのかも分からない。
だから、さっきだって玄関先で涙に濡れた瞳で俺を見つめていた。何かを埋めるように、俺にキスをしてきたのだって、その証拠。ただ、その何かが彼女は分かっていない。寂しさなんて言葉では簡単に言うことも出来る。でも、もっと深いところで息吹始めている愛情を求める、女の子。

「ほんと、手の掛かる子よねえ」

口ではそういいながらも、静かに微笑んでいた。厄介で面倒だとは思う反面、そんないじらしさが愛しくてたまんないのよ。男っていう本能的にある保護欲を刺激してるのかもしれないけど、それだって怪しいか。綺麗な心を両手に抱えているから、必死で守ろうとしている。
さらさらとした髪を撫でながら、眠る顔を見てると、色んな気持ちが浮かんでは消える。

「寒いから、どうしても、そうなっちゃうのよ」

季節が運んできた人を想う気持ちなんだろう。それにしても、今夜は特に冷え込むねえ。雨もまだ降っている。雨どいを伝う音が微かに聞こえてる。でも、今夜っていう時刻でも無いか。一番、冷える時間帯を迎えて来てるから、明日は毛布でも出そうか。リタっちが横にいると暖かいからっていっても、やたらと擦り寄ってくるのを見ると寒いんだろうね。そういう俺様の方が寒がりなんだよ。肩まで上布団を引き上げようと、肩肘を僅かに立てて起き上がった弾みで、どうやら起こしてしまったらしい。長い睫毛が動いたなと思えば、ぼんやりと俺を見つめる視線。

「……おっさん?」
「起しちゃった?」
「ううん。あたし、昼間少し眠ってたから……どうしたの?おっさんこそ」
「早く寝ちゃったから、目が覚めたの」
「ふうん……今、何時なの?」
「んー4時過ぎってとこ」

枕元の目覚まし時計を見ては、もう一度眠ろうか、とリタっちを抱き抱えようとすれば、俺の胸元に頭をすり寄せてくる。ほんと仔猫みたいな仕草を無意識にやってのけてくれるんだから。そんな仕草が可愛らしくって密かに笑みが零れてしまう。でも、気付かれないようにしないとさ。「あたしのこと、子供扱いして」って拗ねられても困るんだから。でもさ、今日だけはやっぱり、そんな動きだって気掛かり。寒いだけじゃない、こうして他人の体温を無意識に求めている行為自体、心が少しだけ寒がっている証拠。特にリタっちはそれが明瞭な女の子だよ。俺がじっと見つめてたから、かね。以心伝心なんてあるけれど、僅かに俺を見上げる瞳が空を見つめていた。

「ね。おっさん、あたしの話、聞いてくれない?」

ほらね、珍しくリタっちから、そんな言葉が漏れていた。

「うん。いいよ」

静かにそう答えると、ぽつり、ぽつり、まだ外で降り続いている雨音が聞こえるぐらいの囁きみたいな呟きが聞こえ始めてた。多分、それは付き合い始めて、いや、知り合ってから初めてリタっちから告げられる言葉の数々。小さな肩が震えてるのは気のせいじゃない。見られたくないのは最後の強がりなんだろうね。だから、リタっちの頭を抱かかえるようにしていた。

「あたしって、小さい頃から、家族がいないじゃない。親も早くに亡くしてるし、それはおっさんも知ってるでしょ?」
「まあね。直接聞いた事なかったけど、先生だから、その辺は、ね。知ってた」

曖昧に誤魔化すわけじゃないけれど、俺自身、リタっちが言わなければ聞くことも無かった。興味本位で訊ねるような話題でもないし、彼女が口にしない以上、何か、燻っている感情があるのだろうと思い蓋をしていた。いや、見て見ぬふりだったろうね。プライドの高い彼女は、興味本位の同情心を一番に嫌う。何より、親切心をかざしたふりなんて、本当は単なる自己満足なお節介でしかない。そして、上辺だけの言葉は与えられた本人に深くえぐり取る傷を残すだけだから。ただ、傍に居て見つめるだけ。彼女から言い出すまで、我慢強く待っていてあげないと、特にリタっちみたいな子には、それしかできない。
俺の腕の中、こくん、と頷く鳶色の小さな頭。静かに紡ぎだされる言葉の欠片。彼女らしくない覇気のない、弱気にも見える口調。

「それで、誰かを待つなんて今まで経験したことがなくて、おっさんを待ってる間が凄く物足りなかった。あたしは昔から強い子だからって何時も言い聞かせてた。ううん、それだって無意識だったと思うの。そうしてたら、皆から偉いねって言われてたけど、それすら意味が分からないままだったの……だから、何時の間にか誰にも頼らない子になってた」

胸が締め付けられるなんてもんじゃないけど、ちくちくと痛い。ばっさりと切られた方が案外、傷の治りなんて早いもんだけどさ。こんなジクジクと、常に何か突き刺さるような痛みを抱えて来てたのかって、改めて思い知らされた。でも、リタっちは、そんな事すら気が付いていないんだろうなあ。鈍感じゃなくて、それすら寄せ付けない強さが痛みを麻痺させているから。だけど、こんなに弱々しくて、哀しげな声なんて聞いた事が無かった。

「寂しかった」

リタっちから零れた言葉が、小さな破片になっては俺に突き刺さっているようだった。意識する訳じゃないけど、華奢な肩を抱きしめる腕に力が籠っていた。夜だから、こんな季節から、そう思わさせるだけじゃなく、経験したことがないからなんだろうね。冬の足音が聞こえてくると、それを煽るかのように、誰かに寄り添いたい演出が過剰までにされちゃうしさ。寒さがそっと心の中に忍び込んでくるかのように、誰かの温もりを求めたい季節。
リタっちの髪を撫でては、一呼吸。今日みたいな静かな日は思いっきり、その胸の中で抱えている物、おっさんに見せてよ。俺だって同じ気持ち抱えていたんだからさ。全部曝け出してよ。甘え方すらも知らないリタっちだから、難しい事かもしれないけど。
リタっちを抱きしめてた力を緩めると、暗い室内だっていうのに、その瞳は濡れていた。こつん、と額を合わせて覗きこんでも逃げようとしない。ほんと、強い子だけど、その分、その脆さは瞳だけが十分に揺らめいていた。

「強い子だねって言われる度に、どうしていいのか分からなかったの」
「そうやって自分を守ってきたんでしょ?」
「そんな……そうかもね、きっと」

言い澱む、リタっちは微かに笑ってた。照れ隠しなのかもしれないけど、憂いのある大人びた笑い方。何かを隠すかのような。でもさ、そんな笑顔、リタっちらしくないからさあ。俺自身、素直にならないと駄目なんだろうね。本気でこの女の子なんていうような女に惹かれているから。多分、俺にとっては最後、リタっちにとっては最初の相手だから、真剣になってしまう。額を放してからリタっちの前髪を撫でながら、何となくだけど彼女が珍しく料理を作ってくれてたことを思い出していた。

「あのね、リタっち。おでん、美味しかったから、また作ってよ。リタっちが作ってくれるだけでも、おっさん嬉しいんだから」
「そうなの?」
「そりゃそうでしょ。誰かに食べて貰いたいから作るっていう作業、意外に楽しいでしょ?」
「うん……面倒だけど、その分、おっさんが今日美味しそうに食べてくれてたの見てたら嬉しかった」
「おっさんもそうなんよ。リタっちみたいにさ、頭のいい子は料理だってきちんと作りだしたら上達早いわよ?」
「ほんとに?」
「ほんとに。それは先生が保障するから。だから好き嫌いしないで、魚、もう少し食べなさいよ?」
「それはやだ」
「先生の話、聞いてないでしょ?」

なんて冗談めかして言うと「聞いているわよ。先生だなんて急に言うからよ」なんて、言いながらやっと笑ってた。泣き笑いだけどさ。大きな瞳にいっぱいの涙を浮かべてる。零れないように、必死で耐えてる。ああ、もう、泣かないの。
不意に、俺自身、何も考えられなくなってた。やばい、なってどこかで声もしてる。それこそ、さっきのリタっちじゃないけれど衝動的。自制心?何よ、それ。

「……おっさん?」

リタっちを抱かかえるようにしては、俺の方から、その唇に触れてた。言葉よりも伝わる気持ちがあるなら、これ以外思い付かないっていうのも、どうなんだろうって思うけれどさ。ほんのりと色付いた赤い唇は小さくて、何度も、水中から浮上しては息継ぎするみたいに唇を重ねてた。怖がらせないようにふわり、ふわりと降り頻る雪みたいに。昔の俺なら信じられないだろうねえ。こんなに繊細に俺自身がどこか怖がる程に大切に扱う女がいるなんて。ああ、でもやっぱり震えているのは、怖いのかなあ。俺に縋るように身体を寄せてくるけれど、腕だけは胸元でしっかりと握りしめていた。まるで、曝け出すのが、不安で、まだどこかで頑なに守ろうとしている。頼って頂戴よ。頼りないかもしれないけれど全部受け止めてあげたいんだよ。

「リタっち、俺が怖い?」

だから、唇が離れた時、そんなことを呟いていた。この次のステップはまだまだ先だけど、そんな潤みきった瞳で見つめられたら、おっさん、変な気起こしそうになるじゃない。ほんと、俺も情けないわ。こんな弱みにつけ込むように誘いたい訳じゃないんだからさ。それを押し止めるかのように、静かに深呼吸してみせた。リタっちはまだ逡巡するかのように、俺を瞬きもせずに見つめ返す。
知らないんだよね、まだ。哀しみとか寂しさを埋める行為自体。単に抱きしめるだけじゃなく、本当に身も心も一つになるっていう意味を。でも、本能では分かってるんだろうね。だから、俺に縋ろうとしてくる。でもさ、リタっちにはそんな行為で一時凌ぎに感情を誤魔化せたくない。じゃあ、今のキスは何だって言われると、さすがに立場はないんだけど、その、まあ、あれだわ。可愛いからどうしようもない俺がいるのよね。悪い男が。

「ううん」

その言い方だって、小さく頭を振る仕草だって俺を煽ってるとしか思えない。嗜虐心なんて、今のリタっちには見せたくない上に知られたくない。ほんと、こんな薄汚れたおっさんでごめん。俺、風呂場で冷水でも浴びて来ようかしら?純粋な眼差しが、別の意味で鋭く突き刺さる矢のようで、情けなくなってくる。でも、そんな俺の気持ちを知らないリタっちだから、ここはさあ、努めて紳士的にならなきゃいけないって。聞いてんの?もう一人のどうしようもない俺様。
それでもって、俺を追い詰めることをさらりと言ってのけてくれる。

「おっさんがこうして傍に居たら怖くない」
「……そういう意味じゃないんだけど」
「どう言う意味よ?」

思わずっていうのか、汚れのない目でそんな可愛い事言ってくれるもんだから、おれも馬鹿正直に答えちまってる。拙いよね。きょとんとしてるけど、ああ、ほんとにこんな汚い男で申し訳ないわ。でもね、こんな女の子だからこそ誰にも渡したくない。ウブなんて一言で片付けられない。分かりやすくて、分かりにくい、この年代特有の複雑怪奇さにしたって、一筋縄ではいかない性格。でも、どうやって言い訳しよう。襟足を掻きながら、暫く、考え込んでた。

「えーと、まあ、それはおいおいに、知ると思うけどさ」
「……何よ、そのズルイ言い方」

あ、怒らせた。さっきまで半泣きみたいに眉を歪ませてたのが、今度は何時ものリタっちらしくなってきてる。まあ、それでいいか。少しでも気が紛れるのなら。いつものおっさんを演じておこうか。スケベたらしくて、胡散臭い俺様を、ね。

「……リタっちが可愛過ぎて、いけないことしそうな俺様がいるの。だから、怖い?なんて聞いたの」
「……ど変態」

すっかりか弱いリタっちがナリを潜めていた。たっぷりと軽蔑を浮かべて、怒気すら浮かんでる声色でおれを冷やかに見つめてるもん。その調子と思えば、見抜かれてたのかねえ。軽く微笑むかのようにふっと笑ってた。あら、演技ばれちまった?そこまで分かるようになってたの?

「バカっぽい。おっさんが手出ししないの分かってるわよ」
「……そう言われると、俺様、男として度胸がないみたいに聞こえるじゃない」
「あたしが高校生じゃなくなるまで我慢するんじゃなかった?」
「……まぁ、そうですが」

うん、そうなんだよねえ。頑なに守ってると言うべきなのか、一応さあ、倫理観なんて物、俺様だって持ち合わせてるわよ。ちゃらちゃらしてるだとか、軽薄だとか散々言われてるけれど、一応、最後の砦とでも言うべきなのか。そりゃリタっちが高校生じゃなくて年齢もそれなりの女の子だったら、即押し倒してたかもしれないけど、いや、違うか。もし、リタっちと別のところで出会って、リタっちがそれなりの年齢だったとしても、もっと遠くから眺めているだけだったかもしれない、時間を掛けて、近付いていたかもしれない。純粋っていうのには少し語弊もあるけれど、そんな気持ちだって持ち合わせている。
それを見抜いているからねえ、この子は。だから、おかしそうに笑ってるし。結構、男の沽券に関わるとは思うのだけど、仕方ないわ。
大きな猫みたいな目で俺を見つめている。

「今、あたしがいいわよって言ってもおっさん絶対にそんな事しない」
「ヘタレとかいうんでしょ」
「そんな事ないわよ」
「おっさんをからかわないの」
「何よ、いつもはあたしのことからかってる癖に」
「そう言われたら、何にも言えないでしょ?俺様」

あたしの勝ちね、とばかりにくすくすと笑ってる。三日月見たいに目を細めて、はんなりっていうのかね。柔らかな花弁が揺れるような微笑みっていうかのような、どこか儚げで優しい笑顔。以前なら、どうよ、ほら、やっぱりあたしが正しいのよなんてふんぞり返ってたのに、こういうとこはやっぱり二年前からは無かった笑顔かね。見てる俺の方まで釣られてしまう。

「じゃあ、寝ようよ。まだ早いんだから」
「その前に、あたし、お水だけ飲んでくる」
「うん、いってらっしゃい」

ベッドから抜け出して、隣の部屋に消えたリタっち。布団からはい出たら、寒いなんて、言ってるから、ほんと、今からでも毛布だそうか。俺も起き上がると、素足にフローリングの冷たさが伝わって身震いがしてた。もうこんなに冷え込む時期だったけ。それとも今年は冬が早いのかね。

「どこにしまっていたっけ。ああ、あった」

クローゼットを開けて適当な場所に放り込んでいた毛布を取り出しては、布団にかけてた。もう一度、潜り込むと、ぬくぬくとしてくるから、本当、冷え症のおっさんにはつらい時期になってきてんのねえ。

腕を後ろ手にして頭の下に置いて、天上を見上げてた。
カーテンの隙間から零れる光は、まだ夜の街頭だけの色。もうじき夜明けが近い筈だけど、まだ真っ暗だろう。ほんの2,3ヶ月前なら、もう白々と夜が明ける時刻だった筈なのに、まだ真夜中だと思うぐらい、夜明けが遠い。
薄明かりの中でさっきまでのリタっちの笑顔が脳裏に浮かんだ。角の取れた柔らかな笑顔。そういえば、青年達から言われたのよね。まあ、一番はジュディスちゃんだけど、嬢ちゃんからも言われたっけ。何時だったかなあ。偶然、学校に遊びに来てたあいつら。リタっちが居ない時だったかね。
ああ、丁度、学園祭だったけ。先輩風吹かしに来てた、青年に廊下で捕まった。

『おっさん、久しぶりだな』
『久しぶりって、あんた先週会ったばっかりでしょ』
『そうだったけ?』
『そうじゃない。所で嬢ちゃんは?』
『あー文化部の方に顔出してる。今日は、あいつのお供』
『相変わらず、こき使われてんのね』
『おっさん程じゃないけどな』

互いに暇だったのか、どうでもいい世間話。青年も大人びて来てるから、それなりの会話も出来るもんよ。廊下の窓に凭れていたら、丁度、眼下をリタっちと嬢ちゃん、それに元生徒会長のフレンちゃんまで通ってたのよね。人気の元生徒会長様と学園のお姫様は、相変わらず絵になるっていうのか。

『なんだ。フレンちゃんまで来てるの』
『そりゃそうだろ。あいつのお守役みたいなもんだから』
『あんたも、幼馴染に苦労するわね』
『どう言う意味だよ』
『いやー深い意味なんて無いわよってこと。二人っきりになるの……こりゃ、失礼』

にやりとして一本、先制してみれば、あら、不貞腐れた。長い髪を掻き上げながら、何やらすっと無表情に変わるとこなんてなのは、まだまだ変わってないか。ある意味、そういう隠さずにいられる若さが羨ましいのさ。しかし、フレンも相変わらず、愛想の良さを振りまく笑顔。おーお、下級生まで纏わりつきだしてるけど、嬢ちゃんがいあるから無駄だろう。恋愛感情ってなもんじゃないけど、フレンは、嬢ちゃんのことだけは一生懸命に見守ってる。ただ、その横にいるリタっちが問題なんだよね。
朗らかにキラキラした笑顔。眩しくて、歳相応の表情を浮かべてる。あんな笑顔、おっさんに向けるなんて滅多にないっていうのに。そんな愚痴っぽい独り言が零れてたのを青年は目敏くというべきか、聞き付けてる。

『リタっちてば嬢ちゃんだけには相変わらず子犬みたいじゃない。あの笑顔、おっさんになんて全然なんだけどねえ』
『……そうでもないけどな』

思わず青年だから、油断もして漏れたぼやきなんだろう。何だかんだっていうよりも嬢ちゃん経由で知っている節というべきなのか、互いに奥歯に物が挟まったようだけど、その関係性を知ってるもんだから。でもさ、何だろう。その、さっきの礼だ、お見舞いしてやろうかなんていう薄笑い。

『そんか怪訝な顔する程でも無いだろ?』

そんなに表情変わってたかね。知らん顔を決め込もうと、空を見上げるふり。それでも、青年に一本取られた。まあ、ドローってなことでいいか。

『リタの奴、誰かさんの隣に居る時の方がもっと柔らかい表情するようになってるぜ。あんたは知らないかもしれないけど』

俺は何にも言えないでいた。にやっと笑った青年の真意。知ってたさ。何時の間にか、俺に見せる笑顔が、華が開くみたいに変化してたの。ただ、俺だって他人からあからさまにそう言われると照れちゃうじゃない。やっぱり、そうなんだと思わされる。
そんな事を思い出してたけど、リタっち、帰ってこないじゃない。喉が渇いたなんて言う割には、さっきから隣の部屋、音がしない。

「リタっち、何してんのよ」

薄明かりの中、俺に背を向けるかのように、シンクに立ち尽くしてる。目が慣れてくると、小さな線を描く肩が震えていた。そっと抱き寄せては、抱き締める。泣いてはいないけど、まだ、気持ちだけが迷子になってるのね。それにさ、女の子がこんなとこ居ると余計に冷えるじゃないの。

「ほんと世話の焼ける子ねえ」
「うるさい」
「……リタっち」
「……何よ」

ちょっと不機嫌そうなのは、俺に見つけられたからなんだろうな。真っ赤になってる目がそうなんだもの。まだ十分じゃないんだろうな。リタっちが自分では気づかずに欲しがってたものがある。さっきの話じゃないけれど、家族とか、そういう無償に与えられる愛情を知らないリタっちだからこそ、欲しいと願ってる。だからっていうんじゃないんだけど、少し気恥ずかしい言葉をリタっちの耳元で囁いていた。

「リタっちにそのつもりがあるなら、俺と家族にならない?」

あーあ。言っちまったけど、今日のお礼なんて言うと不謹慎かね。でもさ、本当の気持ちなのよ。誰も居ないだろうなって思ってたところに、リタっちからのメール。駅で待ってたり、家に帰れば夕飯を作って待っていてくれたり。おでんだってさ、あれ俺が散々パティちゃんの誉めてたのを、気にしてたんだろう。言わなくてもさ、そういうとこすぐ分かっちゃうのよ。負けん気も強いからさ。別に当てつけで言ってた訳じゃないから、本当に意表を突かれたけれど。ただ、リタっちには余りにも唐突過ぎたかね。固まったかのように身を硬くして、俺の言葉の続きを待ち望んでいるかのようにも思えた。

「……い、いきなり何よ?」
「うーん。春にさ、卒業したらきちんと言うけど、まあ、予約っていうこと。リタっちみたいな子、すぐに売り切れちゃうから」
「……人を物みたいに言わないでよ」

俯きがちに早口でぼそっと呟かれた。

「あ、拗ねた」
「拗ねてない」

じゃあ、こっち向いて、と俺の方に向き直せてみれば、あらら、顔まで真っ赤。俺が見つめたら目が泳いでる。目は口ほどに物を言うっていうんじゃないけど、この子の分かりやすい点はこれだろうなあ。きゅっと結んだ口元よりも饒舌に目が語っているもの。本当は意味分かっているんでしょう。

「……どう言う意味で言ってんのよ」

俺の視線に耐えきれず、おずおずと見返して来る。ほんとは言いたくないけど……俺だってね、一応、男としてのプライドってなもんがありますよ。しかも、少々恥ずかしいというのか、見っとも無い俺が抱えている不安。それも正直に、こんな夜だから言ってあげる。

「ん?そうさねえ。今は、リタっちと毎日会えるけど、卒業して大学生になって、綺麗になるだろうし他の男がほっておかなくなるの。だから、おっさんが青田買いするっていうのよ?」
「ば、バカっぽい。あんたおかしいんじゃないの」

リタっちは仄かに顔を赤らめている。十分、綺麗な顔立ちだっていうのに、容姿には未だに言われ慣れないのか、こうして、素直な反応見せるのよね。ただ、その口の悪さがある意味、他の男を寄せ付けないけれど、それだって何時まで通用するのか。俺が僅かに抱えているもの。ほらね、男の悋気なんて見っとも無いでしょ。でもさ、青年やフレンに向ける笑顔だって、昔は厭な想い抱かせてくれてたのよ。やっぱり、あんな年頃の方がつり合いとれるとか、その方が良いだろうなあとか、さ。

「あたしが……あんた以外……」
「うん、リタっちの気持ちは分かってるけどね。それ以上に俺だって今日みたいにリタっちが待っていてくれたらこれ以上に嬉しいものないからさあ。毎日、こうやってリタっちの顔見てたいのよ。出来ればずーっとこの先も」

頬に掛かる髪を撫でながら、そう正直に素直に告げていた。予想外の言葉だったのかね。暫く考え込むようにしていたけれど、小さく頷く頭。髪が揺れては、俺の胸に飛びこんできた。俺の背中にまわした細い腕。きゅうとシャツを掴む指先だって、力が籠っている。言葉では聞けれなかったけれど、俺を抱きしめる強さが、その答えでいいの。

「それは予約成立っていうことでいい?」
「……だから、そういう言い方」
「もっとロマンチックな方が良かった?」
「ち、違うわよ。ば、バカっぽい」

やっぱり女の子だから、そういうムードも必要なのかね。まあ、こんな早朝に台所なんていうのも、ある意味、俺らしいけれど。でもさ、気持ちだけは真剣。本当、ここ最近ずっと考えてた。いや、春に告白されてからだったかな。隣に居て欲しいんじゃない。一緒に歩みたい、この先の時間をずっと。そらね、俺の方が遥かに年上だし、どれぐらいの時間があるか分からないけれどさ、それだって、何とかなるなんて思うほど。昔の俺からしてみれば信じられないぐらい前向きな考えだよ。そんな事を考えていたけれど、口を尖らせて、拗ねてる表情にあどけなさが残る顔で俺を咎める声。

「ずるい……」
「どおしてよお?」
「そんな大切な事、平然と言わないでよ」

じゃあ、どうやって言えばいいっていうんだろうと思うのだけど。ふざけても言えないし、格好つけたら、つけたでまたリタっち怒るじゃない。おっさんだって気障なこと慣れないのよ。それにさ、言葉以上に伝えきれない想い抱えているから、そっと抱き寄せては耳元で囁く。

「……これでも、おっさん、かなり緊張してんのよ?」
「知らないわよ」
「……まあ、いいや。それよりもう少しだけ添い寝してよ。寒くってさあ」
「はいはい。分かったわよ」

何となく、お互いに急に照れ臭くなってきたように体温が上昇してたけれど、それ以上に冷え込んできてたのかな。ベッドに潜り込んでいたら、リタっちの温もりで眠くなってきていた。先に穏やかな寝息を立て始めたリタっちの長い睫毛を見ていたら、何となく来月の事考えていた。
もうじき、そういう人恋しい季節だから。
来年は、どんな風にこの環境が変わっているんだろうね。それすらも、今は楽しみになってきている。






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