指先に交わした約束

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それは、何気なく、店先にあった春の服を手にしてた時、言われたのよね。あたしにしては大人過ぎるかしら、なんてちょっと戸惑いすら浮かんでくるような服だったから、それかと思った。

「リタ……それは?」
「え?これ?やっぱり似合わない?」
「いえ、お洋服じゃなくて」
「……え、と。その、ね」

あたしも何しどろもどろになってるのよ。エステルだけに、やっぱり気付かれてた。目敏いっていうのかしら、やっぱり、あたしなんかよりもずっと女の子だから、わくわくした目で見つめられてるんだもの。
エステルの目線、服じゃなくて、あたしの手を見てる。それは、薬指に光ってる、指輪。
シンプルだけど、ゴールドのリングにハート型にカットされた小さな赤い石が付いてる。誕生石だとか、良く分からないけど、そんな事を言ってたような気もしてた。何より、そんなに目立つとは思ってなかったけど、やっぱり、エステルだものね。

「レイヴン先生からですか?」
「え?あっ、うん……まあ、ね」

なんて、曖昧にしてたけど、本当に、心臓が止まるかと思ったじゃない。
いきなり、その名前出さないでよ。
でも、エステルは知ってるから、あたし、ちょっとだけ焦りつつも、頷いてたのよね。ふふ、って笑うエステルに、どう言えばいいのかよく分かんなくて、取り合えず、誤魔化すみたいに、大急ぎでお店出ちゃったじゃない。



平日とはいえ、春休みになってるから、駅前のデパートのある繁華街は賑やかで、あたし達と変わんない年代の女の子や男の子が春めいた明るい服の色は、花を咲かせたみたいに歩いていた。あたしにしては珍しく、そんな場所に来ていたっていうのか、連れてこられてたのは、エステルが春の服を見たいからって、おっさんちでゴロゴロしてたあたしにメールをして来てたから、なのよ。

そして、散々、エステルに付き合わされてというのか、買い物をし終えた、喫茶店の中。それほど買うつもりはなかったけど、2,3つのショップバッグを携えて席に着いた途端、ちょっとだけ疲れが出てたかもしれない。元々、人ゴミは大嫌いな上に足を踏み入れることすら躊躇しては、気後れするようなお店ばかり連れて回られてたんだもの。まあ、エステルはそういうお店も慣れてるから平気なんだろうけど。オーダーを取りに来た店員の女の子に、あたしは喉が渇いてたからジュースを頼んで、エステルはちょっとの間だけ悩んではパフェを注文して一息ついてた。

スクランブル交差点が青になると一斉に動き出す人並み。高いビルの中にある喫茶店の窓辺に座って眺めてた。

カラン、とソーダ水の氷がグリーン色の中で踊る。あたしといえば、その上にある白いアイスクリームをスプーンで掬おうとしてる時にエステルの視線を感じるんだもの。それも、そんな大きな目でじっくりと見つめられたらドキドキするじゃない。思わず、手の動きが止まるわよ。

「……アイスクリーム食べたいの?」

我ながらバカなことを言ったと思うけど、エステルってば、さっきからにこにこしてるだけ。もう、余計に恥かしくなるじゃない。そうでなくても、エステルはあたしの指先に光る指輪の出所を知りたいと言うべきか、確認したいっていう好奇心旺盛な表情。聞くまでも無く知ってるくせにとは思うのだけど、それすら、言い出しにくいんだから。

「いいえ。私のパフェはもうじき、くると思います。リタも半分こします?」
「べ、別にいいわよ」
「指輪、綺麗ですね」

素っ気なく交わしたと思ったのに、やっぱり突いて来た。テーブルの上、両肘をついて両手で顔を包み込むように、小首を傾げてる。桜色の少しだけ伸びた髪が、ふわりと弧を描いて肩に掛かるけれど、そういう仕草だってエステルは女の子だなって思わせる。あたしとは違う、そんな甘い雰囲気の上に、大きくて澄んだ蒼い瞳には嘘がつけない。もう、何て言えばいいのよ。その辺は親友なんだから、理解しなさいよ。あたしは、大急ぎでアイスクリームを口の中に放り込んでた。赤くなりそうな頬に上がる熱を冷ますかのように。

「……そ、そのね。あの、た、たまにはつけてあげないと、ね。ほら、悪いじゃない。お、おっさんだって折角選んでくれたんだもの」

でも、早口になって出てきた言葉は最悪。あたし、何を自爆してるんだろう。エステルは、知ってるのよね。あたしの指に光るリングの意味というのか、その理由と言うべきなのか、送り主との関係、諸々全て知ってるのに。だって、彼氏っていうと変だけど、まあ、その一応は彼氏っていう存在のおっさんから貰ったんだもの。
当然、指輪なんて物を貰う関係だっていうのを、唯一、エステルだけには、打ち明けている以上、何だか、聞きたそうにうずうずしてるのが、もう顔からも十分に見てとれてる。

「……ホワイトデーです?」
「……う、うん」

やっぱり、そこまで読んでたのね。 バレンタインのお返しなんてもの、あのおっさんだから、どうせ、その辺のお菓子で誤魔化すと思ってたら、思いがけずに、こんな高価な物だったのよ。あたしだって、焦って受け取れないわ、なんて言ってしまってた。そうじゃなくても、小さな箱に入っていた物に幾ら、そういうブランドなんてものに疎いあたしだって気がついてたんだもの。

「……凄く似合ってますよ」
「そ、そう?」
「はい。リタに似合ってます」

きっぱり、断言するかのよにエステルに言われると、そう悪くないのね、って思うあたしもどうなのかしら。でも、そう言って貰えるだけでも、ちょっとは自信が付いてくるから、不思議なのよね。

だって、あたしといえば、歳相応の女の子が話題にするようなことって、本当に興味がないんだもの。そりゃあね。服とか、そういうのはちょっとは気を使ってるわよ。ただ、見た目が子供っぽいから、今日だって入ったお店の人に中学生に間違われてたけど、もうこの4月には高校二年生になるんだもの。
せめて高校生には見られたいわよ。そう思ってたけど、今日はミニ丈のフードのついただぼっとしたかのようなスウェット素材のワンピースに同色のスニーカーなんていう子供っぽい格好はちょっとばかり後悔してた。まだ肌寒いからその上にはデニムのジャケットを羽織ってきてたけど。そうでなくたって、エステルはもう女子大生になるから、何となく甘い雰囲気は残してるけど、春色のシフォン素材のスカートなんてあたしから見れば、大人っぽいって思わされた。しかも、おっさんからは、常にお子様扱いされてるんだから。
そう思うと、あの顔が浮かんでくる。のんべんだらりと人を喰ったかのような不真面目な奴。人を見れば、にたり、と笑ってあたしをからかうんだもの。そのくせ、あたしが怒ると、情けなさそうに謝るけれど、それはどこか、優しい笑顔を浮かべてる。

そんなおっさんと付き合ってるなんて、誰にも言えない。だって、相手は先生。あたしは生徒。
その関係を唯一知ってるのは、親友──エステルだけ。だから、少しは素直に言えるのかもしれない。

「……ほんと?」
「はい。素敵です」

エステルにそう言われると妙に自信がついてた。本当、今日だって、何度外そうかなって思ってたのよね。あたしにしてみたら、凄く大人っぽいアイテムなんだもの。クラスメイト達が彼氏から貰ったなんて自慢してたのを横目に見てたけど、それよりもずっと高価な品だとは分かってるだけに、早々、気軽につけることも出来ないまま、半月以上経ってたのよね。勿体無いって思うのと同時に、何となく、似合わないような気もしてたの。

「……エステルがそう言うなら、そうよね」

エステルは、微笑みながら頷いていた。あたしも、何となくそんな事を呟いては、ちょっとアイスクリームの溶けかけたソーダ水を飲んでた。甘ったるい味は、なんだか今のあたしの気分そのものだった。
その後、喫茶店を出てから、エステルはバイト帰りのユーリと会う約束をしてたみたいで、駅前でそのまま別れて、あたしは、帰り道の電車の中。ガタン、ゴトンと規則正しく揺れる車内。帰りの時間にはまだ早いけれど、春休みのせいなのか、この時間帯にしても、乗客はそれなりにいた。
何をする訳でもなく、そっと指先を何度も触れてた。

左手の薬指。

特別な指だって言う意味は分かってるから、こそ、ここに着けてた。その赤い石の上をそっと右手の指先で触れると、おっさんにしては珍しく緊張しては、照れの入り混じった表情を浮かべて、これを渡してきた時を思い出す。
片手で髪を掻き毟っては焦ってる。あたしだって状況判断が出来ないぐらい同じだったと思うけど、それ以上に真っ赤になってたかもしれない。それを思い出すだけでも、嬉しくて頬が緩んでくるけど、何となく誰かに見られてるようで恥かしいから、俯いていた。



それは春の浅い日。校庭の桜だって、ようやくその硬い蕾が膨らみ始めたかのような、そんな、少しだけ淡い色合いに包まれた午後。もう卒業式も終わって、在校生はテスト期間中だから、昼で授業は終わり。明日のテストが終われば、いよいよ春休みなんていう緊張感と解放感が入り混じるような校内。あたしといえば、学園創立以来の天才の名を欲しいままにしてるんだもの。テスト勉強らしい、勉強もしないではクラブ活動である科学教室に籠ってた。

「リタっち、ココア淹れよっか?」

扉が開いたかと思えば、おっさんが立ってた。黒いシャツはだらしくなくパンツの上に裾を出してるし、だぼっとしたかのような白衣のせいで余計に教師らしくない風体。テスト期間中だから、先生達は職員室に籠ることが多いけど、おっさんは校長先生に小言を言われたくないのか、こうして、やっぱり、科学教室の隣にある技官室に居るのよね。あたしも普段はそっちの部屋に入り浸ってるのだけど、今日は何となく真面目に実験をしたい気分だったから、こっちの教室にいたの。

「……うん。そうする」
「じゃあ、こっちにおいで」

そう言い残しては、おっさん、先に隣の小部屋に戻って行ってた。極々、普通の会話。あたしはこの時までそんなサプライズみたいなものがあるなんて思っても居なかったんだもの。呼ばれるままに隣接する技官室に行けば、おっさっんは、あたしに背を向けてココアを淹れてくれていた。甘い匂いがしてる室内。少しだけ開いた窓からは、春の匂いを運んでくる冷たい風がひらりとカーテンを揺らしてる。
でも、どこかでこの時間を待ってたのよ。だって、その日はバレンタインの翌月にあたる14日だったから。まあ、そんな特別なことは期待していなかったけれど、ココアとちょっとしたケーキぐらいあればいいって思うような程度。
あたしは指定席になってるソファに座ってたら、案の定、部屋の片隅に置いてある小型の冷蔵庫から何かを取り出して来てるんだもの。何故、こんなとこに冷蔵庫があるかはどうでもいいことだけど、その読みにあたしは満足してたのよね。
おしゃれな食器なんて置いてる場所じゃないし、実験器具をお皿代わりにされるのも嫌だけど、その辺は真面目に考えてたのか、珍しく紙皿なんて取り出しては、机の上で分けてるんだもの。おっさんと言えば、甘い物が大の苦手な人だから、あたしの分しかないのは分かってるけど、白い生クリームたっぷりな大粒のイチゴが載ったショートケーキは見てる分にも美味しそう。

「今日、ホワイトデーじゃない。だから、特別にケーキ付きよ」
「……ありがと」

分かり切ってたけど、ちょっと恥かしくなる。あたしがまるで期待してたの分かったような素振りと笑顔。ことり、とおいたマグカップを先に手をしては、おっさんの視線から逃げるように俯いて、甘いココアを飲んでた。
あたしにしてみれば、これだけでも十分に嬉しかったのよね。その付き合うなんていっても、格別何か関係でもない。その、所謂、男女交際的な意味合い。清いなんていうと笑われそうだけど、だから、バレンタインには思い切っておっさんには甘くないチョコを渡してたの。ついでと言えばいいけど、ちょっとしたプレゼントも渡してた。バレンタインなんていう特別な日。それまでのあたしと言えば、そんな浮かれたようなイベント事に全く興味も示さない女の子だった。むしろ、そんな物に浮かれてるクラスメイトなんてものを見下してたかもしれない。
そんなあたしが、ちょっとしたこんなことで喜んでるのが恥かしくて、どこか、悔しいとも思ってた。だって、まるで普通の女の子そのものじゃない。あたし自身、特別だとは思わないけど、それでも変人だの好き勝手言われていたのは知っていたから。そんなあたしが、こんなことだけでうきうきしてるんだもの。そして、おっさんがお見通しとばかりに微笑んでるんだもの。

「ケーキ食べないの?」
「た、食べるわよ」

マグカップを握りしめたまま、俯いてたもんだから、おっさん、ちょっと意地悪してくる。あたしの頬が赤くなってるの分かってるくせに。きぃ、と事務用のキャスター付きの椅子をあたしの傍まで近づけて、おっさんはその椅子に座ってる。

「まだケーキあるからね」
「いったい何個買って来たのよ」
「えーと、チョコレートにプリンでしょ。3個程あるわよ」
「あたし、そんなに……」
「食べれるでしょ。青年なんてもっと食ってるわよ」
「……ユーリと一緒にしないでよ」

おっさんの事務用の机にあるケーキの箱を覗き込んでた。あのね、いくらあたしが甘いもの好きだって、あの甘味大魔王と一緒な訳ないじゃない。拗ねたみたいに、ケーキを載せたお皿を手にしてた。そして、一口。うん。やっぱり美味しい。生クリームの甘さもあるけど、ケーキの中に入ってたイチゴの酸味が入り混じってる。こういう時、現金なもので幸せって思うよね。好き嫌いは多い方だけど、ケーキに関しては大好物なんだもの。でも、何かくすくす笑い声が、あたしの動きを止めた。
フォークに突き刺したスポンジの部分を口に入れてたら、おっさんはコーヒーを淹れたマグカップを片手にあたしを見ては楽しそうに笑ってる。何よ、その、あたしが大きな口して食べるのが面白い物を見たような顔。

「リタっちってば、そういう甘いもの食べてる時、ほんと、幸せそうな顔してるわよねえ」

ほらね、こうして嫌味なんだか、からかいなんだか分からない言葉を投げかけてくる。もう、ほんと子供っぽい人。だから、あたしも急に反撃したくなるじゃない。

「何よ。食べたいの?」
「まさか」

肩を竦めてる。そうよね。甘いんだもの。でも、ちょっとだけ意地悪じゃないけど、あたしもからかいたくなってた。ショートケーキの上、大きな赤いイチゴを摘まんでは、立ち上がって「はい」とおっさんの前に差し出してた。
あたしの行動にそれまで薄笑いを浮かべてたけれど、急に驚いた顔をしてる。

「え?」
「クリームついてないわよ」
「いや、そういうつもりじゃないけど」

慌てふためく素振りが面白くて、つい、笑ってた。でも、何となく急に食べて欲しくなってた。苦手なのは知ってるけど、何だろう。共有したいっていう気持ちなのかしら。

「そんなに甘くないわよ。このイチゴ」
「だから、別に欲しい訳じゃないって」
「あたしがあげるっていうのに食べないの」

ちょっと剣のある声色を潜ませたら、降参とばかりに片手をあげてた。気紛れに何を言い出すんだろうね、この子はっていうような諦めの表情まで浮かべてる。そんな他愛もない会話。先生と生徒だって周囲は見てるけど、こんな時ぐらいは、その壁をちょっとだけ乗り越えていたいのよ。

「早く受け取りなさいよ」

そういってたのに、おっさん、椅子を引いてあたしに近寄って来たかと思えば、ずい、と差し出したままのイチゴ。そのまま、ぺろりと口の中に入れてる。当然、あたしの指、舐めてるんだもの。そのちょっとばかり唇が触れた程度だけど。

「なっ、な、何するのよ!」
「あー確かにそんな甘くないわね」

モゴモゴと言ってたけど、すぐに飲み込んでたみたい。あたしが驚く様なんて無視なの?
それでなくても、おっさんの少しだけひんやりした唇が触れた指先。指先にキスされたみたいでドキドキしてるじゃない。おっさんと言えば、平然として、笑ってる。

「リタっちが『食べて』なんておねだりするからでしょ?」
「バ、バカじゃない。手で受け取りなさいよ」
「良いじゃない。ほら、早く残り食べなさいって」
「も、もう。手、洗ってくるわ」
「ひどっ」

なんて言ってるけど、おっさんは余裕を見せつけて、笑ってる。もう、ほんと知らないわよ。あたしも、そのままソファに座りこんでは、残りのケーキを食べてた。全く、そんなふざけたことするから、ケーキの味が分かんなくなちゃったじゃない。

「……ココア、まだお代わり要る?」
「もういいわ。お腹いっぱいだもの。実験してくるわ」

結局、チョコレートケーキとショートケーキの二個程平らげて、あたしは立ち上がってた。まだやり掛けの実験もあるしっていう感じだったのよね。でも、おっさん、そんなあたしを見た途端、急にそわそわしてる。あたしが立ちあがると同時におっさんまで直立不動じゃないけど、勢いよく立ち上がってんだもの。

「リタっち、今日はこのまま帰るの?」
「……そうね。エステルも試験勉強で早く帰ってるし。おっさんは遅いんでしょ?」
「う、うん。送って行ってあげたいけどさ。まだ採点終わってないから」
「科学教室の片付け終わったら、一度、顔出すわよ」
「そうね。そうして頂戴」
「うん、分かったわ」

そうなのよね。先生の仕事がこの時期は、大変なのは分かってるから、あたしも無理なことは言わないでいたの。ここまでは、あたしは何も疑わずにこの時まで当たり障りのない会話だと思ってたの。扉に向かおうとした時、また、呼び止められた。

「リタ」

その声に、あたし、ドキッとしては扉に伸ばし掛けた手が止まってた。だって、普段はリタっちなんてふざけたあだ名で呼ぶんだもの。それが、リタだなんて呼ばれてた。しかも、何か何時もとは違う少しだけ低い声音。驚いて振り返ったあたしに、おっさんは一歩だけ近寄ってきてた。淡い陽射しの中、おっさんは逆光によって影が浮かび上がってた。何か決意をしたかのような険しさを漂わせながら。

「な、何?」

だからじゃないけど、あたしまで何だか緊張してしまう。おっさんが一歩、また一歩、近付く度にその纏う雰囲気に気圧されてたのかもしれないけど。真面目っていうのかしら、ちょっと眉間に寄せた皺。怒ってるっていうんじゃないけど、読めない表情は、どこか、見馴れない男の人っていう感じだもの。あたしと言えば、扉が背後にあるだけ。逃げるつもりもないけど、思わず、その扉に背を押し付けるかのようにしては怪訝そうにしてたのかもしれない。

「渡したい物があるんだ」
「……渡したい物?」
「そうだ。受け取って欲しい」

強張ったような声色はそのままで、白衣のポケットから差し出された、それにあたしはきょとんとしてたと思うの。だって、この雰囲気から似つかわしくないようなそれ。薄い春の霞んだ空のような水色の箱。白いリボンが綺麗にラッピングされてる。

「……え?何?」
「リタが気に入ってくれたらいいのだが」

だから、そんな生真面目っていうのか、怖い声出さないでよ。いつもよりワントーンも低い声なんだもの。しかも、口調まで違う。ほんと、別人格でも飼ってるのかしらっていうぐらいなんだもの。

「この間の、俺からの答えだ」
「だから、何って言ってるじゃない」

この間って、あたしは考えてたじゃない。答えって何の、よ。ちょっと意味が分かんないとばかりにあたしが強い口調でそう言ったもんだから、おっさん、急に肩を落としてた。そして、普段のおっさんがそこに居たの。しかも、ぐったりと疲れた表情。半分、投げやりみたいな感じもしたけど。

「あーもう。疲れるわね。だ、か、ら、ホワイトデーのお返し」
「え?だって、ケーキ……」
「うーん、それもそうだけどさ、とにかく、受け取ってよ」

あたしに無理やり押し付けるかのように差し出された、それ。ギフトボックスっていうのかしら。おそるおそる手にしてた。そして、おっさんと交互に見比べちゃったじゃない。こんな、手の込んだことするような人じゃないし。むしろ、またからかうつもりかしらっていう警戒心がそうさせてたのかもしれないけど。

「あのさ、何も悪戯しないわよ」

おっさんも日頃の行いから、それは分かってたみたい。バツが悪そうにあたしから目を逸らしては、横を向いて呟いてるんだもの。理解してるなら、いい加減にしなさいよ。でも、あたしも気になってたから、そろりとそのリボンを開いては、箱を開けたのよね。

「……え?いいの?」

だって、それだけしか言えない。箱の中には、きらり、と光る指輪なんてあるんだもの。あたしの方が今度は吃驚して固まってしまってたじゃない。でも、こみ上げてくる物。嬉しさだとか、恥かしさみたいなもので少し目の前がぼやけてた。紅い石がキラキラと輝いて見えてた。

「あ、あの気に入らなければね」
「馬鹿……そんな筈ないでしょ」
「気に入ってくれた?」
「当たり前でしょ……ありがと」

そう言っては、おっさんの胸に額を押し付けてた。握りしめてた箱を大事に抱えながら。おっさんはあたしの肩に手を置いては、あたしの顔を覗き込んでる。その瞳に浮かんでるのは、まだ少しだけの不安なんていう色。

「受け取ってくれるよね?」

心配症なのよね。どこか臆病な人。それも知ってるわよ。だから、あたし、思いっきり頷いてたの。そして、ゆっくりとあたしの両頬を節くれだった長い指で包み込まれる。あたし、その時、何となく予感めいたものに目を閉じてた。つま先立って、その想いを受け入れてた。陽だまりのようにぽかぽかした優しい気持ちが注がれるような瞬間だったの。唇の先に、春のようなほんのりと感じた温かさを感じては吹き抜ける風のように、それは一瞬の出来事。
初めての時がこんなに穏やかにやってくるなんて思ってもいなかった。
目を開けた時のおっさん、本当に嬉しいっていう表情してたのよね。あたしは真っ赤になって照れていたと思うけれど、そんな表情が蘇ってた。大切な記憶はずっとあたしの中に落し込まれてた。
やがて電車が降りる駅近くになってたみたいで、ざわざわと車内がし始めては、あたしは随分、思い出っていうのには、まだ新しいけど、そんな気恥しさが浮かぶような記憶の中に入り込んでたことを知らされていた。



「……駅……まもなく出発致します。白線までお下がりください」

それまで乗っていた電車が次の駅に向かう。あたしはそれを背にして、駅構内に向かって歩いてた。
雑踏でごった返す駅は、相変わらず騒がしい雰囲気。取りあえずは、おっさんちに帰ろうって思ってたのよね。そんな時、肩を叩かれて足を止めてたのよね。

「やっぱり、リタっちだったのね」
「び、吃驚するじゃない」
「それは俺様が言いたいわよ」

そう、おっさんが立ってるんだもの。へらり、とした表情は何時もと同じだけど、普段学校で見かけるようなラフなシャツのカジュアルなパンツなんていうスタイルじゃない。一瞬、どちら様って言いかけてた。珍しくジャケットというのか春仕様みたいなグレイのスーツ姿。ネクタイをしてないとこを見ると、早々に外してたのかしら。でも、髪まで下ろして、無精髭まで剃ってるんだもの。

「さっきの電車、一緒だったのね」
「おっさんこそどうしたのよ。こんな時間帯に、早くない?」
「ん?今日は研修会議だったからさ、早く終わったの」
「なんだ……」

ふーん、と言いかけたけど、おっさん、ちょっと驚いた表情。その視線の先。やっぱり目敏い。驚きから緩んだ顔になってる。その意味を理解しては、即座にあたし、両手を後ろに隠してた。

「……あ、着けてくれてたんだ」

だから、こんなとこで恥かしそうに微笑まないでよ。こういう時のおっさん、ずるい。普段なら憎たらしいぐらいの意地悪な笑みをうかべるくせに、本当に男の子っていうと変だけど、そういう照れた様子で微笑むんだもの。なんていうのか、例え方を知らないけど、本心から嬉しそう。
そんな笑顔が大好きだなんて言えないけれど。

「そ、その。エステルと会う約束したから。ちょっとは、その着けてみたかったんだもん」

だもん、て。自分で言ってるけど。何、女の子みたいなって、女の子だけど。ああ、もう、頭の中グチャグチャになって来たじゃない。急に恥かしくなってくる。別に貰った物なんだもの、正々堂々としてたらいいじゃないって、自分自身に言い聞かせてた。

「あーいや。その。でも良かった。俺、気に入ってないのかって思ったから」

バカ。あんたから貰ったもんだもの。気に入ってるに決まってるでしょ。
そして、ちょっと悪いことしてたって、反省。貰った時は、本当に嬉しかったけど、今はいつも通りの天の邪鬼な反応してたのよね。我ながら可愛くないのは分かり切ってるけど、素直に嬉しい気持ちをどう表していいのか分からない。

「……だって、大切な物なんだもの。失くしたら困るわよ」

でも、少しだけ素直に本音を言えば、おっさん、挙動不審になってる。何か凄く衝撃を受けたみたいに、落ち着きがないっていうのか、まあ、落ち着きがないのは普段もだけど、それでも、あの時、指輪を貰った時みたいに焦ってる。
あたし、そんな変なこと言ったのかしら。

「あっ?え、ああ、そのね」
「……何、慌てるのよ」

そうでなくても、駅なんだから、ちょっと周囲の目が気になり始めてた。駅の片隅とはいえ、スーツ姿のおっさんと私服の女の子が棒立ちになって、何やらゴソゴソ話してる光景。別に気にするほどじゃないけど、もうこれからの時間は帰りの時刻だから、駅は、もっと人が多くなる。

「ほら、帰るわよ。ぼさっと突っ立ってないで」

何となく、急に湧きあがってきた恥かしさにあたしはおっさんを置いて駆け足みたいに歩き出してた。

「ちょ、っと。待ってよ。リタっち」
「だから、大声で名前呼ばないでよ」

フェイントだったのかしら。おっさんが暫くしてゼイゼイと息を切らしてあたしに置いつたかと思えば、腕を掴んでた。

「荷物、持ってあげる」
「い、いいわよ」
「こういう時はレディーファーストなの」
「何がレディーファーストなの」
「それよりさ、何か食べに行く?」

同じ足取りで家路に向かうあたし達。おっさんといえば、上機嫌になっている。あたしだってそんなおっさんを見ては嬉しくなってくるじゃない。

「そうね。うーん、やっぱり、スーパー寄ってよ。あたしが今日、作ってあげる」
「じゃあ、鯖味噌」
「また、それなの?」
「いいじゃない。リタっちが作るの、美味しいから」
「馬鹿っぽい」

なんて会話。夕暮れまじかな街並みは、ほんのりとオレンジ色に包まれ始めていたけど、ふと見上げた空はどこか綺麗に思えてた。
そして、どちらからでも無く触れあった指先。軽く握りしめられては、あたしは無言で絡み合わせてた。指先に交わした約束みたいな指輪を握りしめるかのように。


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