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SAKURA






さわさわと風が揺らす木々には薄紅色の花弁の花が今、一番とばかりに咲き誇る季節。
三寒四温とはよく言ったもので、長らく続いた冬の厳しさが和らぎ、春の陽気をもわせる日中を繰り返し、少しずつ枝先につけた硬い蕾が綻び始め今は満開。その花の下、誰もが一度はその歩みを止めるほど。
ただし、その花を愛でる人は限られている。なぜなら、ここはとある有名私立学園。しかも、今は春休み。

ただ、春休みといってもそれなりに校内に所在する人間もおり、新学年を迎えるも関係なく、部活動に勤しむ生徒らもごくわずかではいる。


「ほんと物好きよねえ。せっかくの春休みなんだっていうのに、学校なんぞ来て。ほら、桜満開で花見でもしてりゃいいのにさあ」

窓辺で片手で頬杖を付きながら、教師らしくない発言をするのはレイヴン。

──それに付き合わされてるあたしは何なのよ。

と、その背後、お互いに背を向ける形で、聞こえないふりをして最新の科学雑誌に一見没頭している生徒はリタ。

校庭では、運動部だろう。クラブ活動に勤しむ生徒らの声が響いている。

「ま、でも、こうしてリタっちとデート出来るわけだし?」

──は?今、なんて言った?デートって。あんたが、昼飯奢るからって呼びだしたんでしょ。

リタは思うだけで何も言わない。レイヴンも、それに何を気にするでもなく、大きく伸びをしている。と、何やら思い出したような顔。

「あーちょっと、職員室で仕事して来るわ。リタっち、まだいるでしょ?勝手に帰んないでね?」

扉が閉められる音がした途端、リタは、はあとため息をついて、本を閉じた。

──あたしが勝手に帰ろうが関係ないじゃない。何よ、もう……。

何時だったか、まだ、桜の蕾すらも固い樹皮に覆われていた頃だろうか。寒風が木々を揺らし、木枯らしが吹くような季節。今と同じような会話をした筈だが、それすら忘れて、早々に帰宅した翌日。
レイヴンは、あんた、誰よというほど別人格が降臨。冷たく当たられた。


クラブ活動の教室横、レイヴンの居城である準備室がある。所狭しと積まれた書物、その他の実験道具などが並ぶ中、室内の一番奥まった場所にレイヴンはいた。正確に言えば、机に向かって何やら書類書きとでも言うのか珍しく、教師らしい仕事をしているとでもいうのか。そして、そのレイヴンの背後、リタが何やら立ち尽くしている状態。
白衣を纏った背中が何時に増しても大きく感じられたのは、今までに見たこともない静けさを湛えていたからだったのか。

『勝手に帰ったのは悪かったわよ』

リタに一瞥をくべることすら寄越さない完全無視状態。何とも思っていなかったリタにしてみれば、青天の霹靂とでもいう状態に、どう対応していいのか分からない。かれこれ、小一時間。話しかけては無視されること、数回。いい加減、リタの堪忍袋とでもいうべき感情も限界を迎えようとしていた。ただし、と注釈が付くのは、リタ自身、忘れていたという罪悪感。多少なりとも、自分が悪いということに対しては、誠意を見せないといけないという謝罪の気持ちはある。

と、思い先程の言葉を言ったのだが、相変わらず、リタの声も聞こえないとばかりに、振り向きもせずいる。もうこんな雰囲気には耐えきれない。リタに背を向けたまま、何やら書き物らしきものをしているキャスター付きの椅子をそのままくるっと回転。

『なんか言いなさいよ。あたしが謝ってんだから』

突然、椅子を回転させられ真正面で向き合っているというのに、それすらも、動じていないであろう表情。眉一つ、顰める訳でもなく、笑うでもなく、怒るでもなく。無表情。こんな時、リタは困惑と同時に、レイヴンが本当に何を考えているのか分からないという恐れ、もしくは怖さを感じてしまう。片手で頬杖をつき、足を組んだまま、ある意味、ふてぶてしいままに冷ややかな視線がリタを見ている。

──あ、やだ。何か泣きそう。

ただ、今は、恐怖よりも、無視され続ける方がリタにとっては耐えきれない。
なんか言ってよ、何でもいいから。

『俺、待ってたんだけど』

期待した言様は、抑揚のない声。レイヴンであって、彼ではないような声。

『だって、おっさんが悪いんじゃない』

そうよ、おっさんが悪い。なんでもおっさんが悪いんじゃない。と、逆切れの責任転換もいい所なのだが、今はそう思わないと、この男の顔を見据える勇気すら失いそう。

『俺、全然、悪くないよ』

そして、打ち砕かれる。ただ、なけなしの欠片を寄せ集めては、その素っ気ない言い方に最後の抵抗とばかりに睨む。
何時もなら、冗談だよ、と笑いながら言ってくれるのを待ってみたが、気不味い空気が淀むだけ。

『……ごめん、なさい』

下を俯いて、顔を隠したのは、喉の奥に感じる異物が込み上げてくるから。

──どうして、こんなに苦しいの。

どうして、笑って冗談だって言ってくれないの?どうしてこんなに怒るの?

『最近、物騒なんだよ。この辺。この間だって、うちの生徒で変な奴に付き纏う奴が出てたの聞いてないの?』

憂慮を湛えた薄い虹彩の色をした目がリタを覗き込んでいる。

『……聞いてたけど』

そんな話を確か放課後前のホームルームの際に聞いたような気もするのだが、あたしには、関係ないという気持ちがあったのかもしれない。それに、現に大丈夫だったじゃないかと思うのだが。

『そういうのが自己慢心なんだよ。絶対に大丈夫って言いきれないでしょ?』

きぃと椅子を滑るような音がすれば、レイヴンがやや前かがみのまま、俯いたリタの前髪を触れては梳くように掻きあげる。



──ちょっと怒り過ぎたかな。

と、その浮かんだ色に戸惑うのはレイヴン。あーあ、鼻の頭まで真っ赤にして。こりゃ、駄目だわ。

椅子に腰かけているせいで、何時もは見下ろして見るリタの表情が今日だけは鮮明に近くに感じた。大きな眼は、ややきつい印象を与えがちだが、その分、過剰にまでもリタ自身が気が付かない些細な機微を訴える時がある。それに、意外にも自分が悪いと思う事に対しては素直だけど、適度にへそ曲りな面も持つ。そういうところもお気に入りの一つ。

──これは、早い事、機嫌直して貰わないとねえ。

確かにすっぽかされて腹立たしくも思っていたが、何より、その裏腹に憂惧する気持ちの方が遥かに上回っていたのは事実。女の子だから、と心配は誰でもするだろう。それほど危険な地域ではないと言っても、現に事件らしい事件も起きていると聞けば、レイヴン自身、それが杞憂だとしても冗談では済まされないと思ったのは事実。

『なーんてね。リタっち襲うような……』

と、言いかけて言葉に詰まった。冗談っぽく笑って済ませれば、いつもみたいに反撃されて型が付く筈だった。

『こっちこそ……ごめん、怒り過ぎたわ』

きゅっと唇を横に結んだ口元に、恨めし気に見開かれた瞳はレイヴンを睨んでいるといっても過言ではないが、どうやら涙腺の決壊は近いらしく、何か一言でも喋れば、もう駄目だと訴える眼差し。

『あーもう、ほんと、おっさんが悪かったから、だから、ね。機嫌直して』

ごめんねと両手を合わせてお願いのポーズ。
これだから子供(ガキ)は、だとか、女の武器は涙だなんてと、古臭い歌詞のフレーズなども浮かぶも、リタのこんな表情が一番のレイヴンの弱点だと、誰が思うだろう。

──もう、おっさんの方が泣きそうよ。

あなたって好きな子ほど虐めるのが性分なのね、と先だって誰かに言われたような気もするのだが、それにしてもこの状況は幾らなんでもまず過ぎる。

立ちあがって、抱きしめるつもりはないのだが、状況的にそうしないと不味い。

──あら、案外大人しいじゃない。

抵抗されるかと思ったのだが、すんなりとその胸にリタは落ちる。ただ、抱きしめるというのか、母鳥が雛を抱きかかえ、壊さないように細心の注意を払うかのように、適度に距離は開けている。

『でも、ほんと、心配したんだからね。約束して、よ』

言葉は無かったが、こくん、と頷く。


レイヴンが開けっぱなしにしていたせいだろうか。ふわりとカーテンが翻っては、春風が教室内を通り過ぎた。
その花冷えのような冷たさを感じて、リタは長い間、考え込んでいたことに気が付かされた。

どこからともなく舞い込んだ花弁が一枚。リタの髪にふわりと落ちた。ただ、リタはそれに気が付いていない。

教室の壁に掲げられた時計を見れば、レイヴンが去ってから一時間余り。まだ、戻らないのを見ると、まだまだ掛かりそうだと思うも、先ほどからの疑念が頭を擡げる。過剰なまでの憂慮と言うべきなのか、心配される身というのもなんだか納得できない。そもそも、守られるような関係でもなければ、守られるべき存在というものも何となく合点が行かない。

「おっさんにとって、あたしって何なのよ?」

口に出してしまうと、随分、気恥しい。あんまり考えたくない。



「リタっち、ごめーん」

ののほんと、いや、お前、全然悪く思ってないだろうという声。レイヴンが教室に戻った頃は、すっかり日も傾きかけた頃。長い日没前は、室内を黄昏の色に染める頃。
慌てて帰ろうとしたのが運のつき。同僚に捕まっては、散々、愚痴めいた相談を半分上の空で聞いていたのが原因だろうかと思うも、何はともあれ、機嫌を損ねてないかと、心配したのだが、それは徒労に終わった。

「あれ、ま」

レイヴンが部屋に置き忘れた白衣を毛布代わりに肩に掛け、両腕を枕にしたまま眠るお姫様がいる。
そっと起こさないように近づきその隣の椅子に腰かけた。頬に掛かる長い髪が邪魔でよく顔が見えない。ご丁寧に、髪には桜の花びらが一枚。それを取ってやるという理由付け。

出来心というのには、性質の悪い確信をもってそっと触れた。

白妙の頬にさす桜色。黒鳶色の髪は、同じように長い睫毛の色。そして、濃紅色をした小さな唇。

──黙っていれば、それなりに可愛い顔してんだけどねえ。

それなり?いや、訂正、可愛い顔してるわ。
俺、どうしちゃったのよ。頬杖をついてため息。人の気も知らないでと、まだ眠りこけているお姫様を見つめれば、そんな気持ちもどこ吹く風。レイヴンの指先を滑り落ちる髪を何度か掬いあげては、撫でる。



何となく頭を、髪を触れられる事が心地良いと気が付いたのはいつ頃からだったけ?とリタは半分夢心地の中で思い出そうとしていた。小さい頃、遠くに鳴り響く雷が嫌いで、窓を叩く雨音が怖くて、暗闇に浮かぶ陰が何か得体のしれない物に見えて眠れない時、誰か、大きくて温かな手が頭を撫でてくれた事だったのか、それとも、ぼんやりとしか、その輪郭は見えないけれど、そっと髪を梳くこの指先の持ち主がいいのかと思った瞬間だったのか。

「……おっさん、何してんのよ」

この非常に気まずい雰囲気をどう乗り切ったらいいのだろうと、目を開けてみれば、身体が動かない。いや、動けない程の距離リタの横で髪を撫でながら、何時になく優しい眼をしたレイヴンが居た。それは、レイブンも同様であったらしい。

「……いやー、あんまり可愛い寝顔してたから」

リタと同じように慌てた素振りを見せたのは、見間違いだったのかと思うほどに、平然と言ってのける気がしれない。
よくそう軽口叩けるもんだわと毒吐くしかないのはリタ。
どうせ、本心じゃないんでしょ。また、からかってるんでしょ。誰にでも言うんでしょ。

「嘘ばっかり」
「嘘じゃないけどねえ」

触れていた方の片手がどうしようかとさ迷っている。ぎゅと握りしめたかと思えば、広げた指先を見つめるかのようにして、レイヴンはしばらく考え込んでいたようだったが、「嘘じゃない」と毅然と再度言ってのけた。

「それより、俺の白衣に包まってたりして、そっちこそ何考えてたの?」

口の端に浮かんだ笑みがニヤリとしてリタを挑発した。

「何にもないわよ。寒かったから借りただけよ」

逆上したかのように、叫んで立ちあがったのはいいのだが、硬い机の上で突っ伏していたせいなのか、あれ?と思った瞬間にぐらりと白い天井が回ったような気がした。

「リタっ」

レイヴンが叫んだかと思えば、派手な音をたててリタはイスから転げ落ちたらしく大きな音をさせてお尻から座り込んでいた。

「痛っーい」
「急に立ち上がるからでしょ」

ほれ、捉まんなさいと差し出されて手を掴もうとした瞬間、鈍い痛みが右足に響く。

「痛いっ」

眉間に皺を寄せ集めて、睨む相手はレイヴン。あんたがへんな事言うからじゃない。

「どしたの?あれ、捻った?」
「いや、触んないでよ。痛いんだから」

軽く触れられただけなのに、鋭く痛みが突き刺さる。熱を持ったような痛みに、更に眉間の皺が深くなりそうだった。

「骨、折れては無いみたいだけど、大丈夫?歩ける?」

立ちあがろうともせずに、触れようとすれば痛がるリタを診ながら、レイヴンは冷静に判断していたらしい。

「いいから、ほれ。おっさんに捕まって、そう。ゆっくり立ち上がって」

半ば、しがみつくような形で立ちあがり、右足に負担を掛けないように椅子に座るとじんじんとした痛みがまた襲ってき始めている。

「歩ける?」
「無理っぽい」

そっと右足に力を込めた途端、痛みが走る。うーっと手負いの獣のように唸っては、顰め面になるしかない。

「保健室……そういや、今日は代休でいなかったけ」

そんなリタを見つつ思い出したかのように言うも、今は春休み。学校医は生憎不在。校内に残るのも極々僅かだろう。

「いいわよ、これぐらい。少し休んでたら腫れも引くし」
「そう言う訳にもいかないしねえ。ちょいと待ってなさいよ」

そう言い残してレイヴンはまたどこかに立ち去った。数分後、帰って来たかと思えば、手には保健室辺りから失敬してきたのか、職員室にでもあったのかは分からないが湿布薬と包帯が入ってあるであろう救急箱。

「ほら、足出して」

リタの足元で跪くとレイヴンが救急箱を開けて、薬を取りだしている。リタの足を見ないのは意識してなのかどうなのか分からないが、何故か、リタ自身、妙な緊張感に包まれていた。

「いいわよ。自分でやるから」
「できるわけないでしょ。リタっち、不器用なんだから」
「不器用って、これぐらい……痛いっ」

立ちあがろうとした瞬間、右足が悲鳴を上げる。ドスンと勢いよく座り込むしかない。

「ほーら、言わんこっちゃじゃないんだから。大人しく、ほれ、靴下脱いで。それとも、脱がして欲しいの?」
「ばっ、バカ。そうじゃないわよ」
「ほい、見ないから、これでも掛けときなさい」

落ちていた白衣をひらりと膝に置かれて、リタは妙な勘違いを起こさせていたことを知った。チェック柄の短めのスカート丈。靴下を脱ぐにしても、この状態。椅子に座ったリタと床に跪くように片足を立て座り込んでいるレイヴン。ちょうど、レイヴンの視界の高さと言えば、リタの胸元辺りよりちょいと下前後だろうか。真正面に座っている以上、器用に脱いだとしても、下着が見えそうで見えない微妙な位置関係。

「……ありがと」

こんな時、女の子扱いして、どういう気なんだろと思うも、レイヴンは黙ったまま。リタは靴下を脱ぐと、足を差し出す。レイヴンの手が素足に触れると「痛い?」と聞くだけ。「うん」と頷いては、器用に湿布薬を貼り、包帯を巻いてくれた。

「はい、終わり。ちょっと、立てる?」

ひんやりとした箇所からの痛みは少し引いたように思うも、立ちあがるとやはり鈍い痛みが襲う。

「やっぱり、痛い」

眉元を顰めて呟く。

「リタっち、今日なんか荷物ある?」
「ううん、そんなに無い。そこにあるカバンだけ」
「なら、いいか。おんぶとお姫様だっこどっちがいい?」
「はあ?」

いきなり何を言い出すんだと思うも、誰かに支えて貰わなければ到底歩けそうにない。

「肩、貸してくれるだけでいいわよ」
「そう?そんじゃ途中まで送って行くからさ」

肩を貸してと言った瞬間、救い上げられた。俗に言うお姫様だっこ状態。

「何するのよ!」

その状況を把握すれば、全身の血が逆流するほどに体温が上がるのが分かった。普段それほど感じさせない広い胸板が意外に厚く、どこにそんな力があるんだと言うほど、リタを軽々と持ち上げる腕。下ろしてともがけばもがくほど、リタを抱きかかえる腕に力がこめられ、密接している。

「肩貸してっていったじゃない。それに、暴れると危ないよ。落とすよ」

肩は貸してって言ったわよ。でも、これ肩じゃないわよ、これとブツブツ呟くリタの顔は予想通り。落とすよというのが効いたのだろうか、何やら観念したかのように大人しく首に手をまわして捉れば、「意外に重いのね」と聞こえた。リタは、本来ならレイヴンを一発ほど殴り倒したいのはやまやまなのだが、この状況では文字通り手足も出ない。

と、いうよりも、この状態を誰かに見られる方が恥ずかしの、どうしてくれるのよ。

レイヴンに、あれ、取ってと運ばれたのはリタのカバンがある。貴重品程度しか入っていない為なのか、軽くて良かったと思い、レイヴンの首に両腕を回す。手にはしっかりとカバンを携えて。

「ちょっと、このまま帰るつもりじゃないでしょうね」
「校庭までだけど。後でタクシー呼んであげるから」
「何考えてんのよ。誰かに見られたら」
「別にいいでしょ。今のリタっち見れば、誰だって判断出来るんだし」

まあ、レイヴンの言い分にも一理ある。片足だけ素足。しかも、包帯を巻いていれば、だれが見た所で怪我人を背負っている、正確には抱えあげられているわけだが。

「忘れもんないよね」と確認する余裕が恨めしい。



リタが誰にも会わないでと願いが叶ったのか、ほぼ、灯りが落ちた校内ですれ違うような人かげはなかった。

教室を出た時から、リタは黙りこくっていた。もう少し騒ぐかと思っていたレイヴンからしてみれば、随分、この態勢が効いたのかと思わぬ結果。 面白半分、ちょっとからかってみようと思っていた行動の末。意外に面白いものが見えたと、お気に入りの表情がまた一つ増えたらしい。

腕の中で、リタと言えば、何やら赤くなっているのは見て分かった。灯りの無い廊下でつい盗み見た表情は、何やら考え込んでいるかのようで、ある意味、初な面を見せている。ギュッと密着すればするほどに、リタは身体を強張らせ、顔を桜色から朱色に染めるのだから、これを楽しみに、リタを学校に呼び出したとすれば、随分悪い教師だなとレイヴンは他人事のように思い、リタに気が付かれぬよう忍び笑い。それに、重いと言ったのは嘘。少し不安になるほどに軽く、少女だと思っていた体つきは、意外なほどに薄いながらも女で、何もかもが正反対にあった。

──こういうとこが分かんないなあ、女って。

奇妙な所で、波長というのか、気が合うのは否めない。出会った頃は、まだ、リタが一年で変人の名のついた転校生ぐらいにしか認識が無かった。早々に担任を遣り込め、意見する教師陣には、理論的にしかも的確にやり返す様を聞けば、少しばかりからかってやろうかと、こちらも多少捻くれた大人だけに思っていたのだが、少女らしからぬ機知に飛んだ聡明さ、理論立てて反論してくる様は、何かとレイヴンのお気に入りになっていた。

それが、ねえ。と、思うのは付き合いの度合いが増すごとに、年齢相応の女の子らしい面を知れば、何かと意識してしまうのも仕方ない。

今日とて、足を見せてと言えば、恥ずかしがる素振り。リタにしてみれば、自分は男で、リタは女というのが無意識にあったのかもしれないが、素直に言うことを聞かない意味を当の本人は理解してなくとも、その仕草自体が、リタが意識しないまでに煽っていることを分かっているのだろうかと思っていた。



とっぷりと暮れた校庭にぽちりぽつりと街灯の明かりだけが射している。誰も居ない校庭の隅。幽玄、そんな言葉が浮かぶほどに静けさだけが漂う春の夜。まだ宵の口。

「ホイ、ついたよ。ここ座って」

そんな考えごとをしながら校庭の脇にあるベンチにリタを下ろすと、腰を伸ばす仕草をして見せた。階段でリタを落とさないようにと慎重に足を運んだのもあったのか、多少の痛みが襲うような気もするのだが、何より、今まで抱きしめていた温もりが花ちらしの風が奪い去って行くのが、心疾しくも、何より、残念の一言に尽きる。

伸びをしたまま、桜に見惚れていた訳ではないのだが、天空を見上げると、夜風に煽られて、花弁が舞い散り、木々に残る桜は共鳴するかのように泣いているようにも見えた。

「重くて悪かったわね」

そんな、幻想的な雰囲気すら吹き飛ばすのは、リタの愛想のない一言。根に持ってたのね。やっぱり、と苦笑い。

「あ、気にしてた?」
「するわよ。バカ」
「冗談。軽いから、もう少しなんか肉付けた方がいいわよ」

ほら、こんなとこだ。と、レイヴンは思った。ほんの気まぐれな冗談でも食い付いてくる。その必死さが何故か気掛かり。気に置けないのは認めなければいけない感情。

「それに、今日だって、足挫く前、アレ立ち眩みでしょ。普段からしっかり食ってないからそうなるんだよ」
「食べてるわよ」
「そう?リタっち、ほっとくと二,三日でも平気でいるでしょ」
「霞み食べてる訳じゃないわよ」
「……ほんと、言い返すよね」

「悪かったわね」と期待してたのだが、思わぬ言葉が返ってくる。

「そう言えば、こんなに桜咲いてたんだ」

レイヴンに釣られるかのようにリタが空を見上げている。ベンチの脇には桜並木が並ぶ、薄墨の色を付けた別世界のようにも思えた一瞬。リタの頭上から花弁が舞い降りては、髪や肩に降り頻る。

「本ばっかり読んでたら気が付かないんじゃない?」
「そんなことないわよ」

あらら、ムキになるとこ見たら図星か。そう思いながら、リタの横に座る。

「あたし、桜の花って嫌い」
「また、珍しい」

レイヴンは面白いことを言うもんだとリタを見つめる。リタの髪に、肩に落ちる花弁は、さらりと風に流されて消えてゆく。

「……何か怖い。消えそうで、触れそうで触れられない気がして」

こんな事言えば、絶対にからかってくる。笑ってくると思ったリタだったが、何故か、口に出してしまう。誰もが浮き立つ季節、花が咲き、散る度に、一喜一憂する様は、自分は違うと言い聞かせ、冷やかになるのは、この怖さが根底にあったから。それは、何だろうとリタは思う。ただ、単純に綺麗だとは思うが、怖いなんて言えば、変わっていると思われても仕方がないが、この教師、レイヴンだけは分かってくれそうな気もしていた。

「随分、詩的な事言うねえ」
「やっぱり言うんじゃなかった……バカにしてる」
「そうじゃなくって、なんかリタっちらしくない」
「らしくないってどういう意味よ」

あ、目が据わった。これは不味いかな。と、焦るのだが、どこかリタが言いたい気持ちも分かる部分はある。

「いや、なんでもない。けど、なんとなく分かるかな、それ」

リタの表情に浮かぶのは、驚きと少しばかり嬉しそうな優しい眼の色。
共鳴という感情があるなら、少しばかりお互いの心が近寄った瞬間。リタはただ単純に、素直に自分の考えを理解してくれた事に喜びを見つけたようにも見えたが、その心の内まではレイヴンにも分からない。


──消えそうで、さわれそうで、さわれない。

今のリタそのものじゃないか。一番近い距離にいて一番遠い距離にいる。触れてしまえば消えてしまいそう。

「おっさんもそう思うなんて意外」

少しだけ笑みを浮かべたリタの横顔は綺麗だと思った。やけに大人びた表情。伏し目がちに、薄い笑みを浮かべているのは、気恥しさからなのか。

「意外ってねえ……」

と、レイヴンの肩に重みを感じた。少しだけ頭を寄せているリタがそこには居た。一瞬だけ、抱き寄せようかと思ったが、今は、リタの好きなようにさせておこうと伸ばしかけた手を握り締めては、押しとどめた。

「確かにさ、リタっちの言うとおり、一瞬だけ咲いて消えて、また、来年の繰り返しだからねえ」
「その一瞬が怖いのかな、あたし」

永遠なんていうものがないと知ったのはいつだったかとリタは思った。時の流れは、救い上げた水のように手のひらから零れおちては、流れてゆく。その瞬間に起きる出来事も何もかも流されていく。この一瞬だってそう。
ただ、それなら、今はこの隣にいる温もりが少しだけ欲しいと強請ってしまうのは我儘だろうが、それを許してくれるという期待もあった。

「誰も気が付かないだけで怖いのかもな」

何かが始まれば、何かが終わる。終わりなき始まり。気が付けば、誰も何も残りはしないまま消えてゆく、泡沫の夢のような時間。そうして、諦めることだけを覚え始めた年頃。そして、それを知ってしまった失った年代。何かが呼びよせたのか、引き寄せたのかは分からないが、今、この一時だけは、誰にも邪魔されたくないとレイヴンは思う。

二人とも、後は言葉もなく、その一瞬だけに咲く花を見上げていた。いずれは、また、咲くと知っていながらも、この時がもう戻って来ない事を知ってしまったからこそ、それぞれの想いを隠しながら。


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