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snowy kiss



誰もが一瞬だけその歩みを止める。ふわり、ふわりと空から舞い降りてきた白く冷たい華。
夕闇が迫る中、家路に急ぐ足をこれ以上に、邪魔されたくないと、やがて動き出す人々。


町外れの小高い丘に、その家はあった。辺りに、人家らしきものは数箇所に点在するような少しだけ寂しい場所。
ただ、誰にも見つからない密やかに生活を好む者たちにとっては格好の場所だったろうか。そんな、場所にも、静かに雪の華は降り積もっていた。



白いシーツの中で小柄な肢体が寝返りを打つが、小さなクシャミと少しばかり感じた肌寒さ。火の気のない部屋は、吐く息ですら白く舞い上がりそうに冷え込んでいる。目覚めた時、眠りに付いたのはいつだったのだろうかと思う。どうやら、何時もの如く熱中するあまりのこと。ぼんやりと覚醒しない頭を振っては、先ほどまで見ていた夢はなんだったのだろうと思うも、全身に張り付いた虚脱感は、その夢の置き土産。

あまり、良い夢ではなかったのかな、と。

思い出す訳ではないが、時折、どうしても思い出されてしまう。深く深く、どんなに叫んでも、その声が聞こえていないかのように冷たく閉ざされた眼差しが貫く。全身が粟立つような感覚。畏怖すべき者、そんな男の横顔が思い浮かんだ。

──いいから、忘れよう。

思い出そうとすると、ずきずきと痛むのは頭ではなく、心の片隅。寒さだけではない、痛みにも似た感情が湧き上る。

ベッドの脇に放りだされた本を見て、ため息が零れ落ちた。
最低限の生活用品よりも溢れる本は、一応、彼女なりの秩序の元に置いて管理されているらしい。
何番目かに積まれている本を手にとって見るも、何となく、文字を追う目を止めた。
パタンと本を閉じると、上半身を起こし、毛布代わりからガウン代わりにとなった男物の羽織をずるずると引き摺りながら、階下に向かう。


「寒い筈だわ」

窓辺に立つと、白い華が空から花弁を散らしながら、辺り一面に咲いている。それと同時に寒さを苦手とする、あの男──羽織の持ち主の顔を思い浮かべた。夢の続きは、どんなものだったろうか。確かにあの男が居た。
胡散臭くて、飄々として。何時も眠たげな眼。風のようにとらえようがなくて、でも、誰にも知られずに深い闇を抱えていた。その秘密を知って、もう何年になるのだろう。

長い旅路の果てに、掴んだのは、その男の手と心臓。
そんな昔の話でもないのに、遥か、遠い昔に思うのは、何故、なんだろう。

──会いたい。

素直にそう口にすれば、あの男は、どこにいても、風のようにやってくるだろう。というよりも、この部屋に帰ってくるだろう。ここは男の家城。男と出会いの切っ掛けにもなった旅の終わり「どこに行くの?」と聞いた眼差しが、今でも忘れられない。縋るような眼が、あの男の得意の罠だったのかなと今は思う。

決して美男子といえる顔立ちではないが、それなりに見れば整っていると思える顔立ち。何時か、何処かの街でそんな男に群がる女たちを思い出した。露出の多い、下卑た仕草、鼻に掛かる声が、なにやら如何わしい身の上なのだろう。好ましいとも思えず、嫌悪を抱いた時、軽蔑にも似た眼差しで見ていたことを思い出した。そんな女が相手にする男なんて、と。

それなのに、決して、そんな女とは同類ではない自負もある上に、魅力という点では、正反対でもあるのは十分に分かりきっていた。そして、その罠に掛かってしまったのは、一生の不覚。

「うちにおいで、よ。あの、別に変な意味はないんだから」と、言い訳めいた言葉を散々口にしていたのに、二人で過ごす中、変えてきた関係に、ややため息が出てしまう。

──こんな想い、なんで、あたしにさせてんのよ。バカみたい。

どこか一箇所で安住の地を求めるような性格でもなかったのは十分承知していてのこと。そして、その男の手を必要としている人がいることも知っていた。世界が変わり始めた今、自分の立つ場所も位置も変わり始めている。そして、男には、ただ、余り無茶をして欲しくないという裏腹な思いも抱えている。

「やだ、やだ。何考えてんのよ」

ふるふると頭を振って、自分らしくない感傷に苦笑いが浮かんだ。

もうずっと独りで生きてきた。自分だけが信じられる存在だった、と思っていた。そう思わなければ生きてこれなかった。そんな自分を変えた出会いの一つ。偶然ではなく、必然的な出会いだったのかと、今は思う。

「感傷に浸るようなあたしじゃないんだから」

それでも窓辺からは離れられない。降りしきる白い華に見惚れていたのかもしれない。全てを覆い尽くし、何もなかったように、何も残さず消えてゆく、その様に何かを感じ取っていたのかもしれない。




「イイコにしてた?」

ふわりと肩越しに包み込まれると、自分には持ち合わせていない腕の太さ。やや骨ばったごつごつとした身体が密着している。驚くでもなく、瞬時にそれが誰だか理解していた。やや冷たさを纏っているのは、今しがた帰宅したのだろう。ひんやりとした冷気を感じるが、男が持つ埃っぽいような、どこか乾いた匂いが懐かしくも感じた。

「……脅かさないでよ」
「あら、もっと吃驚するかと思ってたのに」
「何年、一緒にいてると思ってんのよ」
「あら、嬉しいねえ。待っていてくれてたんだ」
「別に待ってた訳じゃない」
「もう、相変わらず冷たい」

そして、頭上に感じる、重さ。
頭、一つつ分の身長差。あたしの頭は、あんたの顎の置き場所じゃないんだけど、と、何回か言った記憶もあるのだが、そんな事をいちいち覚えてるのか、覚えていないのか。それよりも、故意に怒らせることを楽しみとしている節もある男の行動には、慣れないようで慣れてきているのかもしれない。ついでに言えば、あたしの身体で暖をとるのは止めて欲しい。少し色気のある言葉で出迎えてもいい筈の年齢にもなったのだが、相変わらずの憎まれ口だけは、一生、直りそうにもない。

「手、冷たい」
「あ、ごめん。冷えちゃってねえ」
「ううん、いい」

首元で回された腕は、よほど寒かったのか、冷え切っている。火の気のない場所で眠り込んでいた自分ですら、その冷たさで目覚めたくらいだった。その中を帰ってきたのなら、どんなに寒かったのかも予想もつく。

「この腕……」
「うん?」

「ううん。何でもない」と頭を振った。何だか、今日はやけに感傷的になるのは、やはり、夢のせいなのか、それとも、この景色のせいなのか。夢の中で、この腕には抱きしめられていなかった。いや、それよりもこの腕のによって、と、遠い昔を思い出している。

遠まわしな力のこめ方に、男の戸惑いのようなものを感じた。

いつもならこんな感じではない。それこそ、大騒ぎするのが常。自分自身でも可笑しいぐらいに違うのだから、この男が戸惑うのも無理は無いだろう。

「寒くなかった?」
「寒いよ。ほら、これだけ積もったらねえ。帰り道で何度転びかけたか分かんないし」
「痛くなかった?」
「大丈夫だよ。そんな、俺、おっさん扱いしないでよ」

痛くなかった?と聞いたのは、遠い昔の男に向かって投げかけた言葉だったかもしれない。ああ、そうだ。あの夢の中で、男は泣いていたのかもしれない。それが、どんな痛みを持って、男に涙を見せたのか。今となっては、知る由もないが。

「そういえば、言ってなかった。おかえり」

抱きしめる腕に手を絡ませては、普段の顔を作り上げて見せた。いつから、こんなことが出来るようになったのかはわからないけれど、少しぐらい、旅に疲れた男には、不安など与えたくない。

「ただいま。久々に会えたんだから、ね。顔見せて」

久々に見る男は、変わっているようで変わらない笑顔を浮かべた。はにかんだ様な笑みが男の目に映っている。自然とこぼれる笑みは本当の姿。まだ少しだけの照れ隠しだけは、残っている。

男の顔が近付いた時、静かに目を閉じていた。




もう夜明けなのだろうか、と思い目覚めた時。部屋の中は、ほんのりとした明かりが差し込んでいる。しかし、まだ夜明けは遠くに居ることを壁に掛けられた時を告げる文字盤に見ていた。そして、ぼんやりとした中で感じるのは身体の中に残る鈍い痛み。寝返りを打とうにも、がっちりと抱き寄せられ、何も身につけていない素肌越しに感じるのは男の安定した寝息と鼓動、そのものだった。

傍らに眠る男の横顔を息を潜めて見つめる。常には無造作に束ねられた髪を下ろし、ややこけたような頬に掛かる前髪が、男の顔に暗い影を落としていた。死人にも見えたその寝顔に、一瞬だけ、心が震える。

時折、不安に駆りたてられた男の寝息。
いつその時を止めてしまってもおかしくない鼓動を守るからと、約束した日。
こうして、お互いに、ただただ肌を重ね合っていた。


まだ、こんな関係を何も知らない頃、俗物的だなと感じる行為に嫌悪感を覚えていた。自分には理解できない、不確かな感情の繋がりの末に求め会う行為が、何を残すのか、そんな考えも及ばない未知の領域とでも言えばいいのか。ただ、不安だけが転がっていた頃。男が、それを理解し、静かに見守っていてくれたことも知っている。

それから何年も経ってない筈なのに、男が帰ってくれば、こうして、重ね合う身体の重みに安堵感すら感じることの不思議さ。与えられる喜びがあるなら、与える喜びもまたそこにはあった。

「……どおしたの?ここにいるよ」

よほど不安げな顔でもしていたのだろうか。視線が絡み合った先、優しく包む笑顔があった。絶対に、何かあった?と問わないのは、この男の手口。言いたくなければ、言わなくていい。言いたければ、言えばいい。そうしたら、何でも聞いてあげるから。何度、助けられたか分からない。呟く度に、心が軽くなることも経験している。

「あんたが帰ってくる前、……夢、見てた」
「何の?」
「ずっと昔のこと」
「良い夢じゃなさそう」
「うん、あんたの夢」
「でも、それ、俺じゃないでしょ」

多分、見透かされていたのだろう。二十歳も違う相手に隠し事なんてできっこない。それは、この男を前にして随分前に諦めていた。
ただ、「分かってる」とは言えなかった。

それも含めて、あんた、そのもの。そういえば、幾分、楽になったのかもしれないが、少しだけ大人になった今は、その言葉が、男にどんな陰を与えるかも理解している。

「雪、止んだみたいだね」

何気なくだったのか、男が呟く。
小さな窓辺から見える月の光。キラキラと光りが乱反射している。

「雪のせいかな」
「何が?」
「なんでも、ない」

「うん」と言われ、更に強く抱き寄せられた。抵抗する気はなく、されるがままに抱き寄せられると、その胸元にそっと頬を寄せた。脈打つその命に安堵した息を漏らした。

男は分かっているだろう。過去が、その深層の淵から、時折、悪戯に邪魔をすることを。それは、男も同じだったかもしれないが、まだ、完全に過去と呼べるには、短く、時の流れが必要なのかもしれない。

「雪が融けて、もう少し、暖かくなったら嬢ちゃん達に会いにく?」
「そうね。皆に会いたい」

そして、笑い飛ばして欲しい。こんなにも感傷的になるのは、この男のせい。そして、何もかも見透かし、包み込んでゆくのもこの男のせい、だからと。


男の視線と指先が別の熱を帯びて、体を彷徨い始めていると感じた時、諦めにも似た、ため息を吐いて静かに目を閉じた。唇に感じる包み込むような口づけに、この雪が融ける頃、過去が思い出になればいいと願っていた。





すうすうと立てる寝息を聞きながら、随分と大人びた表情をするようになったもんだと、思った。硬く閉じた瞳に長い睫毛。その端に浮かぶ、涙のような跡に少しだけ心が痛い。抱きしめて、抱きしめられて。何度も自分を呼ぶ声が、今日はやけに切なく響いていたのは、間違いではないという確信。

帰り道、窓辺に立つその姿を見つけたとき、自分の存在に気が付いていないと思ったのは、彼女が、遥か遠くの空を見上げていたからだった。

ああ、また過去に捕まっていたんだね。

自分とて、その過去を直視出来ずに逃げていた時代があった。それを、痛み分けた仲の彼女に背負わすのは、余りにも酷というものだっただろう。まだ、少女ともいえる幼さを抱えた彼女を、薄汚れた過去に染めたくはなかった。だが、それすらも受け入れるから、と約束してくれた時、あの強気な瞳は、まっすぐなままだった。

ああ、この娘は、誰よりも綺麗で、誰よりも強い娘だから。
きっと大丈夫。そんな、気持ちもあった。

眠る顔は、まだあどけなさが残る顔つき。そして、成熟していないような細い線を描く身体。そんな、彼女を汚しているような行為すら、どこか未だに罪悪感を覚えるのは、何故なんだろう。嫌だとはっきり拒否する強さも持ち合わせている。無理強いしたところで、大人しく受け入れる程の弱さなどない。

それでも、何時も黙っていながら、受け入れてくれるのは、驕りではない、同じ心を寄り添っていてくれるから。

まだ、今の彼女ほどの年齢だった頃だろうか。後腐れなく遊ぶような相手は何人かいた。それでも、そんな女の顔は浮かんでも、はっきりとした輪郭すら思い出されない。当然、そんな彼女たちを呼ぶ名前もあった筈だが、それすらも遠い忘却のかなた。

──思えば、随分、酷い男だよねえ。

いつだったか、男を相手にして日々の糧を得る女性らに取り囲まれたというよりも、そんな女たちと顔馴染みだったから、彼女たちから近寄って来たとでも言うのか。それを、隠すわけでもなかったが、何故か虫の居所の悪かった彼女からは、最低と罵られ、軽蔑をありありと浮かべた瞳が強く訴えていた。まだ、子供染みた思考が支配する、少女に苛立ちすら感じていた。いい年をした大人が、何を本気で怒っているんだかと、思った時、ああ、そうだ。彼女だけには、嫌われたくないと密かに思い描いていたこと。

癒すつもりの筈が、いつの間にか癒される存在になっている。

血生臭い掌の中で、彼女は、どんな世界を見たのだろう。彼女が映し出す世界だけは、綺麗なままでいて欲しいと切に願う。


──そんなに早く、大人にならないでも良いんだよ。

今の彼女には、そんな言葉をつぶやいて見せた。彼女に届いてはいないだろうが、少女から大人に差し掛かっている瞬間は、彼女が出迎えるたびに、確認のように思わされることだった。 それが寂しいと思うときもある。まだ子供だと思っていたのに、それを変えてきたのは、他ならぬ自分。そんな柄にも無いことを告げれば、彼女は笑い飛ばすだろうが。

憂いを秘めた瞳は、今まだって何度か見てきたというのに、今日ばかりは、一抹の寂しさまで湛えている。

何も言えずに、ただ、抱きしめたいと、思った。曖昧な言葉を嫌う彼女は、その利発さだけは大人並みではあるが、まだ、どこかで子供の心を残している。

──それにしたって、えらくセンチメンタルなんじゃないの。

もっと、傍にいれば、こんな思いを与えないで済むのだろうか?と自問自答するも、お互いに束縛しない関係性は、このままでいいのだろう。何より、彼女がここから出て行こうとしないのが、その証拠。そして、彼女をこんな気分に浸らせる男に少しだけ恨み節も浮かぶも、その男が自分自身の過去の半身である以上仕方が無い。

──ああ、そうか……。

何となくではあるが、答えらしき物が浮かぶ。頬に掛かる髪をゆっくりと撫であげては、耳にかけてやるとその寝顔が更にくっきりと浮かび上がる。

──俺の代わりに泣いてくれていたのね。

泣くことなんて遥かの昔に置いてきた。叫ぶことすら、泣くことすら、あの頃の男は出来なかったというよりもしなかった。感情を失くしたというよりも、そうせざるべき運命だった。その糸を断ち切ったのは、彼女と旅で出会った連中だろう。

──ほんと、何だかいろんな事思い出す夜だよね。

この雪が融ける頃、何もかも思い出になればいいと、男もまた静かに願う夜だった。

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