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夏の終わり 秋の始まり




晩夏とはいえまだ日差しは高く、ジリジリと焼けつくような太陽が燦々と降注いでいる。

真昼間だというのに厚く閉じられたカーテン。その部屋に広がる光は、ほとんど届いていない。湿っぽさする部屋。古ぼかし書物に薬品名のラベルが貼られたガラス瓶がところ狭しと並ぶ。だが、この場所には到底似つかわしくない甘いため息が零れ落ちている。

「……おっさ、ん。や、やだぁ」

小さな嬌声と吐息は、どこか切なげで艶めいている。今にも涙が零れ落ちそうな大きな瞳は、潤み、歓喜を湛え始めていた。それが、その瞳に映し出す男を無意識に煽り立て始めていることに彼女は気がついてはいないだろう。

最初は、冗談半分に何時ものごとくからかってきた男の視線を挑発したのが悪かったのか。それとも、最大の悩みでもある薄い胸のことを言われたことに歯向かったせいなのかは、今となっては、どうでもいいほどに混濁している。白く靄の掛かった頭の中、軽く交わしていたキスが、いつの間にか熱を帯びて、狭い準備室の片隅に追い詰められる結果に、リタは自分自身で呪うしかなかった。

小柄なリタを覆うようにして、自由を奪っている男が居た。リタは、時折、足に力が入らないか、崩れ落ちそうになる。立っている事もままならないのに、身体は壁に追い詰められ、縋ることすら許してくれない。必死でその男が着ている白衣にしがみつきたいのに、その術がない。紅く色ついた頬から、青白く薄っすらと浮かび上がる頚動脈を伝うかのように、唇がその血の流れを辿っている。そんな男に、この表情は見られたくない。ぎゅうと唇を噛み締めて瞳を閉じると、密かに嗤いを含んだような声がした。

「だって、リタっちが最近やらせてくれないからでしょ」

一方こちらといえば、余裕とでもいうのか、幾分にも年嵩な分だけこの状況を楽しんでるかの節もありありと見て取れるのが、リタがきっ、と睨んでみせるも、そんな睨みが通用する相手でもない。むしろ、喜ばせている節があると分かったのは、何度目かの朝を二人で迎えてから。

「や、やらせって……くれない……って」

あまりにもダイレクトな言葉は、どうやら、思いのほか効果があったらしい。絶句したまま更に煽るような眼つきは、想定内。リタが睨む先には、薄く笑みを浮かべた男──物理学の教師であるレイヴンはほくそ笑んでいる。しかも、リタがおいそれと歯向かえない、おまけ付き。普段なら、一つに束ねた髪を故意に外している姿。常には見せない、もう一つの顔のようなものをリタは恐れている節もあるのだが、時にそれが、余計な効力として影響するものだ、と一人ごちた。

──ありゃ、本気にさせたかなあ。

ただ、自分自身で追い詰めて、その腕の中で半分甚振っているはずなのに、これ以上、追い詰めてしまっては今度はこっちが追い詰められると後戻りが難しい。口惜しさ、寂しさ、何となくそんな感情を抱きながらも、この腕の中で精一杯の強がりを見せる少女に込める力を緩めてやった。

「だっ、大体、がっこ、で、こんなこと」

しないって、約束したじゃないと訴えていたようだったが、言葉にもなっていない。更に、弱々しく男の胸を押し返そうとしている姿が、扇情的で迫り来るものがあるのだが、本当に、止まらなくなったらやばいわよね。まだ、お昼だしねえ、と、他人事のように考えてしまう。そうでもしないと、内に籠る熱を自分でも感じていたからだった。

「……んじゃ、止めとく。おっさんも止まらなくなりそう」

安堵したかのように、力なく抜けた小柄な身体を支えて、「ごめんね。あんまりにもリタっちが可愛かったから」と、これまた熱が引きかけていた筈の白いうなじが一気に紅く染まるような余計な一言を付けて、汗ばんだ額に唇を添えた時、その甘やかな空気が一変して凍りついた。



「リタいないんですか?」

思わず二人して顔を見合わせては、微動だにも出来ずに抱き合ったまま硬直状態。リタなど軽くパニックを起こし掛けていたのかもしれないが、それよりも先に状況を把握していたのはレイヴンの方だった。しっ、と人差し指を立ててリタを諌める。大丈夫だから、と安心させる眼をして。しかし、これが厄介だという状況は覆しようがない。
リタの親友──エステルがどうやら、彼女を探しているらしい。
レイヴンの腕の中、弛緩したかのように強張らせて、どうしようと不安げな瞳がレイヴンを見つめていた。

(なんか嬢ちゃんと約束してんの?)

ヒソヒソと息を潜めて耳元で話しかけたのだが、どうも、それが悪かったらしい。まだ余韻の残る身体がピクンと小さく震えている。

(お、お昼……いっしょ、に……)

ああ、そういうことね、と納得するも、今、リタを手放せばいくら天然なお姫様と揶揄される親友でも、それがどんな状況を作っていたか理解できないほど子供ではない思う。潤んだ瞳、紅潮した頬、互いの唾液が絡み合った唇は、ぬらぬらとした光で紅く色めいている。しかも、ご丁寧に制服、セーラー服のリボンはだらしくなく垂れ下がり、胸元にあるホックまでも外されている。しかも、腕の中でのリタは、何時ものその勝気な姿はない。ふるふると何かに逆らうようにも耐える姿が、自ら手下した筈なのに、これまたそそられる。

──エロ過ぎだわ、この子。ごめん、自重します。

苦笑い。そして、いたいけにも見える姿に愛おしさが募るも、いかんせん、ここは学校。場所も悪ければ、あまりにもこの状況は悪すぎた。

「レイヴン先生、いらっしゃいませんか?」

一般教室に隣接する準備室は室内で繋がっていた。そして、ちょうど、今二人がいる扉の前に気配がする。


「どったの?嬢ちゃん」

エステルの前に物理学教師が立っていた。今、起きたような眠たそうな顔に、ややぼさぼさ気味の束ねた髪をめんどくさそうに掻きながら。

「あ、先生いらしていたのですね?」
「うん、昼寝してたから、聞こえなかったわ。どうしたの?なんか忘れ物でもした?」
「いえ、リタを探していて。お昼一緒に食べましょうって約束していたんです」
「リタっち?今日はまだ着てないわよ」
「そうですか」
「どこで約束してたの?」
「中庭です」
「それなら、そっちの方じゃない?お互い入れ違いになってんのかもよ」

エステルが、そうですね。といい掛けた時、「リタ、見つかったのか?」と声がした。二人が、その声のする方向を見れば、凛々しそうな目元が印象的な長身の男子生徒が立っている。その両手には、なにやらいろいろと持たされたのか、自発的に持っているのか分からないが、こまごまとしたものが入っているだろうレースがついた籐籠。今からピクニックなのね、と思うも。ただ、悲しいかな、余りにもその様子が似つかわしくない。

「あら、青年まで」
「そうなんです。ユーリとフレンも誘ったので」

代わりにエステルが答える。なにやらニヤニヤとしているレイヴンに、何だよと恫喝したような視線を送るユーリ。同年代の者からすれば、十分なほどの威嚇の効果はある筈なのだが、相手が悪い。むしろ、更に自分が惨めになりそうなニラニラとした笑みを湛えるおっさんには通用しないだろう。

「いいわねえ。若いもんは」

これは、つい出たレイヴンの本音。学園一の美少女エステル、それにお供する相反する魅力をもった双璧のユーリとフレンという男子生徒。ついでにといえば、あんまりだが、学園一の美少女とはまた違った魅力から隠れた人気のある──その性格を知らない限りであれば、と注釈がつく小柄な美少女が並んでいる様子は、時折、見かけるにしても絵になる光景だと思ったことも度々ある。

「私、ちょっと探してきます。ユーリはここに居て下さい。絶対ですよ!」
「え?おい、エステル、待てよ」

何か思い出したのか、心当たりでも浮かんだのか、ユーリの声を聞いていないかのようにエステルは駆け出していく。
残された、男二人というのかおっさんと青年と異様なまでの少女趣味の籐籠。

「おっさんも一緒に喰うか?」
「いや、遠慮しとくわ。若人に混じって、ピクニックするような歳でもないし」

ふーん、と何やら思うのか。時々、この青年は何を知ってるのか分からないというのか、随分と大人びた視線を投げて寄越すことがある。勘が鋭いというべきか。 教師の立つ背後。準備室をちらりと視線をくべては、意味ありげな視線を交互に交わしている。

「しかし、暑いなあ、ここ。エアコン効いてんのか?」

青年、頼むから、お前さんも嬢ちゃんを追ってくれと願うもその望みは一瞬にして打ち砕かれた。ユーリはどうやらエステルの言いつけを守ることに下らしい。どかりと椅子に座るも、手持ち無沙汰のように、両手を頭の後ろに回した。

「青年、 追わなくていいの?」
「エステルがここに居ろっていうんだし、仕方ないだろ。あのお姫様の機嫌損ねたらすげー面倒だし」
「まあ、それは、ね」

お互い、苦労するね、と声には出せないが、内心、苦笑い気味の返答。

「ただ、もうあんまり時間ないんじゃない?食いっぱぐれると、午後、辛いわよ」

腕時計を見る振りをして、時刻を確認。確かに、昼休みは、そう残されていない。

「……たく、誰のせいなんだか」

その言葉を残して、ユーリはやれやれと立ち上がっていた。どうやら、お姫様のご機嫌よりも本能的な欲求を優先したらしい。



「もう、いいよ。出てきなさい」

それまで机の下で隠れていたリタが本当に?という怯えた表情を見せながら、顔をひょっこりと出す。 着衣に乱れがないか、確認しては、乱れた髪をぱぱっと手で梳いている。

「ほら、さっさと行った。嬢ちゃんたち待ってるよ」

だいたい、こんな目にさせたのは、どこのどいつよ、とその張本人を目の前にして、すごんで見せるが、時間がない。
焦る気持ちが、言いたい事を言わせない。ようやく考えて出た言葉は「覚えてなさい」と、よく聞く捨て台詞なのだが、そんなものが通用する相手でもない。むしろ、リタの場合は喜ばせている。

「あ、リタっち」

真っ赤になった顔をどうやって冷静に取り戻そうかと思いながら準備室を出ようとしたとき、腕を捕まれた。

「な、何よ」
「忘れ物」

え?驚いた顔。リタの柔らかな頬に少しだけ唇を触れると「夜に続き、しようか」と低い声が耳朶を掠め去っていく。はあ?と酸欠気味の金魚が口を広げて水面に顔を出してるかのように、二の句が出てこない。

「バカッ!」

あら、首筋まで真っ赤だけど、あれ、誤魔化させるかなあとリタが走って行く姿をレイヴンは、どこか楽しそうに見つめていた。


校庭に続く中庭。木陰を陣取る男女はこの学園の生徒達。日差しはきついが、やはり、木陰に入れば、そこには秋の気配を感じさせる風が吹き抜けている。

「リタ……?リタ?」

遠くで、呼んでる声がするな、と思ったとき、やや不安げな顔がそこにあった。「へ?」と間抜けな声を上げたのが自分だと分かるのに一瞬、意識が飛んでいたらしい。気がつけば、そこにいたリタ以外の人物、エステル、そしてフレンまでもが心配そうな顔をしている。ユーリは、食い気優先で気が付いていないようだったが。

「気分が悪いなら、保健室まで一緒に行くよ?」

下級生のリタに対してもその柔らかな物腰の持ち主はフレン。新緑の木々を思わせるような爽やかさを浮かべる最上級生。言い換えれば、エステルと同じく天然とでもいうのか。その爽やかさが罪なほどに、リタを追い詰める。

「大丈夫よ。ちょっと、考え事してただけだから」

そうなのか?と納得してないような眼が、なんだか、居心地を悪くさせる。品行方正な生徒会長を目の前にして、まさか、先ほどまで、教師とあんなこんなことしてたから、ちょっと、とは言える筈もない。そして、追い討ちを掛けるようなエステル。

「さっきから、全然……」
「な、なんでもないの!」
「最近、リタ、様子おかしいです」
「そ、そんなことない。ああ、あの最近、寝不足なの。おっ……レイヴン先生から課題押し付けられて」

自分自身で、その名を口にしては、更に、つーっと嫌な汗が背中を流れるのが分かった。何、自爆してんのと叫びたい。嘘をつくのは平気な筈、ただ、相手が悪い。フレンはともかくとして、エステルには何やら罪悪感という針がちくりと胸を刺す。上手く嘘がつけるほどまだ大人でもない。──でも、いや、嘘じゃないし。実際、寝かせてくれな……、ああ、もう。何考えてんのと焦る気持ちが更に空回りをつれてきている。

「それならいいんですけど、最近、リタ、妙にそわそわしていませんか?」
「そわそわって、何よ。なんでもないけど」
「それなら良いんですけど……」

不安げではあるが、何か訝しげに覗き込む瞳に、同性ながらドキドキさせられてしまうのもエステルの持つ魅力なんだろうなあ、とリタは思っている。澄んだ青い瞳は、純粋で。女の子。お姫様みたいな、そんな言葉が浮かぶ年上の友達は、可憐、清純、無垢と自分とは遠くかけ離れたものが似合う、と思っていた。

「あの、ひょっとして、おいしくなかったですか?」
「え?」
「だって、手が止まったままで食べてないから」

はた、と気がつけばどうも思考が中断していたらしい。「頑張って、作りました」とエステルがバスケットから取り出したサンドイッチ。女の子らしく、一つ一つが包装されているのにも、綺麗なリボンで括っていた。こういうことすら面倒くさがらずに手の込んだものを作るうえに、せっかく、エステルが作ってくれたものがおいしくないわけではないが、あまりにも先ほどの行為が、目の前をうろうろしている。何だか、叫びたいぐらいの気恥ずかしさが、忙しげに走り回る。

「う、ううん。美味しい」
「良かったです!」

にっこり微笑んだ、親友の笑顔は穢れがなくて、その穢れのなさに何故か胸が痛んだ。そして、そんな二人を見つめるユーリもまた何か思惑めいた目を向けていたことにリタもエステルも気がついていないようだった。

午後の始業時間を告げる鐘の音が響く中、中庭を見下ろせる三階の廊下からレイヴンはその四人の姿を見つめていた。

赤レンガの壁に背をもたせ掛けている長身の青年は、この学園の生徒である制服を着用している。ただ、あまり風紀を考えていないのか、若干、規範というものからは外れているかのように着崩しては長髪が彼なりの自己主張。そして、何やら面白くなさそうにも見える表情。

「ユーリ、すみません」

片手を挙げて、ここだと、声のする方向に視線を向けるとユーリの元に駆け寄るエステルの姿があった。放課後、こうして校門の前でユーリがエステルを待つ光景はこの学園の者であれば、見慣れたもの。駆けてきたエステルは、上がる息を抑えながら、一見すれば無愛想にも見えるユーリに微笑んだ。

「先生に呼ばれていたから遅くなりました」
「そうか、じゃあ帰るか」

他愛も無い会話が続く帰り道。こんな時、エステルは思うことがあった。クラスメイトの冷やかしではないのだが、あの二人は付き合っているという周囲の噂を面白半分に聞かされた。きっと、それはユーリとて同じだろう。いつからか、ユーリは教室まで単身では来なくなった。それを寂しいと思う反面、そんな噂程度で、ユーリが気にかけていること、それ自体が気掛かりでもある。そんな噂が気にならない二人でもないのだが、今は、この関係性に白黒を着ける気は無いというよりも少しばかり怖いのはエステルの方だったかもしれない。

壊すことで前に進めるのならと思うも、ユーリは、そんな噂をどう思っているのだろうと不安に思う時もある。そして、もう一つの気掛かりが、思い起こされる。

「……エステル?おい」
「ひゃっ!あ、すみません。ぼんやりしてました」

ずいと立ち塞がれた先には、ユーリの訝しげな表情。どうやら、考え事をしていたらしい。急に立ち止まるなよ、危ないぞとユーリが無言で訴えているのだが、エステルはそんな気配も気にならない様子。

「どうした?腹でも減ったのか?俺、なんか甘いもの食いたいなあ」
「ほんと、ユーリ甘い物好きですよね……」
「エステルの方が食うだろ?」

お腹が空いてる訳でもなければ、ユーリほどでもないですと思うも、「うーん」と小首を傾げるエステル。ユーリなら、何か知っている訳もないか、と思うのだが、何だか気掛かりになれば、それは、エステルの頭を支配し始めている。

「何か気になることでもあるのか?」
「あの、リタのことなんです」

このところ、リタの様子が変だ。そう思ったのは一度や二度ではない。今日とて、何やら上の空。そして、どこに消えていたのだと訊ねるも、よく分からないままはぐらかされた様な気もする。以前は、エステルの言う事には、何でも喋ってくれていたような気もしているのに、近頃は、何か彼女──リタは、隠し事のような、何やら秘密を抱えているようにも思えた。

「あーリタか。それが、どうかしたか?」
「何か……リタおかしくないですか?」
「おかしいのは、いつもだけどなあ」

特別変わった様子なんか無いとは思うユーリだったが、確かに、エステルに言われてみれば、そういえば、あいつ、と思うこともあった。それは、エステル程ではないが、不審に思ったのは昼食の時間。ある人物の名を出した途端、落ち着きの無さを見せては、一人、何やら焦った様子。常に、それほど注意深くリタのことを見ている訳ではないが、上級生のユーリに対してでも、物怖じしない性格は気に入っている部分。妹という存在は居ないが、居たとしたら、そんなところだろう。

「おっさんかねえ……」「レイヴン先生ですよね……」

二人がほぼ同時に呟いたのは、原因とすれば、同じ顔が浮かんだらしい。何となく二人が虚脱感に包まれたかのようにがっくりと肩を落とした。お互いに、やっぱりという、何ともいえない雰囲気。かと言って、あの二人の関係性にどんなものがあるかなど到底考えつかない。

「少し前ぐらいから、リタに一緒に帰ろうって言っても、時々、用があるって言われること多くなりましたよね?」
「そういや、そうだよなあ」
「大抵、その時って横にレイヴン先生が居る時です」
「おっさんは、まあ、一応顧問だからっていっても、何か意味ありげな目してんだよなあ」
「意味あり気って何です?」
「え?あーまあ、その……」

ユーリは言うか言わまいかと悩む。このやや天然気味というのか、箱入りのお姫様に下世話な勘など持ち合わせていないだろうという、それ以前に、言葉の意味もわかってるのか、と思う気持ち。そして、そんなレイヴンの目が、リタを見つめるのは、時折、自分自身がエステルを見詰めている視線と同じように思える時があった。ただ、まさか、あいつらが、とユーリが思うのも無理はない。教師と生徒という関係性。もし、と仮定して、リタかレイヴンか、どちらかが一方的な想いを抱えているにしても、余りにも、その手の感情からは、懸け離れた二人とでも言うのか。 想像が出来ないというのが本音。

「うーん、いや、その……」

言葉を濁しつつ、どう説明すれば理解してくれるのだろうか、と考えるも、本気でこのお姫様は分かっていないだろうなあと悲しくなる。小首を傾げて、「何でしょうか?」と大きな瞳を見開いている。その仕草、一つ一つが可愛らしく、愛らしいのだが、こんな気持ち、どうすればいいんだよ、とユーリが戸惑う時でもある。いや、そもそも俺の気持ちよりも、今はエステルの心配事は少なくともリタのことだ。そう考えなければ、エステルの眉間に浮かんだものに、雲行きが怪しい気配すら漂わせている。

「ハッキリ言ってください」

少々むくれたようなむっとしたエステル。ああ、ここで機嫌損ねられたら、後々、苦労させられる。暫く、瞑想するかのように腕組みをして考え込む。

「いや、なんつーか。あの二人って……」
「ユーリもそう感じます?」

お互い口には出さないのだが、思うところは一つだったらしい。そして、エステルは、頬に掛かる髪をゆるりとかき上げた。

「リタ、最近、凄く淋しげな眼をする時あるんです」

それは、私がユーリを見つめる時と同じ気持ち。でも、まだそれを伝える勇気はないから、と呟く。それは、ユーリには聞こえない心の中での呟き。伏目がちに何か憂いのようなものを浮かべたエステルにユーリは、何か言いたい言葉を伝えれずにいた。

「まあ、おっさんには、俺の方から探りいれとくから、あんまり気にするな」

ユーリがそう伝えると、エステルはほっとした様に笑顔を浮かべた。


「おかえり。遅い!」という言葉と共に顔面に投げつけられたクッションのお土産付きで、若干、怒りの方が勝っていたのであろう真っ赤な顔をしたリタが出迎えてくれたのは、あれから、授業も終わり、夜も深まっていた頃。もう何度も、この部屋に来ているせいなのか、勝手知ったると、リタの姿は日ごろ見慣れた制服姿ではなく、レイヴンの寝巻き代わりにしている、彼女が着るにはかなり大きめのコットンシャツ。どうやら、風呂も勝手に入っていたらしい。まだ、生乾きの髪からは、雫が首筋を伝っていた。

「あら、やっぱり来たの」
「おっさんが来いっていうから来てあげたんじゃない」
「そうだったね」
「メールぐらいしてよね」
「あー、ごめんね。そんな暇もなくて」

抱き寄せた身体は、すっぽりと何の抵抗もなく大人しく腕の中に納まってくれた。おっさん用のシャンプーなんて使えないとそれなりに拘りがあるのか、リタが持ち込んだシャンプーなのかボディソープなのか分からないが、柑橘系の甘い香りがしていた。甘ったるい匂いは嫌いな筈なのだが、これは、どこかリタらしく、嫌じゃないと思わせる香りだった。

「どこいってたのよ、遅いじゃない。それに、タバコくさいし」

ぎゅうと強く背中にまわされた細い腕が、不安げな強がりを見せている。こんな時、この少女の隠された不安のようなものを感じ取っては、幾ばくかの贖罪を求めてしまう気持ちが湧き上がる。独りには、慣れている筈と強がっていても、
やはり、誰かを待ちわびるという淋しい気持ちを持たせてしまったのか、と。

「途中でちょっと道草してた」
「変なとこ行ってたんでしょ」
「別に、想像してるようなとこじゃないよ。先生らの会合っていうか飲み会。ルブラン先生に捕まったら離してくれなかったんだよ。あの人、酔うと泣き上戸の上に説教癖あるから。それに、ほら、何人かタバコ吸う人いるじゃない」

これでも早く抜けてきたんだから、許してと片目を閉じて謝る仕草と共に額に落ちてくる唇の感触がやさしく降り注がれる。もう、本当に何度これに騙されたのかと、リタから小さなため息がこぼれた。所詮、相手にするには性質が悪すぎる。


剥き出しの白い肌。情交の跡を残すのは、その柔肌に浮かんだ紅い色を抱えながら、眠るあどけない顔を見ると、随分と罪悪感にも似た気持ちにさせられるのは、やはり、仕方がないといえば仕方ないことだろう。年齢差、そして、お互いの立場。そのどれもが、本来、許されるかと言われれば、世間一般からは非難されることの方が多い関係。やはり、重く沈んでしまう。その原因、今日のリタ達を見てしまったから?と、一人、結果の出ない想いを抱えてしまった。

ほんのだけ垣間見た中庭で居る四人の姿。まだ大人の世界に汚れていない少年少女というのは、その存在自体、そのものが、あんなにまで眩しいものかね、と。昔に経験した筈だが、通り過ぎた時間というものは、懐古という名において、ほろ苦い甘さしか与えないという事を知った。そして、それは、それだけ自分が歳を取った証拠。

──そんなこといったって、ねえ。もう、後戻りも出来ないし。

やや年季の入ったくすんだ天井を見上げると、何だか泣きそうな気分すら襲ってきてしまう。

自分で思っていた以上に、淋しがりやだったのは、どちらだったのだろう。何もかも諦めていたと思っていたのに、欲しくて、ただ、彼女──リタが拒絶してくれたら、むしろ、拒絶させるように仕向けていたというのに、余りにも純粋な想いと若さに突き動かされたのは自分。ただ、どちらが一方的に悪いということではないと思う。共犯者とでもいえばいいのか、それとも共有する寂しさの果てに繋がりを求めただけの結果だったのか。秘密裏の関係は、そうまだ築かれて月日は経っていない。むしろ、まだ始まったばかりだというのに、既に、リタを大人の世界に引っ張り込んだのは他ならぬ自分自身。

──ほんと、悪い男に引っ掛かったよねえ。

そんないい訳めいた答えに自嘲的な笑みすら浮かんでしまう時、ん、と少し寒そうに声を出して擦り寄ってきた身体は、自分の持つ体温よりも暖かく、薄い肉つきながらも漂うのは、清楚なまでな色香。その身体を抱き寄せて、その眠る顔を見つめているだけで、少しだけ、その疚しいと思っている気持ちが軽くなるのは嘘ではなかった。

「……おっさん、今、何時?」

もぞもぞと動き出した仔猫のような姿が、レイヴンの思考を中断させる。まだ、朝には早いと、カーテンの隙間からこぼれる光が告げている。

「三時半。まだ、早いよ。もう一眠りできるよ」
「……うん。でも」
「目が冴えちゃった?」
「……ううん、でも、何か眠れない」
「目、閉じてれば、眠れるよ」
「でも」

些か、聞き分けの悪い声は、何らかの不満を抱えた色がしている。

「どうしたの?まだ、足りないの?もうおっさん頑張り過ぎて腰が……ごめんなさい」

冷ややかに見つめる視線は、それ以上言ったら殴るわよ。と言っている。

「昨日……何で、あんなことしたのよ」

ぼそぼそと言うのは照れがあるのだろう。素直に目を見て言わないのは、リタの悪い癖のようなものだろうか。絶対的なまでに人を射抜くような視線でにらみ返すかと思えば、こうして、俯き、己の感情を知られることを臆病にまでに隠そうとする。分かり易いといえば、分かり易い。

「えーだって、リタっち、最近、やら……させてくれなかったし。おっさんだってねえ。もんもんとするじゃない」
「だって、まだ、恥ずかしいし……」
「恥ずかしいって、今更、こんなことしてんのに?」
「何なのよ、もう……」

何なのよ、もうと語尾は、どこかか弱く部屋に消えてゆく。どうしたの?と、覗き込んだ顔には、何だか泣きそうな、何かに不安という色を湛えた表情が浮かんでいる。

「そ、そんなに嫌だった?」

いや、ほんと勘弁してと、泣きそうになるのはこっちだよ。努めて、リタの機嫌というのか、無理強いはしていないという自負はあったはず。確かに、昨日は自分でも、些かやりすぎな面は反省してます。ごめんなさい。と、一瞬だけは思った。本当に一瞬。

「い、嫌じゃなかったけど。ただ、学校だったし、それに、エステルに嘘吐いてるのが……」

ああ、と聞けば納得。親友──リタにとって見れば、同じように大切な人であるのは事実。今まで、あまり同年代と敢えて自分から交わろうとしないリタがエステルとは、普通の少女らしい笑顔を見せる。さもすれば、リタの学校生活において、エステルの存在、そして、またユーリらの存在はかけがえのないものだろう。

そんな彼女たちが、リタの表情を変えてきたのも、傍にいて見守ってきているだけに、リタが心苦しく思うのも分かる。

人を欺くことに慣れてしまった自分──レイヴンとしては、随分、若い青臭い感情なんだろと一笑に伏すが、事はリタに関わる事となれば、はい、そうですかと問屋も卸せない。

「うーん、嬢ちゃんには、ねえ……」

エステルがほいほいと第三者に他人の秘密を喋るような娘ではないと知っているが、それなりにさまざまな危険性が孕んでいる関係性だからこそ、慎重になっているは事実。リタは、多分、そういうことを考えているというよりも、エステルに秘密を抱えているという罪悪感の方が強いのだろうとは思うのだが。

何時だったか、そんなに秘密にしたいの?と感情を爆発させたことは一度や二度ではない。隠すことが悪いこと、隠すような悪いことなの?と食って掛かられたことも度々。その都度、言い聞かせ、反面、なだめすかして誤魔化してきた。
ずるいのは仕方ない。自分とて、リタにそんな想いを抱かさせる罪悪感を感じていないわけではないが、大人の事情というよく分からん事情があるんだから、と言い聞かせてきた。

──後回しにしてきたツケなのかねえ。

どうしたもんか、と頭を抱えそうになった時、微かにながら規則正しい寝息がこぼれていた事に気がついた。
ほんと、若いもんはいいわ。




ほわっと生あくびが出るたびに魂まで出てゆきそうな蒼く晴れた空の下。レイヴンの視界をさえぎるものはない、ここは校舎の上、屋上。本来なら立ち入り禁止の場所ではあるのだが、教師という特権がそれを許されている。

階下の教室の窓からは、パタパタと白く棚引くカーテンが風に煽られひらりと舞い上がった。

午後は、他校で行われる教職員会で休講。ただし、クラス担任を受け持ってない教師はお留守番となっていた日だった。せっかくの半休、しかも、明日は休みとなれば、学校などに用がないものは其々に散ってゆくのが当たり前。はやく定時になんないかなと思うのも仕方はない。いくら留守番だといっても、リタは早々に帰ってしまった。いつもなら、これ幸いと教室を独占しては、新たな実験に勤しんでいるのだが、どうやら、エステルに誘われたらしく、郊外にあるショッピングモールまで遊びに行っているらしい。時計を見ると、それまでに帰ってきなさいと一方的にした約束の時間にはまだ程遠い。

暇潰しの相手というとあんまりではあるが、校内で過ごす唯一の密かな楽しみを奪われては、やる気すら起こらないらしい。


「なんだ、ここに居たのか」

そんな怠惰な思考を咎めるように、突然、レイヴンの背後から声がした。

「あれ、嬢ちゃんたちと一緒じゃないの?」

振り返ってみれば、開口一番、常にエステルの影のように寄り添っているユーリが一人、こんな場所にやってくるもの珍しいことだと思った。それ以前に、ここ生徒立ち入り禁止なんだけど。それを咎めるほどの小言を言うつもりもないし、そんなことを言われても大人しく受け入れるような人物でもないのは、レイヴンもとっくの昔に理解している。

「あいつら、女の子同士でって言ってたから、俺は留守番。さっき、バス乗ったっていうから、そろそろこっちに着くんじゃないか?」
「あーら、振られたんだ」
「おっさん、いつか、その余計な一言いう性格、刺される時が来るぞ」
「お構いなく、それほど、耄碌はしてないけど、ねえ。そんで、何、どうしたの?俺に用でもあるの?青年が一人、こんなとこで物思いに耽るわけでもないでしょ?」」

単刀直入。多分、ユーリはレイヴンを探していたのかと、先ほどの彼の言葉。そして、腹の探りあいをするほど、暇じゃないのよね、とレイヴンの目は笑っていたようにもユーリには見えた。ただ、その笑っているかのようなものの後ろにある気配は、なにやら、もう一人、別人が潜んでいるようにも思えたが。

「おっさん、さあ……」

まあ、いいから座んなさいよ、立ち話でもなんでしょ?と、レイヴンが笑っているようにも見え、眩しげに太陽の光に手を翳している。ふと見れば、立ち入り禁止の場所ではあったが、この二人のように校則違反やら特権を駆使した人物がいたのだろう。ご丁寧にどこか空きクラスから持ってきたであろう、椅子が何脚かある。

再び、強い風が舞った。今度は砂埃まで巻き上げ、小さな竜巻まで起している。

ユーリは風が強い日だな、と思い空を見つめた。ほの暗い蒼さを湛えた空は、もうじき遅い夏の終わりを告げている。

「何?青年が歯切れ悪いなんて気持ち悪いわよ」

ユーリの思惑など、何の気にもならないかのように、レイヴンはその椅子に座っては、ユーリを見返した。
何を言ってくれるのだろうというというような、若干、不気味な笑みすら浮かべているようにも見える。

「……いや、やっぱ、いいや」
「何、恋の相談でもあるの?もてる人は違うねえ」

茶化す気はないのだが、この青年のもう一つが持つ誠実な面というのは、少々、苛めたくなるんだよねえ、とレイヴン。その反面、その恐れを知らないかのような真っ正直さが羨ましくも思う。

「あんた、リタのこと、どう思ってんだ?」
「は?どう思ってるってねえ……」

呆れたような、何なの、それというような、そんな声だったろう。ただ、これも演技の一つだったのかもしれないが。 どう思っている、と訊ねたのは、ユーリの引っ掛けだったかもしれない。教師と生徒、それに、男と女と言われる別の関係性。だが、空しくも、レイヴンには、そんな思惑すら読まれていたのかもしれない。つむじ風のような掴み所の無いレイヴンの表情からは、そう読み取れた。

「は?じゃねーよ」
「まあ、そう声荒げなくても良いじゃない?」

ユーリが何を問うつもりだったのか、そんなの言われなくても分かってる、とばかりに先手を打たれた為か、些か、戦意消失。ほんとに、このおっさんだけは煮ても焼いても食えねえと、思うしかない。

「変人同士、気が合うのは確かだけど、何より、ほらおっさんって、もっとこう」

胸元で丸みを作る仕草に何を言ってんだ、このおっさんという冷やかな視線。

「自分で言って悲しくならねえのか」
「あらー、まさか、青年、リタっちのこと」
「そういうんじゃねーよ」

あっさりと否定の即答。傍から見ていても、青年──ユーリが唯一、その視線を向ける色が違う少女がいる事は、見ている方がむず痒い感情すら沸かせる程に知っている。

「まあ、青年には……」
「俺のことは、どうでもいいだろ。今、関係ねーよ」と、ゴチャゴチャ言っているのが証拠。顔つきは変わらないまでも、図星だったのだろう。ほんと、若いっていいわねえ、と。少しばかり暇潰しの玩具を手に入れたかのような笑みを浮かべた教師に、ユーリは毒吐くしかない。

「あんた、リタのこと……まあ、いいや。とにかく、リタの様子が変なんだよ」
「なんかそれで迷惑かけたっけ?」
「そういうんじゃないけど。何だかエステルに対して、ちょっと前から、そわそわしてる様な表情見せるし、かと思えば上の空のときもあるしさあ。気にはしてんだよ」
「ああ、なるほど、ね」
「今日だって、だから、あいつらだけで遊びに行ってんじゃないのか」

結局、惚れたもん同士、負けってな訳かとレイヴンは思う。

「あんがとね。青年」
「ちょ、まだ、話終わってない」

何だか釈然としないユーリを残し、レイヴンは背を向けてひらひらと片手を振って、階下に繋がる階段へと向かっていた。







「あ、レイヴン先生」

廊下の向こう側でレイヴンを呼び止める声がした。数名の女子生徒が歩いていると思うと、そのうちの一人が、クラスメイトに何やら手を振ると、こちらに向かってくる──エステルだった。

「あら、嬢ちゃん、どうしたの?リタっち一緒じゃなかったの?」
「はい。リタは教室に忘れ物があるからって、取りに行っています」
「そうなの」
「準備室で待ち合わせしてるから、先生も一緒に行きますか?」
「ああ、そうするわ。俺も戸締りしなくっちゃいけないし」

にこにこと笑顔を浮かべている少女に、レイヴンはほんと可愛い娘だよと、あの青年が惹かれるのも無理はないと思った。

「あら?」
「おや?」

カバンと何やら散らかした形跡だけはあるのだが、当の本人は居ない。まあ、そこに座ってまってれば帰ってくるんじゃない?と、レイヴンは促す。

「……そういえば、さっき、青年から面白いこと言われたわ」
「ユーリからです?」
「うん。何なの?俺とリタっち噂になってんの?」
「え?本当なんですか?」
「は?マジで噂あるの?」
「いいえ。そんなのはないです」

この年代特有の姦しさは理解しているにしても、他人の恋話に興味も沸く年頃。ただ、エステルが、そんなものに興味がないわけでもないだろうと思うも、教師という立場上、生徒たちの恋愛事情にまで噂が届くことは少ない。何気なく入れた探りとでもいうのか。ただ、きっぱりと否定してみるとことは、本当なのだろう。兎にも角にも、この少女も嘘が下手なのは分かっている。

「……ただ、その」

思いがけない追加。 何やら考え込んでいるらしい。どうしたものかと考えあぐねいているが、相手が教師という立場を儀礼的にまで重んじる性格からなのか。

「ただ、どうしたの?」
「レイヴン先生は、リタのこと、リタっちって呼びますよね?」
「ああ、うん。それがどうしたの?」
「それって……」
「なんだろね?」

鸚鵡返しのような言葉の質疑。きゅっと口を結んだまま、エステルは、答えのない迷路にはまり込んだような感覚に陥った。所詮、答えなど聞けないのか、と。この教師が自分などを相手に本音など語るのかという不安も抱えている。
だが、そんなエステルの意中を汲み取ったのか、僅かにレイヴンが微笑んだようにも見えた。

「だけど、俺、嬢ちゃんのこと、嬢ちゃんって言うし、ユーリのことだって、青年だよ」
「……そうなんですけど、何だかリタのことだけは」

うーん、と唸っては難しい公式を解くかのように形の良い眉の間、似つかわしくない皺を浮かび上がらせる。
多分、エステルの頭の中で、答えにならない答えを探しているのだろう。それが何かであるか、何となく分かりかけているのだが、ぼんやりとしないまま。その答えを導き出す方程式を知るには、まだ、エステルにはまだ足りないのかもしれない。

「リタ、のことは、何?」
「……特別って思うんです」

見つけ出した答えに何だか納得していない様子。そういうものじゃなく、何だかもっと違う物とでもいうのか。もっと深い関係性があるような。と、エステルは思うも、さすがに教師にそんな事を告げることに躊躇する。しかし、確証はないのだが、何か、この二人には秘密があるような気もする。ただ、リタ本人がそれを告げないのであれば、それこそプライバシーの侵害だ。いくら、親友といっても立ち入ってはいけない領域を探ろうとする行動に後ろめたさを感じたのかもしれない。

「ほら、まあね。生徒としては、彼女、頭良いし、反応も面白いからね」

あくまでも教師と生徒という立場を貫く素振り。子供騙しというほどでもないのだが、これぐらいの嘘なら可愛いものだろうとレイヴンは思う。

「うーん、でも、それだけじゃない、なんていうか、リタも……」
「どうしたの?」

考えあぐねいているエステルに助け舟を出したのは、レイヴンの方だった。はぐらかす事など、十分に出来る。それこそ、先ほどのユーリのようにふわりと逃げてしまえば、いいのだろうが、エステルの口にした「リタも……」という内容が、レイヴンには気掛かり。

「最近のリタって、何だか今までと違うんです」
「違うって、何も変わってないでしょ」
「先生は男性だからそう思うんです!」

拳を作り、やや怒ったような顔。そして、きっぱりと断言して見せるところは、少女というのか女の勘とでもいうのか、なかなか侮れないな、と舌を巻くしかない。

「いやー変わんないでしょ。ちょっと冗談言ったらぎゃあぎゃあ言って反撃してくるしねえ」
「そういうとこは、変わんないと思います」

「でも」と続く言葉。

「リタ、最近、すごく淋しそうな眼してるんです。上手く言えないけれど……私やユーリとか皆と出会って、リタ、自分で変わったって言ってくれてたんです。それからは、そんな眼をしてなかったのに、また、そんな眼をする時、必ず……」

あなたがいるの、とエステルは無言で訴えている。

淋しさとエステルは言ったが、エステル自身が経験していること。人を恋焦がれることを知ったからというべきような淋しさ。人の温もりを知ったからこそ、もう、後戻りできないような、それこそ、レイヴンも持て余していた感情の一つ。

「ほんと、敵わないわねえ」

耳をかく仕草。癖とでもいうのか、嘘を見破られた瞬間だったのかもしれない。どうして、この年代の娘たちは、男なんかよりも早く大人になろうとしたがるのかと思っていたが、そうではなく、命を継ぐ性だからこそ、早急に大人になる必要があったのかと思う。

「じゃあさあ、俺じゃなくてもリタっちにそんな相手が居るなら、嬢ちゃんはどうする?」
「リタが好きっていう人なら、私はどんな人でもそれでいいと思います」
「そんじゃあ、さ。その男が凄い悪い奴だったら?」
「悪いって、どういう風にですか?」
「うーん、例えばさ。凄く年上で嘘つきでリタっちが泣かされるようなことしてるとして」
「そんなの許さないです」

当然ですとばかりに怒ったような表情。

「年上とか嘘つきよりも、リタを泣かせるようなことをする人は許さないです。でも……」
「でも、何?」
「でも、好きになったら仕方ないかもって……ただ、リタが泣くようなことあったら、私、その人のこと許せないです」
「許せないっても嬢ちゃんに凄まれてもねえ」
「私だと、そんなに迫力ないですか」
「うん、ない」
「酷いです」

ごめんと笑うも、そうだ、と閃く。

「じゃあ、さあ。そいつが殴っても良いって言ったら?」
「当然、叩くと思います」

きっぱりと毅然と言い切ったエステルに、いい友達に恵まれたね、とレイヴンは、思う。リタがエステルに隠し事はしたくないという後ろめたい感情を抱えてしまうのも無理はないだろうとも思った。それほどまでにエステルはリタのことを心配していたのだろう。そう思えば、やはり、ここは多少素直にならなければと思った。

「んじゃあ、殴って良いよ」

立ち上がり、はい、どうぞとエステルの正面に立った。

「え?はい?先生?」
「嬢ちゃんに殴られたら、俺も本望だし」

えーと、それってどういう意味なんだろう?とエステルは軽く混乱気味な様子だった。その様子がおかしくもどこか可愛らしく見えるのは、それだけ自分が何もかも諦めては失っていた感情の一つだったかもしれない。でも、こんな純粋な気持ち、いくら、俺でも無碍には出来ないよね、ごめんね、と心の内で小さな謝罪。

「それって?」
「なんでしょうね……嬢ちゃんの好きなように理解してくれていいけど」

軽くウィンクして見せて、おどけてみる。まあ、見る者によっては中年のおっさん、それも、もうじき不惑を迎えるかというウィンクに吐き気か怒りしか感じないだろうが、エステルは、何か、この教師が何かを認めたことを感じつつあったのかもしれない。

「先生を殴るなんて、出来ません」

おろおろした表情に、ぷっと吹き出してしまいそうになるが、エステルは本気で困っている様子だった。

「うーん、じゃあ、いいや。その代わり、リタ……彼女が言うことだけ信じてあげて。ほかの奴らが何言ってもさ、嬢ちゃんが信じてあげてれば、大丈夫だから」
「はい」

と、微笑む顔は、見ている者すら幸福という名を与えるものだった。



それから、一週間後の週末。のんびりとした午後の日差しが差し込む。ゆらりと、レースのカーテンからは、澄んだ風が通り抜ける。

「リタっち〜おっさん、構ってくれないと寂しくて死んじゃうかも〜」
「変な声出さないで!気持ち悪い。勝手にその辺で転がってなさいよ」

もう当たり前のようになってしまった光景。気がつけば、自分の部屋のように居座っているリタに、レイヴンは、手持ち無沙汰というのか、暇潰しのちょっかい。リタはこうして週末近くにはやって来て、部屋で何をするわけではないのだが居る。ただ、今日は、レイヴンは眼中に入っていないらしい、というのも、先日、発売になった書籍を昨夜から手放さないまま、読み耽っていた。先ほどなどは、何度目かのやり取りの末に漸く投げかけられた言葉だったのだが。

「勝手にってねえ」

最近、段々言う言葉キツクナイ?と、喚くも、知らないとばかりに夢中になっているさまは、確かに、以前から知る横顔。レイヴンがずりずりと近づいては、本をくいと下げた。もういい加減、本よりもおっさん見てくれないの?と強請る視線から、ふんと再び、本を隠した瞬間。ベッド脇に壁を背にして座り込んでいるリタの隣にレイヴンが腰を下ろした。

ギシっと二人分の重みを感じたベッドが乾いた音を鳴らした。

「あのね、俺、喋っちゃった」
「何を」
「うーん、こういう関係だっていうこと」

ぽとりとベッドの脇に落ちる本の音がした。そして、ふわりと包み込まれた身体に自分ではない重みを感じると、目の前には、笑うレイヴンの顔がリタを見下ろす形で見える。何の気なしに、束ねていた髪を解くと風が通り抜ける感覚が横切った。

「へ?」

気がつけば、肩を押さえつけられている。自由を奪われ、どうしていいのか分からないまま、辛うじて動く手は、宙を掴み損ねたように見えた。レイヴンからしてみれば、抱きつくというのか、羽交い絞めというのか、良くは分からないのだが、押し倒す形で取りあえずは、抱きしめてそのまま微動だにしない顔を覗き込んだ。あら、硬直しているわと笑いそうになる。

そして、肩肘をついて、リタの横に寝転がる。リタは、まだ頭の中でこの状況と言葉を理解できないかのように、天井を見上げたまま。多分、まともに視線など交わせないのだろう。

「だ、誰によ」
「嬢ちゃん」
「なっ、何、何考えてんのよ。あれだけ、秘密にしろって」
「というか、ばれてたわ」
「え?」
「ついでに言えば、嬢ちゃんを介して青年、もかねえ。あの様子じゃあ、何か知ってそうだし。嬢ちゃんが何か言ったとかいうんじゃないく、まあ、元々勘はいいからねえ」

多分、パニック。いろんなこと瞬時に考えてるんだろうなと思うリタの表情が、余りにも子供っぽく、可愛らしく、ついにぷっと少しだけ吹き出してしまった。

「おっさん!」
「ごめん。あんまりリタっちが驚いてる顔が可愛いから、ね」

いったい、このおっさんは何を言い出すのか、怒りよりもどっと押し寄せる疲労感に殴る気すらなぎ倒される。ゆっくりとレイヴンの左手が、リタの額に触れた。前髪を梳くようにして、触れていた。サラサラとした髪が指先に心地よい。
そんなレイヴンの行動すらも、まだ、理解できないのだが、はあ、とため息。余りにもこの髪を触れる指先の動きが心地よく、どうでも良くは無いが、良くなってしまいそうな程。

「口の軽い娘じゃないでしょ?嬢ちゃんは。そんで、青年は元からあんな性格だしね」

前髪を弄るのに飽きたのか、今度は、耳に掛かる髪を弄り始めている。

「それは、そうだけど……」
「何?」
「だって、いまさら、言えるわけないじゃない……」
「それなら、良いんじゃない?このまま、曖昧でも。ただ、リタっちが言いたければ、言っていいよ。嬢ちゃんに隠し事したくないんでしょ?」
「それって、ずるい」
「そうかなあ。少しだけ譲歩したつもりだけど」
「何が譲歩よ」

知らない、とばかりに起き上がろうとしたのだが、その手が動くかよりも、再び、素早く、ベッドに沈む感覚がリタにはあった。見上げた先には、長めの前髪で目元は良く分からない。でも、その表情は読み取れた。憎たらしく、でも、大好きな笑顔があった。

「ほんと、仕方ないわね」

諦めの呪詛をつぶやくと「ごめんね。好きだから」と言葉が聞こえていた。




「あの、エステル、今いい?」

放課後、生徒会室の入り口から僅かに顔を覗かせているのは、リタだった。ここ暫くは、お互いに部活動だの、生徒会だのと多忙を極めていた。それでなくとも、エステルの横には護衛とばかりにユーリ、そして、時折、フレンまで居る。多分、ユーリ達にエステルと二人っきりで話したいとでいえば、何も言わず気を利かせてくれるだろうが、ユーリの勘の良さは、認めている以上、何か気恥ずかしいという、どうしようもない思いもあった。そんな感情に戸惑いと決着をつけなければという覚悟を決めるのは、更に、半月も経っていた頃だったろうか。

「いいですよ」

入室を促すエステルが微笑んだ。ユーリの姿が見えず、ほっと胸を撫で下ろすリタだが、フレン始めとした数名の生徒がいる。一瞬だけ、その視線の集中を浴び、気後れというのは、余り感じない性格なのだが、何故だか、後ろめたさに、つい、「あ、用があるなら、いいの。急ぎじゃないし」と逃げ出しそうになる。

「何か、お話あるのでしたら……フレン、ちょっとリタと出掛けてきますね」

さあ、行きましょうと繋いだ手からは、大丈夫という思いが伝わってきたような気がした。


校庭脇の道路に面したところにある赤い自動販売機。ガコンと落ちてきた缶ジュースは水滴のオマケつき。
はい、これリタの分と差し出されたのを持ちながら、教室に向かう途中、校庭脇にあるベンチに腰を下ろした。

「何か、私に用があります?」
「え?うん、そうなんだけど」

気まずさ、は感じない筈なんだけど、どうも、落ち着かない。このところ、エステルの顔を見ていないのもあったせいよ、と内心で思うも、どうしようと思う。漂うのは気まずさ。プルトップを空けると、プッシュという炭酸が泡立つ音がする。一口、飲むと甘い水が喉元を通り過ぎた。

「あ、あのね。あたし、エステルに秘密にしてたことがあるの……」

どうしよう、と考える。ここまで言ってしまって、後には引き返せないが、恥ずかしい。でも、相変わらず、リタの瞳に映るエステルはニコニコと微笑んでいる。だから、こそ、言わなければ、と喉元でゴロゴロとした炭酸が閊えたような気持ち。

「レイヴン先生のことです?」

こちらは、駆け引きなしの、裏も表もない本当に単刀直入。

「え、えええ?、ど、どうして!」
「だって、このごろ、リタは最近先生の話題になると、妙にそわそわしてたりして……」

ああ、そういう事だったのねといつしかの会話が思い出される。そんなに、あたしって分かり易いのかなあと子供染みた感情も沸くのだが。

「あ、あのね。これ、誰にも言わないで欲しいけど、あたし、おっさ……レイヴン先生のこと、好きなの。で、向こうもそういう気持ちだったから、その、あの、なんていうのか」

付き合ってるから、と最初は簡単に素っ気無く、それだけ言うつもりだったのに、好きだの余計なことを何で言っているのだろうと、冷静になるもうひとりのリタがいる。

「リタ、顔、真っ赤です」
「からかわないでよ」
「私はそういうのじゃないです。ただ、リタが言ってくれた事が嬉しいだけです」

私、リタよりも年上のお姉さんなんですよ、という笑顔。

「つまり、そういう関係なんですよね?」
「……うん。付き合ってるの、今まで黙っていてごめんね」

静かに認めれば、何のことは無い。エステルは、反対するような人でもなければ、興味本位に騒ぎ立てるような性格でもないのは、知っている筈だった。リタは、レイヴンにいいように言いくるめられてたのかなあと思うも、「こればかりは、仕方ない事だから」と、エステルはレイヴンの気持ちを代弁してくれるかのように言った。

「ああ、それだから、先生、俺のこと殴っていいよって……」

そして、なにやらリタには理解できないエステルの独り言のような言葉を呟くと、何やら答えを見出したような納得したかのような表情を浮かべた。

「エステル?」と疑問を浮かべたリタ。

「少し前、私、先生に『リタに好きな人がいて、その人を見つめる視線が淋しそうだって』って訊ねました。でも、それが誰であるかは、言いませんでした」
「おっさん、認めた?」

いいえ、とエステルは首を振った。ハッキリとした確証はないまま、曖昧な言葉で濁されたと思っていたが、今なら、その答えの意味がクリアになった。

「でも、先生。『リタにそんな哀しい想いさせる奴がいるなら、どうする?』って、聞くんです。だから、私、思い切り『引っぱたきます』って言いました。そしたら、『俺、殴っていいよ』って、先生なりの答えだったのですね」

エステルは、少しだけこの親友が羨ましくも思えた。嫉妬ではなく、そこまで想いを通じ合わせられる人の存在が眩しく、そして、浮かぶ切なさには、エステルが想う青年がいる。ユーリもそんな風に私のことを思っていてくれますか?と、願う。

「でも、なんだかむかつく。あたしには、散々、誰にも言わないでって言ってたのに、エステルだけにはあっさり白状して」

「……リタは、そうじゃないかもしれないけど」と、一言、間が空く。エステルも少しだけ温くなった缶ジュースに口をつけると、言葉を継ぐ。

「噂って、興味本位もあるけど、何より、根も葉もないことで、自分自身や相手を信じられなくなる方が悲しくなりませんか?時々不安にもなったりして……」

それは、エステル自身の告白だったかもしれない。噂というものは、水面に投げられた破片。それは、幾重にも円を描き漣を起こす。決して、ユーリを疑う訳でも信じられなくなっているわけでもない。ただ、漠然とした不安。

「そうね。あんなおっさん相手だと、不安だらけよ」
「レイヴン先生は、大人だから大丈夫です」

真摯な目が、リタを見つめている。確かに、言われてみればそうなのかもしれないと思う。

「先生、そういうのからリタを守りたいって思っているんじゃないんですか?今も」
「……そう、なのかな」

エステルの大人びた言葉に、リタは「うん。そうだよね」と、強い意思を持って頷いては、残りのジュースを飲み込んだ。少し気の抜けた炭酸は、甘ったるいだけのような気がしたが、今のあたしの気分なのかもねと密かに思った。恥ずかしい気持ちもまだ残っているが、どこか、安心した気持ちにふっと顔が緩む。

「……リタ、それで先生とは、キス以上のこと」

真剣な眼差しで聞いてくる親友に、やっぱり告げるべきではなかったと後悔するのだが、余りにもその真剣な眼差しが、おかしくて笑い出しそうになるのは、少しばかり余裕が生まれてきたのかとリタは思うしかなかった。

「え?ジュース、ありがと。もう、あたし行かないと」

駆け出していくリタに、エステルが「リタ」と叫んでいた声が聞こえたか、聞こえなかったのかは分からない。ただ、その後姿に、変わりつつある親友が少しでも幸せであるように、とエステルは願っていたかもしれない。そして、エステル自身のユーリを思う気持ちに、正直に向き合おうとする勇気のようなものが芽生え始めた瞬間だった。

リタは、そのまま物理教師がいるであろう教室に向かう。

「今日は遅かったね」

白衣姿の教師が振り返っては出迎えてくれた。

「おっさん、あたし、エステルに言ったから」
「何を?」
「こういう関係だからっていうこと」

白衣を掴んで、少し背伸びをしたリタは、そのままレイヴンに口付けた。ポカンとしたレイヴンに恥ずかしさよりも笑顔が浮かぶ。

「リタっち……」
「学校でこんなことするの、最初で最後だけど、ありがと。エステルに話してくれて」

夏の終わり、秋の始まり。
二人の少女の何かを変え、変わり始めた季節だったかもしれない。


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