HOME >>

TEXT

解けない魔法を教えてください





「あーあ。こんなに傷だらけになって」

頭上から声がした。聞き慣れた声。リタが見上げれば、へらへらとした顔があった。一番に見られたくない男が立っている。

「大丈夫よ。これぐらい」
「嬢ちゃんに言えばいいじゃない」
「エステルは、今、ユーリ診てるからそれどころじゃないわ。ユーリの方が怪我酷いわよ」
「青年もねえ。無茶、し過ぎなんだから」

鬱蒼とした森を抜ける途中、いきなり現れた魔物達との戦闘。大したレベルではなかったが、数が多すぎた。何とか退治した後、古木に凭れたまま、疲労感を浮かべたリタだったが、知らない内に大小様々な傷を負っていた。心配を掛けまいと少し離れた場所にいたというのに、その男、レイヴンは敏く、リタを見つけていた。

「じゃあ、おっさんが、リタっちに特別な魔法使ってあげる」
「いいわよ。あんたの世話になんてなりたくない」
「そんな強情言わないの、ほら、腕出して。せーの……」

それが夢だったと気が付かされた。目覚めると、もう丸ニ年ほど暮らしている部屋の光景が視界に映る。今日は、久しぶりに親友のエステル達と会っていたが、帝都での任務が忙しいエステルを気遣い早々に帰宅していた。そして、一向に返って来ない男を待ちくたびれて、ソファで転寝をしていたせいか節々が痛む。

それにしても、遅いなあ。おっさん。何時までユーリ達と飲んでるんだか。

時計を見つめて、帰って来ない男の顔を思い浮かべた。そして、先程の夢の中での出来ごとを思い出した。

軽薄な呪文。

あの頃は、そんな風に思っていたっけ。そんな軽く言う言葉じゃない、と。ただ、その言葉は、旅が終わると同時に言われなくなった。溜息を吐いて、リタは考えないように頭を振る。聞かせて欲しい言葉であることを否定するかのように。

おっさんの事だから、きっと、深酒して帰ってくるわよね。

そう思うと、台所に立っていた。


ダングレストの夜は曖昧なままに暮れてゆくだけに、一つ裏路地に入れば、また違う顔を見せる街だった。

顔馴染みに挨拶を交わしながら、レイヴンはその目的の店までの道すがら、暮れてゆく瞬間を楽しむかのように歩みを進めていた。のんびりと、ふわりと。そんな風に誰もが見えるだろう。見慣れた街角。多分、眼を閉じても歩けるぐらい慣れ親しんでいる。その花屋を曲がった先だったなと、目的地を考えながら、レイヴンは視界の隅にちらりと映ったそれに注意を払っていた。

また、後付いてくるのねえ。迷子かしら。まあ、迷子にしては随分図体のデカイ、人相の悪い迷子だけど、尾行するにしても下手くそ過ぎるわ。

この所、大抵はこうして後を付けられては、何をする訳でもない状態が続いていた。
まあ、こんなとこで騒ぎを起こすようなバカではなさそうだから放置しておくか、とレイヴンは気にも留めてない。


雑多な専門店が立ち並ぶ石畳の道を通り抜け、少し裏路地に入ると、その景色は一変する。猥雑さに活気が満ち溢れている。ここで商売をする者が多いとなれば、それを買い求めてくる客もいる訳で、そして、それら両方を糧にする者達もいる。そんな者たちが集まる店に三人の若者が入口に立つレイヴンにこっちだと手を上げた。

「ジュディスちゃん、来てないの?」

開口一番、レイヴンが口を尖らすのも仕方は無い。何が嬉しくて野郎相手に酒を飲まなければならいのか。

「エステルが女の子同士っていうから仕方ないだろ」

エステルに振られたユーリは面白くない口調。切っ掛けは、久しぶりにみんなに会いたいと言うお姫様、今は、副帝として忙しく生活を送るエステルがお忍びでやってくると言う所から始まった。と、なれば随行するのは、現帝国騎士団隊長のフレン。そして、凛々の明星に属するユーリにカロル。レイヴンにしてみれば、帝都を往復する生活で月に数度は顔を合わせる連中。今更どころか、数年は顔を会わせなくてもいいような間柄。しかも、酒が進む内に、お互いの本音も綻び始めていた。どうやら酒の肴は、レイヴンとその同居人、リタの話題になっている。

「おっさんもいい加減、覚悟決めろよ」
「そうだよ。二人で暮らして何年になるんだよ」

悪かったわね、と明後日の方向を向いては、ちびりと一杯。
レイヴンはどうにかこの窮地を乗り切ろうと考えるのだが、昔の仲間という気安さから、一回りも下の青年達から説教を喰らう、一応、まだ三十路の男ってどうなのよと悩む。

「帝国騎士団主席という方が、リタとはいえ若い女性と同棲したままっていうのも……」
「あら、フレンちゃん、リタとはいえって随分じゃない。それに同棲じゃないわよ。同居なの。リタっちがおっさんのこと心配だからって、皆知ってるじゃない」

リタのことは、聞きずてならないと身を乗り出した。

「そう思うんなら、さっさと責任取れ」とはユーリ。
「責任ってね……ちょっと、早々に自分がちょっと嬢ちゃんと上手くいってると思って先輩面しないでよ」
「もう、レイヴンってなんでそんなに純情中年なんだよ。僕ですら、きちんと告白したんだよ」
「はあ?ガキンチョ何時の間に」
「ガキンチョっていうけど、もう十五だよ。リタ幾つになったけ?」
「十七……来月で十八だけど……」
「じゃあ、何の問題があるんだよ。余裕で結婚も出来るわ。おっさんの年考えたら、さっさと仕込んだ方がいいだろ」
「仕込むって……そうは言ってもね。おっさんだって色々考えちゃうのよ。何にもないから、余計に」
「シュ……いえ、レイヴンさん。三年も同棲……あ、いえ。同居しておいて、何もない……って?え、まさか?」
「マジかよ」

三人の声が見事に重なった。

おっさん、今凄く口が滑ったわよね。と、思っても後悔後に立たず。
三人の視線が痛い。リタと同居とレイヴンは言い張っているのだが、それなりの年齢にして健全な男女が一つ屋根の下で行う共同生活を明確に説明しろと言われたら同棲という方が正しいだろう。当然、この青年らもそんな風に見ていた訳なのだが。そうでなくとも、レイヴンとリタの微妙な関係をこの三人を含め、エステルやジュディス、パティというここに居ない面々も案じている。

「うわーおっさん、三年間同棲していて手だしていないって、ドMだったとわなあ」
「同棲じゃないわよ。同居だって言ってるでしょ。それに、こんなとこで、おっさんの性癖言わないでよ。健全な少年も居るのよ」
「え……僕ですら」
「カロルちゃん、あんた、マジでドン引きしてんじゃないわよ。僕ですらって、何、あの娘と一線越えたの?あんなに純粋で可愛いかったのに。おっさん悲しい」
「今は、カロルの事言ってんじゃねーよ。おっさんの事だろ」
「……首席と言う方なら、やはり、結婚まで姫君の純潔を守り通すのですね」
「フレンちゃん、何頬染めてるのよ。姫君ってなによ。さっきは、リタとはいえなんて言ったのに。もうーいい、おっさん今日はぐでんぐでんになるまで飲むわよ」

哀れな中年は、そこからの記憶が無かった。

朝日が眩しいと思うが、実際は陽はもう頭上高く上っている。そして、頭や身体までもが重く、そして、強烈までに気分も悪い。目蓋を開けることすら、頭に響きそう。

「何時まで寝てんのよ。起きろ」

レイヴンが、「ぐえっ」と歪な声を出したのは、何やら重い物で脳天直撃を受けた為。

「リタっち、酷い……おっさん、繊細なのよ、これでもガラスの中年なんだから」
「酷くないわよ。何ふざけた事言ってんのよ」

分厚いハードカバーの本を片手に抱えた、同居人であるリタが、もう一度殴ればもっと目が覚めるわよと構えている。怒りをありありと浮かべた、レイヴンとよく似た目の色をした細く小柄な少女が、そこにいた。

ねえ、リタっち、おっさんなんか悪さした? 「ダーリン、お・き・て」なんて言ってくれなくてもいいけど、もう少し人間らしく扱ってよ。哀願するも、リタはお構いなく、冷やかに見下ろしたまま、両手を腰に当て仁王立ち。

「だいたい、ユーリ達に背負われて帰ってくるってどんだけ飲んだのよ。幾ら調子がいいって言っても限度があるのよ。あーもう。部屋まで酒臭いじゃない」
「……リタっち、お、お願い」

ドスンバタンと窓を開ける音やら扉を閉める音がいつもに増して早鐘のように響き渡る。その音、頭に響くからと言いかけて、胃の辺りから逆流する感覚。

「ご、ごめん」そういうのかが早いのか、ダッシュで走りだしたのは洗面所。
洗いざらいのものを吐き出してしまえば、今度は急激な頭痛が襲う。いくら心臓だけは、魔導器だと言っても、他の臓器までは、生身の物。

胃が痛い。

顔を洗い、見上げた先、鏡に映ったのは、酷く、憔悴したかのような男が映っていた。
醜態を晒すのも程があると、一人反省会。特別強いと言うほどでもないが、ここまで酩酊していたのも久しぶりだったろうか。

「おっさん、何時まで籠ってんのよ」

ドンドン扉を叩く音が更に響く。リタっちごめん。もう酒飲まないから許して、そんな風にレイヴンは思うしかない。


「はい。これ」

ベッドの中で病人のように死にかけているレイヴンに差し出されたのは、薬膳スープ。

「な、何これ?」
「エステルが二日酔いに効くって言ってたの」
「あ、ありがと」

変な物入ってないわよねと訝しむレイヴンだが、最近は、リタの料理の腕前もそれなりには上達している。これも、放置しておけば、食べない。腹が減ったと思えば悪食な食生活を心配して、教え込んだのもレイヴン、超本人。
最初は、焼けば炭、煮れば炭となんでも炭にしてしまうようなリタだったが、本来の努力家なところもあった上に、「料理は科学なのよ」というレイヴンの言葉に刺激されたようで交代制で食事を作るほどになっていた。

「別に変なものはいってないわよ」
「いや、そういうつもり……」
「顔に書いてあるわよ」

プイと顔をそむける当たり、照れているんだろうなあと、まだくらくらする頭でも思い浮かぶ。

「あ……美味いわ、これ」

湯気の向こうで、ほっとするリタの顔が見え、むかむかとしていた胃が優しく感じている。

「リタっち、腕上げたわねえ」
「別におっさんに誉められても嬉しくない」

そういう所は変わらない。素直に受け取らないのは、照れ隠し。

「いいの。はい、ありがとう」

空になった皿を指し出すと、リタは、受け取った。

「暫く、横になってなさいよ。どうせ、夜まで、それ以外は受け付けないでしょう」
「うん、そうするわ」

リタが部屋を出て行くと、レイヴンは再びシーツに包まるように横になった。

頭、痛いわ。

それは二日酔いのせいではない。あくまでも比喩的表現。考えないように、気が付かないようにと誤魔化してきた感情。それを昨夜は散々、甚振られては、耳に痛い言葉を投げつけられた。

あいつらは、簡単に言うけどねえ。二十歳よ。20よ。どう転んだって逆立ちしたって差は埋まらないんだから。そら、一回り差も珍しくは無いわよ。それが二十歳って。おっさんなんて、どうみたって犯罪じゃない。

「ほんと、情けねえわ。いい歳したおっさんが、このざまかよ」

口にしてしまえば、更に暗鬱な想いすら浮かんでこようというものだろう。それでなくとも、レイヴンを悩ます点がある。

どうみたって、あの娘(こ)は俺に好意を抱いている。

感情表現が下手なリタの想いを知らないレイヴンではない。むしろ、分かりやすいぐらいだろう。今日とてそうだ。さっきのスープとて早々に作ったものではない。多分、昨日の夜から煮込んだ物。不器用なりに一生懸命に作っているという味がした。そんな一途さを持つ彼女を振り回しているようで、いい加減に答えを出さなければと思うのだが、思うだけなら誰でもできる。

まだ、旅をしている時の気楽さが良かった。



『女の子なんだから、愛想笑いするだけで世界が変わるもんよ』

余り仲間の輪に加わらず、一人、距離を取っては大木の陰で本を読んでいるリタを見つけて言ったのは、まだ旅の最初の頃だったろうか。

仲間と呼べるのか微妙な関係。リタはレイヴンの事を一番に信用ならない、胡散臭いと警戒していた。内偵という役目を背負っていたレイヴンは、騎士団主席のシュヴァーンとして、そんなリタを注意深く、用心しながら観察していた。たかが小娘と侮れないのは、彼女が天才魔導士と言われて為。その辺にいる小娘とはわけが違う。

澄んだ探究心は、塵一つ見逃さない。

小さな疑問のピースを散らばせたままには出来ない。冴えた頭脳を持つ少女が、散らばったパズルを完成させないとも限らない。小さな綻びは時に牙城ですら崩れさせる。より深く誰にも気づかれないように、リタの言動を窺っている内に、それが彼女なりの処世術だと気が付かされた。

たった独りで生きてきた少女。

『あんたにそんな事言われる筋合いないわ。一人でいたら、傷つく事も裏切られる事もないもの』
『そう?リタっち、可愛い顔してるんだから、ちょいと笑うだけでいいのよ。ほら、にって笑っておっさんに見せてよ』
『か、可愛いってね』

確か、真っ赤になって、ああ、なんだ年相応の表情見せるんだと思ったのが運の尽きだったか。傷つくことも、裏切られる事なんて、たかが、十五歳の女の子がいうような台詞じゃないさ。

シーツに包まりながら、まだ幼さの残るリタを思い浮かべた。あの時は、同情心とはまた違う何かに明確な答えを出さずにいた。レイヴンという隠れ蓑も板についた生活の中で、それは次第に厄介な方向に向かって行く事になった。

十五、いや、後少しで十八の娘に懸想してるなんて、知られたらおっさん恥ずかし過ぎてし死んじゃうわ。

そうは思うのだが、周囲にはとっくにばれている。




翌朝、レイヴンはエステルに会って来るからおっさんは付いてくるなと出掛けていったリタを見送り、暇を潰すのにも飽きたとばかりに街中をウロウロと宛てもなくさ迷っていた。顔馴染みの多いこのダングレストの街でレイヴンとしての顔を知らないものは居ない。どこかで誰かに声を掛けられるなど、日常茶飯事。
そして、昨日と同じようにレイヴンの物ではない陰が付き纏っていることも知っている。

「あら、レイヴン、元気そうじゃない。最近顔見ないわねえ」

路地裏に入り込んだ途端、声を掛けてきたのは四十前後の恰幅のいい女性。誰だったかと思い出すでもなく、ここ、最近はずっと顔を出していなかった飲み屋の女将。

「あら、姐さん、おひさ。全く、どこの絶世の美女かと思ったわよ」
「ほんと、口が巧いのは相変わらずだけど、ねえ。今、ちょっといい?」

目配せをして、こっちに来いという合図。この街で生活する者なら、話の内容次第では何処で誰が聞かれることすらも、命取りになると十分に知っている。レイヴンもそんな女将の様子に単なる挨拶ではないと悟った。女将はしどけない姿で近寄る振りをしてレイヴンの耳元で囁く。

「気が付いてると思うんだけど、あんたの事探ってる連中がいるわよ。一応のご忠告」
「俺の事?」
「そうよ。あれは、この辺の連中じゃないわ。まあ、あんたも恨みの一つや二つ買ってもおかしくない人間なんだから、注意はしておいて損は無いんじゃない?しかも、若い嫁さん連れて帰ってきてんでしょう?」
「若い嫁さんって……同居人だよ。ああ、ええと、親戚の子。親が居ないから俺が当分、面倒見る事になってんの」
「下手な嘘付いたって、皆、言ってんだから」

そんなに噂になってんの。一応は、親類の娘だからと周囲には説明していた筈なんだが、やっぱり、そうよねえ。ユーリ達の反応が世間一般なのかと思うしかない。

「まあ、世間話はいいわ。とにかく、あんたの存在を良く思ってないのもいるから」

この街で長年、荒くれ者を相手にしてる女性だからこその感なのだろう。レイヴンは「近い内に顔出すよ」と、礼をいうとまたふらりと歩きだした。

女将の言う事は随分前から気が付いていた。それは、昨日今日の事では無かった。

騎士団との二重生活。フレンの相談役として帝都に向かう事が増えた辺りから、身辺がきな臭く、疑わしげに思う連中の存在は知っていたと言うよりも覚悟していた事。魔導器が消滅した今、帝都、特に貴族とギルドを含めた平民達の対立も一部では激しくなっている。それに対して、レイヴンを快く思っていない連中が帝都に媚びを売る犬と揶揄していたことも。ただ、その辺はハリー辺りが上手く睨みを効かしてくれていた。あくまでも表向きは、天を射る矢、ユニオン幹部としてのレイヴン、そして、暗躍するのはシュヴァーン・オルトレイン騎士団隊長主席が全て。

何故、そんな二重生活を選んだのか。堕落しきり腐敗した帝都内部をエステルとフレンが立て直そうと必死になっている。ユーリ達もそれは同じだった。内と外から、若者達は、自分達が失くした世界を、取り戻そうとしている。贖罪なんていう健気な意思はないが、そんな若者達の必死さや、自分自身も少なくとも、この世界を変えたという無自覚な責任感からだったのか。そして、その世界を別の所からも守ろうとしているリタの無垢な健気さが、混じり合っては、生来、この男が持っていた生真面目な性分を突き動かしたのかもしれない。
レイヴンもそれは気が付いていた。
昔、青臭さだけが取り柄だったような男がそれを選んだことも。
ふと、まだこれから何も知らないままの頃だった、若い男の顔が浮かんだ。レイヴンでもシュヴァーンでもない、自分。そんな過去に苛立ちを覚える。



もういい加減、遊ばせておくにも飽きたわよね。

「ねえ、そこの僕。誰のお使い?道に迷ったの?」

ふらりふらりと歩いては、袋小路に差し掛かった。もう行き先はここで終わり。大きな城壁が立ちはだかる。人通りから離れた薄暗い路地裏。周辺に人気などない。女将が目配せをした時。多分、彼女も気が付いていたのだろう。気味が悪いわねと。
暇潰しがてらに誘い込んでみれば、案の定、引っ掛かってきた。まるで、それは、見えない蜘蛛の糸に雁字搦めになった虫のようだろう。この男を相手にするのであれば、余りにも幼稚な尾行だった。

「おっさん、今、暇してるから相手してあげてもいいわよ」

何気なく、ほんの気負いも見せずに振り返った時、その迷子のお使いは、脱兎の如く駆け出していく。ただ、それよりもレイヴンの動きの方が早かった。護身用に持ち歩いている、小刀を瞬時に投げつけては、その足を止めた。右足、臀部の辺りに小刀は突き刺さり、急所は外した。歩けなくだけさせればいい。

「ねえ。おっさん、誰かに恨み買ってる?」

足に突き刺さっている小刀を一度深く差しこんでから、抜くと鮮やかな赤い色が浮かび上がってきている。苦痛に歪んだ顔がレイヴンを見ているが、それは恐怖を浮かべているだけ。足でその迷子を転がすと、痛みに耐えかねたような悲鳴が上がる。急所は外してるんだから、死にはしないわよと素っ気なく言うレイヴンに普段のふざけた男の影はない。

「さあ、早く言った方がいいわよ。それとも、そんな趣味でもあるのかしら」

鮮血が浮かび上がった方の足を踏むと、うめき声があがる。年の頃は、二十歳過ぎぐらいだろうか。昨日からの男とは違う。服装は、この街でもよく見かける商人風の若者だが、鍛え上げた体躯、仕留められたとはいえ、咄嗟の判断で機敏な動きを見せる辺り、一般人ではないと瞬時に判断させられる。顔を見た記憶がないと思ったのだが、いや、まてとレイヴンは記憶の根底から探り出した。

「おまえさん、フレンの……」

どこかで見た顔だと思えば、確かフレンの直属の若い騎士の一人だった。以前、帝都のフレンがいる執務室でその顔を見た記憶が蘇る。

「悪いことしたわね。ほら、立ちあがって」

簡単な治癒術でその傷を治すと、若い騎士は真っ青な顔をしていた。茫然自失という言葉がそっくりそのまま当てはまるように虚脱している。

「ごめんねえ。フレンちゃんの知り合いなら、きちんと声掛けてくれたら良かったのに。手荒い歓迎しちゃったわね」

口調はレイヴンなのだが、その瞳孔は別の男が潜んでいる。

「ねえ。口きけないの?」
「……い、いえ」

完全に怯えた目をした青年は、上手く喋れないのだろう。ガチガチと噛みあわない歯の音が聞こえる程。

「フレンちゃんの差し金かしら?あの子も可愛い顔して見かけによらわないわねえ」

ぶんぶんと首を振って、否定する様子は肯定しているようなものだろう。

「まあ、いいわ。帰って伝えておいて。おっさんに用があるなら何時でも呼んでねって」

掴んでいた手を放すと、腰が抜けたのか若い騎士は、その場にへたりこんでいた。レイヴンはそんな男に興味を失ったとばかりに、紫色の羽織を翻し、雑踏の中に消えて行った。


エステルに会うからと言っていた為に遅くなるかと思っていたが、リタは意外にも早く帰ってきていたようだった。

「なんだ、もっと遅くなるかと思ったわよ」
「明日の昼には、帰りつかないといけない用事があるみたいだったから。今日は、本当に顔、見せただけよ」
「まあ、嬢ちゃんも忙しい身だからねえ。じゃあ、フレンちゃんらも帰った訳か」
「何か用でもあったの?」
「いや、別にないわよ。昨日、散々甚振ってくれたんだから当分、あいつらの顔は見たくないわ」

こればかりは本音。ため息混じりに愚痴。

「おっさんが悪いんじゃない。あんな泥酔するまで飲むんだから」

咎めながらも、ふっと笑ってはリタは「今日はあたしが夕食作る番だから、おっさんはその辺で休んでなさいよ」と言った。

ソファに座っては、台所でこまごまと動いているリタを見つめた。
先毎の出来事からすれば、雲泥の差があるような光景だろう。そして、思うのは、フレンがどうやら身辺を嗅ぎまわっているという事実。レイヴンではなく、シュヴァーンとして、フレンがなにかとレイヴンを頼ってくる事が多いだけに、ある意味、予想外の事で驚きを隠せないのは事実。

誰がフレンを、騎士団を動かしてんのかねえ。

フレンの裏切りなんぞ、とは思わない。欺くというのであれば、レイヴンの方が随分上手い筈。それこそ、裏切りなんていう言葉では片付けられないことをレイヴンは十年以上にも及んで生活していた。いわば、計略と策略が生活の一部、強いては、彼の一部になっている。そんな事で痛みを覚えるような感情は、既に捨て去った。

それよりも、女将の言葉を思い出すでもなく、リタにその危害が及ぶ事の方が心配である。

「ねえ、リタっち」

「何?」と返事がした。

「あのさ。おっさん、留守の間、気をつけてね。この辺、最近物騒らしいから」
「なに?いきなり」
「いや、さっき外でそういう話、小耳に挟んだだけだから。若い可愛い女の子が一人でいるなんて、もうおっさん心配だわ」
「うっさい。可愛い言うな。どうせ、誰にでも言ってんだから」

ああ、また可愛いに反応して、と。レイヴンは笑ってみせたが、それが杞憂でない事を願う。


「……そういう訳でさ。俺がいない間、ちょいとうちの周辺見張っててくれない?何か向こうさんも考えがあっての事なのか分からないんだけど」

ギルドの本部にレイヴンはいた。最近は、亡き祖父に似てきたというハリーに昨日の出来事を伝えていた。事がレイヴンだけで済む話ではない可能性もある。「分かった」とだけハリーは言ったが、何か言いあぐねいた様子でレイヴンを見た。

「いや、俺も帝都の中枢部が動いてるとは俄かに信じられないんだが」
「どういうことよ」
「他のギルドから入った連絡だと、どうも、依頼人がいるらしい。それで内密に動いていると。それに、本来、そんな役目はおまえだっただろう?」
「まあ、それだからね。不思議なんだけど、依頼人か……」
「騎士団の下っ端が、お前の随分昔のことを調べていたというのを、若いのが小耳に挟んでいるんだ」

レイヴンが珍しく口籠った程に不思議に思うのは無理もない。帝都の、騎士団に指示を出し扱える人間など早々には居ない。それこそ、エステルのような皇族という立場、最高位に近い人間でしかない。もしくは、それに近いのは評議会の人間。ただし、こちらもフレン直轄で動くことは無い。動くにしても、皇族と議会、両方の認証がいる。

まさか、嬢ちゃんがと思うも、エルテル自身には、過去において全て話しをしている。それこそ、彼女自身が、許すと言った以上、レイヴンを今更、内偵させるような利益がどこにあるのかと。そして、ハリーが言ったように騎士団の裏の顔。負の部分を背負っていたのは、レイヴンでありシュヴァーンだった。

「俺様、何もしてないわよ」

「本当かよ」とハリー。本当に本当だからとレイヴンは言ってみたが、心当たりが多過ぎて困惑するしかなかった。

数日後、レイヴンは帝都に向かうからと言い残して、旅立って行った。帰ってくるのは、二週間後程になるから、それまで用心してねとリタに言い聞かせるようだった。そして、リタもまた気が付いていた。レイヴンが常にはなく強くリタの身を案じ確認するような口調。その翌日から顔見知りのギルドの人間が周辺を窺っている。実験は失敗ね。と、落胆の息を漏らす。

町外れの小高い丘。周囲には誰も居ない筈だったが、二つの影があった。

「やっぱり気が付いてたのね」

鳶色の髪をした小柄な少女の前には、柔らかな物腰をした金髪の青年が立っていた。

「深追いはするなって言っていたんだけど、向こうに引き摺りこまれてたよ」
「それぐらい、あの男なら朝飯前よ」
「そうだね……後、これが全ての書類。大したことは書いてないよ」

少女に手渡されたのは、あまり厚みのない書類が入った封書。それを受け取りながら、封書に入った書類をちらりと見ていた。

「若い人に任せたのが失敗だったのよ。あのおっさんがそんな不慣れな人に騙される分けないでしょう?」
「そうは言っても、これは個人的なお願いっていうから、僕にだってそこまで自由に出来る権限はないよ。彼の部下を使う訳にもいかないし」
「……その割には、興味あるから喰いついてきたのはあんたの方だったけど」

「うん、まあね」と、その少女はリタと青年はフレンであった。

「それで、シュヴァーン殿を真の辺りにして、恐怖なんていうもんじゃないって言ってた。まるで、地獄から這いあがってきた死神のような眼をしていた。あんな眼をした人間なんていないとまで言い切っていたよ。それでいて、完全なまでに無駄のない動きで仕留める姿などは、やっぱりシュヴァーン殿にはぜひ帝国騎士団団長として復帰していただきたい」

拳を握りしてめて力説するフレンにリタは、ああ、またフレンの病気が出たとため息を吐くしかない。レイヴンではなくシュヴァーンを崇拝するこの男の悪い癖というよりも、持ち前の天然具合からいえば、ある意味、憧れもあるのだろうが、あんな男のどこがいいんだか。

「これ以上、突っ込むとこっちが藪蛇になるわ。もういいわ。調査は、これで終わりね。今まで、ありがとう。その怪我した人に謝っておいて、悪いことしたって」

リタはそれだけ言い残すと、街に戻る為に帰って行った。そんな小さな背をフレンは、暫く眺めていたが、やがて彼もまた自分が住む場所へと帰って行った。



そして、我が家というべきなのかもう三年も暮らしている家にたどり着いた頃、リタはため息を吐いた。

暮らし始めた頃は、まだ良かった。旅の延長のような生活。

変わったといえば、リタは、魔導器に代わる精霊研究に没頭する毎日。レイヴンは、政治的な背景からシュヴァーンとして帝都では生き、このダングレストの街ではレイヴンとして生きることを選んだ。それを一番上手く利用したのは、超本人であるレイヴン自身。

そんな生活に狂いを見せ始めたのは何時の頃からだろう。

レイヴンの心臓を代行している魔導器が二人を繋げる理由であることは重々に理解していた。ただ、リタ自身、本来なら帝都で研究所預かりのまま、生活すれば良かった。周囲も当然、そうするだろうと思っていた。旅の終わり、リタは、レイヴンと暮らすことを選んだ。

『おっさんの面倒見なきゃ誰が見るのよ。どうせ、あんたの事だから絶対に約束なんて守る気ないでしょう?そのまま野垂れ死なんて、あたしが許さないんだから』

別れの時、周囲にユーリ達がいるのもお構いなく叫んだのは、狡猾な男の逃げ道を塞ぐ為。リタ自身、好きという感情が仲間としてなのか、それとも、また、違った別物なのかも分からず、曖昧なまま、レイヴンという男、心臓という唯一の魔導器、それを天秤にかける訳ではなかったが、両方が大切になっていた気持ちを確認したかった。

あの時は、まだ、曖昧すぎたのよ。でも、覚悟なんてとっくに決めてたわよ。

そして、お互いに意識しながら暮らし始めて、丸二年の月日が流れ、やがて三年目を迎えようかとしている。その時間の中で、リタには、新たな疑問がわき上がっていた。レイヴンの中に潜んでいる誰かがいる、と。それがシュヴァーンなら身体が忘れようとしても忘れらない痛みとなって刻み込まれている。もっと奥底に潜んでいる、誰かがレイヴンの中にはもう一人、三人目がいる。

それに気が付いたのは、ふとリタを見つめる眼差しであったり、遠くを見るほんの一瞬だけ浮かび上がってきては消えるような男だった。どこか頼りなさげで、不安めいた眼差しを浮かべた男。それを、明確な言葉として記すなら難しいだろう。第六感と言うべきなのか、もっと、あの男を知りたいと思わせる心なのか。そして、それに気付いて欲しいと言っている男が見せているか。どれもこれもが曖昧で混沌としていた。

言いたくないのなら、言わなくてもいい。

尋ねたところで、正直にあの男が口を割るとも思えない。むしろ、問い詰めたところで、はぐらかされては、逃げ切られてしまう。それならば、とことんつきとめてやろうじゃないと腹を括ったのは、疑問に対して必ず真実を突き止めるという持ち前の性格からだったろう。ただ、余りにもそれは漠然としていた。大海の一滴のように、果てしない疑問の山が横たわり、それを繙く作業。

リタ自身、この時点で気がついてはいなかった。もっと心の奥底で潜む恋ではない嫉妬や独占欲と言うべきものが、リタを動かしていたと。

シュヴァーンの過去はレイヴンから聞かされていた。ただ、どうしても、それだけではないと薄々感じていたのは、リタ以外にもいた。それがフレンだった。

「シュヴァーンが人魔戦争以前、騎士団にいた記録はない」と、知らされたのは一年ほど前。それ以前の記録がすべて抹消されている事実にフレンも疑念を抱いたのだろう。フレンもそうだが平民出身といえど、騎士団には皇族や評議会、貴族を守る警護任務もある。そんな所に身元の怪しい人間が出入りを出来る訳でもなく、本人の過去だけでなく、家族までに至る身辺調査をするのは内密とはいえ当然の事。そして、その記録を見る事が出来るのは、極々限られた人間。シュヴァーンとしての過去を知る人間はいても、それ以前の過去を知る人間は皆無。フレンがいうには、アレクセイが秘密裏に処分したとしても、何かしらの欠片は残っている筈だと。完全にそれまでの気配、言いかえれば人一人の人生を消す事など誰にでもできる訳ではない。ただ、それすらも失われていることは、最初から存在しなかったのではないかと。それは、シュヴァーンがこの世に存在していない事になる。

おっさんは誰なの?何者なの?

フレンから聞かされた事実にリタは何とも言いようがない侘しさを感じた。まだ、あの男はどこかで死に場所を探しているんじゃないのだろうか。生き急ぐような二重生活。本当の自分を隠したままで、と。

そして、リタはある日、閃いた。

そうよ。シュヴァーン本人を探すからいつもどこかで立ち止まりになるんだわ。シュヴァーンに関わる人間を調べたら辿りつく可能性がある。

そう思い出すのは、キャナリ。

レイヴンの口から告げられた女性の名前。今はもう居ない。一度だけ、その話を聞かされた時、遥か彼方を見つめた眼差しに、リタは掛ける言葉すらなく、ただ、レイヴンではない男イコールシュヴァーンだと思って聞いていた。
ただ、キャナリと言う女性を突き止めるのもそれ相応の時間が掛かった。10年以上も前の話。しかも、彼女の出自だという街は戦争で壊滅し、そこに住んでいた人達も居なくなっている。住む人が居なくなる街は、結局、街の記憶すらも失われる。

キャナリもまた、偽名ではないだろうかと思い始めた時、ある由緒正しい貴族の出である事が判明した。ただ、その家族も一族も散りじりになり、唯一、彼女が生前親交のあった女性が帝都近くの村に住んでいるという事が分かった。それは、キャナリの幼馴染という女性だった。彼女が何らかの理由から家を飛び出した後も僅かではあるが付き合いは続いていたらしい。そこで、二人の男性が仲間として、片方は恋人、もう片方は親友として存在していると手紙に記されていたのが最後だった、と。その片方、親友というのはレイヴンだとリタは直感した。だが、そこまでしか手紙には記されていなかった。手紙は、キャナリの死を持って終焉を迎えていた。

そこからがまた壁がぶつかったまま半年が過ぎようとしていた。

レイヴンを監視するような真似をしたのも、そんな焦りからだったのだろうか。そして、そこでヘマをやらかしてしまっては、もうレイヴンが気が付いてもおかしくは無いと、諦めかけていた。いや、レイヴンの事だ。とっくにこちらが焦りを見せ始めた頃から気が付いていたのではないか。一か八か、リタがそう思いながら、レイヴンの帰りを待つ身となっては、どうしようもない想いを抱えていた。そして、そんなレイヴンに苛立ちを覚えるようになっていた。

億劫なことは後回しにするクセのあるずるい男。それなら、あたしが、その答えを導き出してやるわ。



柔らかな日差しが射す室内。執務室と呼ばれる部屋に二人の男が迎え合わせに座っていた。重厚な威厳溢れる室内とでもいうのか、記章旗が掲げられ、所狭しと置かれた書物が壁一面を覆っている。

「ね、フレンちゃん、おっさんにお話あるでしょ?」

紫紺の羽織、黒っぽい上下にぼさぼさの髪を結えているレイヴンが居る筈なのだが、フレンの前にはシュヴァーンがいた。金色の髪をした青年は、にこやかな笑顔を湛え、黒い男は、そのまとわりつく陰を笑みに変えている。余りにも対照的な二人に、その場にいた者がいたとすれば、この張り詰めた空気に恐れしか抱かないだろう。

「ばれますよね?」
「うん。ばれてる。おっさん、何か、フレンちゃんのご機嫌損ねたかしら?」
「いいえ」

淡々とそう答えるフレンもなかなかの喰わせ者になってきたじゃないとレイヴンは思い始めた。仲間内からは、天然系と言われるフレンだが、その器量は若いながらにもレイヴンも認めている。だが、そんな彼がレイヴンを探っていることに痛みを感じてはいない。この青年よりも、もっと深層の淵を見てきたレイヴンからしてみれば、その背後に蠢く者がいるなら、フレンすらも──と考えていた。結局、シュヴァーンという男が生きている限り、こんな世界からは抜け出せないかとレイヴンは思っていた。

「そうね。騎士団団長なんていう立場がそう口を簡単に割られても困るもの」
「聞きたいですか?」
「取り引き?」
「いえ。彼女に真実を伝えてあげて下さい。これは、仲間として親友としてのお願いです」

そう言い切ると、フレンは立ちあがって深く頭を下げた。

「ちょ、ちょっと待ってよ。フレンちゃん、あんた団長なのよ。そんな頭下げないで。それに彼女って?」

フレンの口から告げられた名にレイヴンは、言葉を失っていた。

帝都に隠し持っていた部屋に着くと、レイブンは粗末なベッドに寝転んだ。
薄汚れた天井を見上げる。まさか、というのがレイヴンの考えだった。この一年ほど、身辺が何やら騒がしいと思っていたが、直接手を出してくるでもないことに、放置していたというより、泳がしていたのが正解だった。こちらが動く事で事態が悪い方向に進むしかないことも往々にしてある。それなら、相手を焦らすだけ焦らして、出てきた所で誘い出せばいいと思った結果がこれだった。

事はレイヴンの思惑通りだった。ただ、フレンの口から聞かされた名前は青天の霹靂とでもいうような人物。

もう、いいや。明日は早く発って、その理由を聞けばいいじゃない。彼女がどんな想いから調べていたのか。多分、それによっては、今後の二人の運命も左右されようとも、それは、自分が彼女を曖昧なまま手元に留めている、ずるさの代償だったからなのだと。


「ただいまーリタっち」

見慣れた我が家にたどり着いたのはそれから二日後のこと。

「相変わらずだねえ。ほんと」

リタといえば、昼夜関係なく研究に没頭する生活だったのだろう。確か、俺が出て行く時は、綺麗にしてた筈なんだけどなあと思ったのだが。さすがに食べ掛けの物や腐った物はないようだが、床には殴り書きの書類が散乱し、あちこちに積まれた本が行く手を阻んでいる。そして、リタといえば、その一角で無防備な寝姿を曝け出している。

また、可愛い寝顔浮かべちゃって。

床にそのまま本を枕にしたまま、毛布を被り眠り込んでいる。 その毛布をレイヴンは、ああ、と声にならない声を出した。自分の部屋にある毛布。多分、自室から学術書を取りだした時にでも一緒に拝借したのだろうが、それでも、彼女にこんな行為を無意識ながらにさせてしまう事に心が少し痛んだ。偽物の心ではあるが。

「リタっち、帰ってきたわよ」

小さく肩を揺すると、「んー」というまだ覚醒していない声が漏れた。

「あ……おっさん、おかえり」
「ただいまって、言いたいけど、何よこれ。おっさん、出掛ける前にあんなに綺麗にしてたのに」
「もう煩いわよ。あたし、眠いんだから寝かせて」
「寝かせてってねえ。こんなとこで寝ると風邪引くわよ。ほら、部屋行きなさいよ」

ぎゃあぎゃあと喚くレイヴンにうるさいとばかりに毛布を頭からかぶろうとしたリタだったが、「あっ」と思い出したらしい。

「おっさん脱いで。忘れるとこだったじゃない」

「脱いで」ってその言い方、年頃の女の子が言うような言葉じゃないわよ。

ぼうと音がしたと思えば、二人の間に光が浮かび上がる。リタと言えば、完全に目を覚ましたようで、とび跳ねた髪すらも気にならない様子だった。心臓魔導器を前にして何やらぶつぶつと呟いては、その辺に散らばった紙に書き写している。

こんな光景も既にニ年が過ぎ去り、明日には三年目。そして、リタは十八になる。

すっかり少女から女に変わったとは言い切れない。化粧っ気もなく、白いままの素肌は余り外に出ないリタを幼くさせる。浮かび上がる光越しに見る、その大きな瞳も出会った頃から何一つ変わっていないようにも見えた。

「はい。無理してなかったみたいね。数値、安定してるわ」

ほっとした表情を浮かび上がらせたリタを見て、レイヴンはいつも理解しながらも疑問にも思う。この安堵した表情は、魔導器に向けられている物なのか、それともレイヴン自身に向けられているものか。いや、その両方だろう。そして、男の目など気にしない姿にも、それだけ気を許している証拠。
問うてみたいことは明確な答えとして返ってくるのに、その勇気がない。

「リタっち、明日、誕生日よね。なんか欲しいものある?忙しくて買う時間もなかったから悪いんだけど」
「いきなり言い出すかと思えば、そうね……」

リタは考え込んでいた。去年までなら、何も要らないと素っ気なく返答され、散々悩まされていたというのに、今年はどうした事だろうとレイヴンが訝し気に思った。

「後で話すわ」
「うーん、じゃあ、明日にでも買いに行く?おっさん、暫くゆっくりできるから」
「そうね……買えるものじゃないけど」

ん?と首をかしげたレイヴンにリタは、少しだけレイヴンが見た事のない笑みを浮かべた。少女というのには、艶やかさがほんのりと彩っていた。


「おっさん、まだ起きてたの?」

リタは一通りの実験結果の報告書をまとめ終え、久々に自室のベッドで眠ろうかと思い、二階にある寝室に向かう途中、レイヴンの自室前から零れる灯りに気が付いた。

「ああ、うん。ちょいと調べごと」
「ふうん」
「そういや、さっき後で話すっていってたこと、今、聞かせてよ」

机に向かっていたレイヴンは身体をリタの方に向けている。レイヴンの表情は飄々とした印象を受けたが、その目の奥に、あいつがいるとリタは思った。あいつとはシュヴァーン。リタが最も畏怖する人物。時折、こうして、レイヴンの側面というのか、シュヴァーンが見え隠れする時、リタは息苦しさを覚えていた。もうとっくの昔に治っている傷跡が疼くような感覚。ヒリヒリとした焦燥感を持ってリタを動けなくさせる。

やっぱり、お見通しだったのね。所詮、あたしみたいな子供騙しが通用する相手じゃないわよね。

落胆をため息に替えて、リタはレイヴンの部屋に入ると、ベッドの脇にあるスチールに腰を下ろした。

「ねえ、リタっち、おっさんに隠し事してるでしょ?」

レイヴンが腕を伸ばせば、触れられるほどの距離で二人は見つめあった。
単刀直入で聞いてくるのね。リタは、些か、呆気にとられた。いや、全て知っているからこそなのだろうとも考えた。レイヴンであれば、回りくどい言い回しをするだろうけど、この目の前に居るシュヴァーンなら、事実だけを告げてくるだろうと。

「そうね。隠し事してたわ」
「……どういうつもりであんな事してたの?」

不穏な眼。ランプの灯りでその陰鬱な眼は、さらにギラギラとしているようにも見えた。怒らないの?とリタは思うが、それ以上に、以前から燻っていた疑問を好奇心が勝った。

「ね、おっさんは誰なの?」

唐突なリタの言葉にレイヴンは、驚くでもなく、怪訝な顔をした。

「やだなあ。おっさんはおっさんじゃない」
「おっさん、ううん、レイヴン……シュヴァーンでもいいわ。あんた、本当はもう一人隠してない?」
「どういう意味よ、それ」
「あんたの中にもう一人、三人目がいるっていうこと」

レイヴンは沈黙を選んだ。それは、自白したようなもの。敏いリタに隠しようもない。それでなくても、彼女は学者気質とでも言うべきものか、疑念に対してはとことん追求してくる。 だから、フレンまで巻き込んで調べていたのは、自分自身の過去。もう遥か昔に封印した筈だった。シュヴァーンとして生き返った時、そいつは死んでいた。そして、生まれた家やおぼろげながらに浮かんだ両親。まだ、若かった頃の親友や恋人と呼んでいたような関係の女。そんな、過去がやたらとちらつく。まるで亡霊のように。

そして、そんな頃を思い出させる張本人は、リタだった。

あの頃の俺と同じ歳になるんだもんね。明日。
全てを失った頃に諦めを覚え、生きるのではなく生かされているような過去の男とは全く違う。子供だと思っていたのに、裏をかいて、気付かれずにやらかす度胸も大したもんだとは思う。やはり、旅の最初の頃にリタについての勘は正解だった。

レイヴンがそう一人ごちるのも仕方ないだろう。目の前にいるリタといえば、感情の起伏が激しい、勝気な大きな瞳はレイヴンを捉えて離さない。
旅の中で見た、哀しげな感情を隠しながらも、生きる事を諦めない強い瞳が居る。
結えている髪をはらりと下ろす。それは、完全にシュヴァーンとしてリタの前に姿を現した。

「何故そう思った?」

リタの頬に触れた指は、その輪郭をなぞり、首元まで落ちる。男の指先がリタの細い首に触れていた。その仕草は、そのままリタの首など絞めてしまいそうにも思えた。そして、リタは、シュヴァーンの視線から逃げるでも怯えるでもなく、強い意志を持って見つめ返してくる。

「それは、分からないわ。ただ、あんたはそれに気が付いて欲しいって言ってる」
「……分からないから知りたい?」
「そうね。疑いを持ったままなんてあたしに似合わないの、あんたが一番良く知ってるじゃない」

リタは、その内に秘めた激情を抑えるように、淡々と、それこそ実験結果を述べるような言い方をしていた。あまりにも抽象的なやり取りに、レイヴン、いや、シュヴァーンは薄い笑みを零す。首に触れていた手を放す。まだ年端も行かない、この少女と形容される姿をした女に全てを許したいと思わせる。

「……あんたが言いたくないのならいいわ。そうね。でも、初めから聞けば良かったのよ。あんたを調べ回っても、結局、分からない」
「やはり、そうだったか」
「フレンから聞いたの?」
「ああ、フレンが言ったよ。『真実を伝えてくれ。仲間として友達として頼む』と」
「フレンは純粋な好奇心よ。あんた……シュヴァーンの過去が知りたいっていう」
「君は、どうして、何故?知りたい?」
「それは、さっきも言ったわ。あんた自身が言ってるでしょう?」

やはり徒労に終わろうかという挫折感を浮かべたリタが呟いた。リタとて、言いたくないのであれば、無理強いをしてまで聞きたいとは思っていなかった。その奥底に潜む扉を抉じ開けた所で、この男が言うことが全て真実だったという例がない。それほどまでに人を欺くことには掛けては長けている。

「いや、聞いて欲しい。ん、そうだね。聞いてちょうだい。リタっち」

レイヴンは、立ちあがってリタを見つめた。シュヴァーンからレイヴンという男を浮かびあがせ、リタは、その見慣れた表情に身体ごと引き寄せられる。

「……ダミュロン……ダミュロン・アトマイス」
「それが、本当の名前?」

「ああ」と、乾いた声がした。

「本当の、真実の名前っていうの割には、あっさり白状するのね。あたしがどんなに苦労してもその名前にはたどり着けなかったわ」

リタはまだ疑惑を浮かべたていた。それは、仕方ない事だろう。完全に信用していないという方がある意味彼女らしい。

「ほんと、だよ。おっさんが親から与えられた名前。少なくとも、この名前の男は生きていたよ」
「今も生きてるじゃない、こうして」

ゆっくりと深呼吸をして、リタはレイヴンを見つめる。

おっさん、泣いてるの?

そう問いかけたい程に苦悶に歪む顔を見たのは初めてだったのかもしれない。それと同時に、こんな顔するのね、と安堵した。

「ダミュロンがおっさんなら、レイヴンもシュヴァーンも、おっさん」

リタは目を伏せて、もう一度、見開くと何かを決意したような表情を浮かべ、レイヴンの顔をしなやかで細い白い指が優しく包み込んだ。

「あたしにとって、おっさんがダミュロンだろうが、なんだろうが、今、この目の前にいるしょぼくれたおっさん以外、何者でもないわ」
「しょぼくれたって……おっさんが傷つくような、酷いこというねえ」
「本当の事じゃない」

きっぱりと言い切れば、笑顔を浮かべる。一点の曇りもない笑顔。真実に触れて、リタが答えを見出した時に浮かべる笑顔だった。純粋で、綺麗な。レイヴンが一番に大切にしたいと思った笑顔。

「あたしが大切なのは、この子と誰でもないおっさんなのよ」

魔導器が埋め込まれた当たりにリタは頬を寄せて触れた。柔らかく、その鼓動を確認するかのような仕草だった。

ああ、生きてる。おっさんはこの子と生きている。

静かに目を閉じて、その鼓動を確認しているリタをレイヴンは見つめた。しなやかでするりとした猫のような仕草で纏わりつくリタを見つめては、彼女を追い込んだ理由が分かったような気がした。単に好奇心なんていうものではない。それは──彼女は、俺の事を愛しているから。俺の過去を全て知りたいと思うほどに。

仲間として、また、恋に焦がれる少女時期特有の好きという感情とはまた違う、深い場所で燻っている感情がリタを突き動かした。だからこそ、この曖昧な関係に終止符を打ちたかったのだろう。レイヴンが口を割らないのであるなら、自分が調べるだけ。それで結果がどうであろうが。彼女に抱かせた寂しさ。そして、気付いて欲しいと願っていたダミュロンの存在が、彼女を動かす引き金になった。それを頭の片隅で分かりながら放置していた。それこそ、ダミュロンの名を封じたように。

覚悟、しなきゃね。やっぱり。

わき立つ気持ちを抑えながら、レイヴンは静かにリタをベッドに座らせ、その前にレイヴンは腰を下ろして胡坐をかいた。

「リタっち、一度、話ししておいた方がいいよね」

解いた髪をもう一度結い直すと、レイヴンはリタを見つめる。

「何を?」
「俺たちの関係」
「そうね。でも、おっさんはあたしの気持ち知ってるわよね」
「……うん、そうだね」

リタは、格別、動揺するでもなく、淡々と静かに落ち着き払った様子だった。

「どうしたのよ。おっさんの癖に驚いた顔して」

そんなリタは、驚きをかくせないレイヴンを面白そうに見つめている。

「いや、随分、冷静なんだなって思って」
「あの日に決めてたの。ただ、最初はね。おっさんが好きなのか、それとも、好奇心だけでこの子と一緒にいるのかって悩んだわ。でも、おっさんとこの子が同じなら、あたしは、おっさんが好きなんだって気が付いたの」

リタが言ったあの日とは、レイヴンが再び、生きる事を許された日。

「なんだか、リタっちに驚かされるばっかりなんだけど」
「おっさん、あたしのこと好きなんでしょう?」

さらりと言ってのけられて、へ?と間抜けな顔をした。

「あ、今の顔。ダミュロン」

リタは嬉しそうに、そうでしょう?と、まるで新しい発見を見つけたような表情を浮かべている。

「ちょ、ちょっとまって。今なんつった?ダミュロンって、いや、その前に」
「おっさんは、あたしの事好きだって」

二回も言わないでよ。恥ずかしいじゃない。ご名答だけど、そう簡単にあっさり。おっさん、この三年間、必死で隠してきたのよ。そんな胸中など知らないリタは言葉を継ぐ。

「後ね、おっさんが歳の差から、手を出さないのも知ってるわよ」
「……ばれてた?」
「うん。とっくに分かってたわ。おっさん、小心者だからってジュディスが言ってたもの」

ジュディスにどんな相談をしていたのか、それを考えると頭が痛い。それこそ、相談ではなく彼女達のお節介だったのかもしれない。ユーリ達が酒の力を借りてまで責めたのも、裏では、ジュディス達、女性らの何か力が働いていたのかとも思える程。そして、レイヴンの前には、覚悟を決めたとばかりに、おっさんの事なら何でも分かってるんだからというリタがいる。
ほんと、女って開き直ったら男以上に強いね。

「それに、三年近くも一緒に暮らしてたら、周りはどう見るのよ。親戚の子だなんて言っても誰が信用してるの?」
「あー……」

顔馴染みの女将ではなく、様々に知り合いだの旧知の仲間だの顔が浮かぶ。そりゃ、そうだよね。親戚の子だの同居人だとは言ったものの、世間が男と女が同じ屋根の下で暮らせば、何もないと言うよりも、何かあると思うのが普通の事。

「今更、他の男のとこなんていけないわよ。ましてや、シュヴァーンであり、天の射る矢のレイヴンの女なんて、そんなのに手を出す度胸のある男なんていると思う?」
「まあ、そりゃそうだよね……」
「あたし、疵物になりたくないんだから」

おっさん、完膚なきまで叩きのめされてるわ。そして、リタにここまで言わせたレイヴンという男は随分、ずるい男だと他人事のようにも思う。

「じゃあ、おっさんがリタっちのこと疵物にしていいの?」
「……おっさんなら……いいわよ」

言い淀みながらも、優しげな瞳がレイヴンをまっ直ぐに見ている。ああ、そうだ。こんな眼をした娘だった。率直でまがった事が嫌いな故に傷つきやすいながらも、一度、その心の内を許した相手にだけは、止め処ない程に情愛をみせる。

グダグダとしょうもない事に囚われてる男とは雲泥の差だよね。

「え……?お、おっさん?レイ……」

その瞳が欲しいと思った瞬間、軽く触れるだけのキスをした。衝動的な行動。何も考えられずに、突き動かされた。唇が離れると、照れ隠しの為、ふっと笑うように微笑んだのだが、リタは大きく眼を見開いたまま。

「わあああああ。リ、リタっち。ご、ごごごめんなさい」

そこには、大粒の涙を浮かべてはポロポロと零すリタが硬直状態に陥ってる。

「ご、ごめん!」
「い……い、今おっさん、あっ、あ、たしに」

キスしちゃいました。リタっちが可愛くて、魔がさしました。とは言えずに、レイヴンは慌てた。

「……ごめん、イヤだったよね?こんな、おっさんに唇奪われるなんて」
「──い、嫌じゃないから……けど、だけど、あ、たし。初めてだから、び、びっくり……しちゃって」

しゃくりあげて、言葉に詰まりながら、ますます、大粒の涙を零してゆくリタに愛おしさが溢れ出る。

「キ、キス……するなら、するって言ってよ。あ、あたしだって気持ちの……準備ってものがあるんだから」

襟首を掴まれると、逆に抱き寄せられる形でレイヴンはリタに抱きしめられている。一頻り子供のように泣きじゃくりながら「おっさんのバカ」と呟かれた。

レイヴンはそんなリタの様子に愕然とするしかない。

さっきまであれほど、シュヴァーンと対等に鋭い視線送ってたと思ったら、ああ、もう鼻の頭まで真っ赤にして泣いちゃって。そして、ふと思った。シュヴァーンとがリタを怖がらせ、緊張の糸が切れたように泣いたのかと。

「ごめん。シュヴァーンが怖かった?」
「そうじゃない。シュヴァーンなんて関係ないわよ。いきなりキスされる方が怖いわよ」
「あー……驚かせて、ごめんね」

女ってよく分かんない。
緩くリタを抱きしめると、「ガキだと思ってるんでしょう。あたしの事。メンドクサイ女だって」と恨みがましい声がした。

大きな瞳に涙の跡を浮かべ、きゅと下唇を噛みしめ、レイヴンを見つめる顔。

この場面で、こんな可愛い顔して拗ねるなんて卑怯だよ。面倒なのは本音だけど、こんなに複雑で分かりにくくて、分かりやすい娘、誰が、相手するの、出来るの。

「そういうんじゃないけど……あ、リタっち、ちょいと待ってなさいよ」

大の男ですら、恐れ嘶く視線を真正面に受けながらも逃げない強さ。大粒の涙を流すような初心さに、子供のように拗ねる表情。そのどれもが難儀だと思いながらも、切なくさせる程に愛おしい。まだ暫くは、こんな様子を見ていたいが、収まりそうもない気を落ち着かせるのも役目だろう。
「どこ行くのよ」と言う声がしたが、レイヴンはリタをベッドに座らせたまま一階に消えた。

「はい。これ飲んで、ちいと落ち着かせようか」

数分後、リタ専用のマグカップをレイヴンは持っていた。はい、と手渡されては、その中身を見つめる。程良い程度に温められたホットミルク。幾分、涙で鼻がおかしくなっていたのか、リタは一口含むと「甘い」と呟いた。そして、暫くは黙ったまま、リタがホットミルクを飲んでいる横顔を見つめるだけ。

「ちょっとは落ち着いた?」
「うん」

「じゃあ、おっさんの話聞いてよ」とベッドに座るリタの背後から抱きかかえるように、座るとその細い腰に腕をまわした。華奢な身体は、すっぽりと紫紺色の羽織に包まれる。

「リタは、まだ俺が死にたがってると思ってたんじゃない?レイヴンとシュヴァーンの二重生活してるのが、生き急いでるように見えてたんでしょ?」

図星だから、リタは黙ったままだった。そして、リタと呼ばれることにレイヴンが、自分を対等な人間だと認めているようにも思った。静かで柔らかな音声がそれを伝えようとしていた。

「もう、そんな事ないよ。リタとこうして生活してたら、そんな気持ち、とっくの昔にどっかに消えたよ。二重生活選んだのは、まあ、俺の考えがあっての事だけど、ただ、おっさんずるいからね。忙しさに感ける振りしながら、リタの気持ち知っていても、ずーっと俺自身の気持ち隠してたんだ」
「どうして隠すのよ」

リタの肩に顎を乗せて、なんて言おうと考えるも、素直な心で伝えるしかないだろう。

「まあね。リタはこれからどんどん綺麗になって男がほっておかなくなるだろうし、天才魔導士だから、有名になるかもしれないとか、ね。そんな時にこんな俺が居てたら、リタの未来まで奪うかと思った。何より、こんな色んな過去背負った男にリタを引き摺りこみたくなかった」
「おっさんがいなければ、あたしの未来なんてない」

きっぱりと言ってのける強さ。こんな強さ、あの頃の俺には無かったとレイヴンは苦笑いを浮かべた。

「……そういうとこ好きだわ」

感服しきったような声に、リタの頬が赤らむのが分かる。

「それで、リタの事、リタの全部が欲しいって思ってた。ずっと」
「……そ、それは」
「うん。きちんと言わないと伝わらないよね」

よいしょと膝を立て、リタの前に立った。猫背気味な背はそれを正すかのように屹立し、迷いもなく、澱みない澄んだ花緑青色の目がリタを凝視している。

「こんなどうしようもない俺だけど、俺の嫁さんになってくれない?二人でいれば、悲しい事も裏切られることも起きるかもしれないけど、そんな、悲しいめには絶対に合わせないから。それだけは誓うよ」
「おっさん、それって……」
「うん、リタが随分昔に俺に言った言葉でしょ?『一人でいたら、悲しい事も裏切られる事もない』って」
「覚えていてくれてたんだ」
「そりゃあ、ね……」

ああ、なんだ。俺、あの時から、この女、欲しいって思っていたのか。

「おっさんの傍で一生いたいから、なってあげる。だから、おっさんも、傍に居て欲しい。この子も含めて、ずっとずっと」

不安がらせてごめんね。もっと早く言ってあげてたら良かったね。
凛と澄んだ瞳がレイヴンを見つめている。薄く頬を染めて、初々しい笑顔を見せた。

「……幸せにしてなんて言わない。幸せになろうよ。二人で、シュヴァーンもダミュロンも、レイヴンも。そして、いつか聞かせてよ。ダミュロンの話も、全部ありのままのおっさんの話、聞かせて」

ほんと、敵わないわ。

リタの上気した頬に赤みが差している。白い陶磁器のような肌に桜色のような朱が浮かんでいた。深く紺碧の海の色のような瞳がレイヴンを捉えて離さない。リタを抱きしめると、額に口付けをした。そして、ふと、部屋の隅にある時計に目がいった。

「あ、十二時過ぎてたのか。誕生日、おめでと。それと、欲しいものって何?」
「……今、その話するの」
「うん。だって、欲しいものあるんでしょう?」
「散々今まで言ったじゃない……」

この鈍感、あんた本当にシュヴァーンなの?レイヴンなの?それともダミュロン?と咎める声。

「おっさんが、おっさんの全部が欲しいって」

触れている個所、全てから熱っぽさを持って伝わって来る。

「……何か随分安いけど、そんなもんでいいの?」
「それでいいの。あたしにとっては大切なものなんだから」
「そんじゃあ、リタっちが嫌っていうまであげるから」

「もう」と拗ねた表情は照れ隠し。

ぎゅっと抱きしめて、最近は聞かれなかった言葉をリタは聞いた。男は、ふざけながらもそれが本心だと分かる笑みを浮かべている。

「リタっち、愛してるぜ」

旅をしている最中は、胡散臭いと思いながら、たった一人の為に言って欲しい言葉。
癒す魔法は、幸せの呪文。永遠に解けない魔法。

inserted by FC2 system